甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道の一つで、甲州道中とも呼ばれ、
日本橋から内藤新宿、八王子を経て、甲州に入り、甲府、韮崎を経て、
信濃国の下諏訪宿で、中山道と合流する街道である。
開設当初は日本橋から甲府までで、慶長十五年(1610)に中山道と合流する下諏訪まで延長された。
全長は五十五里(約220km)で、途中に三十八の宿場が置かれたが、
整備状況は今一つだったようで、そのため、多くの大名は中山道を使い、
甲州街道を利用したのは、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩のみである。
現在の国道20号がその道筋を辿るが、史跡は余り残っていないようすであるが、ともかく、歩いてみることにした。
日本橋から内藤新宿
平成二十二年(2010)五月十七日の朝、MrMaxは日本橋の上にいた。
日本橋は中山道、東海道で訪れているので、三回目ということになる。
「 現在の日本橋は、明治四十四年(1911)に、東京市により、
石造二連アーチの道路橋として、造られたもので、
ルネッサンス風の花崗岩の石橋である。
橋にある「日本橋」と書かれた銘板は、
江戸幕府第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものである。
橋の上にある青銅製の獅子は、東京市を守護するためのものである。
また、青銅製の照明灯にある麒麟は東京市の繁栄を表している。
最初は、道の中央に東京市道路元標の柱が立っていたが、
昭和四十二年の都電の廃止に伴い、
昭和四十七年に当時の総理大臣佐藤栄作の筆による道路プレートに変更された。 」
道路の中央部分にある道路元標は車が行き来するため、近づくことは出来なかった。
東京市の道路元標の柱は記念碑として橋の隅に残されている。
それを確認 し、甲州街道を歩き始めた。
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道路プレート |
日本橋を出発して国道15号線を南へ二百メートルほどいくと、
左角にCOREDO日本橋ビル(日本橋1丁目ビル)のビルがある。
ここは、日本最初のデパートといわれる白木屋デパートがあった場所である。
「 白木屋は、その後、横井英樹により、乗っ取られ、
東急デパートになったが、東急デパートの跡地にCOREDO日本橋が建てられた。
COREDO(コレド)は、英語で、
核を意味する「 CORE 」と、「 EDO(江戸) 」 を組み合わせた造語である。
ビルの管理者の三井不動産は、 「 全国へと通ずる五街道の起点であり、
江戸、東京の商業中心地として栄えてきた歴史、伝統豊かな日本橋が、
東京の商業の核として中心的な役割を果たすようにと、
COREDO日本橋には、そんな想いがこめられています。 」 といっている。
その先の交差点は日本橋で、直進は銀座通り、左右の道は永代通りである。
直進は旧東海道。 甲州街道は右折して西へ進む。
数分歩くと外堀通り(JR東京駅八重洲口の前を通る道)と交差する呉服橋交差点に出る。
江戸時代には、江戸城の外堀がこのあたりまであって、
そこに呉服橋が架かっていたが、外堀の埋立てに伴い、昭和二十六年に消滅したので、今は橋はない。
甲州街道は交差点を渡り、直進であるが、ここで寄り道する。
交差点を渡り、右折して進むと、「いちこくはし(一石橋)」の橋柱の左側に、
金網で囲まれた一角がある。
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呉服橋交差点 |
中を覗くと、「東京都指定有形文化財、一石橋迷子しらせ石標」の説明板と石標があった。
説明板「東京都指定有形文化財、一石橋迷子しらせ石標」
「 江戸時代には、このあたりから日本橋にかけては盛り場で、迷子も多かったらしい。 迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、
安政四年(1857)にこれを建立したのである。
柱の正面には、満(ま)よい子の志(し)るべ、右側には、志らする方、
左側には、たづぬる方と彫り、上部にくぼみがある。
左側のくぼみに、迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、これを見た通行人が、
迷子や尋ね人の情報を書いた紙を貼ってしらせたもので、
昔の庶民のいわば伝言板である。
この細長い石標が、「満よい子の志るべ」なのである。 」
一石橋を渡り、更に進むと、常磐橋交差点に出る。
交差点の右側に日銀貨幣博物館がある。
その先の右手に見える頑丈な建物は日本銀行である。
交差点の左手にある常磐橋を渡ると、信号のある三差路で、
左手は日本ビルデング、右側に常盤橋公園があり、
その一角に、「歴史と文化の散歩道」の説明板があり、
その奥の城壁のような石垣に、「常盤橋門跡」のプレートが埋め込まれている。
説明板「歴史と文化の散歩道」
「 常盤橋門は、江戸城外部の正門として、奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、
味方の出撃を容易にするため、大きな切石で積み上げられたコの字型の枡形門である。
天正十八年(1590)の架橋といわれる旧常磐橋は、
両国橋がかかるまで江戸一の大橋だった。
現在の石橋は門跡の石等も使い、明治十年に架橋されたもので、
洋式石橋の創始といわれる。 」
門内には北町奉行所が置かれていたこともあるようである。
江戸時代には、北にある常盤橋が公用の橋であるのに対し、
呉服橋は町民の通い橋だった訳である。
ここから呉服橋交差点まで戻った。
左手にあるビルは、第一鉄鋼ビルで、
その先にあるのが、丸の内トラストタワーN館である。
「
このビルは本館とつながっていて、東京駅の八重洲口に出る。
以前は国際観光会館があった場所だが、取り壊されて、
神田郵便局や国鉄清算事業団の土地などとともに、
一体となった新しいビルに生まれ変わった。 」
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常盤橋門跡 |
第一鉄鋼ビルと丸の内トラストタワーN館の間に入ると、狭い空間に植栽がある。
その中に「北町奉行所跡」のプレート状の説明板があった。
説明板「北町奉行所跡」
「 この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、
文化三年(1806)から幕末まで、北町奉行所が置かれていた。
今の有楽町駅前にあった南町奉行所と月ごとに交代で、町人地の行政、司法、警察の職務を担ってきた。
平成十二年から発掘調査が行われた。
その際、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見された。
ここで復原した石組の溝は下水溝の一部で、本来は三〜四段の石組と思われるが、
発見されたのは最下段のみである。
溝の角石が切り取られているのは、邪鬼が進入するうしとらと方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされる。
」
(注) 最初の奉行所は、北は常盤橋門、南は呉服橋門に置かれたが、 文化三年(1806)に、北奉行所は呉服橋門、南奉行所は数寄屋橋門と変更になった。
「
入れ墨奉行でお馴染みの遠山の金さんは実在の人物である。
遠山金四郎こと、遠山左衛門尉景元は、天保十一年(1840)から三年間、
北町奉行を勤めている。 」
更に進むと、道の右側に石垣があり、その上の植栽の中に、「江戸城外堀の石垣」と書かれたプレートがあった。
プレート説明板「江戸城外堀の石垣」
「 北町奉行所の東方には、寛永十三年(1636) に築かれた江戸城の外堀があったが、
ここに再現した石積みは、
鍛冶橋門付近で発見された堀石垣を使用し、当時の形で組み直したものである。 」
永代通りに戻り、西に向かい、JRの線路をガードでくぐると、 丸の内一丁目交差点で、東京駅の丸の内側に出る。
「 東京駅丸の内の前辺りには、評定所と伝奏屋敷が置かれた。
伝奏屋敷は勅使、院使等が江戸に来るときの滞在宿舎で、
公家衆御馳走屋敷とも呼ばれた。
評定所は、江戸幕府の最高司法機関で、老中、三奉行などが参集して裁判に当たったが、寛文六年(1666)に伝奏屋敷の隣に建てられたといわれる。
その場所は残っていないが、日本工業倶楽部の建物あたりだろう。 」
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江戸城外堀の石垣 |
丸の内一丁目交差点を直進すると、日比谷通りがある大手町交差点に出た。
国道1号線は左折だが、
そのまま直進すると左側に工事中のパレスホテルがあった。
パレスホテルには昼飯を食いに何度か訪れたので懐かしいが、このビルも取り壊されて姿を消していた。
その先にあるのは、大手門交差点で、左右の道は外堀通りである。
この交差点を右折して、四百メートル程にある東京消防庁は、
酒井家の上屋敷の跡で、その横に平将門首塚がある。
首塚説明板
「 天慶の乱で憤死した平将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、
三日後東方に飛び散り、武蔵の国豊島郡柴崎に落ちた。
その時、雷鳴がとどろき、真っ暗になった。
村人は恐怖し、埋葬したのがこの地だった。 」
大手門交差点を渡ると皇居外苑で、その先にあるのが江戸城の大手門である。
「 大手門は江戸城の正門で、大名達が入城した門である。
その中に天守閣跡などがあり、現在は東御苑として開放されているのだが、
今日はあいにく、休みで入れなかった。 」
外堀通りを桔梗濠に沿って歩き、和田倉濠に架かる橋を渡ると、
左手にあるのが和田倉噴水公園である。
その先の信号交差点の左手にあるのが、和田倉門交差点で、
その先には東京駅丸の内中央口がある。
右手に広がる桔梗濠の先を見ると、パトカーを先導として、黒塗りの車がズラーと並んでいるのが見えた。
近づくと、装甲車のような車も配置され、ものものしい警戒体制である。
信号が変わると、一斉に外堀通りを右折して出て行った。
警戒中の警官に聞くと、首相一行ということである。
首相がなぜ皇居なのかと思った。
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和田倉噴水公園 |
首相一行が駆け抜けた皇居外苑に入っていく。
濠の縁に曲がりくねった松があり、すこし歩くと右手に桔梗門が見える。
今日は、東御苑が休みなので、この門も閉められていたが、警官が数人立っている。
突き当たりにある濠は、「蛤濠」と呼ばれるが、左折して濠に沿って進むと、
しっかりとした柵でガードされているのは坂下門である。
「 公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、 文久二年(1862)、「坂下門外の変」で知られる、 水戸浪士を中心とする尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士に、 坂下門外で襲われた事件があったところである。 」
その先の濠は「二重橋濠」と呼ばれるようである。
二重橋を見ようとお濠に沿って歩きだすと、警官に
左手の広場のはずれを歩くようにとの指示を受けた。
何故かと聞くと、カンボジャ国王がもうすぐ通られるという。
後で分かったのだが、この時、すでに国王は皇居に入っていて、
天皇陛下とあいさつを交わされていたのである。
広場のふちを進むと、多くの人が集まっていた。
彼らの目線先を見ると、二重橋があったが、パトカーが
我々が近づくのを阻んでいた。
小生は二重橋見学をあきらめ、桜田門へ向かうが、
外国のツアー客は二重橋を背景にした記念写真を楽しみにしていただろうにと、
気の毒に思った。
桜田門の内側の門をくぐる。
道はその先で枡形になっていて、左折して外側の門に出ると、濠に出た。
説明板「旧江戸城外桜田門」
「 現在この門は桜田門と呼ばれるが、正式には外桜田門といい、
本丸に近い桜田門(桔梗門)に対し、この名が付けられました。
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防衛性の高い城門で、建築されたのは寛永年間とされ、
現存する門は、寛文三年(1663)に再建された門をもとにしており、
大正十二年(1925)の関東大震災で破損し、復元されました。
万延元年(1860)三月二日、この門外で大老、井伊直弼が水戸藩士に暗殺されました(桜田門外の変) 」
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二重橋 |
最近、お濠の周りをジョーキングするのがはやっている。
外国人が多く走っていて、桜田門へ入ろうとして、橋の手前で止められている。
小生も小走りで、橋を渡り、桜田門交差点に出た。
右手にあるのは警視庁、
左手には赤れんが棟や法務省・最高検察庁の建物である。
その奥に東京高等裁判所がある。
桜田門交差点で右折して進むと、国会前交差点に出る。
奥に国会議事堂がちらっと見えた。
憲政記念館の南に「日本水準原点」があり、
憲政記念館の下に、「井伊家の屋敷跡」の碑がある。
首都高都心環状線が地下から顔を出すところである。
国道20号の脇の御濠に沿って歩くが、このあたりから坂道になる。
上っていくと三宅坂の交差点。
左折すると永田町で、右手にある建物は最高裁判所である。
直進するのが内堀通り(国道20号)で、その先の左側にあるのは国立劇場である。
日本橋からここまで約一里の距離である。
右手の桜田濠は先程から少し離れた感じになっているが、
やがてお濠が途絶えたところは土橋で、右手に小さく見える門が半蔵門である。
江戸城のこのあたりは自然の地形を活かし、
石垣ではなく堀切で土塁として造られている。
天皇や皇族の皇居への日常の出入りには、この門が用いられるが、
平素は閉じられたままで、入口には半蔵門警備派出所があり、警護に当たっている。
「 半蔵門の名前は、家康を助けた伊賀忍者で組織した伊賀組の組頭の服部半蔵の組屋敷から名付けられたものである。
半蔵門は、城の西端に位置し、門内には、吹上御庭と呼ばれる、
隠居した将軍などの住居になっていた。 また、門外に服部半蔵の組屋敷があり、
将軍を警護するとともに、いざ有事の際は、まっすぐ甲州街道に通じていることから、
甲府へ逃げのびるようになっていた、といわれる。 」
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三宅坂交差点 |
半蔵門交差点で、内掘通りと別れ、甲州街道(国道20号)は左折する。
なお、直進するとここから九段まで千鳥淵公園で、東京有数の桜の名所である。
左折すると「新宿通り」で、左側にワコール麹町ビルがある。
少し歩くと、麹町一丁目交差点。 更に麹町二丁目交差点と、麹町は六丁目まである。
麹町二丁目交差点を過ぎたところに、
広重の岩城升屋前の往来という錦絵が付いた説明板がある。
「 別の名は麹町大通りと呼ばれ、江戸の始めから商店街として開け、
大工や左官などの職人から薬屋、米屋、下駄屋、菓子屋などのあらゆる店が、
軒を並べていた。
延享三年(1746)、現在の三丁目麹町通り北側(当時は五丁目北側)
に開店した呉服木綿問屋の岩城升屋は、間口七間の店構えを誇り、
最盛期は三十五間(65m)まで広がった。 」
一部商店はなるが、今は平凡なビジネス街化していた。
麹町三丁目には安政三年(1856)の古地図がある説明板があった。
説明板
「 この南方へ紀伊家の屋敷、北方は武家屋敷が広がっていたが、
街道の両側は町人が住んでいた。
文化七年(1824)の江戸買物独案内には、鰹節、鰻の蒲焼、そば、薬、菓子、
そして、墨、硯、筆などを売る店があったことが記されている。
町の由来は、入り組んだ小路が多かったことからというもの、
麹を扱う店が多かったためとするものの他、
国府道があったことからというのもある。 」
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広重の錦絵 |
麹町4丁目交差点の右側はかなり急な下り坂になっているが、 そこには「善国寺坂」の道標があった。
道標の脇の説明文
「 この坂を善国寺坂といいます。 新撰東京名所図会には、
「 善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。
むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく 」とある。
鎮護山善国寺は標識の場所からみると、右斜め前の当たりにありましたが、
寛政一○年(一七九八)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。
坂下のあたりは善国寺谷、また鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。 」
甲州街道は、尾根の上を通っていたようで、この先も左右に下り坂がある。
その先麹町五丁目にも説明板がある。
説明板
「 江戸時代以前、このあたりは矢部村または横山村と呼ばれていました。
徳川家康が江戸に入った後、この通り沿いに町やが開かれ、麹町となりました。
南側は谷でしたが、寛永のころ(1624〜44) 四谷堀を掘ったときに出た土を使って、
埋め立てられ、町が整備されていきました。 (中略)
ここには慶長のころ(1596〜1615)、十五軒ほどの遊郭がありましたが、
元和三年(1617)に、ほかの地域の遊郭とともに日本橋葺屋(ふきや)町に移転して、
吉原となりました。
町屋の北側は寺院、南側は武家屋敷で、
安政三年(1856)には、栖岸院、志摩鳥羽藩稲垣家上屋敷などがありました。 」
麹町六丁目にはソヒフィアタワーなどの上智大学のキャンパスがある。
道の右側に、麹町六丁目の説明板がある。
「 このあたりには、
町屋のほかに常仙寺、心法寺、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、四谷御門などがあった。
慶長弐年(1297)に開山という心法寺は、この看板の北方に現在もある。
常仙寺は、別名、寅薬師とも呼ばれ、
江戸名所図会に境内の様子が描かれているが、明治末に杉並区に移転した。 」
四谷駅前交叉点の手前左側に丸い建物は聖イグナチオ教会である。
「 イグナチオとは、 北スペインで1491年に生まれたイニゴ・ロヨラのことで、 1537年イエズス会を立ち上げたときにイグナチオという名前を付けて、 初代会長になった。 」
聖イグナチオ教会の道の反対側にあるのが、JRの四谷駅である。
橋の下にはJR中央本線が走っている。
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上智大学 |
甲州街道は、四谷駅前交叉点で右折する。 正面に石垣がある。
「 石垣は寛永十六年(1639)に、長府毛利藩二代目・毛利秀就により、
造営されたものである。
ここは三十六見附といわれる江戸城の見張り所の一つ、
四谷見附があったところである。
見附は、城外を見張るために設けた番兵の居所である。
四谷見附は外麹町口、四谷口門、四谷御門とも呼ばれていた。 」
四谷見附の門は敵の侵入を防ぎ易い構造の門の形式の「枡形門」になっていたので、
甲州街道は石垣に突き当たると、左折していた。
現在は 左折して、古い陸橋を渡る。 そのまま進むと、外堀通りに出る。
陸橋は大正二年にできた都内最古の陸橋で、
橋の下は四谷駅のホームで、昔の堀跡に出来ている。
甲州街道は枡形になっていて、四谷見附北交差点を左折して、四谷見附交差点に出る。ここで国道20号に再会し、右折して進む。 四谷からは新宿区である。
四谷一丁目の交差点があるが、そのまま進むと、
道の右側に新宿歴史博物館の看板がある。
中村ふとん店の角を右に入り、小路を進むと四谷税務署があり、
税務署がある交差点の百五十メートル程先に博物館の建物が見えた。
博物館には五つの常設展示がある筈だが、考えてみると今日は月曜日なので、
訪れても入れない。
しかたがないので、百メートルほど歩き、甲州街道に戻ると、
その先には津之守坂入口交差点がある。
このあたりは四谷三丁目商店街で、
四谷総鎮守の須賀神社例大祭のポスターが貼ってあった。
この南方の須賀町と若葉2には沢山の寺院が並んで建っている。
地下鉄四谷三丁目駅の入口を過ぎると、四谷三丁目交差点で、左右の道は外苑東通で、甲州街道は直進である。
道を渡った右側に四谷消防署の大きな建物があるが、ここには東京消防庁の消防博物館が併設されている。
地下一階から五階まで、展示品があるのであるが、ここも休館だった。
都会地の公共施設は月曜日が休館なので、注意しないといけないなあと思った。
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四谷一丁目交差点 |
内藤新宿
更に歩いていくと、正面に森のようなものが見えてきた。
その手前にある交差点は四谷四丁目で、
江戸時代には「内藤新宿」の入口である「大木戸」があったところである。
「 甲州街道の最初の宿場、内藤新宿の入口は、四谷大木戸である。
天保十四年の宿村大概帳によると、
内藤新宿はここから東西九町十間余(約一キロ)の長さに、
家数約七百軒、宿内人口は二千三百七十七人、うち男子千百七十二人、女子千二百五人となっている。
甲州街道が開設された当初の宿場は内藤新宿ではなく、高井戸宿だった。
しかし、日本橋からの距離があったので、元禄十二年(1699)に、
高遠藩内藤家の屋敷があった内藤新宿に宿場が設けられたのである。
その後、享保三年(1718)に停止されたが、
五十四年後の明和九年(1772)に再び宿場となって、明治維新を迎えている。 」
四谷四丁目交差点は、外苑西通りと新宿通りの交差点であるが、
五差路になっている。
左右の外苑西通りに対し、国道20号は直進し、新宿御苑の下をトンネルで抜けていく。
旧甲州街道は、斜め右方向の道である。
江戸時代は、ここから太宗寺あたりまでは下町であった。
それらを語る説明板が四谷区民ホール手前にあるので、そこに向かう。
まず、外苑西通りを横断し、道を渡るとすぐ、道の反対側の左側に渡る。
渡ったら右折して、坂を上っていくと、四谷区民ホールの建物の手前に、
新宿区教育委員会が建てた「玉川上水水番所跡」の説明板がある。
説明板「玉川上水水番所跡」
「 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、
四谷大木戸から江戸市中へは石樋、木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、
ごみの除去を行い水質を保持した。
当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
一、
此上水道において魚を取 水をあび
ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
竝両側三間通に在来候並木下草
其外草刈取申間敷候事
右之通相背輩あらば可為曲事者也
元文四巳未年十二月 奉行 」
説明板の右脇には、大きな石碑が建っているが、これは水道碑記(すいどうのいしぶみのき)といわれるもので、 「玉川上水水番所跡」の説明板の左側に、石碑の解説がある。
水道碑記解説文
「 水道碑記は、玉川上水開削の由来を記した石碑で、高さ四六〇センチ、
幅二三〇センチの大きなもので、碑上部の篆字は徳川家達、撰文は胆付兼武、
書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもの。
碑の表面に明治十八年の年記が刻まれているが、
建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、
一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(1895)完成した。 」
また、植栽の中に、「都史跡 四谷大木戸跡」の石柱が立っている。
前述の新宿区教育委員会が建てた説明板に「四谷大木戸跡」の説明がある。
「 この石柱は、地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られたもので、記念碑のようなものである。
当時の大木戸は、これより八十メートル東の四谷四丁目交差点にあった。
このことは甲州道中分間延絵図にも描かれているので、間違いない。 」
甲州道中分間延絵図を見ると、現在の四谷区民ホールの敷地には、 玉川上水の施設があったことやその右側に、甲州街道が通っていて、 道の右側に田安殿の屋敷、(鉄砲)百人組の長屋と続いていたことが分かる。
「 徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていたようである。
百人組とは、非常時に動員される鉄砲隊のことで、四谷のこの地に配されていたのである。 」
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水道碑記 |
区民ホールの裏側に回ると、 外壁に「玉川上水」と書かれたプレートが埋め込まれている。
プレートにある説明文
「 徳川家康は、天正十五年(1590)に江戸にに入ると、市中の給水をするため、
神田上水を造った。
その後、幕府は、江戸城の西部と南部の給水を目的に、
江戸町民の玉川庄右衛門と清右衛門兄弟に請け負わせて、
一年五ヶ月後の承応三年(1654)に完成したのが玉川用水である。
多摩川の羽村に堰を設けて取水し、内藤新宿の水番所まで四十三キロは掘割で、
ここから江戸市内には石樋と木樋で通水した。 」
玉川上水開設工事は今の時代でも大事業であり、
玉川兄弟の偉業は歴史に残るものである。
四谷大木戸跡説明板から区民センター沿いに百メートル程歩くと、
新宿一丁目交差点で、このあたりから先は、小さなビルが林立している。
交差点の左手に進むと、道の先に新宿御苑の「大木戸門」があるが、
新宿御苑も月曜日は休園で入れない。
「 新宿御苑は、甲州道中分間延絵図に描かれている内藤家屋敷の跡地に、明治時代に造られた皇室のための公園である。
徳川家康が江戸に入ったとき、家臣の内藤清成は鉄砲隊を率いて、
江戸入りの先陣を務め、
甲州街道と鎌倉街道の交差点付近(今の新宿二丁目辺り)に陣を敷き、
後北条氏の残党の動きを警備して家康を迎えた。
その功により、家康から 「 おまえの馬が一息で駆け巡るだけの範囲の土地をやろう 」 と言われ、
家康より拝領したのは、四谷から代々木村にかけての二十万余坪もの広い土地である。
内藤新宿の開設の際、土地の一部が返納されられたが、残った土地は、
明治維新まで高遠藩内藤家の江戸藩邸として使用されてきた。
明治に入り、農業技術試験場となっていた時期もあったが、
明治三十九年(1906)に、皇室専用の新宿御苑となり、
昭和二十四年(1949)に一般公開されるようになり、今日に至っている。 」
甲州街道(新宿通り)に戻り、歩いて行くと右側に秋葉神社がある。
その先に新宿交番の入ったビルのある交差点が見えてくるが、
このあたりまでが新宿一丁目で、江戸時代は下町であった。
新宿一丁目西交差点を右折すると、
江戸時代の甲州道中分間延絵図に描かれている太宗寺とその奥に成覚寺が今もある。
「 日本橋に通じる五街道の江戸入口には、
正徳二年(1712)、深川の地蔵坊正元の勧進により、旅の安全を祈願するため、
六地蔵が造立されたが、
太宗寺には、高さは二メートル六十七センチの地蔵像が安置されている。
また、閻魔堂の中に、閻魔像と奪衣婆(だつえば)像があるが、
通常は非公開である。 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、
三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を計ったとされているが、
衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されたともいわれる。
成覚寺(じょうかくじ)は、江戸時代の絵図では成覚院と記されているが、
宿場に近かったことから、宿場の飯盛女の投込み寺になっていたといわれ、
その数は数千人に上るといわれる。
境内には、飯盛女の共同墓地である子供合埋碑や、遊女白糸の塚などもある。
また、幕末の戯作者恋川春町や明治改暦を推進した塚本明毅の墓がある。 」
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新宿御苑 |
新宿二丁目東交差点を過ぎると、新宿二丁目交差点である。
江戸時代、このあたりが内藤新宿の中心で、仲町という地名である。
「 元禄十年(1697)、浅草安倍川町の名主、喜兵衛などの町人五人が、運上金五千六百両を支払うことで、幕府から宿場の開設の許可を受け、
内藤氏から返上された土地に宿場を造り、内藤新宿となった。
本陣は、宿場開設当初は名主三名の兼務で担当し、脇本陣も一軒あったが、
寛政八年(1796)には本陣がなくなり、脇本陣の橋本屋が代わって御用を勤めたという。
道の左側に問屋場があったとされ、問屋役は内藤新宿の名主の一人が兼務していた。
問屋場は、明和九年(1772)には上町にあったが、
その後、下町、仲町と移ったと、新宿歴史博物館の展示にはある。
高札場の位置も、内藤新宿の再開時には問屋場前にあったとされるが、
幕末には下町の町はずれにあったという説もあり、はっきりしない。 」
その先、右側の緑の紋付姿の看板がある商店街は末広通りである。
「 小路を六十メートル程歩くと、左側に末廣亭がある。 ここは上野鈴本と双璧をなす落語定席である。 明治三十年(1897)に堀江亭として創業したが、浪曲師の末廣亭清風が買収し、末廣亭となった。 」
新宿三丁目交差点に出ると、左右の道は明治通りで、直進は新宿通りである。
道の右側にビルの前に追分交番があり、道を越えると伊勢丹デパートである。
直進の新宿通りは、江戸時代の青梅街道で、甲州街道はここで左折していた。
江戸城造営のために整備された青梅街道が、
ここで甲州街道と分かれたことから、新宿追分と呼ばれていた。
交差点の手前の左側のビル内に「追分団子」の暖簾をかけた店がある。
「 太田道潅が江戸城を構築中の頃、鷹狩りの帰途、 高井戸付近を通りかかった道潅に、この近くに住む名族が、だんごを献上したところ、だんごの滋味豊かな味に心打たれ、時々寄って、このだんごを所望したという。 道潅亡きあと、名族は高井戸宿に柳茶屋を出し、このだんごを出し、 「道潅だんご」と名付けたが、内藤新宿が出来て、 人が行き交うようになると、追分だんごと呼ばれるようになった。 」
新宿区役所の東方に花園神社があるが、その付近は新宿ゴールデン街として、
多くの飲屋がひしめいている。
新宿は日本一と言いても良い歓楽街であるが、そのルーツは内藤新宿にある。
「 この地に宿場が開設されると、江戸市内から近いことから、 岡場所として有名になり、風紀上の問題から内藤新宿は閉鎖された。 明和九年(1772)、宿場再開に際し、幕府は旅籠五十二軒に対し、 飯盛女は百五十人として、許可した。 これ以降、明治に入ると遊郭、売春禁止法施行後は歓楽街として、 新宿は繁栄していく。 」
甲州街道は新宿三丁目交差点を左折し、その先の新宿四丁目を右折する。
「 江戸時代はこのあたりが上町で、突き当たりにある天龍寺は、 明和四年(1767)以降、時の鐘を撞いたことでも知られる寺である。 当時の明け六つの鐘は、定刻より半刻(1時間)早く撞いたといわれる。 別名、追い出しの鐘といわれたが、 これは旅籠で飯盛女と遊んだ宿泊客や近くに住む武士が江戸の勤番先に行くのに時間がかかるためであったからという説がある。 」
高札場もこのあたりにあったようで、内藤新宿はこのあたりで終わりである。
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新宿三丁目交差点 |