江戸幕府の五街道設置に伴い、
甲州街道の一番目の宿場として開設されたのが高井戸宿である。
高井戸宿は下高井戸宿と上高井戸宿の合宿だった。
しかし、元禄十一年(1698)に 内藤新宿が設置されると、
次第に素通りするものが多くなり、
天保十四年(1843)頃には、下高井戸宿の本陣は、すでになく、
旅籠も上高井戸宿で二軒、下高井戸宿で三軒という有様だった。
内藤新宿から笹塚駅
甲州街道は新宿三丁目交差点を左折し、九十メートル歩くと新宿四丁目交差点である。
直進するのが明治通りで、その先の左に入ったところに天龍寺や新宿高校がある。
左右の車の通りが多い大きな道路は国道20号で、
新宿御苑の下をトンネルで抜けてここに出てきている。
道路標示に国道20号(甲州街道)と書かれているので、交差点を右折する。
国道はJRの線路を越えるため、
上り坂になっているのが、その脇にある狭い右側の下の道を行くと、
右手に新宿独特のぐちゃぐちゃした商店街が広がっていた。
そのまま進むと、右側に新宿駅南口のフラッグスの建物前に出た。
ここは新宿の新名所のようで、
休みの日には階段のところで路上ライブが行われるという。
その先にあるエスカレーターに乗ると、新宿駅南口に出るが、
駅には入らないで国道にでて右折して進む。
すると、鉄道線路を横断した右側にLUMINET(ルミネ)があり、
それを横目で見ながら進むと、西新宿一丁目交差点に出た。
このあたりは、まだまだ人通りが多く、街道を歩いている感じはない。
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新宿駅南口 |
西新宿一丁目交差点を横断して進むと、西新宿二丁目交差点に出るが、 右側には東京都庁第一庁舎と第二庁舎の高層ビル、 道の左側には新宿文化クイントビルがあり、 ビルの上部にはフェザー社の紋章が付いていた。
「 新宿駅の西口には、十二社池(じゅうにそういけ)と大きな池があり、 第二次世界大戦前までは東京近郊の行楽地だった。 また、淀橋浄水場もあり、東口と違い、寂しいところだったが、 昭和四十年(1965)に浄水場が東村山に移転すると、淀橋浄水場の跡地に京王プラザホテルなどの超高層ビルが建ち、 東京副都心と呼ばれるようになった。 その後、有楽町にあった東京都庁も移転してきたので、新都心と呼称される人が多く集まるところに変貌した。 」
KDDIビルや新宿NSビルを見ながら進むと、
西新宿三丁目交差点の国道の上に右から被さるように高速道路が現れた。
これは首都高速道路4号新宿線で、この後、しばらくの間は国道の上を通っていく。
西新宿三丁目交差点の高速道路の下をくぐりぬけると、右側に新宿パークタワーがあるが、このビルは東京都庁第一庁舎、
NTTドコモ代々木ビルに次ぐ東京地区で三番目の高さである。
少し歩くとNTT東日本の本社ビルがあり、道を越えた右側に東京オペラシティと
新国立劇場がある。
ここは新宿区と渋谷区の境で、オペラシティは新宿区、新国立劇場は渋谷区である。
国道20号の道標には、日本橋より10kmとあった。
この先には京王電鉄初台駅がある。
「 京王電鉄は二つの鉄道会社が戦時中の国策により合併して誕生したものであるが、
江戸と八王子を結ぶことから京王と名付けられた。
新宿駅から幡ヶ谷駅までは地下化されているが、そこを過ぎると地上部を走る。 」
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東京オペラシティ |
カシオ計算機本社は渋谷区本町一丁目。
少し歩くと右側に初台村上ビルとセブンイレブンの間の細い道がある。
その道に入っていくと、左側の高知新聞社東京支社洗旗荘の前にある植栽の中に、
東郷平八郎筆の「洗旗池」の記念碑が建っている。
渋谷区教育委員会が建てた「旗洗池跡」説明板
「 後三年の役(1083〜87)の後、八幡太郎義家が入洛のときにこの地を通り、
ここで兵馬を休ませ、この池で白旗を洗って傍らの松の木にかけて乾かした、
という伝えがあります。 その白旗はのちに金王八幡宮の宝物となり、
残されているのがそれであるといわれています。
この池は六十平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、
神田川に注いでいた湧水でした。 昭和三十八年(1963)に埋められ、
今は明治三十九年(1906)四月、ここで遊んだ東郷平八郎の筆による洗旗池の記念碑が残っているだけです。 」
幡ヶ谷の地名は、この旗洗池に由来するといわれるので、そういう意味ではこの碑は歴史的に価値があるのだろう。
街道に戻り、国道の左側に移り、歩いて行くと、
民家(幡ヶ谷一丁目1番地)の間に挟まれた小さなお堂があり、
貞享三年(1686)の造立の子育て地蔵尊が祀られていた。
幡ヶ谷駅前交差点を過ぎ、笹塚交差点の手前で道は下り坂になる。
道の左側にコンクリートで造られたお堂(?)に祀られているのは、
牛窪地蔵(渋谷区幡ヶ谷一丁目10番)だが、
この辺りは、地形が少し低くなっていることから、
江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれていたらしい。
また、ここには、道供養碑と呼ばれる珍しいものが祀られていたが、
以前は笹塚交差点の左手の鎌倉道にあったようである。
笹塚交差点の右手の道は中野通り。
笹塚交差点を右折して、中野通りを北に行くと右側に清岸寺の石柱がある。
「 寛永十七年(1640)に建立された清岸寺と、
寛永元年に起立された法界寺が合併して、法界山清岸寺と改称されたという寺であるが、東京大空襲により、過去帳を除き、全てが灰塵に帰したという。
本尊の阿弥陀如来や観音、勢至両菩薩などは来迎寺(新潟県高田市)より、譲り受けたものである。 」
現在の本堂は、昭和二十六年に豪壮な民家(千葉県岩井町にあった)を移築し、
改築したものである。
新しい堂宇もあるので、歴代の住職は苦労して、寺の復興にあったのであろう。
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清岸寺の石柱 |
墓地の入口の右手に六地蔵とその背後の一段高いところに、
舟形光背に浮き彫りとなった地蔵尊像がある。
光背には、「 為念仏諸衆二世安楽 」 「 武州万念仏供養 」 などと、
刻まれていることから、
江戸時代には幡ヶ谷(畑ヶ谷とも書いた)や代々木村に念仏講があり、
その講により建立されたのが、この念仏供養塔である。
左側にある庚申塔には、日月が線刻され、
その下に猿の姿をした半迦像(片ひざを立てた坐像)が浮き彫りにされている。
「 庚申信仰の起こりは道教にある。 六十日ごとの庚申の夜、勤行、歓談するため結成されたのが、庚申講で、 講の仲間が、六十年に一度の庚申の年に、庚申塔を建てたのが全国各地に残っている。 庚申塔には日月、二鶏、三猿を配したものが多いが、 猿が半迦像であるのは珍しいのではないか。 」
本堂の左手にある幡ヶ谷聖観音の右下にある板碑は、
室町時代の応永四年(1397)の建立されたものである。 上部の二条線の下に、
阿弥陀如来を表示する梵字が刻まれている。
板碑は墓塔ではなく、一種の卒塔婆で、
秩父産の緑泥片岩という緑がかった石を使っている。
入口近くに瘡守稲荷大明神と書かれた赤い幟がはためいていた。
鳥居の奥に小さな社殿があったが、
これは法界寺の瘡守稲荷(かさもりいなり)として、昔から知られてきた稲荷社である。
建立の時期などは不明のようであるが、古来より腫物、瘡に効き目があり、
平癒祈願すれば願いが叶う稲荷神として、近隣の信仰をあつめていたという。
笹塚交差点に戻り、その先を歩くと、
京王線笹塚駅の入口に近かいことが分かったので、まだ十四時過ぎであるが、
この後、行かねばならない用事があるため、京王線笹塚駅で電車に乗り、
今日の旅は終えた。
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板碑 |
笹塚から高井戸宿
平成二十二年(2010)五月十六日(日)、笹塚駅から府中まで歩く。
京王線笹塚駅は、笹塚交差点と大原交差点の中間
にある感じだが、駅から出た通りは人通りも多く、通行する車も多い。
国道20号を歩道橋で右側に渡り、十数メートル歩いた笹塚交番の横に、
笹塚跡の説明板があった。
説明板「 笹塚跡」
「 街道両側に直径1mほどの塚があり、笹が生い茂っていたので笹塚と呼ばれていた。 この塚が一里塚らしい。 」
大原交差点手前で、渋谷区は終わり、
その先からは甲州街道の右側が杉並区、左側が世田谷区である。
環状7号線と交差する大原交差点を横断して進むと、松原交差点。
松原交差点を過ぎると、京王井の頭線を地下でくぐるが、
右側には明治大学の和泉校舎キャンバスが展開する。
西新宿三丁目交差点から国道の上に高速道路が被さっていて、なんとなくうっとうしい。
明大前の国道を横切る陸橋を越えて行くと、
左側に京王線と井の頭線が交差する明大前駅がある。
なんとなく腹がすいていたので、駅の近くにあったマクドナルドで、
朝マックを買って食べた。
国道に戻り、明治大学脇を歩くと、新緑の頃で時期もよかったのかも知れぬが、
街路樹がきれいだった。
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明大前駅 |
明治大学の先にあるのは、築地本願寺和田掘廟所である。
「 和田掘廟所は大正十二年の関東大震災の後に、 陸軍省火薬庫跡だったこの地が払下げられ、 築地本願寺の墓地として作られたものである。 」
その先の松原二丁目には右斜めに入る狭い道があり、
入っていくと、真教寺の看板がある。
その先は「永福の寺町」といわれるところで、託法寺、善照寺、浄見寺、法照寺、
栖岸院、永昌寺、龍泉寺と続く。
この一帯の寺は全て、第二次大戦の空襲で建物などが焼失したようである。
中央部右側にある栖岸院は、江戸時代に住職が将軍に単独で拝謁できる独礼の寺格を許されていたという、権威のある寺院だった。
観音堂に安置する聖観世音菩薩は、火伏観音と呼ばれる鎌倉時代後期の端正な仏像で、区の指定文化財となっている。
天保初年刊行の江戸名所図会には、
「 当寺に頼朝の念持仏と称する聖観音の霊像を安置す。
含前に安置する所の観音の像は楠正成尊信の霊像なりといふ。
七月十日は千日参と唱えて参詣願る多し 」 と記されている。
杉並区教育委員会の説明板「栖岸院」
「 当寺は、三河国村高庄(愛知県安城市村高町)にあった長福寺が前身。
徳川家康の関東移転に伴い、天正十九年(1591)に、
麹町八丁目に寺領を拝領して移ってきた。
元和七年(1621)に老中の安藤重信が葬られて以来、同家の菩提寺となる。
寛永十六年(1639)にその子の重長が、父を開基、妙誉秀慧を開山に招聘し、
浄土真宗から浄土宗の寺に改宗し、開創された。
現寺名の栖岸院も、この時から用いられたと考えられる。
当寺は、住職が将軍に単独で拝謁のできる独礼の寺格を許され、
安藤家、高木家(丹南藩主)をはじめ、多くの旗本諸家の香華寺として、
市中に知られていた。 明治維新により、武家の凋落、市街の変化などの影響を受け、大正九年に現在地に移転した。 」
その先に永昌寺がある。
寺の門前には、三基の庚申塔と二基の地蔵尊が残って、祀られていた。
地蔵尊の一基は1667年と古く、墓地には平山子龍墓がある。
説明板「永昌寺」
「 永昌寺は、寺伝ならびに続御府内備考によると、
寛永元年(1624)に江戸四谷塩町に建立されたとされ、
明治四十三年に現在の下高井戸二丁目にあった永泉寺と合併し、当地に移転してきた。 旧永泉寺には玉石薬師と呼ばれる玉石があり、
玉川上水工事の無事を念じて供養されたことから、
近隣の信仰を集め、ちなんで丸薬が製造された、と伝えられる。
合併後は、当寺に祀られていたが、戦災で焼けて輝きを失ってしまった。 」
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栖岸院 |
高井戸宿
永福の寺町の通りを歩いて行くと、三叉路に突き当たる。
対面は杉並区下高井戸二丁目で、
三叉路を左折して国道に出ると、下高井戸駅入口交差点がある。
「 江戸幕府により、慶長七年(1602)に開設された甲州街道には、 日本橋からの最初の宿場として、高井戸宿が設けられたが、 このあたりは農民が住むだけで一村では負担しきれないので、 下高井戸宿と上高井戸宿が共同して宿場を営んだ。 助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村、成宗村などである。 」
交差点に向かった手前の用水の右手に龍泉寺がある。
寺前の説明板「龍泉寺」
「 慶長八年(1603)、麹町で創建され、
寛永年間(1624〜43)に四谷左門に移り、明治四十二年、現在地に移転してきた。
明治三十六年、東京市より、
「 市内に散在する墓地は衛生外観等公益上の理由により、市外に移転せよ 」
との告知を受け、墓地のみの移転は得策ではないと決断したためという。 」
左に本堂、右奥に庫裏、左手前に東向きの六地蔵と北向きのお地蔵様が安置されているが、これは、江戸庶民に信仰の厚かった北向地蔵である。
熱を出したときなど、北向きの地蔵は日陰なので、
額を冷やすと信じられたことによる。
下高井戸駅入口交差点の左手には、玉川上水永福寺墓地があり、
右手には緑道が整備されている。
国道を歩かず、緑道を歩くと、その先は玉川上水第三公園で、
小さな子供を遊ばせていた。
更に、道が続くが、
日曜日ということもあってか、多くの散歩をする人とすれ違った。
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北向地蔵 |
左に住宅ビルがせまってくると、緑道は終わり、車道に出たので、
左折して国道に出た。
なお、緑道は車道の対面に続きがあり、その先の玉川上水第二公園を経由し、
鎌倉街道入口付近までいける。
国道には「桜上水歩道橋」があり、新宿へ7km、日本橋まで15kmとあった。
道の右側を歩くと、古びた竹細工が無造作に置かれた店があった。
後日調べると明治四十年(1907)創業の竹細工の竹清堂だが、当日は日曜日で休業だったのだろう。
桜上水駅北交差点の先に、草加煎餅を中心に、
豊富な種類の手焼き煎餅を製造販売している若林煎餅店があった。
江戸時代には、このあたりが下高井戸宿の中心だったようである。
その先右手奥に、慶長年間(1596〜1614)に真言宗から日蓮宗に改宗した覚蔵寺がある。
杉並区教育委員会の説明板
「 当寺の鬼子母神像は、日蓮の直彫と伝えられるもので、
江戸名所図会にも 「 文永八年(1271)、
日蓮聖人が鎌倉の龍ノ口で危うく処刑されかかったとき、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて、刑場に向かう途中、一老女からゴマのぼた餅を供養され、
そのお礼に手渡されたものといわれている。 」という記述がある。
この像は、鎌倉の少法寺にあったが、江戸の中期ごろ、当寺に安置され、
それ以降、開運鬼子母神と、人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えた。 」
境内の日蓮聖人五百遠忌塔は天明元年(1781)頃の建立である。
多数の古道標が集められているのには驚いた。
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覚蔵寺 |
覚蔵寺を出ると、陸橋のあたりから下高井戸4丁目に入る。
その先右側には
日蓮宗独特の髭文字の南無妙法蓮華経の石柱が建つ宗源寺がある。
説明板
「 叡昌山宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。
当寺の檀家であった有名な地理学者志賀重メが記した 「宗源寺開基碑」 によると、
当寺開山光伯院日善の祖先は、畠山重忠の一族 江戸遠江守太郎半眼重永の孫で、
甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して、
法名「宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名とした、
と伝えます。
そして、その時期は慶長(1596〜1614)初年の頃とされています。
寺院には、南北朝初期の板碑や滝沢求馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されている。 」
境内にある不動堂は、
この近くにあった修験道の本覚院(明治五年廃寺)から明治四十四年に現在地に移されたもので、
その当時、高台にあったため、高井堂と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったともいわれる。
区が立てた「宗源寺のラカンマキ」の標柱の脇には、樹齢四百年、樹高十二メートル、
幹の周囲は二メートル三十センチの大きなラカンマキがあった。
なお、羅漢と呼ばれるのは、実をつけると、果実と花床を羅漢の首と胴と見立てたことによる。
境内には緑が多く、住職の自然に対する愛着を感じたが、
ピンクのシャクナゲは満開で見事だった。
「 江戸時代の下高井戸宿の本陣は、 宗源寺の左隣の「富よし」に本陣が置かれたとあるが、 宗源寺の手前にある下高井戸仲町緑地公園がその跡だろうか。 江戸の地図には本陣前が高札場、 本陣向かい側の少し日本橋寄りに問屋(細淵家)があったようだが、その面影はない。 」
道の右側に、仏像や地蔵尊、石塔や道祖神、石像等様々な石造品が所狭しと置かれている。
その中に古い道標が多くあるのには驚いた。 最初は個人の趣味で集めたのかと思ったが、
墓石工事や美術彫刻等を営んでいる広瀬石材店だった。
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ピンクのシャクナゲ |
少し歩くと、「鎌倉街道入口」という交差点があったが、 鎌倉街道の名前に引きずられて、寄り道をすることにする。
「 鎌倉街道は、車がすれ違いするのが難航する狭い道だった。
なお、右折してすぐの右手にあったのが、
玉川上水第二公園から続く緑道の出口だった。
鎌倉街道は、南北に通る線で鎌倉、室町時代には頻繁に利用されていたようだが、
現在は一部分しか残っていないようである。 」
その道を道なり歩くと、三叉路に出た。 三叉路の中央にはお堂があり、庚申堂由来碑も建っていた。
「 ここは旧鎌倉街道と伝えられる道で、 庚申堂は旧下高井戸村民が村内安全、五穀豊穣を祈願し、信仰する場だったようである。 お堂の中を覗くと、庚申塔二基と馬頭観音一基を安置されていた。 左側にあるのが青面金剛像に日月三猿を配した庚申像で、 元禄十一年十一月吉日鈴木七兵衛ら十一名が建立したもの。 中央の庚申塔は、元禄九年十一月吉日吉田佐市郎ほか十四名の建立で、奉庚申信仰敬白・・などの文字のみの簡素なもので、 右側の小さくてよく見えないものは、それより百六十余年後に、荒川氏により建てられた馬頭観世音である。 」
これらの石塔は、「 当時流行していた庚申、馬頭観音信仰が、
下高井戸にも訪れたことを意味する。 」 と由来碑にあった。
三叉路の右側の道を進むと、塚山公園の入口に突き当たった。
車道は右にカーブし、左にカーブすると、神田川に架かる鎌倉橋に出るが、
小生はそのまま公園内に入って行き、左手に向かって歩いて行くと、
縄文時代後期初頭の復元住居が展示されていた。
「 塚山公園は、塚山遺跡を保存するため、
国から払い下げを受けたところで、ここは神田川南岸に張り出した舌状の台地上にあり、旧石器時代から縄文時代後期初頭に かけての数多くの土器、石器や住居跡が発見されている。 」
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塚山公園入口 |
この公園の外に流れているのが、三鷹市井の頭池を源とする神田川で、
川の両側は手頃な散歩コースになっているようである。
鎌倉橋は神田川に架かっている橋だが、
そのたもとに「鎌倉街道」の石碑があった。
説明板
「 鎌倉から室町時代にかけて鎌倉街道として栄えたが、
江戸時代になって急速に衰えたという。 鎌倉橋の近くにあり、
旅人が必ず水を飲んだという小高い場所にあった井戸が、
高井戸の地名の由来といわれる。 」
高井戸の名の由来は他にもあるようだが、
前述の宗源寺の不動堂とこの井戸が有力のようである。
この後、鎌倉街道入口交差点に戻った。
国道20号(甲州街道)は、この先で首都高速道路と別れていくが、
その場所に「日本橋から16km」の道路標識がある。
小生は、上高井戸宿は高井戸東付近にあるものと錯覚して、甲州街道には入らず、
高速道路の側道を歩いていったが、ここは甲州街道を進むのが正しい。
甲州街道を進むとここからは上北沢となり、世田谷区である。
小生は環状8号線と交差する中の橋交差点まで行き、誤りに気が付いた。
中の橋交差点は環状線でも渋滞が多いところのようで、車の通行は多かった。
あやまりに気が付き軌道修正する。
誤りの要因は上高井戸宿の誕生の経緯にある。
「 甲州街道の誕生の際、幕府は烏山村に宿場を置こうとしたが、 断られた。 しかたなく、下高井戸村への要請となったが、 下高井戸村だけでは負担しきれないから、上高井戸村と一緒にという条件が出された。 ところが、甲州街道は上高井戸村を通っていない。 このあたり一帯は幕府の天領だったので、 上北沢村の甲州街道の七百メートル部分を上高井戸村に編入して、 宿場が出来たのである。 」
地図を見ると分かるが、この部分だけが杉並区になっている。
それはともかく、甲州街道の上高井戸一丁目交差点に出た。
「 上高井戸宿は、日本橋から四里十二町四十間のところにあり、
月初から十五日までを下高井戸宿、
十六日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿となった。
本陣の並木氏の武蔵屋は、上高井戸一丁目交差点の北東角にあったが、
参勤交代で甲州街道を通る大名は諏訪、高遠、飯田の三藩のみということもあり、
本陣経営はきびしかったと思われる。
元禄十一年(1698)に 内藤新宿が設置されると、この宿場を素通りするものが多くなり、
天保十四年(1843)頃には、下高井戸宿の本陣は、すでになく、
旅籠も上高井戸宿で二軒、下高井戸宿で三軒だったいうから、
宿場を守る名主の苦労は大きかっただろう。 」
環状8号の陸橋をくぐって進み、右側に上高井宿公園がある。
甲州街道はここで国道と別れて、レンタカーの左側にある道に入っていく。
このあたりは住宅街であるが、江戸時代の姿を残すものは一つも残っていなかった。
これで、高井戸宿は終わる。
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上高井戸一丁目交差点 |