『 東海道を歩く  ー 枚方宿  』


枚方は、浄土真宗の順興寺を中心に、蔵谷、上町、下町などの町が作られた寺内町だったが、本願寺の勢力の後退とともに、順興寺は廃止され、寺内町は衰退。  江戸時代に入ると、幕府より岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の四つの村に対して、宿場の設置が命ぜられ、台地上にあった町は淀川沿いに移ってきた。  伏見と大阪の中間地点にあったことや三十石船の寄港地になったことで、幕末に向かって、大変繁盛したところである。  





淀宿から橋本

三叉路 平成二十二年一月十八日、今の時間は、十時過ぎだが、淀から枚方宿までは、三里十二町(13km)の距離なので、十分歩けるだろう。  淀新町バス停のある橋の先の三叉路を直進すると、府道15号と交差する信号交差点に出るが、東海道は直進する (右写真)
少し歩くと右側に西岸寺があり、このあたりは淀美豆町になる。  西岸寺を過ぎると、二つ目の交差点の手前にNTT西日本京都支店淀別館があるが、次の次の交差点を右折し、
古い家 細い道に入る。 八十メートルほど先の三叉路を左折すると、長い直線道路になる。 
この通りの両側には、古い家がところどころに残っている (右写真)
昔の街道の雰囲気を感じさせて道を歩くと、左側の圓通寺の先から、道はゆるやかな下り坂になった。  その先で住宅は途切れると、前方が急に開けて、一面が畑となる。 解放感ある畑の中を進むと、右からの道と合流。  道の右側の塀で覆われているところは、京阪
京阪電車のガード先の農道 電車の車両基地、左側には松ヶ崎記念病院があった。 病院を通り過ぎて京阪電車のガードをくぐると、すぐに道は二つに分かれるので、左側の細い農道に入っていく (右写真)
道はガードに沿って右にカーブし、左右は田畑、正面に京滋バイパスの高架橋と宇治川に架かる石清水大橋、 その先には旧京阪国道(府道13号)を走る車の姿が目に飛び込んできた。  七十メートルほど行くと、用水路があるが、そのあたりが京都市伏見区と八幡市の
境である。 東海道はこの先どのようになっていたのか? 江戸時代の木津川、宇治川
御幸橋橋柱 の位置も現在と違うし、巨椋池もあったので、これらを避けるように歩いたと思うが、どうなのだろうか?  とりあえず、対岸に渡らなければならない。  その為、用水路の脇の狭い道を歩き、京滋バイパスの石清水大橋の付近までくると、左手にある宇治川の堤防に上がる階段を登り、橋の下をくぐった。  そして、堤防の上の道を直進し、旧京阪国道(府道13号線)の御幸橋(ごこうばし)に出た (右写真)
現在、四車線化の工事が行われているが、宇治川にかかる大阪方面の橋は新築されたきれいな橋である。  歩道も付いているので安心して渡っていくと、右手の堤に沿って桜並木
御幸橋 が続いているのが見えた。 木津川に架かる橋は現在四車線化の工事中である。 
左側の橋は四車線化のため新造されたものだが、舗装工事中で使えない。  御幸橋の橋柱が付いている右側の古い橋が上下線に使用されている。  その為、ここで四車線から二車線に変わるため、車はのろのろ運転である (右写真)
橋の上から見える前方のこんもりとした山は、石清水八幡宮が鎮座する男山である。 
三叉路交差点 石清水八幡への参道は御幸道と呼ばれていたので、昭和五年(1930)に橋を架けた際、橋の名を御幸橋にしたという。  橋の先は三叉路で、正面の道路案内板には右大阪13号、左木津川市、京田辺市、直進京阪八幡市駅と表示されている (右写真)
信号と歩道表示に従い、三叉路を向こう側に渡り、左折して京阪八幡駅方面へ向かうが、この一帯は四車線化工事に関連して、変貌の真っ最中だった。  歩道は右にカーブし、その先は長い下り坂。 右側に八幡市営駐車場があるが、その先の交差点で、右折するのが
やわた走井餅老舗 東海道である。 ここで立ち寄る。  道を直進し、小さな橋を渡るとコンビニがあり、右手に京阪の八幡市駅があるが、直進すると右側に、やわた走井餅老舗がある (右写真)
「 明和元年(1764)、大津から山科に抜ける追分の茶屋で、走井の名水を用いて、井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことが起源で、 六代目の四男、井口嘉四郎が明治四十三年に、石清水八幡宮の門前で営業を始めた。 餅の形は、三條小鍛治宗近が走井の名水で
岩清水八幡宮一の鳥居 名剣を鍛えたという故事に因み、刀の荒身を表している。 なお、山科にあった本家は昭和の初期に廃業し、その場所には月心寺が建っている。 」    と、購入した菓子に添付されたパンフレットにあった。 餅は小ぶりだが、淡白でうまかった。  その先にある、八幡宮の幣額が架かった鳥居が、岩清水八幡宮の一の鳥居である (右写真)
岩清水八幡宮は貞観元年(859)の創建で、応神天皇、神功(じんぐう)皇后、比(ひめ) 大神を祀る。 承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)の乱、元寇等の際には 国家の危急を救う神として
南総門 朝廷の崇敬を受けた。  また、武家の守護神として源氏の信仰が厚く、その分社は全国に及んでいる。  石清水八幡宮参拝するにはその先の二の鳥居から七曲がりの坂などの坂道の参道を三十分程上るのが正式であるが、 八幡市駅の右手にあるロープウェイを利用すれば、五分で山頂駅、そこから五分歩けば南総門前まで行ける (右写真-南総門)
石清水八幡宮は、空海の弟子の南都大安寺の僧、行教律師が宇佐神宮に参詣した折に、
 「 われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん 」 との神託を受けて、清和天皇の
本殿 命により社殿を建立したのを創建とし、創建当時は、宇佐八幡宮と同じような本殿だったが、天皇家の崇敬を受け、大きな建物に変わっていった。  現在の建物は、三代将軍徳川家光により、寛永十一年(1634)に造営されたもの (右写真)
桧皮葺きの本殿は前後二棟から成る八幡造りという建築様式で、その前には幣殿、舞殿、楼門と続き、周囲を百八十bに及ぶ回廊が囲んでいる。  本殿をはじめ建物の全てが丹漆塗りで、随所に当時の名匠による極彩色の彫刻が刻まれている壮麗な社殿で、国の指定
航海記念塔 重要文化財である。  また、本殿の棟の間に架けられている黄金の樋は、織田信長により
寄進されたものである。 一の鳥居の前に戻ると、鳥居の手前に右に入る狭い道があった。  神応寺の看板があるその道を歩いていくと、右側に神応寺の標柱がある が、その先の右側、石段の上の小高いところに、巨大な五輪塔が建っていた (右写真)
傍らの案内板によると、 「 石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔) − 高さ6m、地輪一辺2.4m、全国最大規模の鎌倉時代の五輪塔で、 国の重要文化財に指定されている。 
神応寺本堂 摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の 帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるために立されたと伝えられ、航海の安全を祈って 参拝され、航海記念塔として称される。 」  とあった。  先程の神応寺標石のところから、石段を上って行くと、小高いところに、神応寺があった (右写真)
貞観二年(860)に石清水八幡宮を勧請した行教律師が応神天皇の霊を奉安して建立した寺で、後に天皇の号をはばかって神応寺と改めたといわれる。  明治維新までは石清水八幡
八幡市駅自転車駐車場 宮の神宮寺だったが、明治政府の廃仏棄却で現在の姿になった。 
先程の八幡市営駐車場の先の交差点まで戻り、旅を再開する。 
右側に八幡市駅自転車駐車場のベージュ色の建物があった (右写真)
古い家が残る細い道を歩いていくと、道は木津川へ近づき、その後は堤防沿いに進む。  この辺りは八幡市八幡科手という珍しい名前名で、左手奥の線路の向こうには、曹洞宗
常昌寺と書かれた看板と建物が見えた。 その先は三叉路で、直進する道は車が一台通れ
楠の大木 るかどうかという狭い道。  松ヶ崎記念病院から用水路に出て土手を上り、御幸橋を渡り、八幡市営駐車場の先で右折してここまで歩いてきたが、 江戸時代は、病院先の土手からこの先の樹齢千年近い楠の大木の堤へ直線で繋がっていたようである (右写真)
東海道分間絵図によると、淀宿で淀大橋を渡ると、堤の道になり、先程の土手のところからこの楠の大木の場所まで直進するように描かれている。 堤防ののり面にある楠の大木は
どんな思いで時の流れを眺めてきただろうか? このあたりは橋本尻江町で、道はその先
文政五年の八幡宮常夜燈 で民家に突き当たるので左折し、続いて、右折して橋本北ノ町を進む。  道の左側の民家前に文政五年の八幡宮常夜燈が建っていた (右写真)
少し歩くと、堤防が接近するところで、右側から道が合流し、大谷川に架かる橋を渡る。  三叉路で道幅のある道と合流したので、右折して進むが、このあたりは比較的新しい家が多い。  少し進むと、交差点で左折する道の方が広いところに出た。 
東海道は直進する狭い道だが、交差点の角の八幡市消防団の消防器具庫の右側には、
文政二年建立の道標 左に少し傾いている道標がある。  「 右八まん宮山道 是より十六町 」「 左大坂下・・ 」と書かれた道標は、 文政二年(1819)の建立である (右写真)
狭い道を直進すると、左側に豊影稲荷大明神を祀る神社があり、門や塀や庭木のある屋敷や白漆喰の家が建っていた。  その先には橋本郵便局や神社があった。 突き当たりは三叉路で、左折すると京阪橋本駅へいけるが、東海道は右折である。 この道を百メートルほど進むと、正面にトラックが国道の土手の上を走るのが見える三叉路に出た。 
柳谷わたし場道標 直進すると、淀川の堤防に出るが、大谷川に架かる橋の手前の民家の前に明治二年(1869)建立の 「 柳谷わたし 」 「 山ざき あた古わたし場 」 「 大阪下り舟のり場 」 の道標が建っている (右写真)
東海道は、三叉路を左折して進むが、ここは橋本中ノ町で、昔は遊郭があったところ。   橋本は伏見と大阪を結ぶ東海道(京街道)にあり、対岸の山崎とを結ぶ渡しの船着場もある
橋本遊廓跡 交通の要所だったので、江戸時代から料理旅館があったが、明治以降、大阪からの業者により遊廓ができた、というが、 今は古い建物が並ぶ静かな街という印象である (右写真)
遊郭は、京阪電車を利用してくる客で、大繁盛したということだが、昭和三十三年施行の売春防止法により、旅館やアパートなどに転業せざるをえぬようになった。  伏見の中書島遊郭もその時、廃業している。 家の窓ガラスにスナックの文字が残っていたり、格子や欄間、
欄間 玄関のタイル細工などに料亭や旅館だったことを示す装飾があったりして、遊郭後の飲食街への転換時期を感じさせるものだろう (右写真)
こうした家は橋本小金川町まで残るが、右側に、ゆサウナ 橋本湯の看板があるところが橋本の町外れで、 東海道は、その先は三叉路を直進した坂道にある京阪電車の線路のところで、途切れてしまう。  江戸時代の東海道は、この後、現在の府道13号の右側にある河川敷を歩き、久親恩寺の付近に出たようである。 


橋本から枚方宿

農道 東海道は京阪電車の線路で終わっているので、手前の小金川踏切を渡り進むことにする。  踏切から十メートル程先が、京都府と大阪府、八幡市と枚方市の境である。  十メートル程行くと三叉路で、右に入る農道のような小道があるので、入っていく (右写真)
右手には京阪電車が頻繁に行き来している。 正面にスモッグで煙る楠葉駅前の高層マンションが見え、それ以外は田畑が広がっているだけである。  道をのんびり歩いていくと、
久修園院 左手に黄色い塀に囲まれた、天王山木津寺 久修園院 ( てんのうざんこつじ くしゅうおんいん ) がある (右写真)
山門の前には、枚方市教育委員会の案内板があり、 「 天王山木津寺 久修園院は、真言律宗の寺で、奈良西大寺が本山で、この寺は別格本山。  本尊は釈迦如来。 霊亀二年(716)に行基により開基され、神亀二年(725)に落慶された、とされる。  多くの塔頭と伽藍を持つ大寺院だったが、元和元年(1615)の大阪夏の陣の兵火で、大半を失った。 
樟葉台場(砲臺)跡案内板 のち、江戸時代の延宝年間に宗覚律師により再建された。  寺には、枚方市有形文化財指定の宗覚律師作の天球儀と地球儀がある。 」 とあった。  街道に戻り、少し歩くと道の右手に少し入ったところに、戊辰役橋本砲臺趾の石碑が建っていた (右写真)
傍らの枚方市教育委員会の案内板には、 「 樟葉台場(砲臺)跡 慶応元年(1865)五月、江戸幕府は 大阪港から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、淀川左岸のここ
樟葉に台場(砲臺)を築きました。 この台場は関門の機能をも備えました。 設計の総責
石碑と案内板 任者には勝海舟があたり、築造には北河内の大工が総動員されました。  当時の設計図によると、土塁と堀に囲まれた約三万平方メートルの台場内には、カノン砲が三門、番所、火薬庫を備え、新しく造り換えられた京街道が通っていました。 」  とある (右写真)
砲台は、黒船が淀川を遡って京都への襲来を防ぐために造られたものだが、結局、黒船は来なかった。  戊辰戦争では、幕府軍の小浜藩が砲台を守っていたが、対岸の高浜砲台を
久親恩寺 守っていた津藩が官軍に寝返って、淀川を挟んで交戦状態になった。 さらに進むと交差
点となり、直進する道は広い道になった。  最初の三叉路を右折すると、右側に禅(曹洞)宗 久親恩寺の石柱があり、その奥にモダンな建物がある (右写真)
久親恩寺(くしおんじ)は、江戸時代、長州藩の参勤交代時の休憩処だったといわれる寺であるが、 コンクリートの建物になっていた。 石柱の左手には今にも崩れそうな門があった
石仏群 が、そこが建て替えられる前の山門だったのだろうか?  寺の奥の墓地には、石仏が刻まれた下に、八まん道と刻まれている道標や石仏が並べられて、祀られていた (右写真)
寺を出て先に進むと、京阪の線路に突き当たるので、そこは左折して、線路沿いに進む。  道の左側の金網越しに見えるのは楠葉取水場である。 その先の三叉路の辺りから両脇に住宅が建ち並び、道路がアンツーカー色に変わったが、 先程小金川踏切で途切れた東海道は、ここで復活したことになる。 このあたりは楠葉中町である。 

旧京街道(旧国道2号線)道標 更に歩くと、町楠葉に入り、道の左側に松栄山長栄寺参道と書かれた石柱が建っていた。  住宅が続く直線の道を歩いて行くと、電柱にある町楠葉一丁目の標識の近くの道端に、 「 旧京街道 (旧国道2号線) 」 と書かれた標柱が建っていた (右写真)
道は突き当たりになるので、直角に右折し、京阪電車の線路のところの三叉路で左折する。  その先の道路の色が変わるところで、東海道がまた消滅。 東海道は京阪電車の線路を斜めに横断し、反対側に出て線路沿いに進むのだが、現在は道がないのでこのまま
府道13号線 歩く。 二百メートルほど先のパチンコ店で、府道18号線が左右に通る交差点に出た。 東海道に出るため、交差点を右折して京阪本線のガード下をくぐる。  ガードの先は左右とも一方通行になっているが、この道が旧東海道で、先ほど京阪電車の踏切で別れた東海道がここで合流する。  道を左折すると、府道13号線(府道京都守口線)に出る (右写真)
左側に京阪本線樟葉駅と超高層ビルがあり、右手には淀川の看板と河川敷には楠葉パブリックゴルフ場のコースがある。 
樋之上交差点 府道13号線を京阪電車沿いに、河川敷を見ながら南へ歩いて行く。 千三百メートル程歩くと、道はゆるい下り坂になり、樋之上北交差点。  その先に樋之上町の信号交差点があるが、その手前に左斜めに入る細い道がある (右写真)
これが東海道で、左側に樋之上公民館があるが、その前を通り進んでいく。 しかし、住宅地の中を二百メートル 程歩くと、船橋川の土手にぶつかってしまう。 東海道は本来は直進するのだが、橋がないので、土手沿いに右に八十メートルほど迂回して、 府道13号線の
祠と道標 楠葉側道橋を渡り、川沿いに先程の土手の対面まで行き、二股になった道の右の方の坂道を下っていくと途中の土手に、地蔵を祀る祠があり、その脇に道標が建っている。  道標には、 「 八幡宮 参宮道  橋本へ一里 」 と書かれており、八幡宮とは先程訪れた石清水八幡宮のことである (右写真)
ここで、先程、川の対岸でなくなった東海道が復活する。  道は左右にカーブするが、上島
白漆喰の家 町の住宅の中を進むと、左に京阪電車の踏切のある交差点に出る。  線路沿いに進み、とうかえでの道を横断し、小さな橋を渡ると牧野下島町になる。  坂道になった道を上っていくと、右側の低くなったところに虫籠窓の白漆喰の家が建っている (右写真)
その先には踏切と京阪の牧野駅があるが、江戸時代の東海道は駅舎を斜めに横断し、穂谷川の西側の川沿いに出ていた。 
今はその道はないので、牧野駅の踏切を渡り、右に行くと右手に小さな明治橋があり、
牧野駅前踏切 穂谷川を渡る。 ここを左に行った所に片埜神社がある (右写真ー牧野駅前踏切)
片埜神社は、  「 垂仁天皇の時、野見宿彌が当麻蹴速を角力で破った功によりこの地を賜って、須佐之男命を祀った 」 と、社伝にある古い神社で、 豊臣秀吉は大阪築城の際に艮(東北)の方位にあたる此の社を、鬼門鎮護の社と定めて尊崇した、という。  古くは一の宮牛頭天王と称されていたが、明治以降、現在の名前になった。 慶長七年(1602)、豊臣
京阪電車の黄金町一丁目踏切 秀頼により造営された本殿は、国の重要文化財に指定されている。  明治橋を渡ると、途切れた東海道に出るので、左折して川沿いに南へ進む。 防垣内橋の先で川沿いの道と別れ、右の道を進み、 阪今池公園前を過ぎると左の入口に享和元年(1801)建立の常夜燈がある。 黄金町一丁目のはずれで、道は右にカーブし、京阪電車の踏切にでる (右写真)
なお、片埜神社への参道の両側にある常夜燈の台座の左側には 京都、右側には大坂と刻まれていて、道標の役割も果たしている。
三栗交差点 踏切を渡ると三栗(めぐり)一丁目。 住宅街を西へ進むと、右に浄土宗清伝寺、 その先の左の三栗郵便局前を過ぎると、府道13号線の三栗交差点に出る (右写真)
東海道は直進の狭い道に入る。 道は左にカーブし、三百メートル程行くと、 三栗南交差点で、府道13号線に合流してしまう。 吉野屋の前の農道と書かれた標識は東海道があったことを示しているような気がした。  府道を歩いて行くと、渚西交差点で京阪電車の線路
磯島交差点 沿いになり、御殿山駅の脇を通り、歩き続ける。  磯島交差点で、府道とは別れを告げ、東海道は左斜めの細い道に入っていく (右写真-自転車側に細い道がある)
三百メートル歩くとベージュ色の家があるが、その右側の道を進み、二百メートル程いくと、天野川の土手に遮られる。  天野川は、四條畷市を源流とし、淀川に合流する川で、流れが美しかった。 その姿は天上の天の川と見なされ、平安貴族があこがれる歌どころだった。  東海道には木橋が架けられていたが、紀州藩徳川家が参勤交代で渡る時は、上流
鵲橋 に土橋の仮橋が架けられた、という。  渡る橋がないので、右折して八十メートル程歩くと、鵲橋(かささぎばし)があった (右写真)
川に橋が架けられて後、中国の 「 天の川にかささぎの群れが集まって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをする 」 という七夕説話に因んで、鵲橋と呼ばれるようになったという。 
川を越えると、枚方宿である。 





後半に続く( 枚方宿 )



かうんたぁ。