橋を渡ると左折して、川沿の坂道を進む。
橋から八十メートルほど下ると、三叉路になり、そこには堤防をバックに枚方宿東見付跡碑や東見付の説明板が建っている (右写真)
天野川の対岸で別れた東海道は、ここからまた始まる。
慶長六年(1601)、江戸幕府は、岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の四つの村を枚方宿に指定した。
枚方宿は岡新町の東見付から泥町の西見付まで淀川に平行して、長さ十三町十七間(1477m)の長い宿場町が誕生した。
また、元禄二年(1689)には、旗本久美氏の長尾陣屋が設けられた。
枚方宿は、天保十四年(1843)に編纂された宿村大概帳によると、三矢村を中心に本陣
一軒、脇本陣二軒、旅籠が六十七軒あった。
東見附は天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵に囲まれた松が植えられていました。
元文二年(1737)の岡新町村明細帳によると、天の川には長さ17間、幅3間1尺の木橋が架かっていました。 」 、とある。
また、「 河内名所図会(享和元年ー1801) 天川 」 には
伏見方向へ向かう大名行列が天野川の橋に差しかかり、
見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれていた (右写真)
入ってすぐの左側に小野平右衛門住宅がある。
小野家は江戸中期より、村年寄と問屋役人という要職を務めた家柄で、当家には、正徳六年(1716)建築の古図と鬼瓦があるが、現在の建物は幕末だろうとのこと (右写真)
街道に面した広い間口の建物で、白漆喰の壁に袖卯建が上がり、表門口には揚見世や下げ戸が現存している。
このあたりには、江戸時代、左側に町飛脚、右側に郷倉があったはずだが、その跡は確認できなかった。
三百メートルも歩かないうちに、ラポール枚方前信号交差点から続く大通りがある交差点に出た。
交差点の左手には京阪枚方市駅がある。
交差点を直進すると、三叉路というか、変則的な交差点に出た。
駐車場の左の空間の一角に枚方橋跡の石碑が建っていた (右写真)
江戸時代の枚方橋は土橋だったようだが、石碑は二本あり、一つは枚方橋と書かれた橋柱の形をしているもの。
もう一つは安尾川枚方橋跡とある石柱で、道標を兼ねたもの
である。 交差点の地形から考えるとここは宿場特有の枡形になっていたのではないだろうか? 道なりに斜め左に進むと、正面に黄色いビルが見えてきた (右写真)
黄色いビルがある交差点まで行くと、京阪の枚方駅へ行き来する人が多い。
黄色い建物の一角には、正面に「右 大坂ミち」、側面に 「 右 くらしたき 是之四十三丁、左 京六リや王(わ)た二リ道」 、「願主 大阪 和泉屋次右衛門 近江屋又兵衛 綿屋伊兵衛 小豆
嶋屋勘右衛門」 とある文政九丙戌年(1826)十一月建之の道標だが、ここが京街道と磐船街道とのの追分だった。
左側のBARBAR SHIKITAの角には、宗佐の辻の道標が建っている (右写真)
宗佐の辻とは、油屋の角野宗佐の屋敷があったことからそう呼ばれたようで、 「 送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも 」 と俗謡にあるように、
遊郭から客が帰るときに遊女がこの宗佐の辻まで見送ったという。
交差点を右折し、江戸時代は岡村だった通りを進むと、ラポール枚方南信号交差点から続く大通りの交差点である (右写真)
交差点の右側にあるビルはSATYなどが入っているビオルネだが、その前に、京街道(枚方宿)、側面に←特別史跡百済寺跡の道標が建っていた。
枚方宿は京都伏見と大阪高麗橋のほぼ中間の二十キロにあり、陸上の交通の要衝として繁栄したが、幕末が近くなると、
船便により伏見から大坂までいく旅人が多くなり、枚方宿の経営は難しくなっていった。
ビオルネビルの脇を通るブロック舗装の歩道を歩くと、左側に岡本町公園があり、京街道と枚方宿という案内板があった (右写真)
「 枚方市は淀川に面して、古くから交通の要衝であったが、中世末に願興寺(願生坊)の寺内町として町づくりが始まった。
豊臣秀吉は淀川左岸に文禄堤を築いたが、その堤が、
江戸時代になって京街道になって整備された。 この公園の街路の飛石が旧京街道の中心線である。 ・・・ 」
と記されているが、歩道に色の濃い四角のブロックが一直線に敷かれているのは、そのことを示している。
ビオルネ側にあった、東海道 枚方宿の案内板には、東見附から西見附までの地図や主な史跡の案内が記されていた (右写真)
その先の交差点を横断して進むと、道幅も街並みもがらっと変わる。
通りの道幅は江戸時代当時の道幅のままではないかと思えるし、宿場を思わせるような情緒が残っている (右写真-右側の店は味噌屋さん)
交差点の先の左側には、宿場にマッチさせて、最近改装されたと思われる建物、マンションは景観を損なわないように建設されている。
そうして心使いが大阪に近い大都市で行われているのはうれしいなあ、と思いながら歩いていくと、交差点の先の三叉路の右側に、旧三矢村岡村の村界と書かれた道標が建っている
が、ここは岡村と三矢村の境界にあたる。
道標の隣には、「 妙見宮 」「 他力 」「 開運講 」 と書かれた文政十二年(1829)建立の常夜燈があった (右写真)
その先に見えるのは歴史を感じさせる建物である。 枚方の伝統的建物は、広い間口と出格子、漆喰塗りの連なる虫籠窓の構成で出来ている。
この通りの古い建物には、この伝統的な構成をしたものが多い。
江戸時代、三矢村は枚方宿の中心をなし、本陣や
脇本陣、問屋場など、宿場の機能の中核をなしていた。 三叉路の左側にある専光寺の
塀の一角には、枚方市が建てた高札場跡(札の辻)の道標が建っていたが、江戸時代にはその手前あたりに脇本陣があったようである (右写真)
そこから少し行くと、右側には白漆喰の壁に袖卯建のある建物があるが、江戸中期、享保
年間に塩問屋として創業した塩熊商店の小野家が店舗兼母家として使用していた建物である。
この建物はこの一帯が火災で焼かれた後の明治二十九年に再建されたものという。
現在は店舗部分を使い、くらわんかギャラリーという名前で、郷土品の展示や民芸品の販売を行っている (右写真)
くらわんかとは、淀川舟便の三十石船が枚方浜へ寄港すると、小舟で漕ぎ寄せ、船客相手に 「 さあさあ、飯くらわんかいっ! 酒くらわんかいっ! あん餅くらわんかいっ! みな起きくされっ! なんじゃい、
銭がのうて、ようくらわんか? 」 と、威勢のよい声で寝ている人までたたき起し、酒や飯を売り付けたかけ声のことである。
東海道五十三次を書いた十辺舎一九は、享保二年(1802)に三十石船とくわらんか舟を書いている。
また、広重の京都名所之内 淀川の浮世絵にも、三十石船に煮たきをするくわらんか舟が接近する様子が描かれている (右写真)
その先の交差点の先の右側は工事用塀に囲まれていた。 その角に枚方市が建てた本陣跡と淀川旧枚方浜への矢印の付いた道標が建っていた。
江戸時代、工事柵に囲まれた
一帯に池尻善兵衛家が営む本陣があり、江戸時代には御三家の紀州徳川家や西国大名
が参勤交代で宿泊し、幕末には第十五代将軍、徳川慶喜も宿泊した。
右側のマンションの角に、「 すく國道第二号路線京道 左枚方街道渡場 」と書かれた道標がある。
その先の左側には袖卯建が上がった旧家があり、三叉路の角に 「 大阪、京街道 旧三矢村 」 「 志賀美神社→ 」と書かれた道標が建っていた (右写真)
坂口医院の間の道を行くと、京阪の踏切の先を上った先に、願生坊や志賀美神社がある。
願生坊は、永正十一年(1514)、蓮如上人の子で本願寺第九世、実如上人が開基し、後に
願生坊となり、西御坊の浄念寺に対して東御坊と呼ばれる寺院である。
時間の関係から寄らずに進むと、坂口医院のすぐ先は右そして左に屈折する枡形となっている。
その角に西御坊の浄念寺がある (右写真)
門前に浄土真宗と枚方寺内町の看板があり、以下のように記されていた。
「 枚方は浄土真宗とゆかりの深いところである。
永禄二年(1519)に蓮如上人の子、実従が順興寺に入寺し、一家衆(本願寺宗主の一族)寺院として栄えた。 枚方はこの寺を
中心に、蔵谷、上町、下町などの町場が形成され、商人など多くの人々が住んだ。
このような真言寺院を中心とした集落を寺内町という。
本願寺勢力の低下とともに、順興寺は廃止され、寺内町は衰退した。 」 とある。
河内名所図会に描かれている万年寺は万年寺山の山頂にあった寺院であるが、明治の廃仏希釈により、廃寺になった。
寺内町は現在の枚方元町や枚方上之町にあったのだろう (右上図ー河内名所図会 枚方万年寺)
浄念寺の前を左折すると、枚方パークハイツ手前に道標があるので、鍵屋資料館の方へ
右折する。
この辺りは当時の泥町村で、少し行った右側に枚方宿問屋役人木南喜右衛門家の古い重厚な屋敷が建っていた (右写真)
旧枚方宿問屋役人 木南喜右衛門 屋号は田葉粉屋とある案内板には、
「 木南家は楠木一族の後裔で、江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、また、くらわんか船の茶船鑑札を所持し、枚方宿と泥町村の運営に大きな影響を行使した。
現在の建物は明治期の建築で、長い間口に出格子と虫籠窓が連なる伝統的な表屋造りで、広い敷地内に四棟の土蔵を配している。 」 とあった。
建物が建つ塀の角に枚方船番所跡の道標があり、右折した先に古い石柱が建っているのが見える (右写真)
道を挟んで淀川舟運 枚方浜(問屋浜)跡の案内板があるが、江戸時代にはこの辺りまでが
淀川の浜で、船高札場と船番所があった。
船番所では、淀川を往復する過書船、伏見船、二十石船の検閲を行っていた。
過書船とは、幕府が営業許可を与えた船が関所を
通過できる令状で、これを備える船である。
伏見船は、過書船の独占による弊害を断つため、新設されたもので、両者で荷の奪い合いが行われた。
街道に戻り、直進すると右側に鍵屋の軒行灯を掲げ、白漆喰の建物に垂れ幕を張った鍵屋資料館があった (右写真)
鍵屋は、淀川で京都と大坂を往復する三十石船の船待ち客や街道の旅人が泊まる船宿を営んでいた。
創業は天正年間(1573〜1592)というから古く、淀川三十石船唄に 「 鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ、三味や太鼓で船止める 」 と唄われた老舗である。
京阪電車
が開通して、船運がなくなった後は平成九年まで料亭を営んでいたが、平成十三年、市立枚方宿鍵屋資料館となった (右写真-内部)
現在の鍵屋の主屋は、文化八年(1811)の建築であるが、表玄関は京街道に面し、裏口は淀川に接した岸辺にあり、三十石船の乗降に最適な構造になっていた。
三十石船は、淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜を結び、二十八人の乗客を乗せ、それを船頭四人と臨時の引き子数人で川の上り下り行っていた。
淀川は底が浅いため、櫓は
使えないため、棹を操り、それで上れないところは岸から引いていた。
朝出て夕べに着く船を昼舟といい、夕べに乗って朝に至るのを夜舟といっていた。 伏見からの出航は夜に
出て、早朝に着くのが一般的だったが、その船が枚方へ寄港すると、くらわんか船が漕ぎ寄せてきた。
また、船宿にいる飯盛り女を目的に下船した旅人もいただろう。 この通りには白漆喰の壁に虫籠窓の家が残っていて、当時の雰囲気を伝えていた (右写真)
三十石船の運賃は、上りと下りでは労力に違いがあるため、船賃は上りは下りの2倍以上
であったようである。
また、享保の頃の下りは七十二文だったが、幕末の繁忙期にはその倍にもなったという。
夕日でまぶしい通りを進むと、交差点に出た。 江戸時代には、この角にかり(草かんむりに刈という字)捨高札場があった。
現在はその場所に西見付案内板が建っていた (右写真)
また、道の反対の坂道の歩道には堤町の道標が建っていた。 今日は中書島から歩いてきたが、枚方宿の西のはずれの西見付で、旅は終了である。
この後、京阪の枚方公園駅に行ったが、中書島駅に立ち食いそば屋があったのを思い出し、
途中下車して、きつねうどんを食べ、京都駅から名古屋へ帰った。
平成22年(2010) 1月