佐原香取街道 

成田街道の終点は寺台宿で、佐原香取街道の起点でもあった。 
香取神宮、息栖神社、鹿島神宮は東国三社と呼ばれ、 関東以北の人が伊勢参宮の後、禊の下三宮巡りを参拝したと伝わり、 また、江戸時代の利根川の改修で船便が発達し、江戸の人の東国三社詣でが流行した。 
松尾芭蕉も鹿島詣でに出かけている。 



寺台宿

成田山の南山麓をぬって右の方へ東参道を進むと、江戸時代には寺台宿があった。 

「  寺台宿は成田街道の終点であるとともに佐原街道の起点でもあり、 成田側より、下宿、中宿、上宿で構成されていた。  」

下宿は、現在の田町商店街のあたりであるが、 宿場の面影はなく、寂びれた感じがする商店街である。 
ここには成田公民館や成田山新勝寺が経営する成田高校がある。 
竹久夢二と竹久夢二の叙情詩「宵待ち草」のヒロインとの 逸話が残っている。

「 竹久夢二の叙情詩宵待ち草のヒロイン、長谷川カタは 成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で、一家が田町に住んでいた。 
夢二とカタの出会いは明治四十三年(1910)の夏に銚子の海鹿島で過ごした時、 避暑にきていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、 その後たびたびデートをかさねたようである。 
夏の終わりに夢二に手渡した宵待草にはカタの深い意味が隠されていたように思われる。 
翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、カタは作曲家の須川政太郎に嫁いて、 鹿児島に移っていて、カタとの恋は儚いひと夏の夢になってしまいました。 」 

その先右にカーブするところには子安観音があり、その先の三叉路を直進すると左側に ここからは寺台商店街の表示に変わるが、商店のような店は少なく、普通の住宅地になっていた。 

成田公民館
     寺台商店街
成田公民館寺台商店街


少し行くと左側に十四世紀末創建の古刹、曹洞宗の永興寺がある。 

「  永興寺は室町時代前期の応永五年(1398)に創建された曹洞宗の寺院である。 
天正十八年(1590)、秀吉の小田原攻めの際、 寺台合戦で徳川軍により敗れ討死したという寺台城主、馬場伊勢守勝政が 妻により葬られた、とされる。 
本堂の裏山に小野一刀流の開祖、小野忠明、忠常父子の五輪塔がある。 
小野忠明(小野治郎右衛門忠明)は、小野派一刀流の開祖で、 柳生流とともに徳川将軍家の剣術指南役で、 徳川家康と二代将軍秀忠の剣術指南役を務めた。 
その子の小野忠常は三代将軍家光の剣術指南役を勤めた剣の達人である。 」

永興寺の入口の角に祠が二つ並んで建っていて、 手前の祠には大日如来石像と享保十五年十月の銘がある庚申塔が祀られ、 奥の祠には延命地蔵が祀られている。 

左側に火の見櫓が見えると左側に保目神社がある。 
本殿の彫刻は江戸時代末期の後藤市造によるものである。

「  保目(ほうめ)神社の創建、由来は分らないが、市の有形文化財に指定されている懸仏がある。 
千手観音像を神宝とし、毎年七月に行われる祭礼ではこの御正体を遷座した神輿ごと根木名川に入る浜降りが行われる。 
寺台の地名は寺の台地に由来するが、古くは保目村と称していて、神社の古さを感じる。 

永興寺
     保目神社
古刹、永興寺保目神社


少し行くと三叉路になり、 「右国道51号 直進江戸崎、空港」の表示があるが、 その手前左側に「寺台城址」の標識がある。 
ここを入って行くと、「寺台城址」の標柱が建っている。

「 寺台城は千葉氏の家臣、馬場氏の代々の居城だったが、馬場伊勢守勝政が秀吉の小田原攻めの際、徳川軍の攻撃を受け、市内で討死し、城は落城。 
その後、海保甲斐守三吉が後をついたが、殺されて廃城になった。 
寺台城は永興寺から北に続く二十メートルの高さの台地に堀切で四つ郭に分けた城で、 関東地方に多い連郭式の縄張りを持った城である。 
今は郭の一部が消失したり、笹藪の中に没しているが、土塁で造られた関東の城の面影は残っている。 」

三叉路には、「↑江戸崎空港 51号→」の標識があり、右折すると根木名川がある。

「  江戸時代も中期以降になると、庶民も豊かになり、遠くへ出かけるようになった。
大山詣でや秩父巡礼などと共に人気であったのが、鹿島、香取神宮と成田をセットにした旅行である。  」

その時に利用されたのが舟運である。
江戸から舟で行徳まできて、木下街道を歩き、木下に出て、利根川を下り、佐倉から 香取神宮や鹿島神宮へ、また、寺台河岸から成田山にお参りが出来た。   江戸から舟を利用できたことも成田山が人気になった要因の一つであろう。

「 上宿の東側を流れる根木名川には寺台河岸があり、 銚子、江戸方面との舟運で発展した。 
寺台河岸には三つの河岸があり、ここにあったのは黒川河岸で、 下流に山小河岸と山六河岸があった。 
成田への舟での参拝客はここで舟を降り、 寺台宿の東参道を通り、新勝寺に向った。  」

このあたりは寺台宿の上宿だが、成田街道はここが終点である。 


寺台城址の標柱
     三叉路
寺台城址の標柱三叉路





佐原街道

江戸時代、この三叉路を右に折れ、吾妻橋で根木名川をわたり、国道51号線で北上するのが佐原街道である。
佐原からは香取神社に詣でるのは香取街道、さらに東に銚子に向かうのは銚子街道だった。 

「  成田街道は江戸から船橋、佐倉、成田山を結ぶ街道だったが、 この先にある香取神宮や銚子、潮来、鹿島神宮に向う旅人にとっても交通の要所だったのである。 」

吾妻橋を渡ると国道51号線の寺台交叉点となるが、 佐原街道は寺台交叉点で国道51号に入り、それに沿ってすすむ。 

成田スカイアクセス線の下をくぐり、野毛平工業団地前を過ぎると、 十余三地区に入る。 

「  十余三(とよみ)地区は江戸幕府が船橋以東に展開していた馬牧場の一つで、 明治維新により発生した幕府の下級武士の失業対策として開墾されたところである。 
その際、初富、二和。三咲、豊四季、五香、六実、七街、・・・と縁起の良い数字の名前が付けられた。  」

東小学校交叉点の右側電柱の下に「西 野毛平成田道」「東長田掘之内道」の道標がある。 

「  香取神社は成田空港の建設により移転したものである。 
東雲の丘からは空港へ着陸する飛行機を見ることができる。 」

十余三トンネルから圏央道をくぐると稲荷神社がある。
吉岡十字路を過ぎると国道と別れ、左に入ると左側に大慈恩寺がある。 

「 大慈恩寺は鑑真の開基で、 鎌倉時代以降は千葉氏一族の大須賀氏の保護を受け、繁栄した。 
御小松天皇より明徳二年(1391)に大の字を賜り、大慈恩寺と称するようになったという。 」

八坂神社、愛宕神社があり、 昭栄郵便局あたりは吉岡宿を感じさせるような長屋門がある。 
吉岡宿並交叉点で国道に戻りすすむと成田市大栄支所がある。 

「 合併前の大栄町役場があったところだが、 このあたりに大須賀氏の居城、馬洗城があった。 
旧道は城の縁を廻っていたという。 」

伊能地区は伊能忠敬の養子先の佐原伊能氏の祖地である。 

「  戦国時代には大須賀氏に属していたが、後に帰農した。 
大須賀神社には伊能歌舞伎が奉納される。 」

長興寺院山門、熊野神社を過ぎると香取市に入る。 
鳥羽中央バス停手前左側に二十三夜塔と 「左なりたみち 右たこみち」と刻まれた地蔵像が祀られている。 

与倉入口バス停を過ぎた信号交叉点で、国道を別れ、右の旧道に入る。 
電子工業バス停手前右側に元禄十四年(1701)建立の雷神社がある。 

橋替バス停の先で左に大きくカーブする道を進むが、道幅が狭くなる。 
このあたりから江戸時代には佐原宿だったのだろう。 

上宿台バス停を過ぎると下り坂で、坂の途中の右側に観音堂がある。 
上宿バス停の左手にある法界寺は天正十一年(1583)に創建された寺である。
本堂は享保年間に建立されたもので、  徳川将軍家歴代の位牌が祀られている。 
法界寺の北には諏訪神社や伊能忠敬の銅像がある。 

「 諏訪神社は佐原を南北に流れる小野川の西側の 新宿の鎮守である。 」

旧道を進むと中宿、中央商店街、その先で伊能記念館西入口交叉点に出る。 

吾妻橋
     伊能記念館
吾妻橋伊能忠敬記念館


伊能忠敬記念館と小野川をはさんで建つ伊能忠敬旧宅との間には 樋橋(とよはし)、通称ジャージャー橋が架かっている。

「 もとは灌漑用水を渡すための樋の橋だった。 
樋からあふれた水が川にジャージャー落ちたことから、その名が付いた。 
樋橋から流れ落ちる水の音は「残したい”日本の音風景100選”」に選定されている。 」

伊能忠敬旧宅内には灌漑用水跡があるが、ここを流れて樋橋を渡っていた。 

「  伊能忠敬旧宅は、 伊能忠敬(1745〜1818)が十七歳から五十歳まで三十年余りを過ごした家で、 醸造業などを営んでいた伊能家の土蔵造りの店舗のほか、 炊事場、書院、土蔵が残っていて、国の史跡に指定されている。 
伊能家は佐原の有力な商家の一つで、酒造業や米穀売買業などを営んでいたが、 宝暦十二年(1762)に忠敬は伊能家に婿養子に入り、 寛政七年(1795)に江戸に出るまでこの家に住んでいた。 
伊能忠敬旧宅は、平屋造の瓦葺で、母屋は玄関、書斎、納戸などの五部屋、 建坪は二十四坪で、店舖は店および居間などがあって建坪三十二坪である。 
店舗と正門は忠敬が来る前に建てられ、書院は忠敬が設計したと伝えられる。 」

樋橋
     伊能忠敬旧宅
樋橋伊能忠敬旧宅


旧宅の南側の奥にある土蔵は、観音開きの戸が広まる以前の引き戸形式の戸を持つ古い様式を残していて、かつては忠敬の遺品の多くが納められていたという。  

小野川に面した旧宅の正面には「だし」と呼ばれる荷揚げ場があり、 今は観光船の乗り場になっている。 

利根川図志(1855)には 
「 佐原は下利根附第一繁昌地なり。  村の中程に川有りて、新宿と本宿の間に橋を架す。  米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、 両岸の狭さをうらみ、蔵に水陸往復の群衆、昼夜止む暇ない。 」 
と、佐原の賑わいを伝えている。 

土蔵
     荷揚げ場跡
土蔵荷揚げ場跡


江戸時代の佐原は小江戸と呼ばれ、忠敬橋の東は本宿、西は新宿だった。
この周辺の町並には県有形文化財のそば屋を営む 小堀屋本店や正文堂書店を始め、土蔵造りの古い商家があり、国の重要建造物保存地区になっている。 

江戸時代の特徴を残す結果、どの道も道幅が狭く、一方通行になっているので、 車を使用しないで、駐車場に車を停めて、歩く方が良い。

小野川の共栄橋を過ぎると川の向うにある建物はいかだ焼と焼き蛤を扱う正上である。 

「  天保三年(1832)の建築で、寛政十二年(1800)から醤油製造、 戦後は佃煮の製造、販売を主となった。 
明治初年に建築された袖蔵を含め、建物のほどんどが建築当時のままという。 」

忠敬橋の西側
     正上
忠敬橋の西側(右奥正文堂、小堀屋本店)佃煮の製造、販売の正上





香取神宮(かとりじんぐう)

忠敬橋の道を東に向って進むと左に八坂神社と山車会館があり、  更に進むと香取神宮の門前町で駐車場がある。 

「香取神宮の社伝」
「 香取神宮は、千葉県北東部、 利根川下流右岸の亀甲山(かめがせやま)と称される丘陵上に鎮座する下総国の一の宮で、関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社である。 
初代神武天皇十八年の創建と伝える全国でも有数の古社で、 日本神話の大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(ふつぬし)を祭神とする神社である。  神護景雲二年(768)、藤原氏の氏社として奈良に春日大社が創建されたが、 その際、祭神の経津主神が春日大社へ勧請され、第二殿に祀られた。  延長五年(927)編纂の延喜式神名帳には下総国香取郡に「香取神宮 名神大 月次新嘗」と記載され、式内社(名神大社)に列している。  中世以降も、武神として神威は維持され、 源頼朝、足利尊氏の寄進に見られるように武将からも信仰された。 」

表参道は、慶長十二年(1617)に徳川幕府により造営された社殿がある忍男神社(おしおじんじゃ)を通り、神宮踏切を渡り、董橋から香取交叉点に出て、ここに至る道である。 

JR成田線香取駅の北西にある利根川の津宮河岸には、 香取神宮の一の鳥居(浜鳥居)と常夜燈がある。
与謝野晶子の歌碑には 「 かきつばた 香取の神の  津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋 」 とあり、その当時は河岸に接続し、 旅館もあったようである。 
董橋には道標の道祖神があり、「南かと理 西鳥居可し 東中かし」 とある。
船旅の参拝者は佐原には寄らず、直接、津宮河岸か鳥居河岸か中河岸から、 参拝していたようである。 

それが確認できるのは江戸時代の名所図会である。

「 神崎より船にのりていくと、利根川の幅広く、 すべて七八町もあるべきように見えて、 所々に洲崎ありて、あし、まこもも生ひ茂る。 
鎌洲の岸に着くと、香取の鳥居の霧の間からほのかに見える。 
湖水に従って船をやるに、混々として昼夜をすてず。  たうたうとしてゆいてとどまる事なし。 
神崎から四里五里もいくほどに香取の鳥居に着く。 」 とある。

江戸時代の成田山の参拝者の多くは寺台河岸で船にのり、 津宮河岸か鳥居河岸か中河岸から表参道を通ってここに来たようである。 

香取門前町
     二の鳥居
香取門前町二の鳥居


江戸時代の名所図会には、
「 香取大神宮は大禰宜を香取上総介、少判官を緒方弾正と云う。 
社地広くして常に詣人多く、門前の商人、茶屋軒をならべ、また旅宿も多し。 
夏秋の頃は芝居相撲ありて、この所賑ひとなれり。  まづは当国の大社のして、これにつづく宮居もなし。 」 
とあり、関東に入った徳川家康は、天正十九年(1591)に千石を朱印地として与え、 江戸幕府を開いた後の慶長十二年(1607)に大造営を行っている。 

楼門は元禄十三年(1700)、五代将軍、徳川綱吉の命により造営されたものである。

「 三間一戸の入母屋造で、屋根はとちぶき(現在は銅板葺)の純和様の様式で、壁や柱は丹塗で、楼上の額は東郷平八郎の筆である。 
また、楼門内の随身像は正面向かって右像は武内宿禰、左像は藤原鎌足と伝えられている。 」

拝殿は昭和十一年(1936)から昭和十五年(1940)の大修築に際して造営されたもので、木造平屋建てで、檜皮葺である。 

「  拝殿正面の上に千鳥破風に唐破風を重ねた屋根をのせ、 これまでの拝殿(旧拝殿)は丹塗だったが、 この造営において足元から頭貫下端までの軸部には黒漆塗、組物と蟇股には極彩色が施され、本殿に釣り合った体裁に改められた。 」

楼門
     拝殿
楼門拝殿


拝殿の奥には幣殿と本殿があり、それらが連なった権現造である。 

「  本殿は元禄十三年(1700)に五代将軍、徳川綱吉の命により造営された三間社流造、 檜皮葺の建物で、桃山様式が各部に見られるが、 慶長期の手法も取り入れられている社殿としては最大級の建物である。 
壁や柱は黒漆塗で、黒を基調とした特徴的な外観で、屋根は現在檜皮葺であるが、 かつては柿葺であったとされる。 」

拝殿の右手奥にある祈祷殿は、元禄十三年(1700)の造営された旧拝殿である。

「  昭和十一年(1936)から昭和十五年(1940)の大修築の際、南東に移築され、昭和五十九年(1984)に現在地移された。 
間口五間、奥行三間、入母屋造の建物で、壁や柱は丹塗で、 屋根は当初は栩葺(とちぶき)だったが、昭和四十年(1965)に銅板葺に改められた。
拝殿としては比較的大規模なもので、彫刻等の随所に造営時の様式が残っている。 」

昭和の大修築では拝殿の左手にある神饌所も造営された。 
上記のうち本殿と楼門は国の重要文化財に、祈祷殿は千葉県指定文化財に指定、 現拝殿は国の登録有形文化財に登録されている。 

本殿と幣殿
     祈祷殿
本殿と幣殿祈祷殿





鹿島神宮

江戸時代、松尾芭蕉は舟で行徳に行き、そこから木下街道(きおろし街道)で、 八幡、釜ヶ谷、白井、木下まで歩き、木下から舟で利根川を下り、 神崎、香取、息栖(いきす)を経て、鹿島に至り、鹿島神宮を御参りしている。 

江戸時代の名所図会には 

「 香取神宮より津の宮の船場に行きて又船に乗じて、 風に吹かれて漕ぎ行くほどに、はるか向うの波間にちひさき鳥居見えたり。  これなん息栖の社と云う。 
息栖より鹿島まで舟路三里である。 息栖より又船を浮かべて鹿島にこころざす。 
川の幅次第に広くしてなお行くに、白浪天に浮かぶ。 この入海は箕浦江といい、銚子口ともいい、大洋の海口なり。  」 

とあり、香取神宮を御詣後、舟で息栖神社と鹿島神宮を御参りした。  

「  茨城県神栖市息栖に鎮座する息栖神社は、香取神宮、鹿島神宮とともに、 東国三社と呼ばれ、 関東以北の人が伊勢参宮の後、禊の下三宮巡りを参拝したと伝わり、 江戸時代の利根川の改修で船便が発達し、江戸の人の東国三社詣でが流行した。 」

鹿島神宮の鎮座する地は三笠山(みかさやま)と称され、 境内は日本の歴史上重要な遺跡として、国の史跡に指定されている。 
境内入口にある大鳥居は、四本の杉を用い、 高さが約十メートル、幅が約十五メートルである。 

「  元々は笠間市産の御影石を用いた石鳥居だったが、 平成二十三年の東日本大震災で倒壊し、 神宮境内の杉の巨木を伐り出して再建されたものである。 
大鳥居は二本の円柱の上に丸太状の笠木を載せ、 貫のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、 この形式は「鹿島鳥居」と称されている。 」

境内の参道には西面して楼門がある。

「 この楼門は日本三大楼門の一つというもので、 寛永十一年(1634)、水戸藩初代藩主、徳川頼房の命による造営である。 
三間一戸、入母屋造の二階建て、屋根は元は檜皮葺(現在は銅板葺)である。 
総朱漆塗りであるが、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠。
扁額の鹿島鳥居の文字は東郷平八郎の書である。 
楼門左右の回廊は楼門と同時の作であるが、のちに札所が増設されている。 
楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財である。 」

鳥居
     楼門
鹿島神宮鳥居楼門


楼門を入ると参道は真っ直ぐ東へと伸びる。

「 鹿島神宮の祭神は武甕槌大神である。 
神代の昔、天照大御神の命を受けて、 香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、 大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に貢献した神である。 
神武天皇が東征の途中、思わぬ窮地に陥ったが、 武甕槌大神のご霊剣の神威により救われた。 
この神恩に感謝された天皇は、即位の皇紀元年に大神をこの地に勅祭された、 と伝えられている古社である。 
古代の香取神宮と鹿島神宮は蝦夷の入口という地形的に重要な地に鎮座し、 古代の関東東部は、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)、印旛沼、手賀沼を含む一帯に、 「香取海」という内海が広がっていて、  この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られている。 
また、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。 
鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。 」

鳥居の先に社殿(拝殿、幣殿、石の間、本殿)が、右に伸びた形式で建てられている。
社殿が北面しているのは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる。 

「  社殿は、拝殿の後方に幣殿、本殿と幣殿の間を石の間と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。 
いずれも江戸時代初期の元和五年(1619)、 江戸幕府第二代徳川秀忠の命による造営で、幕府棟梁の鈴木長次の手による。 
拝殿は桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。 
幣殿は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する。 
幣殿と拝殿は本殿や石の間と異なり、漆や極彩色がなく、 白木のままの簡素な意匠である。  
石の間は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は幣殿に接続する。 
本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている。 
本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺で、前面は石の間に接続する。 
漆塗りで柱頭や組物等に極彩色が施されている。 
本殿は北面だが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって、 参拝者とは相対せず東を向いている。 
これらの建物は国の重要文化財に指定されている。 」

本殿の背後の杉のご神木は、樹高四十三メートル、根回り十二メートルで、 樹齢約千年といわれる。 
その後方の玉垣を介した位置に直径八十センチメートルの鏡石(かがみいし)があるが、 「神宮創祀の地」とも伝えられている。 

拝殿
     幣殿、石の間、本殿
鳥居の先は拝殿(左奥に向って)幣殿、石の間、本殿


参道の左に少し入った右側にあるのは国の重要文化財である仮殿(かりどの)である。 

「  仮殿は、元和五年(1619)に現在の本殿が造営される際、 一時的に神霊を安置するために使用された社殿で、 権殿とも記され、本殿同様、幕府棟梁の鈴木長次の手によって建てられたものである。 
桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺で、 仮殿であるため比較的簡素な作りであるが、 一部には漆彩色が施されている。 
なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、 その後何回も移転し、昭和二十六年(195)に、 拝殿の右前方に南面した現在の位置になった。 」

社殿を過ぎると神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、 鬱蒼とした樹林の中を歩くことになる。 
境内の広さは約七十ヘクタールで、 そのうち約四十ヘクタールは鬱蒼とした樹叢というからうなずける。 

仮殿
     樹林
仮殿鬱蒼とした樹林


参道から左に入ったところに「神鹿苑」がある。 

「  古くから鹿は鹿島神宮の御祭神、武甕槌大神の使いであると言われてきた。 
これは国譲りの神話で、天照大御神の御命令を伝えに来たのが鹿の神霊であるとされる天迦久神(あめのかくのかみ)であったことによる。  奈良に春日大社が創建された際、鹿島神宮の御分霊を神鹿の背で運ばれたことから、 奈良の神鹿の起源は鹿島神宮と伝えられる。 
なお、神鹿苑の鹿は昭和三十二年に奈良と神田神社から迎えられたものという。 」

河合曽良はここを詣でした時、 「 ひざ折るや かしこまり鳴く 鹿の声 」 と詠んでいる。 

その先に「親鸞上人旧蹟跡」の立て札がある。

「 かって、鹿苑を中心とした一角の土堤内には鹿島山金蓮院神宮寺、 降魔山護国院があったが、廃仏毀釈で姿を消している。 
鹿島には貴重な書籍や経典などがあったようで、 親鸞上人がしばしば訪れたと伝えられている。 」

更に奥に進むと、右側に奥宮(おくのみや)がある。 

「  奥宮は本宮本殿同様、北面して鎮座する境内摂社で、祭神は武甕槌大神荒魂である。 
「吾妻鏡」に仁治二年(1241)の火災で、「 不開御殿奥御殿等は焼かず 」という記録があり、 不開御殿(あかずのごてん)は本殿、奥御殿は奥宮を指すとして、 鎌倉時代にはすでに奥宮が存在したと見られている。 
現在の社殿は、江戸時代初期の慶長十年(1605)に徳川家康により、 関ヶ原戦勝時の御礼として建てられた本殿を 元和五年(1619)徳川秀忠により社殿が造替された際、 現在地に移され、奥宮本殿となった。 
三間社流造で一間の向拝を付するが、 のちの修理の際に現本殿に倣って改造が施されたようである。 
総白木作りの簡素な意匠だが、彫刻には桃山時代の大胆な気風も見える。 
境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されている。 」

神鹿苑
     奥宮
神鹿苑奥宮(おくのみや)


近くにBS時代劇「塚原ト伝」撮影ロケ地の看板があった。 

「  塚原ト伝(つかはらぼくでん)は、鹿島神宮の神官、卜部吉川座主の二男朝孝として常陸国鹿島に生まれ、 五〜六歳の頃、塚原安幹の養子となり、 実父の吉川覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、 義父の安幹からは天真正伝香取神道流を学び、鹿島新当流を開いたという人物である。  
永正二年(1505)に元服して新右衛門高幹と名を改め、第一回廻国修行に出発し、 翌年京都清水で初の真剣勝負し、 各地を転々とし、永正十五年(1518)頃帰国したが、この頃から卜伝と号した。 
大永三年(1523)から第二回廻国修行にでていたが、天文元年(1532)に帰国し、 翌天文二年(1533)に塚原城主となり、四十五歳で妻を娶る。 
なお、塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家で、土佐守、または土佐入道とも称し。  卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)に由来とする。 
弘治三年(1557)に城主を養子幹重に譲り、第三回廻国修行に出発し、 永禄四年(1561)には伊勢多芸御殿で北畠具教に指導、 秘伝一之太刀(ひとつのたち)を授ける。 
永禄七年(1564)伊勢より信州、甲斐を訪れ、 永禄九年(1566)上野、下野、江戸崎を経て、帰国。 
元亀二年(1571)亨年八十三歳で死去。 
その戦績は「 十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。  真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、 切疵、突疵を一ヶ所も被らず。  矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具にあたることなし。  凡そ仕合、軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り 」 と伝えられ、 後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。 」

その先に「大大神楽講中」の道標があり、その前の案内板には左は御手洗池、 右は「要石」とある。 

「  要石は地震を起こすとされる鯰を石で押さえているとされるもので、 御手洗池はかっては神宮を御参りする人々が身を清めたところである。 」

以上で、佐倉街道・香取道・鹿島道は終わる。

ロケ地の看板
     道標
塚原ト伝ロケ地の看板大大神楽講中の道標




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かうんたぁ。