『 岐阜街道(御鮨街道)(続き) 』




黒田から一宮宿 

毛織物を織る家 東海北陸自動車道のガードのところにくると家はなくなる。 ガードを潜り、東海道線に沿って歩く。  右手を名鉄の赤い電車とJRの薄茶色の電車が頻繁に行き交う。 濃飛倉庫運輸の手前あたりでS字のカーブ。  のこぎり型の屋根の家の前にきたら、毛織物を織る小気味良い機械の音が聞こえてきた。 このあたりは、旧木曽川町門間であろうか? (右写真)
その先から一宮市今伊勢町になる。 その先の左にカーブするところでは道路工事をして
石刀神社の石柱 いた。 道なりに進むと、左側に石刀(いわと)神社の石柱が建っていた。  石刀神社はここから六百五十メートル位先にある神社で、神社の歴史は古く、延喜式内社である (右写真)
社伝によると、 『 当地、馬寄(うまよせ)は往古今寄の庄といい、伊勢神宮に神戸として貢献された処で、 伊勢両宮を祀っていたが、その後、戦火などで社殿はなんどか烏有に帰したが、 関ヶ原の戦い後、徳川家康の命により、奉行吉田伊豆守が修復造営にあたり、尾張徳川家の保護を受けてきた。 』 、とあるが、 社殿は古墳の上に建てられているらしい。 
道の反対側には、サークルKがあるが、寄らないで進むと、県道190号に合流した。 
彼岸縄手地蔵 馬寄交差点は右折すると名鉄岩戸駅がある。  交差点を越えた先の右側にあるお堂には、古い昔、黒田村剣光寺の本尊として祀られていて、源頼朝が上洛した時参拝をした仏だが、南北朝の戦火で寺は焼失し廃寺になった。  永禄三年(1560)、お堂を建てて再建した、と伝わる尾張国六地蔵第一、彼岸縄手地蔵が祀られている (右写真)
両脇にはラーメン丸源や中の浜、餃子の王将などの飲食店やカントリーロード店が続くが、
野宮神明社 それを横目に見ながら歩く。  横断歩道橋の左側に今伊勢小学校があり、その隣の雑木林の中に、野宮神明社があった。  尾張名所図会には、伊勢斎宮の野宮をこの地に祀った、と紹介されている神社である。 樹木が紅葉しているので美しかった (右写真)
桜とイチョウのコントラストや地面の枯葉が秋の終わりを告げていた。 
それを眺めながら、しばしの休憩をとった。 新神戸交差点を越えて進むと、酒見神社前交差点にでた。  交差点の右側に、 「 酒造祖神 酒見神社(さかみじんじゃ) 」の標柱、そして、鳥居
酒見神社の鳥居 がある。 左側に皇大神宮御聖蹟の看板があったので、渡ろうとしたが、車の通行が多く、信号時間が短い。  あわてて交叉点を渡り、鳥居前にでた (右写真)
鳥居をくぐると、倭姫命十五番目御聖跡と書かれた案内板があり、 『 祭神は、天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男神、酒弥豆女神を祀る。  第十一代垂仁天皇の王女倭姫命が伊勢の地を求めて旅される途中、当村に渡来された際、村民の奉仕により、社が建築せられたのが、
酒見神社社殿 神社の始まりで、出来上がった社は、総丸柱で草屋根にて高く、後世に吹抜けの宮と呼ばれた。 現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫社である。  ・・・・ 』 とある。  参道を歩き奥に進むと、蕃塀の脇で落葉を燃やしている煙でもやのようになっていた (右写真)
酒見神社は、元伊勢の一つとされる延喜式内社で、倭姫命が滞在した中嶋宮の跡とされる。  『 倭姫命は、勅命を受けて、天照皇大御神をお祀する地を求めて旅の途中、尾張の神戸の地に立ち寄り、 現在の無量寺にあったといわれる神戸屋敷に泊り、御神体を宮山の此の地に
霊水 栄水の井 祀られた。 その時、村民の奉仕により、社殿が建てられたのが、酒見神社の始めである。 』 と伝えられる。  社殿の左手には、伊勢神宮への遥拝所があり、奥には小さな社が祀られていた。  その隣には、霊水 栄水の井と書かれた標石があり、丸柱の上に屋根を乗せた社が建ち、霊水 栄水の井からの水がしたたっていたので、柄杓で汲んで口に含んだ (右写真)
酒見神社は、その名前の通り、酒に最も縁の深い神社である。 『 千百年程前の第五十五
酒槽石 代文徳天皇の斉衡三年(856)九月、 遣唐使だった大邑刃自と小邑刃自の酒造師が勅命により伊勢皇太神宮より大酒甕を二個を携えて、当地に派遣され、伊勢神宮の 翌年の祭にお供えする御神酒を造らせた 』 、と文徳録にあるのが、我が国の清酒醸造の最初といわれる。  その時使用された磐船といわれる酒槽石が本殿の右手に保存されていた (右写真)
この神社は珍しく北面しており、鳥居から一直線上に目久井古墳があって、古墳は酒見神社
の祭神を葬ったところとの語り伝えがあるようである。 

一 宮 宿

大宮3丁目商店街 酒見神社を過ぎると、三叉路があるので、ここで県道と分かれ、左側の一方通行出口のある一車線の狭い道に入る。  日光川に架かる和田橋を渡ると一宮市の中心部に入る。 信号交差点を越えると大宮3丁目で、街灯だけが立派な商店街に思えた (右写真)
御鮨街道のこの先のルートははっきりしないが、最初の交差点を左折すると心證寺。  道を横断して進むと、九品寺幼稚園。 そこを右折し、斜めに横断する大きい道を越えて進むと、
真清田神社 大宮公園に出る。  ここには尾張一之宮の真清田神社(ますみだじんじゃ)がある。  真清田神社は、延喜式神名帳に、眞墨田神社として記載され、名神大社に列している神社で、古くより尾張国一宮とされ、地名の一宮は当社に由来する (右写真)
祭神については古くから諸説あるようであるが、最近は天火明命(あめのほあかりのみこと)とされている。  境内にある案内板にも、 『 当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊々
真清田神社 杵尊の御兄神に坐しまし 国土開拓、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばされた貴い神様であります。 』 とある。 
天火明命は、神武天皇三十三年、この地を尾張と名づけて開拓をしたという天香山命の父神で、その子孫が尾張氏とされる。  神門をくぐり、社殿前にでた (右写真)
奈良の葛城から尾張氏の祖先の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、祖神の天火明命を
服織神社 祀ったのがこの神社の起源とされる。 尾張氏はこの地から領土を拡大し、尾張国の国造となり、 日本武尊の妃として、宮簀媛命(みやずひめのみこと)を出すなど繁栄することとなった。 
本社の右側には、萬幡豐秋津師比賣命を祀る服織(はたおり)神社がある (右写真)
萬幡豐秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)は天火明命の母である。  神社境内は、戦前は深い森につつまれていたが、戦災を受けて現在のような姿になったという。 
真清田神社前 一宮は、真清田神社の門前町として発展した町であるが、平安の頃から、尾張国一宮と称されるようになった、といわれる。  阿仏尼の十六夜日記に、 「 一の宮といふ社を過ぐる 」 とあるのは当社のことで、江戸時代の御鮨街道も真清田神社の前を通っていた (右写真)
享保十二年(1727)にはじまる一宮の三八市は、この神社前の本町通りに露店を出した農民市で、日常品や綿の取引が行われた。  明治四年の伐採でテント張りの店があらわれ、明治
真清田神社交差点 十六年には楼門左右に高塀が築かれ、はねあげ店がひらかれていった。  逞しい商魂をつちかい、親しみ深かったこの市も第二次世界大戦で消え、わずかに門前両側に数軒の店が残るだけである。  神社の正面は真清田神社交差点で、対面に本町商店街がある (右写真)
立派なアーケードを備えた商店街を貫く道が御鮨街道で、江戸時代の一宮宿はここから伝馬町にかけてあったようである。  一宮は綿栽培が盛んだった尾西地方の綿の集散地だった
市神堂旧地跡碑 ことから、綿に関する店を中心に市が開かれた。  商店街の中心より南寄りにある大和證券一宮支店前に、三八市の市神を祀ったお堂跡を示す市神堂旧地碑がある (右写真)
真清田神社二の鳥居跡の碑もあったので、このあたりに二の鳥居が建っていたのだろう。  商店街の店の幾つかがシャッターを締めていたのは気になった。  一宮は昭和五十年頃までは全国から織姫が集まる街で、その頃は休みになると若い娘で賑わった。 七夕祭はそうした織姫の象徴であった。  新婚の頃近くに住んでいたので、新妻と七夕祭を見に行ったこと
伝馬通り を思い出したが、そうした活気は街から消えていた。  アーケードを出ると、交差点に出た。 左右の大きな道は、伝馬通りで、右に行くとJRと名鉄の一宮駅がある (右写真)
UFJ銀行前に一宮城跡の石碑があるが、真清田神社の神主も務めた関氏の居城跡で、近くの常念寺は菩提寺である。  この通りのどこかに、一宮問屋場があった筈だが、確認は出来なかった。  この問屋は鮎鮨を美濃路清洲宿へ送る重要な任務があった。  交差点を越え
地蔵寺 て歩いて行くと、左側にイチガシの老木が聳える地蔵寺がある (右写真)
行基の創建と伝えられる寺で、本堂、地蔵堂、八脚門、鐘楼、薬医門などの建物がある。  その先の豊島図書館南の交差点の左右の道は北園通りであるが、交差点を横断し、直進の狭い道に入る。  そのまま進むと、JRのガードへ行くが、左側のしきしまパンの店、ジョイスもりしま駐車場脇を斜めに入って行く。  その先には、地蔵堂再建とある小さなお堂が祀られて
一宮一里塚跡碑 いた。  少し歩くと、左側の文七鮨の先に交差点があり、そこを右折するのが御鮨街道であるが、左側対面の常夜燈の脇に、一宮一里塚跡の石碑が建っていた (右写真)
そのまま入って行くと、左手に公民館があるが、その右側には富士 諏訪 稲生 神社の石柱と鳥居があり、奥に進むと真清田神社御旅所の石柱があり、囲いがある。  左側には神輿台の石柱が建っていた。 その奥の社殿には、富士 諏訪 稲荷の神様が祀られている。  街道に戻り、文七鮨を右折すると殿町温泉という銭湯がある。 銭湯と角の建物との間に、真清田
大神神社 神社一の鳥居跡の石碑があるので、昔はここに真清田神社の一之鳥居が建っていたのである。  そのまま進むと、県道190号線(旧国道22号線)へ合流した。  少しの間、県道を歩く。 牛野通り交差点の越えた右側の狭い道の右側に郷社大神神社がある (右写真)
この狭い道が御鮨街道である。 

一宮から四ッ家追分

浅間社 この道は県道と並行するが、静かな道で、アパートや畑、そして小さな工場などが建て並んでいる。 途中に浅間社もあった (右写真)
この道はそのまま進むと、大江用水にぶつかった。 江戸時代、大江川に架かっていた筋違橋はなく、川の間際から廃道になっているので、手前で左折し、多加木北交差点に出る。 
従是六丁と妙興寺を案内する石標が建っていたので、立ち寄ってみた。  妙興寺は、長島山と号し、臨済宗妙心寺派に属し、如意輪観世音菩薩・釈迦牟尼如来を本尊とする。  貞和
妙興寺勅使門 四年(1368)、滅宗宗興(めつしゅうそうきょう)が創建した寺で、江南市の曼陀羅寺が南朝系なのに対し、 北朝の勅願道場とされ、足利義教も富士遊覧の折、立ち寄った寺で、四町四方に及ぶ広大な寺領を誇った。  明治二十三年(1890)の火災で主要堂宇を失ったが、その後再建され、寺領には鬱蒼たる樹木が茂り、今なお広い。  勅使門は、四脚門、切妻造、桟瓦葺の大型の門で、木柄も太く、大禅院にふさわしい本格的な禅宗様式の門だった (右写真)
この門は国の重要文化財に指定されている。 境内を一通り歩いた後、街道に戻った。 
津島神社 県道の多加木北交差点を右折し、大江川を渡り、交差点ですぐ右側の大江川沿いの道に入る。  川沿いを歩いて行くと、川の反対に変電所が見えてきた。  すると、名神高速道路があるので、それをくぐり反対側に出ると、多加木集落のはずれで、昭和六十一年建立とある、小さな津島神社の社が祀られていた (右写真)
道はこの先で左にカーブするが、そのあたりがは稲沢市との境のようである。  赤池西出町 県道に再び出た。 対面には愛松稲沢Uとあるマンションがある。 県道を斜めに越えると、稲沢市赤池西出町である。  右脇に尾西トラック輸送センターがある (右写真)
御鮨街道は、更に国道22号線と一宮ICへの連絡道路を渡るのだが、小生は間違えて連絡道路を進んだ。  地元の人に赤池南町と聞いたが、その人は他所から移り住んできたのか、知らない、という。  赤池村一里塚跡というと公会堂あたりになにか碑があった、という。 
、御巡幸之跡碑 案内されたのは赤池北公会堂で、左側には八剣社が祀られている。  公会堂と離れた草むらに、御巡幸之跡と書かれた石碑が建っていたが、昭和天皇は昭和二十一年十月二十三日に、このような草深いところを訪れていたのには驚いたが、 探していた碑ではなかった (右写真)
連絡道路を戻り、道を見るとガードレールで渡ることはできないが、その向こうに道が続いている。  御鮨街道は、その道だったのである。 見渡したところ近くに横断道路はないので、
赤池村一里塚碑 ガードレールを乗り越えて反対側の道に入った。  両側に広がる田畑の中の道であるが、車の通行もけっこう多い。 しばらくすると家も増えてきた。  道が左に大きくカーブする、道の右側は陸田一里町。 少し行くと、道は右にカーブするが、ここは三叉路で、左側にJAの支店がある。  左側は赤池南町で、交差点の左手前に二つの碑が建っていた (右写真)
右側の碑は何が書いてあるのか分からなかったが、これがどうやら赤池村一里塚碑のようである。  美濃路から分かれて最初の一里塚である。 左側の碑は昭和天皇御巡幸之跡の碑。 
山神社 ここは車と一緒で、直進する。 その先の三叉路は左側の狭い道を直進すると、下津光明寺町で、三叉路を直進して南下を続けると、左側に地蔵堂、その先に頓乗寺がある。  左手の野村家の前が高札場で、その先にも地蔵堂がある。  その先の交差点のあたりは下津新町(おりづしんまち)で、そこには山神社が祀られていた (右写真)
山神社がある交差点を左折し、JAがある県道155号線の信号交差点を渡る。 次の三差路
日吉神社 で右折して南進する。  下津集落は鎌倉街道の宿駅として開けたところで、この辺りの鉤型に道が曲がるのは条里制の遺構であるといわれる。  左に入ると阿弥陀寺や円光寺、円通寺などがある。 下津下町の交差点を越え、妙長寺の前を通り、井之口交差点で、また、県道を渡る。  道を進むと、道の右側を少し入ったところに日吉神社という神社がある (右写真)
JRの線路沿いに進むと、まもなく三叉路で出る。 ここは稲沢市六角堂東町で、前の左右
四ッ家の追分 の道は美濃路である。  江戸時代、美濃路と御鮨街道の分岐点だったことから、四ッ家の追分といわれ、ここには茶屋が数軒あり、うどんが名物であった、といわれる (右写真)
御鮨街道の終点は、名古屋市熱田にあった宮宿までという説もあるが、 岐阜街道はここで美濃路(美濃街道ともいう)と合流し、美濃路を歩くことになるので、御鮨街道(岐阜道)の追分であることは間違いない、と思う。  岐阜で作られた御鮨は、この後、清須宿で中継されて宮宿ま
四ッ家の追分 で運ばれ、宮宿からは東海道の問屋の運び手が昼夜を走り続け、五日目の夜には江戸城に到着した。  このようにして届られた鮎鮨を将軍様は年に何回食されたのだろうか?  大部分の御鮨は、将軍家からと重臣などに御裾分けされたと思うのは下司の勘ぐりか?  なお、道の角の石碑には、 『 下津、一宮、黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道、後の岐阜街道 と 稲葉、萩原、起を過ぎて、垂井へ向かう美濃街道との分岐点である 』 と刻まれていた (右写真)
御鮨街道を二回に分けて歩いたが、小生のようにゆっくりかつ寄り道しなければ一日でも可能に思えた。  

(岐阜〜黒田)                  平成20年11月
               (黒田〜四ッ家追分)                同年  12月



                               



かうんたぁ。