東海道の脇往還 美濃路(美濃街道)を歩く

美濃路(みのじ)は、江戸時代、東海道の宮宿と中山道の垂井宿とを結んだ脇往還である。 関ヶ原の戦いにおいて、 東軍の福島正則が起(おこし)から美濃へ進軍し、また、戦いに勝った徳川家康が凱旋した道なので、吉例街道とも呼ばれ た。 海難の恐れもないことから、将軍の上洛や朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中、大名行列などにも使われた公用道 である。 美濃路は、東海道の宮宿を起点に、名古屋、清須と行き、四谷追分で岐阜道(御鮨街道)と分かれ、起(おこし) で木曽川を渡り、墨俣から大垣を経由して垂井で中山道と合流する脇街道で、十四里二十四町十五間(約58km)の距離だ った。 






熱田(宮の宿)から名古屋宿


平成二十年(2008)十一月六日、地下鉄伝馬町駅を中京銀行のある方の出口へ出て、大通りを南に向かい、最初の道の入口に伝馬町 商店街のポールが建ち、その上に東海道と書かれているが、この道が江戸時代の東海道である。  左側に和菓子の亀屋芳広がある商店街を進むと、突き当たりに愛知県警自動車警ら隊の建物があるが、その前に、ほうろく地蔵が祀られている小さなお堂がある。  お堂の前にある由来書によると、
「 ほうろく地蔵は、三河国の重原村(現在の知立市)の野原の中に倒れ、捨て石のようになっていた。  焙烙を売りに尾張に出かけようとしていた三河商人は石仏を見つけて、荷物の片方の重しにして運んできたが、焙烙が売り切れると、 石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまった。 地元の人が、捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしたが動かない。  調べると、下の土の中から台座が出てきた。 そこで、地蔵を台座に乗せ、ここに祀ることにした。 」  というもので、現在はほうろく地蔵堂の中に祀られている (写真左下)
三叉路の左手前(東南隅)の民家の一角には、寛政弐年(1790)に建てられた道標が建っている。  刻まれている字は、一部消えかけているが、隣の案内板の説明では、北 の下に、「 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁 道 」、  西 には、「 東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」 、東には、「 北 さやつしま 同みのち 道 」と刻まれているようで、京いせ七里の渡しとあるのは東海道を示す(写真中央)
東海道を江戸方面から旅してきた人は、宮宿から桑名までは七里の渡しで渡るのが通例だったが、 船に弱い人や天候不順により欠航になったような場合は、佐屋街道を利用して、佐屋から河船による三里の渡しで 桑名に向かった。 なお、この道を南に向かうと、七里の渡し跡に造られた七里の渡し公園へ行ける(写真右下) 
小生は、七里の渡しを再現したツアーに参加して、船旅を経験したが、無風に近い天候でも、三十人乗りの船が結構揺れ た。 当時の船はもっと小さかったと思うので、ゆったりした船旅とはいえなかったのではないか? 
道標にある、 北 さやつしま 同みのち 道 は、佐屋街道のことで、みのちは、美濃路、美濃街道のことである。 船はどうしても嫌という人達に利用されたのは美濃路である。  美濃路は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が利用したことから吉例街道とも呼ばれるが、東海道のここを追分として、垂井宿の追分で中山道に通じる道である。 

ほうろく地蔵堂 道標 七里の渡し公園
 

今回の旅は、東海道と佐屋街道・美濃路が分かれる、この追分が出発点であるが、前回東海道の宮宿訪問で行けなかったところに立ち寄る。  
東海道を南に行き、熱田神宮南の歩道橋を上り、国道247号を横切った先に、円福寺があった(左下) 
「 円福寺は、足利将軍家とゆかりがある寺で、最澄が熱田神宮参詣の際に毘沙門天像を安置したのが始まり、と伝えられる。  江戸時代の初期に寺が火災で焼けた際、再建費用を捻出するために、江戸から右近源左衛門を呼んで、本格的な歌舞伎を催し、成功を収めた。  明暦三年1657)には、芝居の興行権を与えられるまでになったが、やがて芝居の中心地は、熱田から城下町名古屋へと移っていった。  」 
その南の蓬莱茶屋付近に、宮宿の赤本陣や陣屋があったのだが、その跡の表示はなかった。  南西方向に斜めに入る道があり、入ったところの民家に挟まれた一角は、平安末期の猛将で悪七兵衛と呼ばれた平景清の隠れ家だったとされる場所だが、 そこには小さな祠の景清社(下中央)がひっそり建っていた。 
「 平家が滅亡すると、平景清は縁者を頼って熱田に逃れてきて、隠れ住んだ。  景清が両目を失明してしまったが、謡曲の景清では、景清が失明すると、遊女との間に生まれた娘が遊里に身を売って、父を看病した、とあるが、景清の死後、地域の人は、景清社を祀り、眼病の神としてあがめた。 」
聖徳寺は、江戸初期、宮の渡しの常夜燈を管理していた、という。 本尊は阿弥陀如来像であるが、 漁夫の網にかかって上がったという聖徳太子孝養像は、鎌倉時代の作で、県指定文化財である。 また、等覚院の前には、多くの石仏が祀られていた (右下ー聖徳寺) 

円福寺 景清社 聖徳寺  

大瀬子公園に隣接する秋葉神社の前に、熱田魚市場跡の案内板があった (左下)
 「 天正年間(1573〜)にはすでに魚問屋があり、織田信長の居城、清洲にも日々魚介類を運んだといわれる。  寛永年間(1624〜) 、尾張藩政のもとに木之免、大瀬子に4戸ずつ問屋ができ、市場が開設された。   熱田は伊勢湾に面しており、魚の供給地として 四百年の伝統があり、江戸期には、多いときには仲買や小座は数千人に達した。 」 と、 その生い立ちが書かれてあった。 
道路の反対側に、古い建物があり、落ち葉を掃いておられるご婦人がいたので、  「 建物は古そうですが、何時建てられたものですか? 」 と聞いた。 すると、  「 明治初期に建てたもので、百年は経っています。 昔は、魚問屋を営んでいました。  建物はしっかりしているのですが、若い人に人気がなくてね!! 」 と、 答えられた。 名古屋市のホームページにあった旧問屋村瀬家はこの家だろうか?(中央)  
東海道を歩いた時、宮宿の寄れなかった所を探訪できたので、先程の道標まで戻り、美濃路を歩き始める。 
街道は残っていないので、熱田神宮南交差点から伏見通りの標識(右)がある国道19号を北上する。  その先には、ここが起点、国道19号、国道22号と書かれた標識があり、長野と岐阜までのキロ数が記させていた。 美濃路は、将軍を始め、大名、そして、朝鮮通信使などが利用したので、五街道をつなぐ脇往還として、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の七つの宿場が設けられた。 

秋葉神社 旧魚問屋 伏見通

右手にある森は熱田の森で、その奥に熱田神宮(左下)がある。 
 「 熱田神宮は、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造の娘、宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ残した。  日本武尊が能褒野で亡くなった後、宮簀媛命は熱田に社地を定め、その剣を奉斉鎮守したのが始まりと言われる。  宮宿の名は、ここから生じたが、今でも鬱蒼たる社叢や広大な神域を持ち、荘厳な雰囲気が漂っている。  」 
美濃路は、国道19号線より南にあったと思われるので、白鳥小学校の南の道を入ると、交差点の角に、 熱田神宮摂社で白鳥地区の鎮守の青衾神社(中央)があった。 境内には垣に囲まれた社殿があったが、桜の葉が紅葉してきれい だった。 
成福寺(右下)の門前案内によると、  「 文化十年(1813)、嵐のため遭難し、十七ヶ月間太平洋を漂流し、英国船に救助され、奇跡的に生還した督乗丸の船頭重吉が異国で亡くなった乗組員の供養のため、船の形をした供養碑を笠寺観音前に建てたが、 嘉永六年(1853)、成福寺の住職が船頭重吉の建てた供養碑を譲り受け、境内に移した。 」 とある。 
少し奥にある本遠寺の入口には、名古屋市教育委員会の案内板があり、「 本遠寺日蓮宗の寺で、永禄十年(1567)に連歌師里村紹巴が当寺に宿泊し、連歌会を催した。  国宝の室町時代の楼門があったが、昭和二十年の空襲により焼失した。 」 、とあった。 
 

熱田神宮 青衾神社 成福寺

国道に戻り、道を進むと山善ビルの手前に、葵の紋のある門(左下)があり、右大将頼朝公誕生旧地の石柱と案内板が建ち、  「 この地は、熱田神宮大宮司の別邸があったところで、久安三年(1147)、藤原季範の娘、由良御前はこの別邸で源義朝の第三子、頼朝を出生したといわれる。  享禄二年(1529)に妙光尼日秀(善光上人)により、誓願寺が建てられた。 」 と、あり、奥まったところにある寺の境内には、 頼朝産湯の池、頼朝誕生地の碑が建っている。 なお、奈良時代には国造尾張氏が熱田神宮の大宮司を務めていたが、中央の貴族の力が強くなって、 平安末期には藤原氏が大宮司を務めるようになっていた。 
旗屋町交差点を越えると、国道からまた左の道に入る。 その先の奥まったところに、白鳥山法持寺が見えた。  その奥の白鳥公園の一角に、白鳥古墳がある。  白鳥御陵の名で、鳥居と石柵に囲まれ、立ち入り禁止になっているが、日本武尊(倭建命)の墓と伝えられるところだが、そこには寄らないで、国道に戻り進む。  すると、樹木に包まれた小山が左手にあり、右に回って行くと、国道脇に駐車場があり、熱田神宮公園とある。  この大きな小山は、全長151m、前部の巾116m、後円部の直径80mの前方後円墳の断夫山古墳(中央)である。   すっかり樹木に覆われ、上ることもできないが、前方で16m、後方で13mの高さがあるといい、 美夜受比売(宮簀媛命)の墓と伝えられるが、その真偽のほどはともかく、六世紀の初め、尾張地方の南部に勢力をもった尾張氏により造られたものである。 
国道を歩いて行くと、左側に立派な塀と建物があり、誰の屋敷かと思ったが、青大悲寺(せいたいひじ)という寺だった。  青大悲寺は、この地に生まれた、きののいう女性が、享和二年(1802)に開基した新興宗教の如来教の本山である。  幕末には天理教や大本教なども生まれたが、それよりかなり早い。 如来教は尾張藩士にも浸透したため、 尾張藩から弾劾を受けたようで、一時、廃止に追い込まれたが、明治になって復活した。  御教様と呼ばれる、名古屋弁そのままの書き写しの説法四部が残されている、という。 
国道に面して建っている地蔵堂(右)には、鋳造された等身大の鋳鉄地蔵菩薩立像が祀られている。  断夫山の北側にあった熱田の共同墓地の地蔵堂に三体あったものの一つで、享禄四年(1531)の銘がある。 

右大将頼朝公誕生旧地の石柱 断夫山古墳 青大悲寺地蔵堂

西高蔵、新尾頭2交差点を過ぎると、左側に商工中金があり、その先の道路の脇に、熱田神宮第一神門址の石柱が建っていた。  新尾頭交差点で八熊通りを越えると、右手に金山総合駅が見えてくる。  金山新橋南交差点の左手前の角(南西角)に建っているのが、佐屋街道の道標である (下写真)
佐屋街道は、海路の七里の渡しを避けた旅人が利用した道であるが、道標は、文化四年(1821)に、佐屋街道の旅籠仲間が、 佐屋街道の追分に建てたもので、「 東 右 なごや 木曽海道 」「 西 右 宮海道 左 なこや道 」「 南 左 佐屋海道 津しま道 」 「 北 文政辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中 」 と刻まれている。 
戦災に遭い破損し修理されたので、少し痛々しいが・・・・

佐屋道道標

(ご参考) 佐屋街道については、佐屋街道 をご覧ください。

交差点をすぎると、JRと名鉄を跨ぐ陸橋を渡る。  九丁堀交差点を過ぎ、古渡バス停のあるところで、歩道橋を渡り、国道の右側に出る。  名古屋高速の高架橋がある古渡交差点のところまでくると、卯建があがった古い家(左下)があったが、戦災を免れた建物なのだろうか? 
交差点を渡り、右手に行くと、真宗大谷派名古屋別院、通称東別院の山門(中央)がある。 案内板には、
 「 東別院は、本願寺十六世 一如上人が、元禄三年(1690)、尾張藩第二代藩主徳川光友から古渡城跡の土地の寄進を受け、本願念仏の教えを伝える道場として、堂宇を建設したことに始まる。  昭和二十年(1945)三月の名古屋大空襲により、 ほとんどの建物が焼失したが、昭和三十七年(1962)に現在の巨大なコンクリート造りの本堂を再建した。  境内の左手にある鐘楼の梵鐘は、尾張藩鋳物師頭、水野太郎左衛門家により、元禄五年(1692)により作られたものである。  」 と、あった。 左手奥には、古渡城址の標柱と案内板(左)があった。 
 「 織田信秀が、天文三年(1534)に築城したといわれ、東西140m、 南北100mの平城で、周囲に二重の堀を巡らしていた、といわれる。 信秀が末森城に移り、廃城になった。 」 
その奥の正面に、明治天皇行在所旧地、左側に明治天皇名古屋大本営の石碑が見えるが、明治十一年(1878)に行幸されたのを記念して建てられたものだろう。 
 

古い家 東別院山門 古渡城址標柱


名古屋宿

いよいよ名古屋宿に入る。  今は東海道の宮宿と美濃街道の名古屋宿間が家で繋がっているが、江戸時代はそうではなかった。  東別院の周囲に寺を作り、城下町の備えにしたと思われる。  東別院から古渡交差点に戻り、国道を西に向かって進む。  少し歩くと、右側に斜めに入る道があるので、伏見通から離れ、本町通り(左下)に入る。 
江戸時代、名古屋宿の入口には橘町大木戸が設置されていたといわれるが、その場所は確認できなかった。  橘2丁目から大須にかけての本町通の両脇には、仏壇屋が多く軒を連ねていて、寺院も多いところである。  信号交差点を右折して行くと、切支丹遺跡博物館のある栄国寺がある。  寛文四年(1664)に切支丹宗徒二百人余が処刑されたが、その鎮魂のため、栄国寺の前身の寺が建立された。  そのまま進むと、左側に七面宮鎮座の石柱が建つ日蓮宗の妙善寺(中央)があった。 
 「 妙善寺は、第二代藩主、光友の腫れもの平癒祈願を願って、名古屋の豪商茶屋長以が刻んだ七面女神像を祀る寺である。  光友が自筆の七面宮の額を与えたことが七面宮の名の由来である。 」 
徳川家康は、慶長十七年(1612)、名古屋城の建設と並行して、城下町の町割りも行った。  城の東西に武家屋敷を配し、城の南に碁盤のような形で町屋が建ち並び、それを囲むようにして小身の武士達の家を建つという設計をしたのである。  現在の新栄町付近には日蓮宗、曹洞宗の寺院が四十程あって、東寺町の名がある。  また、このあたりから大須にかけては曹洞宗、浄土宗の寺が約五十あり、南寺町と呼ばれていた。 これらも町割りの結果である。 
次の左側の路地を入ると、深い緑に包まれた、式内社の日置神社(左)がある。 案内板には
「 延喜式神名帳に、愛知郡日置神社とある古社で、天太玉命(あまのふとだまのみこと)や応神天皇などが祭神。  地名や社名は、日置部があったところから起ったもので、日置部は、暦象を司った。  永禄三年(1560)、織田信長が桶狭間の戦で勝利し、戦勝のお礼に松の木千本を植えたといい、千本松日置八幡宮 とも呼ばれた。 」 と、あった。

本町通との分岐 妙善寺 日置神社

門前町交差点を越えると、左手奥に、本願寺派名古屋別院のモダンな建物(左下)が見える。 
 「 寺の前身は、伊勢長嶋の門徒により建立された伊勢長嶋の願証寺であるが、長嶋の一向一揆で信長に抵抗したため、取りつぶされた。  その後、顕如上人が織田信雄に申し入れて、清州に再興したが、清州越により、当地に移転した。  享保三年(1718)、本山の出張所となり、西別院と呼ばれるようになった。 」 
大須交差点で、大須通りを横切ると、大須の町に入る。  直進する道は大須本通で、右側の東仁王通り、仁王通りの次の万松寺通りに入って行くと、商店街のはずれ近くを左に入ったところに、織田家の菩提寺である曹洞宗の萬松寺(中央左)がある。 
 「 天文九年(1540)、織田信秀(信長の父)が開基、信秀の叔父、雲興寺八世、大雲永瑞和尚が開山として、那古野城の南側に建立された寺で、慶長十五年(1610)の名古屋城築城に伴い、現在地に移転した。  昭和二十年の名古屋大空襲で大須も焦土化し、現在の本堂は平成のもの。 」 
大須本通から左側の大須観音通りに入って行くと、右側の喫茶店の前に、清寿院の柳下水の看板がある。 
「 江戸時代、尾張名古屋の三名水の一つで、清寿院の中門の前にあり、清寿院で使われた他、上洛の際には将軍にも供された。  清寿院は修験道の寺だったが、明治に廃仏棄釈により、廃寺になった。 」 
左側の小路に富士浅間神社があったが、この神社と関わりある、と思った。  少し歩くと、大須観音の鐘楼(中央右)の前に出た。 大きな看板には寺院の案内がある。 
 「 大須観音は、真言宗智山派の別格本山で、正式には北野山真福寺宝生院、本尊は聖観音で、日本三大観音の一つとも言われる観音霊場である。  徳川家康の名古屋城建設に伴う清洲越しにより、大須郷(岐阜県羽島市)にあった真福寺が、ここに移された。  寺内に、古事記の最古写本をはじめとする貴重書物を多数所蔵する真福寺文庫がある。  大須は、大須観音の門前町として発展し、芝居小屋が建てられるなど、参拝客目当ての土産物屋や掛茶屋ができ、名古屋宿の盛り場になっていった。 」

西別院 萬松寺 大須観音鐘楼

大須観音(左下)の境内には、芭蕉句碑や人形塚、大正琴の発祥の地の石碑などが建っている。 
小生が名古屋に勤務したのは昭和三十六年だったが、当時の大須は映画館や喫茶店などが多く、老若男女で賑わっていた。  その後も、昭和四十年までは映画館や演芸場があり賑わっていたが、高度成長期に入る頃、飲食店などは今池や錦などに移転し、衰退した。  その後、秋葉原から電気店を呼ぶなどの努力により、カジュアルや小物の若い人を呼ぶ作戦が成功し、以前のような賑わいを戻してきた。  といっても、映画館はなくなり、過去をしのぶものは大須演芸場(中央)のみである。 
街道に戻り道を進むと、大きな道に出る。  百メートル道路と呼ばれるもので、終戦後の都市計画で自動車を念頭に置いて造られた当時では画期的なものだった。  百メートル道路には、名古屋高速2号線東山線の高架が出来たので、これをくぐって進むと、交差点の右手には若宮八幡宮がある。 
 「 大宝年間(701〜704)に、現在の名古屋城三の丸の地に創建と伝わる神社で、延喜年間(901〜923)に再興されたが、 天文元年(1532)の合戦で社殿を焼失、天文八年(1540)、織田信秀により再建された。  名古屋城築城の時、現在地に遷座された。 」 
交差点の左手にある公園は白川公園(右)で、名古屋市美術館や科学館などの施設がある。 

大須観音 大須演芸場 白川公園

名古屋市の中心部が近づき、高い建物が増えてきた。 ワシントンプラザを過ぎると、広小路通り(左下)に出た。 
 「 江戸時代は、広小路から北の茶屋町まで、東は久屋町から西は堀川端までが町屋だった。  本町通りは東西の中央部を横断するように通る幹線道路で、広い道で道幅五間、他の道路は三間だったが、 広小路は万治三年(1660)の大火にかんがみ、十五間幅に拡張された。 広小路の名は、道幅が広げられたことに由来する。 」 
名古屋宿には、美濃路の本陣も旅籠もなく、継ぎ立ての宿(問屋)としての機能しかなかった。  尾張徳川家のお膝元であることから、本陣や旅籠は作られなかったのだろう。  右に少し行くと、栄交差点であるが、このあたりが栄・広小路といわれる名古屋の繁華街で、デパートや専門店などが並んでいる。  道を直進すると錦通り。 交差点を越えたところには、クラブやバーのビルが林立し、夜になると賑わうところである。 
袋町通りを横切る時、右手にテレビ塔(中央)が見えた。  伝馬町通本町の交差点に出たら、交差点を左折し、伝馬町通に入る。 問屋場は伝馬町筋本町通の西南角におかれ、伝馬百匹が定められていた、というから、曲がったあたりにあったのだろう。  伝馬町通を西に向かって歩くと、左側にお茶の升半(右)があり、案内板が建っていた。 
 「 文化年間(1804〜1818)、尾張藩御用達の商人、升屋横井彦八家の三男、半三郎が、 宇治茶師の独占する宇治製挽茶の販売権を地元で結成した株仲間に与えるように働きかけて、 天保十一年(1840)に藩から許可され、枇杷島から当地に移転してきた。  幕末には町奉行所ご用達を拝命し、明治に入ると、宇治に茶畑を持ち、宇治茶を製造、販売、代々半三郎を名乗ることから、升半と呼ばれた。  店の前には、尾張藩医三村玄澄宅跡の石碑が建っている。 玄澄は、華岡青州に師事し、尾張藩主十四代徳川慶勝の奥医師を務めた。 」 

広小路通り テレビ塔 お茶の升半

右側に日本銀行名古屋支店、左側に伊予銀行があるところで、伏見通に出る。  対面に道が続くが、中央分離帯があるので、右折し桜通まで出て、日銀前交差点を渡ったところで、左折し、ホテルウイングの先で右折して、しばらく歩くと、堀川に出た。  徳川家康の名古屋城築城の命令により、福島正則が資材を運搬するために開削したのが堀川である。  美濃路は堀川にかかる伝馬橋を渡るが、右手には立派な桜橋(左下)が架かっている。 
橋を渡り終えたら右折し、桜通りを横断し、反対側に出て、堀川に沿って進み、中橋のところで左折すると、交差点の先に浅間神社がある。  左右の道は四間道(中央)で、今でも古い家が残っている。 
 「 元禄十三年(1700)、名古屋宿で最も古い商人街の円頓寺付近から出火し、千六百余軒が燃えてしまったことから、 尾張藩が防火対策として堀川端の問屋筋の裏を道幅四間とし、東側を全部土蔵造りとし、東側の碁盤割りに飛び火するのを防いだ。  この道は、当時では道幅四間と広かったことから、四間道(しけみち)と呼ばれるようになった。 」 
少し先の右側に四軒続く蔵(右)があるが、これは川伊藤と呼ばれた豪商の家の蔵である。  松坂屋を興した伊藤家と区別するため、そう呼ばれたようだが、尾張藩の御用商人として、 穀物問屋を営むと共に、名古屋南部の新田開発に投資した結果、戦後の農地解放までは二百五十町歩(250ヘクタール)の土地を所有していた、という。 

桜橋 四間道 川伊藤

その先の右手には五条橋が架かるが、左手は円頓寺商店街である。  名古屋城の築城と同時に、商人町として整備されたところで、圓頓寺(左下)の門前町として栄えてきた。  明治に入ると、名鉄の前身、名古屋電気鉄道の東枇杷島駅から市内線が延びたことで、商店街は円頓寺から江川を越えて拡張し、名古屋の三大繁華街の一つに発展した。  市電が走る道端には夜店が並び、劇場や寄席もあった。  映画や芝居の衰退と市電の廃止の頃から客足が減り、今や地区の商店街としてなんとか生きのびている感じである。  円頓寺の近くにある慶栄寺の太子堂は、文化元年(1804)、奈良元興寺五重塔の古材を使い、住職善諦が建立した、といわれる。 
町を歩いていると、古い二階の民家の上に、神棚(中央)のようなものを見つけた。 これは、この地域独特のもので、屋根神様と呼ばれるものである。 
 「 屋根神様は、名古屋を中心に、清須市西枇杷島町、津島市など、尾張地方だけで見られるもので、 一つの組あるいは数軒続きの長屋毎に祀られたもので、木造二階の民家の屋根の上の社には、熱田神宮、津島神社、秋葉神社の御札が祀られている。  歴史は比較的浅く、明治に入ってからのようで、疫病や火災防止や家内安全と町内安全を祈願して、共同で小さな社殿を祭ったことが起源と思われる。  」 
四間道を北に進むと、名古屋高速のガードが見えてくる。  景雲橋西交差点で名古屋高速をくぐり、渡ったところで左折し、次の小路で右に入ると、みゆき公園があるが、そのまま進み突き当たった三叉路を左折する。 
そこには、格子の入った古そうな家(右)が一軒残っていた。 

円頓寺 屋根神様 幅下で見た家

次の小路を右に入ると、幅下小学校、そして幅下公園、幅下公園の北西角に延命地蔵尊が祀られている。 
そのまま進むと国道22号に出た。 城西1南交差点で国道を越えて進み、城西1交差点を左折して進むのが、美濃路である。 
ここで寄り道をする。 交差点を右折して行くと、大幸橋があり、それを渡ると名古屋城のお濠に出たので、ホテルに向かってお濠の周りを歩いて行く。  このあたりは樋の口町で、ウエスインキャッスルホテル正面まで行くと、名古屋城で一番のビューポイント(左下)である。 
 「 名古屋城は、昭和20年(1945)の空襲により、本丸、大天守、小天守、東北隅櫓、金鯱などが全焼したが、 昭和三十四年(1959)に、天守閣は金鯱とともに復元された。  園内には、戦災を免れた三つの櫓と三つの門、二の丸庭園の一部が保存されている。  城の南側には三の丸があり、成瀬、竹腰など有力家臣約九十家の屋敷があったところである。  現在は、県庁や市役所など愛知県の中枢をなす行政機関が集まっている。 」 
濠の左端まで行くと、白いお城のような櫓(中央)があり、その先に天守閣が見える。   「 この櫓は、西北隅櫓で、江戸時代には御深井丸を構成していた。  名古屋城築城の際、清州城も築城の材料として積極的に利用され、御深井丸の西北隅櫓は、清州城天主の古材で作られたので、清州櫓とも呼ばれる。 」 
道はその先で筋違橋に入るが、元の道まで引き返す。 なお、城の東手にある名古屋市市政資料館(右)は、重厚な煉瓦造りの建物で、旧名古屋控訴院である。  当時の留置場が残り、国の重要文化財に指定されている。 

名古屋城 西北隅櫓 名古屋市市政資料館

城西1交差点に戻り、その先を進むと右側に小さな美濃路の石柱が建っていた。  この道は国道22号に並行して続いている。  江川郵便局があり、その先に富士浅間社がある。 名古屋高速のガード(左下)をくぐると、江川町発展会の看板があった。  交通事故の後処理をしていた警察官に江川町の所在を聞いたとき、そういう町名はないといわれたが、現在の地名は浅間町2丁目だった。  タクシーの運転手さんに聞いてよかった。 
その先右側の空地に、樽屋町の大木戸跡の木札(右下)があり、ここが美濃路の西側の名古屋城下への入口であることが示されていた。 
 「 樽屋町の大木戸は名古屋宿の樽屋町と押切村の境にあった。  城下に入る大木戸は、すでに歩いてきた、大須に入る手前の橘町、そして、飯田街道の入口にあたる赤塚と合計三か所があった。 」 、と記されていた。 
江戸時代、美濃路には江川一里塚が作られていた。  これは美濃路の二番目の一里塚であるから、八キロ歩いたことになるが、現在は姿を消していて、どこにあったかわからなかった。 
押切町に入ると、江戸時代の名古屋宿とはお別れである。 

江川町発展会の看板 樽屋町の大木戸跡


名古屋宿から清須宿へ

押切北交差点を渡り、直進すると右側に凧茂本店がある。 この店は、名古屋凧を製造販売している店である。  最盛期には二十軒あったというが、現在はこの店だけと、家の脇の案内板に書いてあった。 
その先の右側に、白山神社(左下)があり、このあたりの様子を記した案内板があった。 
 「 江戸時代の尾張名所図会に、 社内に榎木一株あり。 是即白山の神木なれば、榎権現の称ここに起こる。   とあり、当時は榎権現とも呼ばれていたようである。  織田信長が幼少期にこのあたりを駆けまわったといわれ、今川義元との桶狭間の戦いの際には、清州からここに立ち寄り、戦勝祈願を行っている。  江戸時代に入り、街道奉行が管理する美濃路になると、神社の前は立場になり、茶屋等が営まれた。 」 
榎小北交差点(中央)を過ぎると、道は狭くなるが、それでも平気で車が行きかうので、少し危険な感じがした。 
そこから少し歩くと、右側に八坂神社があり、奥にはヨシズヤが見えた。  八坂交差点で、また、国道22号線を横断する。 ここは枇杷島1丁目であるが、道は更に狭くなった感じ。 小さな惣兵衛橋を渡る。  新しい家に混じって、古い家(右)もわずかであるが、残っていた。 

白山神社 榎小北交差点 古い家


しばらく歩くと、名鉄の高架橋が見えてきた。  その手前右側に、清音寺(左下)という寺があり、門前には覚明行者剃髪道場旧跡という石柱が建っている。 
 「 覚明行者は、享保三年(171)、尾張国春日井郡牛山村の農夫の子として生まれたが、家が貧しかったので、土器野村の新川橋辺の農家に引きとられて養われた。  その後、修行の道に入るが、得度を受けたのが清音寺である。  その後、四国巡礼を七度行うなど、各地を回ったが、白山神のお告げで御嶽山を目指し、御嶽行者として、御嶽山の参詣道の開発を行い、 御嶽信仰を全国区に拡大した人物である。 」
右側には市教育委員会が建てた案内板がある。 それには、
 「 曹洞宗。 治承三年(1179)、時の太政大臣藤原師長は、平清盛のために尾張国井戸田に流された。  師長は村長横江氏の娘を寵愛したが、後に赦されて都に帰るとき、 形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。 しかし、娘は別れを悲しみ、ここで身を投じたという。  その後この地を枇杷島と名付け、娘の菩提を弔うためこの寺を建立した。 寺号の清音寺は、娘の法号清音院からとられている。 」 と、あった。 
名鉄のガードをくぐると、三叉路に突き当たるが、そこには昔の枇杷島橋をかたどったモニュメント(中央)があり、 その脇の 「 信長や秀吉が遊んだ庄内川 」という案内板には、 「 ここ枇杷島河原付近では、茶筅髷に腰にいろいろなものをぶらさげた吉法師時代の信長が遊んだ。 」 と書かれていた。  昔は庄内川の中央の小島を挟んで大小2つの総桧造りの橋が架けられていたようである。 
江戸時代の美濃路は、ここから庄内川を渡ったが、現在はここより下流に橋が架かっているので、堤防に沿った道を上って行くと、途中に黒体竜王大神の石柱(右)と小さな社殿があった。  覚明行者ともゆかりのある古い神社で、もともとは西枇杷島町下小田井字中島にあったが、庄内川の改修によりここに移されたものである。 

清音寺 枇杷島橋のモニュメント  黒体竜王大神の石柱


県道名古屋祖父江線に出て、庄内川に架かる枇杷島橋(左下)を渡る。 庄内川は、岐阜県と愛知県を流れ、岐阜県では土岐川と呼ばれる川で、伊勢湾に注ぐ。  古来、度々洪水を起こすので、尾張藩は城下を守るため、洪水の危険があると、西側の小田井の堤防を農民に切らせた。  洪水の被害を恐れた農民は作業を出来るだけゆっくりして、抵抗した、という。  橋を渡ると、問屋町の交差点があり、変則の五叉路である。 正面右側に見えるのが橋詰神社(右下)である。  天照大神と須佐之之命が祀られ、棟札によれば、創建は承応三年(1654)とある古い神社だが、県道が敷設された時、境内が半分に削られてしまった。  神社の五十メートル位のところに、江戸時代は木橋が架けられていた訳だが、そのあたりには問屋と市場があったようである。  五差路で斜め左の赤土の道を行き、突きあたった左右の道が美濃路である。 道を左に行くと、JR東海道本線と新幹線のガードがある。  ガードの手前に、美濃路の案内板があった。 

  枇杷島橋 橋詰神社


ガードをくぐると、その先の東六軒集会所の前に、泰亨車山車蔵があった。  曹洞宗高照寺の前を過ぎると、六軒神社がある。 その先には、西六軒町、紅塵車山車蔵(左下)があった。 
   「 これらの山車は、尾張西枇杷島まつりに引き出させるが、この祭りは山王祭である。  祭が始まったのは、享保二年(1802)であるが、尾張藩の規制が厳しく、 税所は山車を飾るだけに制限され、引くことができるようになるまで、六年かかり、からくりを演じるようになるまで、更に四年かかった。 」 、とある。 
その先の右側に、問屋記念館の看板があり、奥に入っていくと、下小田井(西枇杷島の旧名)の市場の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の建物を移築し、復元されたものがあった。 
 「 言い伝えによると、山田九左衛門の先祖は、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣の折、徳川家康が庄内川を渡河した際、 野口市兵衛とともにお世話したことにより、問屋業が認められた、といわれる。  後に橋が架かると、元和八年(1622)、両名は御橋守掃除給として一反四畝の永久免税地を賜った。  下小田井の市は、徳川家康の命により市場が開かれたことから、渡橋禁止の幕府も架橋を例外的に認めた結果、市場は大いに賑わい、 江戸の千住、大阪の天満と並ぶ三大市場に数えられるようになった。 この家は住宅に商用部分を持った併用住宅である。  この住宅の大きさは、母屋98.82平方メートル、離れ52.80平方メートルで、間口が狭く、通り庭に沿って部屋が並ぶ中二階建てで、 奥に座敷がある、典型的な問屋構造である。  明治初期の建築ながら、江戸時代の様式を残しており、濃尾地震にも耐えて残った貴重な建物である。  下小田井橋詰町にあったものを、平成四年(1992)にここに移転した。 」 とあった。  (中央-山田九左衛門家住宅、右-住宅内部)

紅塵車山車蔵 山田九左衛門家住宅 住宅内部


松原神社を過ぎ、杁東町に入ると、右側の美濃路一休庵(左下)の屋根の上に、屋根神様が祀られていた。 
杁西町集会場のバス停から二川湯の大きな煙突が見えた。 杁東町と杁西町の地名は残らないが、二ッ杁はそこから生まれたのだろう。 
ようこそ新川東商店街のアーケードがあり、道の両脇には昔あったような商店街が残っていた。 
道がカーブするところに文造寺交差点があるが、このあたりは旧土器野村で、 江戸時代にはここから対岸の西堀江、萱津を経て、津島へ向かう道を津島上街道と呼ばれて、名古屋から津島神社のお参りに利用された道である。  山田模型店の屋根にも、屋根神様が祀られていた。 
端正寺の境内に、高さ4.5mの南無妙法蓮華経と書かれた大きな宝塔(右下)が建っていた。  この北方に尾張藩の刑場があり、そこで処刑された罪人の菩提を弔うため、若松庄九郎と熊野屋珠兵衛が八年の歳月をかけて、天保六年(1815)に建立したものである。 

屋根神様 大きな宝塔


右側にある地蔵堂のある阿弥陀寺を過ぎると、道は少し小高くなり、新川に架かる新川橋(左下)を渡る。 
新川開削本陣案内板には、新川開削の経緯が書かれていた。 
 「 新川は、度重なる庄内川の水害、特に宝暦七年(1757)の庄内川の堤防決壊による大被害を契機として、 天明七年(1787)、洪水による水の一部を流堤を経て、伊勢湾に放流する目的で開削された放水路である。 しかし、もともと低湿地だったため、新川界隈はたびたび洪水の被害を受けた。  このあたりの村々は、庄内川の氾濫による水害のため、疲弊していたので、清州惣庄屋の丹羽助左衛門等の度重なる請願を受け、 尾張藩九代目藩主徳川宗睦は、藩の財政危機にもかかわらず、新川の開削工事に着手した。  新川開削本陣となったのは、土器野新田庄屋役、伊藤権左衛門宅だった。 工事は、天明四年に始まり、天明七年に完成した。 」 
最近でも、平成十二年(2000)年九月の集中豪雨により、堤防が決壊し、この辺り一帯は水浸しになっている。  
なお、新川開削本陣となった伊藤権左衛門宅跡は三菱東京UFJ銀行新川支店(中央)になっていた。 
新川橋西詰は防災記念公園として整備され、欄干形の道標も作られ、防災用具を入れた倉庫を用意されていた。  公園の一角に、左つしまと書かれた橋柱の道標(右)があるが、左側の川沿いの道は、県道59号線で、これがかっての津島上街道である。 

新川橋 三菱東京UFJ銀行新川支店 防災記念公園


橋から先は、清須市になる前の新川町である。 その先には、須佐之男社がある。  須ケ口交差点を右折すると、名鉄須ケ口駅、左折すると甚目寺へ行ける。 このあたりは、戦災を免れたのか、古い家が残っている。 
そこから少し先にある、小さないちりづか橋を渡ると、右側の少し奥に、みの路一里塚之址の石柱(左下)がある。 
案内板には、「 ここは美濃路の三番目の一里塚で、かってはこの一里塚橋にまたがり、両側に小塚があって、榎の老樹が茂っていた。 」 、とあった。 
下外町交差点を横断して進むが、この通りも古い家が残っている。 右 側の正覚寺は、桶狭間の合戦で織田信長に討たれた今川義元の首がさらされたところで、その菩提を弔うため、塚を築いた今川塚がある。  また、寺の門前には、「 北みのかいとう 南無阿弥陀仏 是より 西つしまかい道 」 と、書かれた外町一里塚の道標(中央)が立っていた。  案内板によると、 「 昭和二十年(1945)頃、一里塚があったところの用水の改修をしたおり、川の中から自然石に彫られた道標が掘り出され、 この場所に据え置かれた。 」 と、あった。 
掘り出された場所が、さっき見た、みの路一里塚之址の石柱のところだったとしたら、元の場所に置いてくれると、小生のように街道歩きをする人にとってはうれしいのだが・・・ 
左手に浄休寺があるが、そこを通り過ぎると、道は突き当たる。 正面は株式会社山市(右)で、右側に三輪医院がある。  山市の壁には自家製の美濃路の道標が吊り下げられていたが、美濃路はここでは鍵形に曲がっている。 

みの路一里塚之址の石柱 外町
一里塚道標 株式会社山市


清須(きよす)宿

左側のサークルKサンクスの先で、県道127号線と合流するが、この先は、合併前の清州町である。  県道に入ると道幅が広くなったが、車の行き来も激しくなった。 巡礼橋東交差点を越えた左側の酒屋など三軒は家として古そうに思えた。  名鉄名古屋本線のガードをくぐると、右側が県道、左側は狭い道の三叉路(左下)になる。  県道を進むと、右手に、清州山王宮、日吉神社がある。 美濃路は左側の狭い道に入り、県道と別れた。  きよすあしがるバス船杁橋東バス停を過ぎると、左側に久證寺がある。  大きなタンクが見えてきたと思ったら、清州鬼ころしの銘柄で最近売上を伸ばしている清州桜醸造があった。  そのまま歩くと、上りになり五条川のへりに出た。 
再び、県道127号線に合流し、五条川に架かる五条橋を渡り、五条橋西交差点を直進すると三叉路に出た。 
三叉路の左側に清涼寺(右下)があり、美濃路は、清涼寺前で右折するが、江戸時代には札の辻があった、という。 
当時の清涼寺付近は鉤型になっていて、曲がり角に高札が建ち、津島への分岐を示す指差し道標もあったといわれるが、残っていなかった。 

三叉路 清涼寺


三叉路を右折して行くと、左側のキヨス林医院に隣接した日本家屋の前に、大きな門(写真下の中央)が建っている。  ここが清洲宿本陣跡で、門の前には、明治十一年(1878)に、明治天皇が訪れて小休されたことを記念する石碑が建っていた。 
「 清須宿は、本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠が二十軒程、宿内人口は二千五百人の規模だったようである。  清洲宿は、慶長七年(1602)、美濃路の誕生した当初は、西市場の伝馬町辺りにあったが、慶長十五年(1610)より行われた清洲越しで、町ごと名古屋城下に移転して荒廃。  元和二年(1616)に桑名町に復活したが、寛文八年(1668)に火災で焼失してしまい、その後、神明町に設けられた。  神明町に移転した後の清須宿本陣は、美濃路のなかでも最も豪壮な建物であったといわれるが、明治末期の濃尾地震で崩壊、焼失した。  わずかに残ったのが、正面の正門で、それが縮小され復元されたのが現在の門である。 」 

清洲宿本陣跡


清州3丁目交差点を越えると、JR東海道線のガードがあるのでくぐると、右側に清洲城への道標があるので、ここで寄り道をすることにした。 
右側のガード脇の細い道に入って行くと、正面左手に立派な建物が見えてきたので、それを目当てに進むと駐車場があり、 右側に清州古城跡公園入口とあるが、そのまま進むと五条川で、橋を渡ると、清州町制百周年記念行事として建てられた清洲城(左下)があったので、 三百円を支払って、城の中に入ったが、展示されているものは貧弱でわざわざ入るほどの価値はないように思えたが、日本庭園(右下)はよかった。 

清洲城 日本庭園


橋を渡り引き返すと、左側に清州古城址の石柱(中央)が建っていたので、入っていった。 清州城の歴史だが、
 「 室町時代の初め、尾張の守護職だった斯波義重は、守護所下津城(現稲沢市)の別邸として清洲城を築き、織田敏定を守護代とした。  文明八年(1476)、下津城が戦乱で焼かれ、守護所は清州に移り、尾張の中心地になった。  戦国時代に入ると、尾張国は守護代の織田氏が実権を握り、上四郡を岩倉の織田氏、下四郡を清州の織田氏が掌握し、互いに争う中、 弘治元年(1555)、那古野城主織田信長が、清州織田家の当主信友を攻め滅ぼして、清州城に入り、尾張の拠点とした。  その後、桶狭間の戦いで今川義元を破った。  清州城主は、その後、織田信忠、織田信雄、豊臣秀次、福島正則と続き、江戸幕府が誕生しても、徳川家康の子、松平忠吉、徳川義直が城主になったが、 慶長十五年(1610)の家康からの清州城廃城と名古屋城移転の命令により、城は壊され、三年後に廃城になった。 」  というものだが、六万人の住民が一挙に空になって訳で、 当時の臼引歌は、そのありさまを 「 思いがけない名古屋ができて、花の清州は野になろう 」 と歌われたという。 

清州古城址の石柱


清州城の城下町跡は、清州新田として開発され、城の石や木材なども名古屋城に運ばれたので、荒れ果てたままで、歌に歌われた通りだったようである。 
「 尾張藩は、その後、清州城天主台址の二百三十三坪の土地だけを保存することにし、天保四年(1832)、清州代官、朝田藤三郎は城址の周囲に石垣を設けた。  明治十九年には、東海道本線が敷地内に敷設されたが、大正七年に清州町が周囲の土地(5634坪)を買収し、清州公園を設けた。 」 
清州公園の境内には、弘化四〜五年頃建立の右大臣織田信長公古城址と文久二年建立の清州城址碑、そして、昭和十一年に造られた信長の銅像(中央)が建っているだけである。 

信長の銅像


清須宿から四ッ家追分へ

清州城の探訪で時間をとったが、JRのガードまで戻り、美濃路(県道127号線)を歩く。 
東名阪自動車道の高架をくぐると、道の両脇には古い家が何軒か残っていた。 突き当たったところは、右手は県道190号線のある変則三差路(左下)だが、ここは左折する。  左角にお堂があったが、石碑を見る限り、御嶽教に関連するものだろう。  その先の三叉路は左に行くと、JR清州駅であるが、そちらにいかず、右の狭い道を行く。  少し行くと、稲沢市北市場町になる。  北市場村は、寛文八年(1668)の清洲宿の大火以前は清洲宿の一部であり、青物市場があったところで、その左側に本成寺があった。 
その先には、後小松天皇(1382〜1412)頃の創建の亀翁寺(きおうじ)がある。 
寺の門前(中央)には国宝虚空蔵菩薩と書かれた石柱が建っているが、この寺の奈良仏師による寄木造虚空蔵菩薩坐像は、女人の如くうつくしいといわれ、国の重要文化財に指定されている。  左側のお堂には、石仏が祀られており、その前には秋葉山常夜燈が建っていた。 
その先の左側には、かつて牛頭天王社と呼ばれ、須佐之男命を祀る立部神社があった。  秋には、こがし祭りが行われ、二台の山車が練るそうである。 
小さな川を渡り、少し歩くと左側に、北市場美濃路公園(右)があり、美濃路の由来の案内板とトイレなどの休憩設備があった。  美濃路公園とあっても、普通の公園だが、街道を歩く者にとっては良い施設である。 

一場の三叉路 亀翁寺 美濃路
公園


その先には、天明三年(1783)に設置された清須代官所跡がある。  さらに北上すると、左側に長光寺の標柱(左下)があり、その左側に仁王門がある。  長光寺は平頼盛(平忠盛の五男、清盛の弟)の寄進で創建され、足利尊氏が祈願所とし、織田、徳川の保護を受けた古刹である。  門前の左側には尾張六地蔵尊の小さな石柱、右手には、鉄柵で止められた道標があった。  道標には、「 左京都道 右ぎふ 」 と書かれているが、美濃路と御鮨街道(岐阜街道)との分岐点である四ッ家追分にあったものをここに移転したとあった。 
境内の地蔵堂(右下)は、室町時代の永正七年(1510)建立の六角円堂形で、現在はこけらぶきから銅板ぶきに変わっている。  六角堂に祀られる本尊鉄造地蔵菩薩(国重要文化財)は、文暦二年(1235)の銘を持ち、尊氏は勝軍地蔵と崇め、また、国家に変事があると全身に汗をかくというので、汗かき地蔵ともいわれる。  堂の正面にかかろ大鰐口は永和二年(1376)の銘があるものである。 寺の奥にある臥松水は、織田信長のお気に入りの井戸だった、といわれている。 

長光寺門前 六角堂


このあたりは六角堂東町であるが、寺の西側の道が鎌倉街道で、東側が美濃路である。 
少し歩くと、左側に、清酒京屋伊助総販売元の看板を掲げた、蓮子格子の中二階の建物(左下)があった。 
民家の前に町内安全を書かれた常夜燈の奥に、小さな二つの祠が祀られている。  そういえば、六角堂を過ぎたところにも小さな二つの祠があった。 寿し処いそべの駐車場の先で、美濃路は県道155号に合流する。 
県道を左折し、その先の三叉路で左折すると、 右側の三叉路の角(右)に四ッ家追分を示す石碑が建っている。 
これは、美濃路と岐阜街道の分岐点の四ッ家追分を示すもので、 「 下津、一宮、黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道。  後の岐阜街道と稲葉・萩原・起を過ぎて垂井へ向かう美濃街道との分岐点である 」 と書かれている。 
ここには茶屋が数軒あり、うどんが名物であったという。  
岐阜街道(御鮨街道)と分かれた美濃路はここより西北方向へ進むが、今日の旅はここまでである。

  京屋伊助 四ッ家追分




                                           続く (美濃路 四ッ屋追分〜起宿) 



かうんたぁ。