佐倉の北東十二`あまりのところに成田山新勝寺がある。
成田参詣が文化年間頃より隆盛するに従い、佐倉街道を経由し、
成田山新勝寺へ向かう道が、成田道あるいは成田街道と呼ばれるようになった。
寺台宿は成田街道の終点であるとともに佐原街道の起点でもあり、
成田側より、下宿、中宿、上宿で構成されていた。
酒々井〜成田山新勝寺
平成二十六年(2014)十一月三十日(日) 京成本線酒々井駅から前回終わった国道51号線に合流したところから、残りの寺台宿に向って歩き始めた。
国道296号線は上り坂であるが、少し行くと「酒々井ちびっこ天国」の標識があり、
成田街道はその先の右にある細い道に入る。
右側に大崎自治会館があり、その先は左へのカーブの急な上り坂。
その先は薄暗い竹やぶの切り通しの道であるが、
思っている以上に車が走るのに驚く。
この上り道は「大坂」とよばれ、
江戸時代には通行する荷車を後押しする押し屋が活躍した場所だったらしい。
上り切る手前は右にカーブするが、左の小高い崖に石段があるので、
上っていくと小さなお堂の両側に「馬頭観音」の石碑がいくつか祀られている。
「 これは大崎の馬頭観音堂で、江戸時代に馬を使った運送業者達によって祀られたものである。
左側の馬頭観音碑の下には、天保十年(1839)の銘がある成田山への道標があり、
俳句が彫られている。 」
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大坂 | 馬頭観音堂 |
坂をのぼりつめたところの左側の国道51号線と接するところに「史跡成田道伊篠の松並木跡」の道標と その先に「宗吾道」の道標が建っていて、傍に説明板がある。
説明板「伊篠の松並木跡」
「
ここは国道51号線に沿った旧成田街道の約800メートルの松並木だった。
通称、木之進並木といわれ、享保年中(1736〜1939)佐倉七牧を支配した代官小宮山木之進が植林したと伝えられてきたが、
樹齢が300〜350年であるころから年代があわず、それ以前に植えられたと思われる。
県の史跡に指定された当時は巨木が36本あったが、松喰い虫の被害を受け、現在は1本も残っていない。 」
成田街道は国道の右側の道で、八百メートル程あったという伊篠の松並木跡を行く。
後で植えられたと思える松もあったが、桜の木や雑木が道の両側にあった。
道の右側の朽ちた倉庫に、蔦が紅葉しているのがきれいである。
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伊篠の松並木跡と宗吾道道標 | 紅葉している蔦 |
道の左側の空地には「成田山永代護摩木山」という大きな石碑が建っていた。
これは成田山永代護摩を焚くための材木を用立てるため信者が寄付した土地を記念した石碑である。
その先で国道に合流したが、自動車はここから国道を迂回するように入りこんできたことが分かった。
ここには「千葉県指定史跡成田道伊篠の松並木」の石碑が建っていた。
HONDACARS千葉まえの国道を横断して、国道の反対側に移り、
その先の左側にある狭い道に入るのが成田街道である。
坂を下って行くと左側にカーブする左側の塀の前に
「奉納成田山永代護摩木山」の碑と
変体仮名で「不動尊」と書かれた石碑が建っている。
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「成田山永代護摩木山」碑 | 成田山と不動尊の石碑 |
谷津の田園地帯を横切るように進むと、左側に赤い帽子の地蔵尊が祀られている。
右手ではJR成田線の成田エクスプレスが走っている。
集落の坂を上り切ると篠山新田で、国道51号線に合流するので、国道を進む。
国道を進むと公津の杜入口交叉点の手前に「成田市」の標識があったので、ここから成田市である。
交叉点を横断すると左に成田ビジネスホテルがあり、
その先の日産の販売店のある三叉路で、
国道51号線と別れて、右の国道409号線に入る。
このあたりは飯仲で、坂を下り、そして、坂を上ると小島電気のある並木交叉点で、
国道51号線を横断して進む。
右側に「和算家飯嶋武雄」の墓がある。
左側になごみの米屋があり、その先の「一本松跡」の三叉路交叉点の左角に
「一本松跡」の石碑と苔蒸した「宗吾霊堂」の道標と「馬頭観音」碑が建っている。
ここは成田山参道の入口であるが、三叉路を左に行く道は宗吾街道とよばれ、西方にある「宗吾霊堂」に通じている。
「 宗吾とは佐倉宗吾のことである。
佐倉宗吾は本名木内惣五郎という。
大飢饉で困窮する佐倉領の農民を救うため四代将軍家綱に直訴して、
磔刑の処されたことから義民として尊敬を受けた。
宗吾霊堂は佐倉宗吾を祀り、正式名称は鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂である。
東勝寺は桓武天皇の時代に征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定した時戦没者供養のために建立されたので、古い歴史がある寺である。
佐倉惣五郎の菩提寺であったが、百年忌の時に宗吾道閑居士の法号を受けたことから、宗吾霊堂と呼ばれるようになったといい、
宗吾霊廟には彼を祀った廟がある。 」
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赤い帽子の地蔵尊 | 一本松跡 |
一本松跡交叉点を過ぎるとJR成田線の踏切がある。
それを越えて進むと不動ヶ岡地区で、JRの線路の右側に続く道に「不動尊旧跡」の看板があった。
「 ここは天慶三年(940)に覚朝大僧正が平将門の乱の鎮定と万民豊栄を祈願して、 ここから南約1.7qの並木町公津ヶ原と呼ばれる地に仮堂を設け、京都から不動明王の御本尊を移し、 安置し奉ったが、江戸時代の安政五年(1858)、成田山新勝寺本堂(現在の釈迦堂)が完成した際、 入仏供養の行列が本来ならば公津ヶ原の仮堂から出発すべきところ、 遠方のため、この地に安置場を設け、ここから出発したという故事から不動尊旧跡といわれるようになった。 」
京成本線を越えると、右手に京成成田駅、左側にJR成田駅がある。
JR成田駅交叉点を越えると成田山表参道の門前町になるが、表参道に入った左にあるのは大師堂で、弘法大師の像が納められている。
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不動尊旧跡 | 大師堂 |
表参道を歩いて気が付くのはうなぎの幟が多いこと。
この界隈には江戸時代には成田詣での客の旅館が多くあり、うなぎが振る舞われていたという。
その伝統が引き継がれているといえる。
入口のあたりは花崎町、三叉路で鉤型に左折すると上町。
いろいろな店が軒を連ねているが、江戸時代から名物羊羹の店もある。
この通りは平成十二年に電柱地下化が進められて、都市景観大賞を受賞したといい、
風情ある街並みに仕立てられている。
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鰻の幟が翻る | なごみの米屋 |
商店街を見ながら進むと上町と仲町を分けるところに薬師堂がある。
薬師堂の御本尊は薬師如来、脇侍は日光、月光菩薩である。
「 薬師堂は明暦元年(1655)に建立された成田山新勝寺の最古の本堂だった建物である。
徳川光圀や初代市川団十郎が参詣している。
元禄十四年(1701)、本堂を新しいものに替えた時、本堂の後方に移され、
約百五十年にわたり、伽藍の一端を担っていた。
安政二年(1855)、新たな本堂が建立されたの時、最古の本堂はこの地に移され、
薬師堂と改称された。 」
その先は三叉路で、三叉路の中央に「成田山門前方向→」の標識があり、
中央に滝沢酒店がある。
道の右側のプチプラザに三橋鷹女の和服姿の女性像が建っている。
この銅像は生誕百年を記念して建てられた。
「説明板」
三橋鷹女は明治三十二年(1899)成田市田町で生まれ、
昭和四十七年(1972)に亡くなった女流俳人である。
「 夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり 」
「 白露や 死んでゆく日も 帯締めて 」
「 口中一顆の 雹を啄(ついば)み 火の鳥や 」
「 千の虫 鳴く一匹の 狂ひ鳴き (遺作) 」
という強烈な俳句が紹介されていた。
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薬師堂 | 三橋鷹女像 |
表参道を下ると参詣者が大変多く、うなぎ屋の前に行列が出来ていた。
旅館の軒下には「南入本講」などの額が架けられている。
大野屋旅館には望楼付きの木造三階建てで、今の法律では建築許可が下りないと思った。
下きったところに成田山の総門(山門)があり、その奥に成田山新勝寺の一大伽藍が展開している。
総門(山門)は豪華で立派だが、最近(平成九年)の作である。
新勝寺の起源
「 成田山新勝寺の正式名称は成田山金剛院神護新勝寺で、真言宗智山派の別格本山である。
成田村十七軒当代表の名主が不動明王像を背負って成田市並木町不動塚に伽藍を建立したのが始まりである。
朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受けた寛朝大僧正は、
弘法大師が敬刻開眼された不動明王を奉持し、難波の津より海路を東上して尾垂ヶ浜(千葉県匝嵯郡光町)に上陸し、
陸路で成田の地に至り、乱平定のため平和祈願の護摩を奉修し成満した。
「 また新たに勝つ」という語句にちなみ、新勝寺と名付け、東国鎮護の寺院になったが、戦国時代の混乱で荒廃し、寂れ寺になっていた。
江戸時代に入り、江戸で合計十二回の成田不動の出開帳が行われ、
歌舞伎役者の市川団十郎が成田不動に帰依して、成田屋を名乗り、
不動明王が登場する芝居を打ったことが相俟って、成田参詣が盛んになった。
以後、本堂が数回建て替えられ、今日のような立派な寺院になった。
」
総門(山門)をくぐると、参道の両脇にある常夜燈は江戸時代のものが多い。
境内には屋台の店が多かった。
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大野屋旅館 | 総門(山門) |
石段を上ると大きな提灯を吊るした、国の重要文化財に指定されている仁王門がある。
「 仁王門は文政十三年(1830)に建立された八脚門で、 屋根は入母屋造銅板葺きで、正面に千鳥破風、背面に軒唐破風を付けている。 」
急な石段を上ると、左に六番組の狛犬の先に「こわれ不動堂」が建っている。
石段を上りきると、正面に見えるのが大本堂で、本尊の大聖不動明王像を祀っている。
この建物は新しく、入母屋造り二重屋根コンクリート造りである。
本堂の右側にあるのは、正徳二年(1712)建立の高さ二十五メートルの三重塔で、
両脇の柱間に十六羅漢像がある。
これも国の重要文化財に指定されている。
大本堂の左側にある釈迦堂は、安政五年(1858)に建立された旧本堂である。
また、大本堂裏手にある光明堂は元禄四年(1701)建立で、
釈迦堂が本堂になる前の本堂である。
釈迦堂も光明堂も国の重要文化財に指定されている。
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仁王門 | 三重塔 |
元は酒々井宿にあったものだが鉄道の開通によりここに移設されたという、道標を探して出世稲荷に向う。
出世稲荷は入口の光輪閣の裏のエレベーターに乗り、釈迦堂の左側の坂道を上ったところにある。
説明板「出世稲荷」
「 出世稲荷の御本尊は、
佐倉城主、稲葉丹後守より江戸時代の宝永年間に当山に寄進された御尊像で、
古来、出世稲荷大明神と称される。
御稲荷様の御神体は倉稲魂神と称し、五穀豊穣の神である。
その昔、弘法大師が嵯峨天皇より東寺を賜った際、この明神が翁の姿で現れ、
色々な教えをされたので、
東寺の鎮守として祀られたことから、大いに盛んになった。 」
鳥居をくぐると、紫色の垂れ幕や紅白旗、
ひときわ目をひく大きな提灯が奉納されている。
また、八代目市川団十郎の常夜燈も建っている。
「
現在のお堂は、明治二十一年に再建された総欅造りのもので、
朱色を基調として、金色、青色、緑色の極彩色に彩られた色彩が美しく、
龍や獅子のきらびやかな彫刻が施されている。
お堂の正面に施された彫刻には天女の姿があるが、
これは出世稲荷の本地仏である荼枳尼天(だきにてん)である。 」
人通りのすくない「出世稲荷」の前には探していた
「右成田道」の立派な道標が建っていた。
この道標には「六番組」とあったが、江戸の火消しによる奉納なのだろうか?
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出世稲荷 | 「右成田道」の道標 |
成田山には公園があって、ポスターで紅葉を宣伝している。
行ってみると見学者が多い。
「 愛知にいた頃は妻や娘と香嵐渓の紅葉に行っていたが、 そうした紅葉が見られるかと思ったが、スケールも違い、 紅葉を見る目的だけでは訪れて駄目と思った。 」
公園の中程に「名優七世団蔵碑」の隣に「六代目団蔵像」と「七代目団十郎像」と書かれた台座の上に、自然石の高浜虚子の 「 凄かりし 月の団蔵 七代目 」 という句碑が建っている。
説明板
「 この句碑のところには六代目団蔵と七代目団十郎の銅像があったが、
戦時中供出された。
昭和十八年に八代目の団蔵は七代目団蔵の追善供養のため、
この句碑を台座の上に建てた。 」
その先には、成田中学で教鞭をとった鈴木三重吉の文学碑 「 古巣はさびても 小鳥はかよふ 昔忘れぬ 屋根の下 」 があった。
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成田山公園の紅葉 | 高浜虚子の句碑 |
寺台宿
成田山の南山麓をぬって右の方へ東参道を進むと、江戸時代には寺台宿があった。
「
寺台宿は成田街道の終点であるとともに佐原街道の起点でもあり、
成田側より、下宿、中宿、上宿で構成されていた。
北側の高台には千葉氏の家臣、馬場氏の寺台城があった。 」
下宿は現在は田町商店街で、 成田公民館の一角に「三橋鷹女の居住地跡地」の表示がある。
「
成田公民館の隣にある鬼沢家住宅と駐車場が、三橋鷹女の生家跡である。
竹久夢二の叙情詩「宵待ち草」のヒロイン、長谷川カタの住まいが裏にあり、
三橋鷹女は紫矢絣の着物に麻の葉絞の昼夜帯を締め、
町を歩く美しい姿に町の人は長谷川カタと三橋タカを勘違いして、夢二のオンナが通るとうわさしたといわれる。 」
その先の左手にある成田小学校の右隣の民家の前に、
「竹久夢二の叙情詩宵待ち草のヒロイン、長谷川カタの居住地跡」 の 説明板があった。
「 長谷川カタは成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で、
一家が田町に住んでいた。
夢二とカタの出会いは、明治四十三年(1910)の夏に銚子の海鹿島で過ごした時、
避暑にきていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、
その後たびたびデートをかさねたようである。
夏の終わりに夢二に手渡した宵待草には、カタの深い意味が隠されていたように思われる。
翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、
カタは作曲家の須川政太郎に嫁いて鹿児島に移っていて、
カタとの恋は儚いひと夏の夢になってしまいました。 」
このあたりには宿場の面影はなく、寂びれた感じがする商店街である。
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成田公民館 | 寺台商店街 |
その先右にカーブするところには子安観音があり、その先の三叉路を直進すると左側に成田高校がある。
ここからは寺台商店街の表示に変わるが、商店のような店は少なく、普通の住宅地である。
少し行くと左側に十四世紀末創建の古刹、曹洞宗の永興寺がある。
「 永興寺は室町時代前期の応永五年(1398)に創建された曹洞宗の寺院である。
天正十八年(1590)、秀吉の小田原攻めの際、
寺台合戦で徳川軍により敗れ討死したという寺台城主、馬場伊勢守勝政が
妻により葬られたとされる。 」
本堂の裏山に小野一刀流の開祖、小野忠明、忠常父子の五輪塔がある。
「 小野忠明(小野治郎右衛門忠明)は、小野派一刀流の開祖で、
柳生流とともに徳川将軍家の剣術指南役で、
徳川家康と二代将軍秀忠の剣術指南役を務めた。
その子の小野忠常は、三代将軍家光の剣術指南役を勤めた剣の達人である。 」
永興寺の入口の角に祠が二つ並んで建っていて、
手前の祠には大日如来石像と享保十五年十月の銘がある庚申塔が祀られ、
奥の祠には延命地蔵が祀られている。
左側に火の見櫓が見えると左側に保目神社(ほうめじんじゃ)がある。
「 保目神社の創建、由来は分らないが、市の有形文化財に指定されている懸仏がある。
千手観音像を神宝とし、毎年七月に行われる祭礼ではこの御正体を遷座した神輿ごと根木名川に入る浜降りが行われる。
寺台の地名は寺の台地に由来するが、古くは保目村と称していて、神社の古さを感じる。
本殿の彫刻は江戸時代末期の後藤市造によるものである。 」
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古刹、永興寺 | 保目神社 |
少し行くと三叉路になり、 「右国道51号 直進江戸崎、空港」の表示があるが、
その手前左側に「寺台城址」の標識がある。
民家の間の細い道に入ると、民家につきあたる直前に「寺台城址100m←」の標識があるので、細い山道を進む。
台地の鞍部で、道が左右に分かれるが、少しくぼんだ道は空堀の遺構である。
右の道を五十メートル進むと台地の縁近くに小さな祠があり、
その近くに「寺台城址」の標柱が建っている。
かってはここに物見台が築かれ、台地の南麓を走る佐原街道を見下ろす位置にあった。
「 寺台城は千葉氏の家臣、馬場氏の代々の居城だったが、
馬場伊勢守勝政が秀吉の小田原攻めの際、徳川軍の攻撃を受け、市内で討死し、
城は落城。
その後、海保甲斐守三吉が後をついたが、殺されて廃城になった。 」
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城址への細い山道 | 寺台城址の標柱 |
寺台城は、永興寺から北に続く二十メートルの高さの台地に、
堀切で四つ郭に分けた城である。
物見台の北側の郭は、農協会館の建物が建てられているために消失してしまっている。
物見台の南の郭に城の主要部の建物があったと思われるが、
笹藪で入っていけない。
その南の二つの郭の間に堀切道があり、そこを抜けると右側は畑になっていて、
奥には鷲神社があった。
左側は藪化して入っていけなかった。
寺台城の形状の確認はできなかったが、
関東地方に多い連郭式の縄張りを持った城であることだけは分った。
元来た道に戻る。
「寺台城址100m←」 の標識がある三叉路には 「↑江戸崎空港 51号→」 の標識があり、右折すると根木名川がある。
「
上宿の東側を流れる根木名川には寺台河岸があり、
銚子、江戸方面との舟運で発展した。
寺台河岸には三つの河岸があり、ここにあったのは黒川河岸で、
下流に山小河岸と山六河岸があった。
成田への舟での参拝客はここで舟を降り、寺台宿の東参道を通り、新勝寺に向った。 」
このあたりは寺台宿の上宿だが、成田街道はここが終点である。
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鷲神社 | 三叉路 |