「  熊野街道(熊野往還)  」

(  熊野那智大社 ・ 青岸渡寺 ・ 補陀落寺  )


かうんたぁ。



熊野街道は、紀州藩が五街道に準じる脇往還として整備した道で、 和歌山から伊勢まで通じていた。 
本来は藩内の連絡や治世に利用するために整備されたものだが、江戸後半になると、 お伊勢参りが流行し、帰途、熊野へと寄るものが増え、大いに賑わうようになった。 
大正時代に、国道として整備されたが、今でも多くの石畳の道が残っている。


◎ 熊野那智大社

飛滝神社

速玉大社の御参りを済ませ、国道42号で、那智大社に向かう。 
熊野那智大社に至る坂の中腹の右手に、 「那智大滝」 の石碑と、「飛滝神社」 の鳥居が建っている。 
参道を下りて行くと、那智の滝の前の鳥居があるところから、参拝できる。
ここは、 那智大社 の 前身 の 社(やしろ) があったところである。
現在は、 「 熊野那智大社別宮飛滝権現 」 となり、御神体は那智の滝である (右写真ー 那智の滝)
野那智大社の社伝では、 「 熊野の民は、 那智の滝を、 神武天皇御東征以前から、 すでに神として奉祀されていたとも、伝えられている。 」 とあり、 古代の原始信仰の中で、熊野の民が、那智の滝を神として崇めていたことを否定していない。 

熊野那智大社

坂を登ると左側に、那智大社があった (右写真)
熊野那智大社の社伝には、   「 神武天皇が、熊野灘から那智の海岸に上陸されたとき、 那智の山に光が輝くのを見て、那智の大瀧を見つけ、 これを神として祀り、八咫烏の導きによって、 無事大和へ入ることができた。  神武天皇が、那智の滝を 大巳貴命 (国づくりの神) の御霊代として祀ったのが、 那智山信仰の起こり。 那智大社が、飛滝神社があるところから、 現在地に移転したのは、 仁徳天皇の五年(317)  と伝えられる。  新しい社殿には、 主神の  夫須美神(伊弉冉尊) を含め、  国づくりに御縁の深い十二柱の神を祀り、 
その際、大瀧を 別宮飛瀧大神  として残した。」
   とある。 

那智大社社殿

社殿の前に、烏石 がある (写真)
「 神武天皇東征の道案内をした八咫烏が、石に姿を変えた。 」  と伝えられるものである。
「 平安時代、平重盛が造営奉行となって 社殿を改めたが、 織田信長の焼討に遭い、 焼失。
豊臣秀吉が 社殿を再興し、 享保時代に徳川将軍吉宗により、 大改修が行われた。 」

また、白河上皇お手植えの枝垂れ桜や平重盛が植えたという樹齢八百六十年の樟の木が 茂っていた。 



◎ 青岸渡寺

仁王像

熊野には、役小角を始租とする修験道が起こり、 神仏習合の信仰が行なわれるようになった。 
その名残りと思えるのが、随神門の仁王像である (右写真)
明治までは神仏習合で、那智大社と右隣の青岸渡寺は一体のもので、仏堂は那智大社の別当寺の役割を担っていた。   明治の廃仏棄釈で、他の二社(熊野本宮大社・速玉大社)の仏堂が壊されたが、  那智大社の如意輪堂は奇跡的に残り、青岸渡寺と名を変えた。  青岸渡寺は、西国三十三ヶ所の第一番札所として、西国巡礼の人々が多く訪れている。

青岸渡寺

青岸渡寺の生い立ちは確かではないが 伝えられるところでは、
「 仁徳天皇の御世(4世紀)、 印度天竺の僧 ・ 裸形上人が、  那智大滝において修行を積み、 その暁に 瀧壷で 八寸の観音菩薩を感得し、 ここに草庵を営んで安置したのが最初。  その後、 二百年を過ぎた推古天皇の頃、 大和の生佛上人が 一丈の如意輪観世音を彫み、 その中に 裸形上人の八寸の観音菩薩を納め、 お堂が建立した、 と伝えられる。 」  (右写真 - 青岸渡寺本堂)
境内からは、霧が懸ってもやぁとしていたが、 眼下の三重塔の先に、那智の滝が見えた。 



◎ 補陀落寺

補陀落寺

坂を下って行くと、国道の手前左側に、補陀落山寺(ふだらくさんじ)がある (右写真)
「 平安時代に入ると、 観音信仰と浄土信仰が国内に広がったが、  その中で、 観世音菩薩が住んでいるとされる補陀落山は、 熊野の那智山に擬せられ、   浄土は熊野の沖にあるといわれるようになった。 
鎌倉時代に入ると、 熊野の沖にあるといわれる浄土を目指して、 生きながらに 小さな出口のない船で   浜の宮から 船出をする、「補陀落渡海」 という祭礼が行われるようになり、  寺の住職は、 六十一歳の十一月になると、 観音浄土をめざし生きながら海に出て、 往生を願う渡海上人の習わしになっていく。  」

渡海船

「  室町時代になると、 極楽往生を願う庶民が、 渡海船の出船にお金をかけられるようになり、 周囲から追い詰められて、出発したが、 船から脱出して、捉えられ、 海に投げられて殺される事態が起きた。 
こうしたことをきっかけとして、 生きたまま入水自殺することはなくなった、 という。  」

右写真は、渡海船の復元したものである.
裏山は、勝山城址で、 その一角に、補陀落渡海で亡くなった人の供養碑が建っている。 
境内に、「浜の宮王子社跡」 の木柱が建つが、 これは 「神武天皇頓宮跡」 である。
駐車場角にある 振分石 は、 中辺路と伊勢路の分岐点である。 


◎ 熊野三所大神社

熊野三所大神社

補陀落寺の隣には、 熊野三所大神社がある。 (右写真)
「 熊野三所大神社の祭神には、 家都美御子大神 ・ 夫須美大神 ・ 速玉大神を祀る。 
古は、熊野三所権現と称したが、 補陀落寺との神仏習合の形態が今に残り、  本殿のすぐ前で、 参拝ができる数少ない神社である。  」

駐車場を左折すると、 熊野古道伊勢路である。 



◎ 七里御浜

七里御浜

伊勢路は、ここから熊野速玉大社を経由し、伊勢に至る古道である。 
一部に古道が残るが、車できているので、 代わりに国道42号を走る。
新宮を過ぎると、紀宝町になり、明治維新後、ここから東は三重県になった。
まもなく、右手に、「七里御浜」 と呼ばれる、白い砂浜が見えてくる (右写真)
この浜は、 単に美しいだけでなく、  古くから、熊野古道伊勢路の一部として、使われてきた。 

パーク七里御浜

道の駅「パーク七里御浜」からの海岸の風景は、  ガスがかかっているので、今一歩だった (右写真)
「 熊野市の花の窟(はなのいわや)から、  熊野本宮大社へ向かう  「本宮道」 に対し、  七里御浜の浜伝いに歩くことから、 「浜街道」 と呼ばれてきた。   幾つかある川の河口が難所で、 川を渡る際に、 波にさらわれ、 命を落とした巡礼者が少なくなかった。
江戸時代の浜街道は、 国道の左右に残る細い道で、 七里御浜は紀宝町から御浜町まで続いている。    」

この先は熊野市を経由し、伊勢神宮までの古道が残っている。
今回は車でのドライブなので、 熊野路の旅はここで終えた。

訪問日     平成十九年(2007)十月

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