◎ 十津川の旅
小生は、平成二十年(2008)に、古稀の記念に、十津川温泉に行こうと計画し、
妻の賛同を得て、八月のお盆後すぐに、旅館を予約したのである。
旅行では、紅葉の奈良を見る計画も入っていたので、早い予約になったのである。
当然のことながら、いく道は十津川街道、国道168号線である。
ところが、出発の一週間前の十一月初旬に、宿から宿泊の確認とともに、
山崩れで国道はかなりの部分で決壊し、閉鎖されているという、 連絡を受けた。
代替道路が狭いため、時間制限の交互交通のため、かなり時間がかかるだろうといわれ、
他の道路をとることが勧められた。
いたし方がない。 旅行当日は、 名古屋から伊勢道を経由、新宮に出る、。
ここから、国道168号線に入り、北上する、という計画に変更した。
途中、 熊野市の花の窟神社に寄り、 神社を参拝した (左下写真)
その後、海岸に沿って進み、 新宮から国道168号線に入り、 熊野川を横目に眺めながら、
北上を続けた (左中写真)
五條新宮道路に入ると、七色で、 ここから十津川村である。
右手に二津野ダムが見えてくると桑畑だが、 ダムに沿って進み、 橋を渡ると、
十津川温泉に出た (右中写真)
司馬遼太郎は、旧大塔村にある天辻峠を上ろうとするが、 途中であきらめている。
遼太郎は、
「 太平記に、後醍醐天皇の皇子 ・ 大塔宮 (護良親王) が、
鎌倉方からの追捕避けるため、 この村に逃げ込んだと、 書かれているが、
いわれるという拠り所は太平記にしかない。 」
として、大塔宮が逃げ込んできたという事実を疑問覗しているが、
「 当時の十二村荘が、明治に入り、 大塔村に改称した。 」
と、村名の誕生に、触れている。
遼太郎が十津川で泊まったのは、人家が多い十津川温泉ではなく、
上湯川の上流にある上湯の神湯荘である。
遼太郎は、 その時の様子を
「 十津川谷はまったく夜になってしまった。
自動車の前照灯が、寸前の山壁をてらすだけで、なにも見えない。
照らされた山壁は、そのつどすばやく左に走り去ってゆく。
右が渓流で、闇の底を深くえぐっている気配だけが感じられる。
途中、車をとめてもらって、渓流側に立ち、小用を足した。
やっと頭上に星空を見たが、壺の中から天を見あげるほどの面積しか見えなかった。 」
と記している。
十津川温泉の橋のところの標識に、「上湯温泉」と書かれているのを見つけたが、 今でも人里外れた寂しい場所である (右下写真)
遼太郎は、対岸の山壁に見える橙色の一つの電灯を見つけて、
十津川郷をよく守ってきたという感慨に浸っている。
彼の守ってきたというものは自然からの脅威にではなく、
大政変があるごとに、 十津川郷は勝者に接触し、 戦闘に参加する代償として、
十津川式の自治と無税の伝統を保証してもらってきた歴史のことである。
遼太郎は、 「
十津川郷は田畑がわずかしかなく、木材も切り出して売るすべがなかったので、
税をとるのはむずかしかったという事実はあるが、
九千人も住む十津川郷が免租地というのは異例なことである。
それを可能にしたのが、権力者側についた十津川郷民の存在である。 」
と、いうのである。
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私達は、十三時過ぎには、十津川温泉に着いてしまった。
旅館に入るのには早いので、上流の谷瀬の吊り橋を見にいくことにした。
十津川温泉までの道は比較的広かったが、この先は走るに比例して道が狭まり、
平均すると、1.5車線というところだった。
司馬遼太郎はこの吊り橋に立ち寄り、その様子を綴っている。
「 宇宮原あたりをすぎたとき、 対岸の稜線に出ている白い雲が、
光体のように輝き始めた。
対岸はめずらしく緩斜面になっており、
布袋の腹のようにゆたかに河へ突き出て、よく耕されている。
河原の砂地もひろく、大きく天窓がひらかれたようにあかるい。 谷瀬という。
その谷瀬の在所にむかい、 この本道から大きく吊橋が架かっている。
全長約三百メートルで、鉄線の吊橋としては日本最大のものらしい。
橋畔にたてふだがあり、昭和二十九年に八百万円の工費で出来た旨が、書かれている。
この大吊橋の利用はむろん十津川郷ぜんたいというわけではない。
谷瀬とその奥のひとびとにかぎられるために、
そのあたりのひとびとが、一戸あたり三十万円の負担金を出しあって架橋した。 」
司馬遼太郎が訪れた当時の十津川は、 観光とは縁がなかったので、
橋畔の案内板には、自己負担のことのみが書かれていたのだろうが、
私が訪れた平成では 、ここは十津川の観光名所になっていた (左下写真)
吊橋を渡ると、ゆさゆさ揺れるので、高度恐怖症の私は そうそうに引き返した。
妻は、こういう高いところが好きで、小生の怖がる様子を楽しそうに、見ていた (左中写真)
遼太郎等は、この後、橋畔の茶屋の二階に入って、休憩している。
小生達が訪れた時は、橋畔のお店は平日のせいか、やっていなかった。
谷瀬のつり橋から国道168号線を少し南下した先に、「国王神社駐車場」 と書かれた看板があり、
国道から少し下ったところに、国王神社がある (右中写真)
説明板「国王神社」
「 ここ国王神社の境内に祀られている長慶天皇は、 文中2年(1373)8月
御位を弟の後亀山天皇に譲られ、 同年10月まで紀伊国玉川の宮におられたが、
賊徒の襲来を受け、 大和の天川村の 五色谷行在所へお移りになったところが、
ここでも逆徒に襲われたので、もはや運命もこれまでと、 同所の廻り岩で、御自害なされた。
このとき近侍のものが、ご遺体を水葬に付したところ、
数日経て御首が、下流の 十津川村上野地字河津の渕 (現在地付近) へ流れ着き、
毎 夜水底より、 不思議な一条の光を発した。
これをみつけた村人が、丁重にこのところへ葬り、 玉石を安置して、 お首塚 と呼んだ。
以上が 南帝陵の十津川村 における伝説の概略である。
しかし、 歴史上、長慶天皇は 弘和2年(1382)まで 在位されていたことになっており、
大和誌 によると、 神社が 長慶天皇の勅願宮 となっていることなどから、
日時が神社創建のときと、混同されて伝えられた、と思われる。
いずれにしろ、 村民が600年来、 長慶帝の在位を確信し、これを奉祀してきたことに、
十津川村の特殊性がある。 」
遼太郎は、
「 神武天皇が十津川を渡った。
というのは、いまになれば、十津川人のユーモラスな信仰であるが、
ともかくも、そこから十津川史が始まるという。
カムヤマイワレヒコ というのが神武天皇だが、
この人物についての記述は古事記、日本書紀にしかない。
日向から瀬戸内海岸を東に進み、 大阪湾に入って上陸し、
河内平野をわけ入り 、やがて 生駒山を越えて 大和の国へ入ろうとしたが、
土酋の長髄彦に阻まれ、退却し、 紀伊半島の先端に廻って上陸し、
熊野の山々を越えて北上し 、十津川(?)を経て、
大和盆地に入り、盆地の平定に成功した、 というのが神話のあらましだが、
古事記も日本書紀にも、 十津川 という地名は出ていない。
本来、実在性がとぼしい神武天皇がどこを通ろうが、
考証は無意味なのだが、 明治から大正にかけての歴史、地理学者である、吉田東伍博士は、
その大著 「大日本地名辞典」 にも 「、神武帝、大和打入の時、
熊野より吉野に出で給ひしは、実に十津川を経由したまへり 」 、と断定している。 」
と記述し、
「 証拠は乏しいが、他のコースを考えるよりは自然だろう。 」 と、結論している。
新宮川 (十津川) をせき止めてできた 風屋ダム も、 この高津集落を過ぎた野尻あたりで終る。
その後、橋とトンネルが幾つか現れるが、それを過ぎると、温泉地温泉がある湯之谷で、
そこを過ぎると右側に、 道の駅十津川 がある (右下写真)
遼太郎達は、ここでは、
昭和五十一年に竣工したクリーム色の新庁舎を訪れて、 村長と会っている。
道の駅は、その近くにあり、一角には足湯があった。
そこから少し入ったところに、日帰り温泉として利用できる 「滝の湯」 というのがあるのだが、行ってみると、改修中で利用できなかった。
その代わりに、道の駅で教わった、湯泉地温泉の「泉湯」 に行き、 一風呂あびた後で、
宿泊する旅館にむかった。
司馬遼太郎は、
「 幕末に十津川郷から、御所の警護に郷民が大挙して上洛し、
文久三年に、十津川屋敷ができた。
また、蛤御門の変では、 十津川郷士二百名が門の番を務めた。
新政府は、十津川全戸を士族に列したが、
暮らしは変わらず、山仕事と狩猟、筏流しに多少の耕作と、変わりがなかった。
政府からお金で、郷校の文武館が建設されたことだけが政府の報償だった。 」
と記している。
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私が泊まった旅館は、吉乃屋である。
十津川では大きい部類の旅館で、泊まったよかったと思った (左下写真)
その近くに、「庵の湯」 という日帰り湯があったので、 旅館の下駄を借りて、歩いていった。
小規模のものだが、飲用の湯もあり、けっこう楽しめた (左中写真)
遼太郎は、幕末、新撰組に追われて、十津川に逃げ込んだ人達をかなりくわしく書いている。
十津川郷は面積が広い上に、集落が三十以上に分れているので、
かくれるのに都合がよかったようである。
また、十津川郷民は穏健な性格で、追跡側に引き渡すというようなこともしなかった、という。
泊まった翌日は、うす曇りで、やや寒い日であったが、
旅館から見た二津野ダムはところどころに紅葉が見られ、きれいだった (右中写真)
帰りは国道168号を北上し、高滝で右に入る国道426号をいくことにした。
そのまま、北上して五條に抜ける選択肢もあったが、 交互交通の時間に間に合わないと、
数時間待たなければならないので、この道を選んだ。
旅館の御主人はあまり勧めなかったが、 前日通ってきた人が紅葉がきれいと言っていたから、
行く気になったのである。
途中までは、数戸の家がある集落があるが、それもすぐに終り、
後は山裾を縫って続く山岳道路である。
対向車がこないことを祈りながら、山の峠を越え、 下北山村へ向かった。
このような山深いところにも、集落がある訳で、 十津川郷に逃げ込む、という歴史は頷けた。
途中には、滝が幾つかあったので、車を止めて撮影した (右下写真)
「 明治二十二年八月に大豪雨があり、
一夜にして地形が変わるという大惨事になった。
その時、前田正之という十津川人が
北海道移住という発想を得て、北海道庁長官だった永山武四郎に話すと、すぐに了解されて、
十月から十一月にかけて移住が行われ、
家が流された戸数とほぼ見合う六百戸、人数は二千六百九十一人が北海道に渡り、
現在の新十津川村を誕生させた。 」
国道426号を走っていると、さもありなんという気になる地形だった。
司馬遼太郎が、十津川で最後に訪れたのは玉置神社である。
この神社は、 国道426号に入る手前の高滝から右の林道に入って行き、
その後、参道を五百メートル上るのだが、かっては神仏混淆の玉置三所権現と呼ばれ、
江戸期には七坊十五ヶ寺という多くの建物があったという。
平安期には、 花山院 ・ 白川院 ・ 後白川院などが、 熊野から十津川にきて、
玉置山に上ったという。
この神社は、修験道の根本道場の吉野金峯山と関係がある施設の一つだったはずで、
ここを訪れた修験者から都の情報が齎された、と 遼太郎は推測している。
私にとっては、苦労しながら訪れた十津川村だったが、 司馬遼太郎の 「街道をゆく」 によって、 歴史的に このように多くの逸話を生んでいたことを知ったのは収穫だった。
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旅した日 平成二十年(2008)十一月十四日〜十五日