東海道の脇往還 岐阜街道 (御鮨街道)を歩く

岐阜街道は、御鮨街道とも呼ばれた。  尾張藩は、毎年長良川でとれた鮎の御鮨を江戸幕府に献上したが、その際、東海道の宮宿で中継して運ばれた道なので、御鮨街道と呼ばれるようになった。  将軍に献上される鮎鮨は、岐阜街道から美濃路に入り、東海道を経由して運ばれたが、御鮨街道と呼ばれたのは笠松までで、笠松では鮎鮨街道と呼んでいた。   





岐 阜 町

岐阜城 尾張藩が立藩され、元和五年(1619)、岐阜町が尾張藩の領地になると、藩が、毎年五月から八月まで年十回程、長良川で取った鮎を鮨に加工して、江戸将軍家へ献上していた、という。  岐阜は、戦国時代、斎藤道三や織田信長の居城があったが、徳川家康は、慶長六年(1601)、岐阜の南の加納に城を築かせ、岐阜城を廃してしまう (右写真ー復元された城)
岐阜町は、尾張藩の支配下におかれたが、長良川を利用した川船交通により全国から物資
川原町 が集まり、富める商人の町になった、とある。  川湊のあったところに位置する川原町(湊町、玉井町、元浜町)には、今も商家が立ち並び、重厚な佇まいが残っている (右写真)
といっても、飲食店や旅館や小物を扱う観光向けの店だけで、江戸時代のような商売をしている家はなくなっているように思えた。  物流が変わってしまったので当然だろうが・・・ 
長良大橋の手前の左側に、ポケットパーク鵜かがりがあり、鵜匠が鵜を扱う姿が銅像になっ 鵜飼い観覧船 ていた。  道の反対の左側を下りると、北原白秋の鵜匠頭山下卆司翁歌碑や川端康成ゆかりの地碑や芭蕉の句碑がある。  また、稲葉山古城主齋藤道三公墳道標と織田相公旧菩提所神護山崇福寺の道標も建っていた。  長良川の堤の道に上ると、長良川が見え、鵜飼鵜飼見物に使われた観覧船が係留され、来年のシーズンを待っていた (右写真)
鵜匠の家は、このあたりではなく、対岸の長良にあるようである。 道の下のトンネルを
鵜飼観覧船のりばと大きな常夜燈 くぐり、反対側にでると、鵜飼観覧船のりばの看板がある建物の脇に、復元された大きな常夜燈が建っていた。  江戸時代には、鵜飼はここの他、河渡橋付近でも行われていたようで、中山道 河渡宿の浮世絵には、その様子が描かれている (右写真-鵜飼観覧船のりば)
常夜燈の奥には、 「 夕焼けの すでに紫 鵜飼待つ 誓子 」 と 「 鵜篝の 過ぎゆきし宵 芭蕉の宵 利彦 」 の歌碑と音の百景の表示板が建っていた。 
東材木町 江戸将軍家へ献上していた鮎だが、湊町付近であげられ、川原町を通って運ばれたと考えるのが、無難だろう。  また、鮎鮨を作る御鮨所は益屋町にあった、といわれるので、このルートで運ばれたとすると、湊町から、玉井町を通り、元浜町で左折し、東材木町に入り、上大久和町交差点に出ることになる (右写真-東材木町)
資料によると、鮨を作る御鮨所を任された河崎喜衛門家は御鮨元と称し、尾張藩からいろ
林稲荷神社 いろな援助と特権を得ていたようである。  寛文八年(1668)には、河崎善太郎家も御鮨所に加わり、両家で幕末まで務めた。  御鮨所は林稲荷神社の前あたりにあった、と聞いていたので、上大久和町交差点を越え、左側の比較的太い道のもう一つ先の細い道に入ると、 林稲荷神社は、左側にあったが、前の民家には御鮨所跡の表示はなかった (右写真)
神社の境内に入ると、右側に井之口といわれた頃に出ていたという美濃の神水が再現
美濃の神水 されていた。 鮎を水洗いするのにこの神水も寄与していたのかもしれない (右写真)
江戸時代の初期の鮨は、魚介類とめしなどを発酵させて、自然にできる酢で食す、なれ鮨といわれるもので、大津の鮒ずしや秋田のはたはた鮨が有名である。  当時の鮨は、鮎を水洗し、塩漬けされる。 それを一度塩出しする。 冷ました飯を魚の腹に飯をつめて、鮨桶に並べ、そのすき間に水洗いした飯を詰める。  これをくり返し、重石で圧し、よくなれさせた、
正法寺の大仏 というものであった。  最後に、笹と編んだワラを置いて蓋をして、桶全体を竹と藤で堅く縛った。  こうして出来た鮎鮨は、御鮨所をおおむね夕刻に出て、江戸城まで昼夜を問わず、運ばれて、五日間で到着させた、という。  天候や気候を考慮して、塩加減を調節し、到着したころ食べ頃になるようにしたというから、両家の苦労は大きかったことだろう。  この道の奥に、正法寺というお寺があり、岐阜大仏という仏像が祀られているというので、お金を払い入ったが、木造の仏像は大きかった (右写真)
御鮨所の場所は確認できなかったが、本町1丁目にあった市の案内板によると、御鮨街道
美濃の神水 はここから北に向かい、道に出ると左折し、次の細い道を南に向かい、大通りにでると、右折し、本町1丁目の交差点にでるように表示されている。  益屋町には黒板と白い漆喰壁の大きな建物と蔵がある家があったが、何時建てられたものだろうか? (右写真)
本町1丁目の交差点で道の反対側に行き、次の狭い道に入ったあたりが、靱屋町である。  その先の交差点を左折すると、左側に神社があり、 その先に川が流れているが、それを越えた
古い料亭の水琴亭 先の新桜町と末広町のあたりに、尾張藩岐阜奉行所があった、という。  交差点を越えると、米屋町で、この辺りには古い建物が残り、数年前に訪れた人は感嘆の声を上げたようだが、ほとんどが壊されて、新しい建物に変わりつつあった。  黒塀に囲まれているのは、横浜の三渓園を造った原三渓が愛したという古い料亭の水琴亭で、 元禄十三年(1700)の過去帳がある、という (右写真)

新しい建物 その先の桂翠館とある街柱の前に、格子の入った粋な建物があるが、その隣は料亭ひら井や吉照庵が入る新しい建物に替わっていた (右写真)
数年前には、日下部邸の古い建物があったところで、 伝承美濃そば 吉照庵には、皇族が訪れた、という。  道の反対にあるクラシックな建物は明治時代の建設で、旧洋服会館である。 現在はレストランになっていた。  吉照庵の隣の三階建ての洋館(石原美術)は、木骨れんが
石原美術 造りで、明治から昭和にかけて海運業で成功し、海運王と呼ばれた羽島市出身の日下部
久太郎氏が大正十三年に建築したもので、これからも残したい建物である (右写真)
その隣は、周囲が囲まれ、工事中であったが、一年前までは日下部氏が建てた木造二階建ての建物があり、岐阜町本陣跡の案内板があった場所で、 江戸時代、尾張藩主が岐阜の鵜飼を見物する際、本陣を勤めた賀島家があつたところである。  賀島家は、米屋町から中竹屋町までを敷地とし、間口二十間、奥行三十間があったが、明治二十四年の濃尾大震災で焼失
した。 徳川宗春は、享保十八年(1733)、岐阜を訪れ、鵜飼を見物したり、お忍びで、伊奈波
伊奈波神社鳥居 神社の門前の茶屋へ行ったりした、という。 日下部氏は、岐阜町本陣跡に、大正初期に上記の二階建ての建物と洋館を建築した。 
道を進むと、伊奈波通1交差点の左手奥に伊奈波神社が見える (右写真)
『 景行天皇十四年、武内宿禰が稲葉山北西に五十瓊敷入彦命を祀ったのが始まりで、壬申の乱の際には天武天皇が当社に戦勝を祈願。  天文八年(1539)、斎藤道三が稲葉山に城
芭蕉句碑 を築く際、現在地に遷座。  その時、物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。 』 、と伝えられる神社である。 
境内には、芭蕉翁の 「  山かけや 身をやしなはむ 瓜はたけ  」 という句碑があるが、 これは貞享五年(1688)、岐阜町の俳人、安川落悟の案内で、神社を訪れたときに詠まれたものである。  句は碑の裏側にあり、安永六年(1777)の建立である (右写真)
交差点を過ぎると、白木町。 白い漆喰壁とうだつのあがる家が残っている。  常磐町のさし源本店前に、岐阜市教育委員会の建てた御鮨街道の道標がある。 
御鮨街道の道標 江戸時代、鮎鮨輸送の際、通る宿場での優先的な扱いを保証するため、老中の奉書が発給された、という。  御鮨元では、鮎鮨の桶を錠付きの箱に入れ、その鍵は封をした老中証文本紙とその写、御鮨元の添え状、各宿場への到着した時刻を記入する帳面が納めた白木の箱とともに送られたのである。   この道標は道の角にあるのだが、結納の店の花嫁、花婿の看板で見えなくなっていた (右写真)
小熊町2の交差点には大きな濃紺の道標が建っている。 左右の大きな道は、左手の鶯谷に
円龍寺 トンネルができる迄はなかったようである。 ここで寄り道をする。  左折して行くと、右側に円龍寺という寺があり、寺の本尊は、延命地蔵菩薩である (右写真)
延命地蔵菩薩は木造の像で、藤原後期の作とあるもので、寺の伝えによると、『 弘法大師が墨俣川の橋杭に刻み、葉栗郡小熊村一乗寺に安置されていたが、織田信長が永禄十一年(1568)にここに移し、地蔵堂を建てた。 』 、といわれる。  また、木造芭蕉坐像は寺の芭蕉
円龍寺の大銀杏 堂に祀られていたもの、とあった。  寺は八百年前の応保二年(1181)の創建とあるが、 本堂などは新しかった。 山門近くの大銀杏は、樹齢五〇〇年で、高さは三十メートル以上ある。  明治二十四年の濃尾大地震の際、鍛冶町付近から出火した火事で、一円が赤土化したが、
寺の銀杏が水を出し、南進を食い止めたため、火伏せのいちょうと伝えられる (右写真)
道の対面には、岐阜東別院がある。 本願寺十一代顕如上人が美濃国に巡教の折に信仰した美濃国の西野(現岐阜市西野町)の豪族、一柳直高の死後、墳墓のそばに一寺が建立され
河野願正坊 たことが始まりで、本願寺が二つに分かれた後、寛永元年(1624)に、現在地へ移転したが、濃尾地震などで倒壊し、現在の建物は大正五年(1916)に建てられたもの。  その隣にある願正坊は、河野願正坊といい、現在の茜部の地に、文明年間(1465〜1486)に創建され、その後、 金華山の麓(現在の御手洗)へ移り、材木町を経て、現在地へ移った寺で、岐阜地方の浄土真宗の布教に貢献した寺院といわれる (右写真)
元町の三叉路 街道に戻り、小熊町、金屋町を過ぎ、美園町に入ると大きな道に出る。 左手には柏森神社がある。  更に進むと、国道248号と交差する金園町2交差点で これを越えて進むと元町である。  正面に黄色いビルがあり、五島花店と書かれたところで、道は分岐 (右写真)
手前の三角地には、鋳造の像が建っているが、ここを左へ行くのが御鮨街道で、右側の道は大正以降に造られた道である。  そのまま、東金宝町、元住町、左手に溝旗公園があり、
コメダ珈琲 右側に東横インがある。 長住町を越え、名鉄鵜沼線の踏切を渡るとすぐ右折し、駐車場になっているところの角で左折する。  このあたりは幸ノ町であるが、枡形のようになっている。 そのまま進むと、三叉路で、コメダ珈琲の前に出た。  このコーヒーチェーンは名古屋を中心に二百の店を持ち、小生の家の近くにもあるので、時々訪れている (右写真)
このあたりが曲手(鉤型)のようになっているのは、岐阜町の入口になっていたからだろう。  三叉路を右折し、JRの高架に沿って進み、 大通りに出ると、高砂町3交差点である。 
鮨街道はここを左折して、JRのガードを潜り、直進する。
 

加 納 宿

加納中広江町 秋葉神社の社があった。 道が狭くなると、加納北広江町、加納中広江町と加納が頭に付く地名に変わった。  ここからは旧加納町で、岐阜市と合併する時、旧町名の上に加納をつけたのだろう。  三叉路の角には、美濃新四国第十九番光国寺の道標があり、その先に名鉄名古屋本線の踏切が見えた (右写真)
踏切を越えると、加納南広江町で、交差点に出た。 交差点の角は、広江の漢方の看板が
ある太田薬局であるが、店頭の左側に石の道標と案内板が建っていた。 『 江戸時代中頃
岐阜道の追分 (1750年) に新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ、中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきた。  最初は、「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に、「左西京道」 「右東京道」が追加されました。 』 とあり、 ここは中山道と岐阜街道(御鮨街道)との追分(分岐点)なのである (右写真)
直進する道は御鮨街道、左折する道が京へ向う中山道である。 ここでこの道(中山道)を少し歩いてみたい。  すると、その先は清水川で橋を渡った左側に高札場跡の案内板があった。 
高札場跡 ここは江戸時代、加納宿の高札場があった場所で、高札場は石組の上に高さ3.5m、幅6.5m、横2mという宿場一の大きなものだったといわれる (右写真)
加納は岐阜城に替わって新たに築城された加納城の城下町であるが、寛永十一年(1634)に中山道の宿場に追加された。  宿場の長さは普通の宿の三倍の長さで、宿場の住民は三千人、家数は八百軒と、美濃の宿場の中では最大だった。  橋の手前を右に入ると、江戸時代
に建立された石薬師寺のお堂があったが、一部民家風の建物である。 この寺の創建は、
石薬師寺  『 藩主夫人、亀姫(徳川家康の娘)が川で泳いでいた人が黄金の薬師像を拾った話を聞き、川の中に水上殿を建てたのが始まり。 』 といわれる寺である (右写真)
清水川は、大正時代まではガマと呼ばれる地下湧水が存在していた。 加納清水町の名もこの川の清水からである。 この先を進むと、加納城の大手門があった広小路の大通りに出るが、中山道を歩いて時に訪れているので、先程の交差点に戻ることにした。 
(ご参考) 中山道の加納宿については、中山道を歩く 美濃路(10)加納宿をご覧ください。
岐阜問屋跡 御鮨街道は、ここからしばらくは中山道と同じ道を行く。 江戸に向かう中山道は太田薬局の前で右折して行く。  即ち、鮨街道を歩いてくると、直進である。  加納新町に入ると、左側の何の変哲もない民家の前に、岐阜問屋跡の案内板が貼られていた (右写真)
『 加納新町の熊田家は、土岐家、斉藤家の時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にいたころには加納の問屋役を務めた。 江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物の運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、岐阜問屋と呼ばれた。 
秋葉神社 岐阜問屋は、尾張藩が将軍家に献上する鮎鮨の継ぎ立てをしており、御用提灯が許されていた。  献上鮎鮨は、岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経て、当時御鮨街道と呼ばれた、現在の加納八幡町から名古屋に向かう道を通り、笠松問屋まで届けられた。 』  と、ある。 
左側には、秋葉神社が地区の守り神として祀られていた (右写真)
専福寺 中山道の木曽路では津島神社と諏訪神社が多かったが、美濃路に入ると秋葉神社が多いのは何故だろう。  その先の右側に、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状などの古文書が残されている専福寺がある。  伊勢の長島はもちろん、美濃にも石山本願寺に組みする寺が多く、この寺も例外ではなかった (右写真)
元亀三年(1572)の石山合戦に際し、織田信長が石山本願寺に加担することを禁じる内容の手紙を送ったが、それが 織田信長朱印状である。 
古い家 道の角に、中山道加納宿 加納柳町の道標があり、広い道(岐阜東通り)の先の右側には 古い立派な家が残っている (右写真)
道を横断すると、この家の道の反対側に、中山道を歩いた時にはなかった中山道加納宿の道標が建っていて、その裏に宿場の地図が書いてあ った。 この地図は役に立つ。 
細い道を直進すると、右側に善徳寺があり、道は左に曲がっていく。 この辺りが中山道加納
東番所跡 宿でもっとも曲がりくねっているところである。 突き当たりの道脇に、中山道加納宿の道標と中山道加納宿東番所跡の石柱が建っている。  加納宿には、西と北にも番所があった。 今は表示のみで何も残って居ないが、旅人が宿に入るのを検問していた場所である (右写真)
夜は木戸が閉められていたというから、鮎鮨の使者だけは通してくれたのだろう。 
ここまでが加納宿ということになる。 

加納から笠松へ

秋葉山 御鮨所をおおむね夕刻に出た鮎鮨は昼夜兼行で運ばれた。  加納そして笠松と中継され、岡崎辺りで夜明けを迎えたというから、かなりのスピードである。  現在の駅伝という感じで次から次へと運ばれた訳である。 そのまま進むと、ここにも秋葉山が祀られていた (右写真)
県道14号線を渡るとその先は左右が狭い道の三叉路に突き当たる。  正面に立花屋薬局があるが、道の反対側、即ち、手前の道の角に、自然石の道標がある。 加納安良(あら)
加納安良町の道標 の道標といわれるもので、「 左 西京 」 「 右 岐阜 谷汲 」 と彫ってある (右写真)
南から見て、ここを左(西)へ行けば京都、右(北)へ行けば岐阜から谷汲というわけである。  道標の岐阜とあるのは岐阜道で、別名、御鮨街道と呼ばれた道である。 ここは右折し、進むと、新荒田川に架かる加納大橋を渡る。  併走する名鉄名古屋本線とJRも同じように鉄橋を渡る。  前回訪れた時は多くの鴨が泳いでいて、川面を見ていると、袋を持ったおばさんが現れ て、パン屑をまきだした。 今回はまだきていないようだった。 
加納大橋のプレート 橋の欄干には、左右に四個づつプレートが取り付けられている。 そのプレートは、中山道だけあって大名行列である (右写真)
加納大橋を渡ると、中山道は四差路角のだんご屋のところで、東(左折)へ進む。  中山道はそのまま名鉄名古屋本線の踏切を渡って行くが、御鮨街道(岐阜街道)は、曲がってすぐの右側にある茶所薬局で、右の細い道に入り、南進する。 
茶所があったところ なお、名鉄の踏切には茶所(ちゃじょ)駅がある。  この道に入った右側の建物の前に、道標と石碑があり、ぶたれ坊と茶所の説明板があった(右写真)
『 ぶたれ坊とは江戸時代の相撲力士鏡岩浜之介にちなんだもの。 2代目鏡岩は父の職業を継いで力士になったが、土俵外での行 いが悪かったことを改心して、妙寿寺(現在は廃寺)を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて、罪ほろぼしをした。 また、茶屋 を設け
鏡岩の顕彰碑と伊勢道道標 て、旅人に振る舞ったといわれる。 ぶたれ坊の像は加納伏見町の妙見寺に今もある。 』  とある。  鏡岩の顕彰碑には、花が手向けられていた。  隣の道標は、鏡岩浜之介が作らせたもので、かなり大きなもので、「江戸木曽路」 「東海道いせ路」 と刻まれ、伊勢道道標といわれるものである (右写真)
このまま中山道から分岐して南進する。 畷町、若杉町を進むが、左手には名鉄本線が並行して南下していく。  旧国道21号線の大きな道を横切ると、左側から境川が近づいてくる。 
小さな祠 それ程古い家はないが、蔵のような建物は街道っぽいし、川沿いの木々が並木のように見える。  道の脇には、小さな祠に石仏が祀られているのは往還南地蔵堂といわれるもので、中山道の細畑一里塚から四キロ歩いてくるとここで合流するのである (右写真)
境川は昔の木曾川である。 木曽川は今と違い、昔は多くの分流に分かれていたようで、本流はこの境川だったという。  この川は、美濃国と尾張国との境を流れるので、境川といわれ
順勝寺 た。 川は左に離れていくが、御鮨街道は、境川の堤防と同じの高さ位の位置にある。 
道なりに進むと、右側に順勝寺という寺がある (右写真)
行く先に国道21号線のガードが見えてくるが、左側の境川を渡るため高くなっている。  御鮨街道は三叉路を左折してガード下をくぐり、くぐったところで国道に沿って右に行き、左側の境川の堤防と同じ位の高さの道に入り、歩いて行く。  西川手8交差点で、左からくる県道14号線に合流する。 その先で境川を渡る。  木曽川は、前述したようにここに流れていたが、
小さな社 天正十四年(1586)の大洪水で、大きく流路を変えて南方に移動し、その際誕生した川が木曽川と呼ばれて、新たな尾張国と美濃国の境界になったのである。  かつての木曽川にはそれまでの支流からの水が流れ込むだけとなり、それが現在の境川になった。 
境川のほとりには小さな祠が祀られていた (右写真)
御鮨街道は県道の橋のもう少し上流側で渡河していたようだが、渡れないので県道の橋を渡ると、笠松の町の中に入っていった。 

物資の中継地として栄えた笠松

県道の橋 鮎鮨街道は南下し、境川を渡るのだが、道が途切れているので、県道の橋を渡る (右写真)
尾張藩が長良川で取った鮎を御鮨所でなれずしに加工し、岐阜街道(岐阜道)から、美濃路、東海道を経由して、江戸幕府に献上したので、別名、御鮨街道と呼ばれた。  ところが、笠松町歴史民俗資料館では、当地では鮎鮨街道と呼んでいる、といわれた。  江戸幕府が管理する五街道以外は、幕府が街道名を付けなかったので、地域により、呼び方が違っていた
三ッ目川橋 のであろう。 江戸時代、岐阜問屋で中継された御鮨が増水で渡れない時には、ここより上流の地から徳田村の堤防の上を歩いたという。  茜部辰新1丁目南交差点手前にあるラーメン屋のところで、左側の道に入り、右側にマンションのあるところを右折し、道なりに歩く。  道は南下するが、しばらく歩くと小さな三ッ目川に架かる橋を渡る (右写真)
その先の左側の商工会館の前を通り歩いて行くと、春日町交差点に出た。 交差点は直進
春日神社の鳥居 すると、右側の民家の脇に、春日神社の石柱と鳥居が見えた。 近づくと、その奥に社があった。  小さなものだったが、この神社が地名の由来なのだろう (右写真)
左側の笠松春日郵便局を過ぎると、名鉄笠松駅から羽島方面に行く竹鼻線の踏切を渡る。  右側に高野山高野派大師教会笠松支部と書かれた大きな石柱があり、奥の建物には真教寺の看板が掲げられていた。  右側には地蔵堂があり、石仏が祀られていた。 また、左側
高島久右衛門家 には稲荷神社があった。 ここからは古い家が多く残っていた。 石柱の左の家の角には、縣橋の石柱が残っていた。  その先には、秋葉神社があった。 消防署を過ぎ、白い大きな建物の隣に、黒い板で囲まれた漆喰壁の家があった。  秋葉神社から二百七十メートル歩くと、右側に連子格子の商家があり、みそ・たまり、わた久の看板が店内にある (右写真)
この家は、江戸時代、笠松問屋場・高島久右衛門家の跡である。 隣の倉庫の前には、鮎鮨
道標と歌碑 街道 笠松問屋場跡の案内板と道標と歌碑が建っていた。  道標の正面に鮎鮨街道、左側に名古屋街道 笠松道、右側に笠松問屋跡と書かれており、 鮎鮨はここで、笠松問屋に受け継がれ、毎年六月から九月まで月に六回、主に笠松の農民十四人で木曽川を渡り、一宮問屋へ運ばれたのである。  左側の石碑には、 「  鮎鮓の 桶かつぎ受けわたし 人びとは 
江戸への道を ひたに走りき  」 という歌が刻まれていた (右写真)
その先の右側の奥にお寺が見たので、入って行くと善光寺という寺だった。  境内には、大臼
塚跡の石碑があり、かくれキリシタンの処刑場に建てられていた石碑があった。 街道に戻り、
芭蕉のむくげ塚と高橋清斗句碑 今度は左手に入って行くと、蓮国寺というお寺があり、境内には芭蕉のむくげ塚と高橋清斗の句碑があった。  むくげ塚は、蓮国寺の住職など六人の俳人が建立したもので、石碑の裏側に、 芭蕉が東海道の大井川で詠んだ、 「 道のべの 木槿(むくげ)は馬に かまりけり 」 の句があることから、むくげ塚と呼ばれていると、 案内にあった (右写真)
その隣には、北及の俳人高橋清斗の句碑があり、 「  此岸に くれば彼の岸 おなじ秋 」 
産霊神社 と書かれていた。 街道に戻り、先を進むと三叉路になる。  御鮨街道は、三叉路を左折して、ブティックカトレアとだるま薬局がある交差点を右折するのであるが、小生は少し寄り道をする。  三叉路のすぐ左にある狭い道を入ると、右側に産霊神社がある (右写真)
『 祭神は、高皇産霊神と神皇産霊神。  創建時期は不明。 もとは藤掛村高島の地にあって、藤掛、三屋両村の氏神であったが、永禄から天亀年間(1558〜1570)の頃、牛頭天王
稲荷神社 と改称した。 慶長十年(1598)の洪水で、藤掛の堤が決壊し、本殿がここに漂着したので、現在地に鎮座した。  明治四年に現在に社名になった 』 、と社伝にあった。  建物は大正時代のものであるが、ここに移ってからでも四百年の歴史があり、風格のある神社に思えた。  狭い道を進むと、左側の小高く石を積んだ所に、小さな祠の稲荷神社があった (右写真)
その前の住人の話では、「 藤掛、三屋の村はこの南なので、ここに流れてくることは考えら
笠松歴史民俗資料館 れない。  藤掛は堤防の上に家が立ち並んでいたが、行政指導で家は撤去され、集落はなくなった。 」 と、話してくれた。  その先には法伝寺と愛宕神社がある。  もとの道に戻り、左折した先の交差点、だるま薬局の角を右折すると、右側に旧東海銀行の建物の笠松歴史民俗資料館(9時〜17時、無料、月休)があり、笠松の歴史が紹介されている (右写真)
資料館で教えられて、笠松陣屋跡に向かう。  笠松町役場の反対側に入った奥だが、分かり
笠松陣屋 笠松県庁跡の石柱 ずらい所に、史跡 美濃郡代笠松陣屋 笠松県庁 跡の石柱が建っていた (右写真)
現在の笠松町は、天領だった中心部と南部の旗本領津田藩などからなるが、笠松陣屋は、このあたりの天領を管理するために幕府が置いたもので、 笠松県庁になるまでの二百年間、美濃国内の天領の管理と治水を行なったが、慶応四年(1858)笠松陣屋は朝廷の命で廃止され、笠松県の県庁となった。  明治四年(1871)には岐阜県の県庁となったが、その後、現在
杉山家住宅 の岐阜市(岐阜町)に移された。 歴史民俗資料館の対面に十六銀行があり、商店が多い。  この通りが、笠松のメーンストリートなのだろう。  笠松は、江戸時代から物資の中継地として栄え、明治時代に入ると、美濃縞織が盛んになり、美濃の商工業の中心として繁栄した、といわれるところだが、 その先右側にある漆喰壁に卯建つがあり、屋根神様がある杉山家は古い商家の住宅で、華やかだった時代を感じさせる重厚な建物だった (右写真)
木戸跡 隣の万代という造り酒屋は新しい建物だった。  そこを過ぎると、三叉路になり、吉田建具店の右下に木戸跡と書かれた木柱があった。  江戸時代には、笠松町の境を示す木戸があったようである。  直進すると川にでるが、右側の細い道を歩くことにした (右写真)
その先の右側には、誓願寺の石柱があり、その隣に石仏を祀った祠があった。  少し歩くと本願寺笠松別院があったが、境内の大きなイチョウは黄色く色付いてきれいだった。 
川灯台 道の先の堤防の石段を登ると、右手に木曽川橋が見えたので、堤防に沿って左に少し進むと、川灯台があった。  ここは木曽川を舟で渡っていた笠松渡船場跡である (右写真)
堤防から川の渡船場までは荷車などが土にめり込まないように石畳が敷いている。  江戸時代末から、大力車が認められるようになり、この石畳の上を荷物を乗せた車が行き交ったことだろう。  川灯台と少し離したところに、 右いせ道 左なごや道 すぐ京道・・・と刻まれた
道標が建っていた。 隣の案内板には、「 鮎街道は、名古屋街道とか、笠松道といった。 
道標 ここから伊勢参りの道が始まり、木曽川に沿って南に向かう。 西に進むと、京都への近道である。 」 とあったが、 字が消えかけたもう一つの案内板を見ると、 「 この道標は、天保四年(1833)、当時の庄屋、高橋久右衛門がこの西の坂を三十メートル程、下本町方へ下った辻に建てられたものである。 」  とあり、昭和の初期、坂が拡張された時、取り除かれて、後年、この場所に移転したものであることが分かった (右写真)
先程の木戸跡がそれで、小生が歩いた道が伊勢路で、直進する道が鮎街道(名古屋道)で、
芭蕉句碑 小生は遠回りをしたことになる。  なお、笠松陣屋は御鮨街道と伊勢路との追分に関所を置いていたようである。 ここは笠松町百周年を記念して整備された笠松港公園の一部である。  その先に、野ざらし芭蕉道の石碑と芭蕉の句碑が建っていた (右写真)
中央の大きな石碑には、 「 時雨ふれ 笠松へ着 日なりけり 」 とあり、左側には、
 「 春かぜや きせるくわえて 船頭殿 はせを 」 と、あった。 これらの句は野ざらし紀行で詠まれたものである。  木曽川ができたのは、天正十四年(1586)の大洪水による、という。 
石畳 慶安三年(1650)、美濃郡代岡田将監善政が枝広の大洪水による木曽川堤の復旧に便利な笠町(現笠松)に休憩所を置き、 寛文二年(1662)、郡代名取半左衛門によって、陣屋がここに移されたので、地域行政の中心、地方物資の集散地として、港のある港町は栄えていった。 
川畔まで下りてみると、大力車や馬車が荷を揚げたであろう石畳が残っていた (右写真)
明治時代になると、伊勢方面との交流が盛んで、桑名への定期小蒸気船が日に二往復し、
また、五十石船という大船が荷物を運んで、港の周囲には、問屋や倉庫、舟宿、料亭などが
煉瓦造りの旧橋台 多くあった、という。 こうした状況は昭和初期まで続いたが、鉄道と自動車の普及により、この川港の繁栄は終わりを告げた。  笠松港公園を後にし、木曽川橋を渡り始めると、左側に煉瓦造りの橋台が川の中に点々とあったが、これは旧国道 (現県道14号線)に架かっていた古い橋のものだろうと思った (右写真)
岐阜県と愛知県の境は、橋の中央かと思いながら歩いていったが、標識はなく、橋を渡り終えた先に愛知県との県境があった。 

宝江の渡しから山内一豊の生まれた黒田

木曽川橋 笠松まで運ばれた鮎鮨は、先程の笠松渡船場から宝江の渡しで木曽川を渡り、対岸の宝江の渡船場から一宮問屋へ中継され、名古屋宿へ運ばれた。  渡しは残っていないので、県道の木曽川橋の自転車、歩行者専用橋を渡る。 木曽川はさすがに広い (右写真)
車と分離されているので安心だが、自転車が来るので注意は必要である。  長い橋を渡り終えると、愛知県と一宮市の標識が現われた。 ここは、一宮市北方町宝江で、この地名から尾張側の渡し場は宝江の渡しといわれた。  渡り終えたところで県道と別れ、左側の細い道
高橋源左衛門の旧宅跡の案内板 を進み、行き止まりの交差点で左折し、堤防の道を行くと、突き当たったところに高橋源左衛門の旧宅跡の案内板が建っている (右写真)
『 高橋源左衛門は、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦前に、池田輝政が率いる一万八千の軍勢の木曽川越えを助け、 更に加納への近道を案内し、岐阜城攻めに比類ない軍功をあげたことで、黄金十両、刀一振、船頭給二十八石五斗が与えられ、 以後、宝江の御渡守として、苗字帯刀御免になり、明治初期まで続いた。 宝江ゲートボール場付近に屋敷があった。 』 
とある。 この場所から左に下ったところがそれに該当するが、渡し場もそのあたりにあった
宝江の交差点 のだろう。  案内板で右折すると、交差点があり、左右の道は車が頻繁に行きかう。  交差点手前右側に宝江渡し跡の石柱があり、その対面には、鉄の輪で覆われた大きな善光寺出張所の石柱の奥に小さな道標、岐阜街道の標柱などが建っていた (右写真)
宝江渡し跡の案内板には、 『 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に先立ち、岐阜城攻めが行われた際、東軍の先鋒、池田輝政が一万八千の軍勢を率いて、当地に到着するも木曽川越え
宝江渡し跡の案内板 は遅々として進まなかったのを高橋源左衛門と広瀬嘉右衛門の道案内により、滞留無く渡河できた。  戦後、二人には褒美として御船渡守とし、船頭給二十八石五斗と苗字帯刀の恩賞が与えられた。  慶長十二年、徳川義直が尾張藩主に就任すると、岐阜街道を改修し、この地から対岸への渡船を藩道とし、高橋、広瀬の両家が代々渡しを守った。  明治十一年(1878)十月二十五日、明治天皇御巡幸の際、両家は私費をなげうって船橋を架しましたが、翌年流失し、鉄橋架設に至るまで渡船を継続しました。 』 とあった (右写真)
なごや道道標 小さな道標には、文政十二年(1829)の年号があり、 「 左 なこや道 右 津しま起道   」 と、書かれている。  津しま起とは、津島と起(おこし)のことで、 起は美濃路の愛知県最後の宿場だったところで、津島は津島牛頭天王社と呼ばれた津島神社があるところである。  津しま起道は、右側の堤防道路のような道を行くのだが、 江戸時代には、伊勢をお詣りしたら津島神社を御詣りしないと片詣りともいわれたので、かなり賑わう街道だったことだろう (右写真)
岐阜街道の標柱には、その誕生のことが書かれていた。 御鮨街道はこの左側の下り坂を
南無阿弥陀仏碑 下りて行く。  道は右に曲がりながら、旧国道の県道14号に沿って進む。 北方中島交差点の右先の角に、南無阿弥陀仏の石碑が建っていた (右写真)
岡村自動車を越したところで、県道と合流し、県道をしばらく歩く。 中起交差点の右角にはスーパーHEIWADOがある。  交差点を越え、木曽川幹部交番前を過ぎると稲葉石材の看板があるので、ここで県道と分れて、クレストホール木曽川がある左側の道に入る。  右手にイオンモールが見える。 この道は二車線であるが、歩道はなく脇にわずかなスペースに線が引いて
名鉄黒田駅前付近 あるだけである。  どこに向かうのか分からないが、車が多い道である。 ゆるいカーブを切りながら、道は東に進路をとる。  名鉄黒田駅の左横を踏切で渡る。 ここは、旧木曽川町黒田で、こここからJR木曽川駅の先までが旧木曽川町の中心地である (右写真)
黒田には戦国時代から安土桃山時代にかけて、黒田城があり、山内一豊はこの城で生まれた、といわれる。 黒田小学校の一角に黒田城跡の石碑があるようだが、寄らないで進む。 
籠守勝手神社 続いて、JR東海道本線の岐阜街道踏切を渡る。 このあたりには往還南あるいは往還東の地名もある。 二又は右に進み、 焼肉の山力の先の信号交差点を右折し、御鮨街道は南に向きを戻した。 右側に入ったところに、JR木曽川駅がある。  その反対の左側の二つ目の道を三百五十メートル程行くと、籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ)がある (右写真)
神社の創建は不詳だが、延喜式にある尾張国葉栗郡黒田神社のことで、社名の籠守勝手
籠守勝手神社社殿 神社は黒田神社の古くからの通称で、明治時代初期に現在名になった (右写真-社殿)
社伝によると、『 履中天皇の崩御の後、大泊瀬幼武王(雄略天皇)は皇位を争って市辺押盤皇子を殺した。 その子の億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が、雄略天皇からの難を逃れて真清田へ向かう途中、当地に駕籠を止め泊まられたので、村人がこれを饗応した、と伝えている。  これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。  厄払い、豊年を祈願する祭で、千五百年以上の歴史がある。  神社に勝手に籠もり
法蓮寺 心より願をかけると、必ず成就するといわれていたので、以前は勝手に籠もって祈願することができたが、現在は行なわれていない。  』 と、あった。 
街道に戻ると、右に左に緩やかに曲がる道の両脇に、小さな商店が続いていた。  野府川(のぶがわ)という小さな川に架かる旭橋の手前を右に入ると、日蓮宗の法蓮寺がある (右写真)
山門の左手の植栽の中に、山内一豊公出生之地と刻まれた石碑が建っていた。  天文年間(1532〜1555)、岩倉城主、織田信康の重臣として黒田城主になった山内盛豊の三男として
山内一豊公出生之地碑 黒田城で生まれたのが、山内一豊であるが、弘冶三年(1557)、織田信長の夜討ちにあって兄の嫡男、十郎が戦死、更に永禄二年(1559)の岩倉合戦で父も戦死してしまう。  一豊は城を出て、各地に流浪したが、土佐の国主となった (右写真ー山内一豊公出生之地の石碑)
父と十郎の墓(宝篋印塔)は当寺の北側に現存している。 土佐山内家は、明治に至るまで、年々の代参と香花料の寄進を怠らなかった 、という。  野府川を渡ったところにツタハン
河野善龍寺 酒造があった。 少し歩くと、大通りに出たが、ここではクランク状に斜め左の狭い道に入り、直進する。  右側の屋敷門の先に立派な山門がある寺があった (右写真)
右側に明治天皇御駐輦之処の石柱が建っていた。  弘仁三年、伝教大師が建立した寺で、若栗山専修坊と号したが、真宗に改宗し、天正年間に現在地に移転、慶長八年に若栗山河野善龍寺と改称した寺だった。  諸堂の甍が連なる大きな寺だった。  明治十一年十月、明治
西蓮寺 天皇の東海北陸御巡幸の際、御小休所になった。  本堂の前には、明治天皇黒田御小休所の石碑が建っていた。  道の反対には、石仏を多く祀った大きな祠があり、隣に 奉安御分身 善光寺如来 葉栗郡出張所 の石柱があるが、奥のお堂は西蓮寺である (右写真)
そのまま南下すると交差点に出て、左側から来たやや太い道と合流し、その道を行く。 左側の石垣の上に、小さな愛宕神社がある。  その下には、天明八年建立の馬頭観音(?)が祀ら
二体の石仏 明治天皇の東海北陸御巡幸の際、御小休所になった。 本堂の前には、明治天皇黒田御小休所の石碑がれていた。  その先の交差点の角にも二体の石仏が祀られていた (右写真)
交差点の右側には、大きな地蔵堂があった。 街道の脇に、神社や石仏が多い野で、黒田は信心深い集落であると思った。  道は左にカーブすると、東海北陸自動車道のガードが遠く見えた。 ダイハツの販売店を過ぎると、家の間に稲田が見えた。 
この先で黒田集落は終わりである。 




                                           後半に続く(黒田〜四ッ屋追分)



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かうんたぁ。