『 東海道を歩く  ー 伏 見 宿  』


江戸幕府の命令で参勤交代が行われるようになるが、幕府は西国大名が京都に入ることは望ましくないと考え、 大津宿から山科髭茶屋追分を経て、伏見に出て、京街道を行くように指定し、元和五年(1619)、京街道の沿線に 伏見、淀、枚方、守口の四つの宿場を設けた。 そのため、京三條大橋ゴールの東海道五十三次に対して、 摂津国高麗橋がゴールのこの道は、宿場が四つ増えるので、東海道五十七次と呼ばれる。  





山科追分から伏見宿

山科髭茶屋追分 東海道を歩き終えてしばらくして、東海道五十七次の存在を知ったのである。  大津宿と山科髭茶屋追分の間は、東海道と中山道で二度歩いているので、山科髭茶屋追分からの出発すればよいだろう。  平成二十一年九月七日、右ハ京みち、ひだりふしミみちと刻まれている道標がある三叉路から歩き始めた (右写真)
ここには蓮如上人碑も建っているが、京都府と滋賀県、大津市と京都市の境界になって
古い家 いる。 この三叉路の右側にある狭い道は京に向かう旧東海道、左側の道は伏見道(大津道)であるが、 江戸時代に東海道五十七次と呼ばれたのはこの道のことで、現在は府道35号線となり、通称は奈良街道である。  この道には漆喰壁の家が多く残っているが、道は少し曲がりながら、僅かに下っていく (右写真)
右側の家の庭に常夜燈や道標があったので、史跡と思い立ち止ったが、造園業を営む家が置き場にしているようと気付いた。  少し歩くと、シェルターをかぶった名神高速道路の
音羽病院 高架橋の下を潜ると、その先に信号交差点があった。 交差点を直進すると、満福亭の看板がある家の前から右にカーブした。  道なりに歩いて行くと、右側に音羽病院があり、病院正面前の道は三叉路になっている (右写真)
三叉路を左斜めに折れて進むと、右側に僅かばかりの田圃があるが、三百メートル歩くと、国道1号線に出た。  街道は国道の先に見えているが、横断歩道はないので地下道を通り反対側に出る。 その先の細い道を歩いていくと、田畑などの自然がまだ残っているところ
道標 にでた。 少し歩き山科川に架かる音羽橋を渡る。  五百メートル程歩くと、国道1号線の山科大塚交差点に出たので、国道を地下道で横断し、その先に続く狭い府道を進む。  この道はバスも頻繁に走り、車の往来が激しい。  東海道新幹線の陸橋の手前にある左側の家の前に、 ひだりおおつみち  みぎうじみち の道標が建っていた (右写真)
新幹線の陸橋を潜って少し行くと、右手のこんもりとした台地の上に二本の木が茂っていた。  囲いの中に入り、確認するとしめ縄が巻かれた木の切り株と皇塚という石碑が建って
皇塚 いた。 「 皇塚は山科区で一番古い六世紀前半頃と推定される古墳跡で、直径二十メートル程の円墳だったが、形は残っていない。  桓武天皇の墓という伝承もあり、大塚、王塚、皇塚などとも呼ばれていた。  付近の地名に大塚が付くのはこれに由来する。  」 というもので、古墳といわれればその気もするが、桓武天皇の墓にしては小さすぎる (右写真)
その先右側にファミリーマートがあった。 
妙見宮碑 南大塚バス停がある交差点の左角には妙見宮の石碑が建っていて、奥の山麓にある大塚の妙見寺に通じる細い坂道があった (右写真)
なお、 「 大塚の妙見寺は、平安遷都のとき都の四方を守護する四つの妙見寺の一つとして建立された由緒ある寺で、 妙見さまは古く奈良時代から方角の神様として信仰を集め、江戸時代には妙見詣りが流行った。 」 という。  交差点を過ぎると、右側に愛宕山常夜燈が建っているが、この先の伏見宿までには幾つかの愛宕山常夜燈を見ることになる。 
宝迎寺 「 東海道の遠州から三河にかけて、また、中山道でも美濃で多く見たのは秋葉山常夜燈だったが、 この地方では山城、丹波国境の愛宕山の山頂にある愛宕神社が、古くから火伏せ、防火に霊験のある神社として知られる。 」 
その先の宝迎寺は、浄土宗の寺で、境内には井原西鶴の好色五人女の一人、おさんと茂兵衛の墓があるのだが、長屋門風の山門の入口が柵でふさがれていた (右写真)
入ることはできないようなので、そのまま歩き始めた。 
岩屋神社の鳥居 このあたりには築地塀をめぐらせた民家も残っている。  七百五十メートル程歩くと、バス停の先の道が狭くなった左側に岩屋神社と書かれた大きな鳥居が建っている (右写真)
鳥居をくぐって岩屋神社への参道を歩いて行くと、右側にコンビニがある交差点があるが、 そのまま進むと名神高速道路のシェルター付きの陸橋があるので、その下をくぐる。 
正面の石段を登ると両側に民家があるが、直進すると両側に常夜燈が建ち、鳥居には岩屋
岩屋神社拝殿 神社と書かれたところに出た。  神社までは五百メートルと聞いていたが、予想した以上に時間がかかったような気がした。 
鳥居の石段を上り、神門をくぐると、奉納された提灯が付いた拝殿に出る (右写真)
「 岩屋神社は、仁徳天皇の三十一年(343)に 本殿背後の山腹に陰陽の巨岩を磐座として祀ったことが始まりとされる。  宇多天皇の寛平年間(889〜898)に、物部氏系の大宅氏が山科を開拓するに当たり、磐座に祖神の栲幡千千姫命、天忍穂耳命を祀り、岩前の小祠
笠原寺 に饒速日命を祀ったものである。 」 という案内板があった。   本殿でお参りを済ませ、左側にある奥の院と岩屋不動の石柱を見ながら進むと、自動車が通れる道にでた。  車道を横断して進むと石段の両側に、南無金剛大師遍照と書かれた赤い幟が翻っているのは笠原寺である (右写真)
川崎大師京都別院と書かれている。 東海道を歩き、川崎宿で川崎大師に寄り道をしたのだが、ここで川崎大師の名の寺に出会うとは思わなかった。 
大宅一里塚跡 ここから引き返すことにして、坂を下り、先程の岩屋神社の大きな鳥居のところまで戻った。  数百メートル歩くと、交差点を越えた右側に京阪バス大宅甲の辻のバス停があり、交差点の角には高い榎の木が聳えるように立っていた (右写真)
ここは、日本橋から百十九里目の大宅(おおやけ)一里塚で、広場の奥には岩屋神社御旅所の大きな石碑がある。  御旅所とは、祭礼の時神輿がしばらく留まるところである。 
バス停の左側には愛宕常夜燈が建っていた。 
道路標識 その先の信号交差点を越え、名神高速のガードを潜る。  道は登り坂となるが、直進すると、 前方に宇治六地蔵と小野への分岐を示す道路標識が見えてくる (右写真)
標識の先の信号交差点を右折し、府道35号線に入る。 左にカーブすると、右手に山科警察署が見えるが、 道は右にカーブし、緩やかな下り坂を道なりに歩いて行く。  対向二車線の道は狭く、歩行帯もないので、溝の蓋の上を歩いていく。  六百メートル程歩くと、右側に小野葛籠尻町の広報板があり、そのそばに愛宕常夜燈が建っていた。 
高川の交差点 道をそのまま進むと、左側にPANASONICの看板がある電気店があり、その先に信号交差点があり、伏見道はここを右折するのだが、 交差点の奈良街道の標識を見ながら、考えることもなく直進してしまった。   ここは高川の交差点と呼ばれ、交差点の左右に流れる用水のような川が高川であるが、この時は川の存在も気付かなかった (右写真)
坂を下ると、小野御霊町の信号交差点があり、道の向こうに大本山随心院門跡の看板があったが、 「 随心院は真言宗善通寺派の大本山で、仁海僧正が正歴二年(991)に創建、
随心院山門 もとの名は曼荼羅寺といったが、その後、同寺の塔頭として随心院を建立し、後堀河天皇より門跡寺院の宣旨を受けた。 」 という寺である。 
交差点を越えて少し歩くと、左手に随心院の山門がある (右写真)
このあたりの小野の地名は、古代に小野一族が栄えたところで、仁明天皇の更衣だった小野小町も宮中を退いた後、この地で過ごしたとされ、 随心院の境内の薄暗い木立の中には
化粧井戸 小町塚、侍女の塚や深草少将の手紙を埋めたとされる文塚がある。  小野小町が住んでいたという屋敷跡には、小町が使ったと伝えられる化粧井戸があった (右写真)
勧修寺は春の醍醐寺の花見で来ていたので、建物には入らず伏見街道との分岐点を探すため、道を引き返した。  どこだろうと探していると、用水のような川が左右に流れている交差点を見つけた。 信号交差点であるが、地名表示もないので見付づらい。  交差点を高川に沿って西へ向かうと、外環小野交差点があり、ここには地下鉄小野駅があった。 
勧修寺道標群 交差点を直進すると、しんたかがわはしがあり、その先二百メートルのところには、山科川にかかる勧修寺橋がある。  橋を渡ると、左側に二、三軒の古い家が残っている。  その先は三叉路で、伏見街道(府道35号線)は左折するが、 道の正面の勧修寺の門前の小高いところには、愛宕常夜燈、道標など大小四つの古い石碑が並んで建っている (右写真)
愛宕常夜燈には仁王堂町の銘があり、その隣の道標には、文化元子九月、  南 右大津
 左京道 北 すくふしみ道 と刻まれている。   その隣の小さい道標の内容は飛ばして、
八幡宮の鳥居 左の道標には、 右 坂上田村 麿公墓 山科 左 深草小栗 と書かれていた。 勧修寺前の府道を進み、最初の信号交差点を右折して坂道を上って いくと、左側に八幡宮の鳥居が建っているが、 吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)とも呼ばれる神社である (右写真)
八幡宮は小野の地の産土神で、平安時代の仁寿三年(853)の創建と伝えられ、江戸時代まで勧修寺の鎮守社だ った。 吉利倶八幡宮の名は、かって境内の老杉が倒れたため、材木にしようと裁断したところ、切断面に梵字の 吉利倶の三文字があったことに由来する。
宮道神社 元禄八年(1695)の建築とされる本殿はここから六百メートル先にあり、江戸時代中期の大型の切妻造平入本殿 の形式を伝えるものとして京都市の指定有形文化財になっている。  道の右側にあるのは寛平十年(898)に創祀された宮道神社であるが、宇治郡を本拠とした宮道氏の祖神、宮道弥益と 日本武尊とその子の稚武王を祀っている (右写真)
宇治郡司宮道弥益は醍醐天皇の生母藤原胤子の祖父にあたり、その邸を寺にしたのが勧修寺と伝えられる。  なお、交差点を直進する道は旧奈良街道で、醍醐寺の前を通るので
高速道路下の道 醍醐街道とも呼ばれている。  坂を上っていくと三叉路の勧修寺下ノ茶屋町交差点で、直進すると右側に名神高速道路のシェルターが圧迫するように迫ってきた (右写真)
道は高速道の左側に沿って進んでいくが、左側の風景は殺伐としたものだった。  しばらく歩くと、左側に勧修寺観光農園などのぶどう園があり、数は少ないかお客の姿が見られた。  少し歩くと、道は高速道路と別れて左にカーブしていく。  ここまでは山科区勧修寺南大日
京都ピアノ技術専門学校 で、この先は伏見区深草馬谷町である。 この間の高速道路下の道は一キロ半位だったろうか?  左側に大岩神社自動車道入口の石柱が建っていたが、 そのまま坂を下って行くと、三叉路の右側に京都ピアノ技術専門学校の建物があった (右写真)
この建物の先に右に入る細い道があるが、これが旧伏見道である。  ここで歩いてきた府道と別れてこの道に入る。  このあたりは一昔前には農業が営まれていたところのようで、賃貸住宅が多く建てられていたが、今でも野菜を作っている畑が見られた。  その先には
道標 古い立派な家もあったが、道なりに五百メートル程進むと、深草谷口町交差点である。 
交差点手前の用水の橋を越えた右側に宇多天皇皇后御陵と仁明天皇御陵の道標が建っている。  また、霊場深草毘沙門天の道標もあった (右写真)
霊場深草毘沙門天とは本尊の阿弥陀如来が深草毘沙門天とも呼ばれていることによるが、北側の深草鞍ヶ谷町にある浄蓮華院に祀られている。  文政四年(1821)、比叡山の僧、尭覺(ぎょうかく)上人が有栖川宮韻仁親王の命により、桓武天皇の菩提のために建立した寺院
坂道 である。 
交差点で右折し、合流した府道35号を歩くと、前方にJR奈良線のガードが見えたが、伏見道はそこまでいかず、 百五十メートル先の左側に右にカーブしていく坂道に入る。 右側の家の軒下に銀平と書かれた家がある (右写真)
寿司屋だったようだが、脇看板の店名を示す板が外されていたので、廃業したのだろう。  
古い家 坂を上り、道なりに進むが、このあたりには連子格子で虫籠壁の家や造園業の大きな家など、古い家が残っていて、古の街道を歩くような雰囲気が残るところである (右写真)
坂の入口から二百五十メートル程歩くと、T字路につきあったので、右折し、ほんの少し歩くと、直進する狭い道と左折する車が通れるやや広い道の三叉路に出た。  ここにも道標のような類はないので、道なりに左折して歩く。  左側にうっそうとした木立が見えたのは天理教山国大教会で、反対側にはJR奈良線が通っている。 
東寺町バス停がある三叉路 JR奈良線を跨ぐ陸橋に斜め右に入り、陸橋を越えると、右折と直進の三叉路である。  左側に東寺町バス停がある直進の道を選び、線路沿いに進む (右写真)
二百五十メート程歩いた交差点の左手にはJR藤森駅とJR藤森駅駐輪場の看板が見えたが、伏見道はここで右折し、長い坂道を下っていく。  右側に京都教育大学の看板があり、その先には藤森神社の標柱と常夜燈、そして、正徳元年(1711)の銘のある石造鳥居が
藤森神社 建っていた。  案内板には、「 藤森神社は、神功皇后が、軍旗や武具をこの地に埋めて、祭祀を行ったのが起源で、 平安京を開いた桓武天皇も弓兵政所とした、と伝えられることから、昔から武家の間に武神として崇められてきた神社である。  そうしたことから、 大名行列が神社前を通るときは槍を横に倒して歩いたといわれる。 」 とあった (右写真)
坂道が終わると藤ノ森小学校があり、そのの前を過ぎると、信号のある三叉路に出たので、
琵琶湖疎水 伏見道はここで左折した。 この通りは藤森商店街であるが、小さな昔風の商店が軒を
並べていた。 道幅は狭く車がすれ違うのは注意がいるので、のろのろ運転である。 
百五十メートル程先の墨染交差点で右折して、墨染通を進む。 
京阪本線墨染駅の踏切を渡ると、黒染橋が架かる琵琶湖疎水が流れていた (右写真)
墨染橋を渡った左側には墨染寺がある。 桜寺とも呼ばれる日蓮宗の寺院である。 
墨染寺 平安時代の歌人、上野岑雄が、関白、藤原基経が亡くなったのを哀しんで、古今和歌集の中で、   「 深草の 野辺の桜し 心有れば 今年計りは 墨染に咲け 」 と詠んだところ、本堂前の桜が、薄墨色に咲くようになったので、  墨染寺と呼ぶようになった、と伝えられる寺である (右写真)
伏見墨染郵便局前を進むと、右から左への一方通行のある交差点で出るが、ここが東海道五十五番目の宿場、伏見宿の入口である。 




後半に続く( 伏見宿 )



かうんたぁ。