『 東海道の終着点 ー 京三条  』


大津から京三条への道は、山を二つ越えるのである。 
大津と山科を隔てる逢坂山は、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところである。 
山科を過ぎると、三条通を通るが、天智天皇御陵の先で、坂になり、蹴上に下っていく。 
三条大橋を渡ると、長かった東海道の旅は終わる。





大津宿から山科

妙光寺 平成20年4月21日、大津宿の探訪が終わると、ゴールの京都三条大橋は目前である。 札の辻から国道163号を国道1号に 合流するまで歩き、その後は国道1号を歩く。 右側に、南無妙法蓮華経の石碑があり、妙光寺の石柱の先には、京阪電車の線路 が横ぎっていて、妙見大菩薩と、あった (右写真)
右側の東海道線のトンネルは、左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた
年代が違うトンネル 煉瓦製で、鉄道開通から、百年以上が経つが、今も現役である (右写真)
山科までは東海道の古い道はなく、国道を歩くことになるが、通過する車の数は半端で
はない。  少し歩くと、右側に、蝉丸神社下社の常夜燈と石碑があり、線路の向こうに鳥居があるので、踏み切りを渡って、境内に入った。  蝉丸神社は、音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと、地方興行ができないほどの権力を持っていた、と いう。 現在の
蝉丸神社 神社は、ここにあった蝉丸を祭神として祀る蝉丸宮に、江戸時代の万治三年(1660)、現社殿が建てた時、街道筋にあった、猿田 彦大神と豊玉姫命を合祀したものである (右写真)
境内には、「 これやこの  行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 」 という歌碑があった。  京阪電車の踏切りを渡ると、右側の小高いところに、安養寺がある。 
安養寺 蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりの名号石があり、また、国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安 置されている (右写真)
ここから、逢坂山の登りになる。 逢坂(おうさか)の地名は、日本書紀の 神功皇后の将軍、武内宿禰が、こ の地で忍熊王と出会った、 という故事に由来する。 平安時代に、平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、関を守る鎮守とし て、関蝉丸神社と関寺が建立された。 
蝉丸神社上社 なお、関蝉丸神社は、蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことである。 寺の入口に、関寺旧跡と表示した教育委員会の木札があるので、日本書紀の関寺はここにあったのであろう。 
この先、右側には歩道がないので、左側を歩くことになる。 右が国道、左が京阪電車に挟まれた狭い空間を歩くと、右側に、赤い鮮やかな鳥居の蝉丸神社上社が見えてきた (右写真)
弘法大師堂 天皇の皇子だった、という設定の謡曲、蝉丸があるが、蝉丸の生い立ちははっきりしないが、盲目の琵琶の名手だったことは間違 いないようである。 それはともかく、逢坂の頂上近くの右側の民家のような建物には、逢坂山弘法大師堂の木柱が建っていて、 小さな祠が幾つかあり、石仏が祀られていた (右写真)
また、建物から少し離れた左側に逢坂常夜燈が建っているのが見えた。 
関址の石碑と常夜燈 坂は、右にカーブをしながら頂上に至るが、東海道は、ここで国道と別れ、右側の道を行くことになるので、歩道橋で国道を越え て、右側に出た。 国道を少し大津方面に下ると、逢坂山関址の石碑と 逢坂常夜燈が並んで建っている (右写真)
常夜燈には、寛永六年建立と刻まれていて、先程遠目で弘法堂の脇に見たものと同じもののようであった。 歩道橋まで戻り、旧 道に入ると、うなぎ日本一の看板が大きく掲げられていた。 かねよという鰻料理の老舗の店で、料亭とレストランとかなり大きい。 
蝉丸大明神 少し先の右側に、 蝉丸大明神と書かれた常夜燈があり、小高いところに、もう一つの蝉丸神社があった (右写真)
江戸時代には、このあたりに、立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った走井餅が評判だった、とあるところである。 東 海道は短く、すぐ終わり、国道に合流してしまった。 国道の左側に歩道があるので、それを歩くと、民家の前に石柱があり、 大津算盤
大津算盤石柱 の始祖、月岡庄兵衛住宅跡とあり、庄兵衛は慶長十七年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始し た。 最近まで子孫の方が住んでいた、 とあった。 今や、そろばんは時代の長物化した感があるが、当時はパソコンの到来 くらいのすごいものだったのだろう (右写真)
坂は下り坂なので、快調であるが、このあたりは、 旧寺一里町で、江戸時代には両脇に一里塚があったところである。 左手の 月心寺は、橋本関雪の別荘跡といわれる。 
伏見道追分 名神高速道路をくぐる。 道が少しごちゃごちゃしている感があるが、左に入っていくのが東海道で、国道1号とは、ここで別れ る。 道の北側が大津市追分町で、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、 滋賀県と京都府の県境である。 
少し歩くと、三差路があり、伏見道の追分に出た (右写真)
伏見道は、伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道だった。 大名が京都
道標と石碑 に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け、伏見道を使ったのである。 東海道名所図会に、 追分 ー 村の名とす。 京師・大坂への別れ道なり。 札の辻に追分の標石あり 、と書かれているが、道標は今も残っている (右写真)
道標には、 みきハ京みち、ひだりふしミみち と、刻まれている。 隣の蓮如上人の石碑には、 明和三丙 と、刻まれていたが、 途中で折れたものか?、かなり小さかった。 
(ご参考)伏見道については、東海道 伏見宿をご覧下さい。 
  右側の京都への道は、車は一台しか通れない巾なので、一般車は進入禁止になって
閑栖寺 いるのに、気づかないのか、知っていても平気なのか、通りぬけていく車があった。
右の東海道を歩くと、右側の閑栖寺の門前に、東海道、京三條 と刻まれた道標と車石があり、寺が作成した説明板があった  (右写真)
逢坂山は、大量の荷物の輸送があったので、牛馬車が使用されたが、急坂なので難儀していた。 文化弐年(1806)三月、京都の 心理学者、脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案。 近江商人の中井源左衛門が、一万両の財を投じて、大津から 京三條まで、花崗岩に
車石のレリーフ 轍を刻んだ敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにした。  右写真は、当時の様子を描いたものだが、このあたりは車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側に人や 馬が通る道があった、という。 これに費やした一万両というお金は半端なものではないが、文化文政時代ごろから商人の経済力 が強くなり、政府に頼らず自分で行う動きがでてきたが、これもその一つである。 
橋の上から見ると 近くのお寺の庭にも、車石があったが、これらの車石は、道路工事で取り外されたのを残してきたもので、歴史的に価値があるな あ、と思った。  横木1丁目で旧道は終わり、国道にでた。 東海道は国道の反対側に続くので、横断歩道橋でこえる。 橋から来た方角を見る と、京都東ICへの道や北国街道への道などがあり、壮観だった (右写真)
これで逢坂山は越えた。 

(ご 参 考)  東海道での物資輸送
江戸時代には、幕府の政策で、物資輸送に馬車や牛車を使用することが禁じられ、また、幕府が直轄する五街道では、問屋を利用 した運搬しか認められなかった。 江戸時代初期は、それでも良かったが、元禄以降、文化文政になると、商業が発達し、全国的 な物資の移動が始まった。 その輸送に使われたのが海運で、樽廻船や菱垣回船がそれである。 江戸末期になると、東海道での 物資輸送がこれまでの方法ではパンクし、問屋から荷車の使用が要求されると、幕府も認めざるを得なかった。 中山道の垂水宿 では、手押し台車の使用が許可されたが、琵琶湖からの物資と東海道、中山道からの荷物が集まる大津では、それでは捌くことが できないので、牛車や馬車を使うことが許された。 

山科(やましな)

三井寺観音道道標 陸橋を下り、少し行ったところに三井寺観音道と刻まれた道標があった。 三井寺は、長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受 け、大きな敷地を有する。 この道は、前述した長等神社の脇から小関越をする道で、ここが分岐点(追分)で、北国街道を利用す る人はこの道が近道になったことだろう (右写真)   (注)  後日、小関越道を 歩いたので、ご覧下さい。 
このあたりは横木1丁目でまだ大津市の領域で、四ノ宮町に入ると、京都市山科区に変った。 一部古い家があるが、地下鉄の開 通もあって、山科の景観は一変しつつある。 道の右側に、
徳林庵 二つの石柱が建つ寺は徳林庵。 南無地蔵尊と書かれた石柱は、京都六地蔵の一つ、山科地蔵(四宮地蔵とも 山科廻り地蔵ともいう)のことで、地蔵は六角堂の中に安置されている。 小野篁(おののたかむら)により、仁寿 弐年(852)に作られた六体の地蔵尊像の一体で、最初は伏見六地蔵の地にあったが、西光法師によりここに移され、東海道の守護 佛となった (右写真)
毎年八月二十二日、二十三日に、六地蔵巡りの行事が行なわれる (詳細は巻末参照)
手水鉢 手水鉢には、丸に通の字が彫られ、裏には「定飛脚、宰領中、文政四巳年(1821)」と彫られている。 これが日本通運の丸通に なったといわれるが本当だろうか? (右写真)
もう一つの石柱に、人康親王(さねやすしんのう)墓所とあるが、寺の脇の道を奥に行くと十禅寺があり、その 隣に墓がある。 人康親王は蝉丸という説もあるようで、徳林庵は親王の子孫が開創した寺という (人康親王は巻末参照)
諸羽神社鳥居 その先の右側に、諸羽神社の石標と鳥居があったので、寄り道をする。 
線路を越えた先に、更に鳥居があり、その奥に青い屋根の社殿があった (右写真)
諸羽神社は、延喜式の式内社なので、神社の歴史は古い。 神社の説明では、 祭神の天兒屋根命と天太玉命が、禁裏御料地の山 階郡柳山に降臨座されたので、楊柳大明神と奉称された。 二神は、天孫降臨の時、左右を補佐したことから、両羽大明神と称 し、清和天皇の
諸羽神社 貞観四年(862)に、御所により社殿が造営され、裏山は両羽山と称するに至る。 永正年間に、八幡宮と若宮八幡宮を合祀したこ とから、諸羽神社と改称した と、あり、これが四ノ宮の地名の由来である、とあった。   社殿は二度の火災に遭い、現在の社殿は明和五年に再建したものである (右写真)
お参りをすませ、奥に行くと、山科疎水が流れていたが、橋を渡り、緩やかな上り道を
毘沙門堂入口 行くと、毘沙門堂の入口に出た。 橋の形の先に、毘沙門堂門跡の石標と常夜燈が建ち、石畳が続いているが、車道に架かる橋の 上には、極楽橋とあり、後西天皇による勅号で、明治以前はどんな高貴な方でもここで下乗され、参拝した、とあった (右写真)
その先はけっこう急な石段が待っていた。  寺の説明によると、毘沙門堂は、大宝三年(703)、行基によって、出雲路に創建さ れた出雲寺と号する天台宗の五門跡の一つである。 
毘沙門堂 室町以降の度重なる戦乱により荒廃し、岩倉や大原などに移転したが、天正年間に堂宇が全焼。 寛文五年(1665)、天海僧正によ りこの山科の地に再興された、 とある。 お堂の前には、しだれ桜があったが、もみじの多い山寺でいい雰囲気である、 と紹 介されているので、秋にもう一度来たいと思った (右写真)
街道に戻る道に瑞光院という寺があった。 山門の脇の説明板には、慶長十八年(1813)、
瑞光院 因幡国若桜藩主、山崎家盛により、浅野長政の旧蹟に創建された寺で、山崎家が無嗣により断絶すると、赤穂浅野家の祈願寺と なる、とあった (右写真)
更に、元禄十四年(1701)三月、浅野長短は吉良上野介に刃傷し、浅野家は断絶。 同年八月、大石良雄は当寺に長短の衣冠を 埋め、亡君の石塔を建立し、墓参の都度の同志との密議のところとなる。 元禄十五年十二月の赤穂義士による吉良邸討ち入り、 本懐を遂げて後、
毘沙門堂道道標 義士四十六士の髻を寺の住職が預かり、主君の墳墓の傍らに埋めたのが遺髪塚とあり、赤穂義士のゆかりの寺であることを知った。 
その先の左側の民家前には、左毘沙門堂道と刻まれた道標が建っていた (右写真)
鉄道のガードをくると、先程の東海道の先に出た。 中山道を歩いた時、草津宿で東海道に合流、山科で義士餅を買ったことを 思いだした。 寄ろうと思い、店を探すが、菓子屋の看板が
東海道の道標と車石 ない。 山科駅の手前にあった 、と思いながら、歩いて行くと、エスタシオデ山科 三品というマンション前で、東海道の道標と車石を見つけた (右写真)
入口でうろうろしていると、自転車に乗ったご婦人が入ってこられたので、 「 この辺に義士餅を売っているお菓子屋があったの ですが、どこでしょう? 」 と尋ねると、 「 ここですよ!! 」 といわれた。 「 跡継ぎがいないみたいで、三年前に廃業 された。 」 と、いうことで、
明治天皇御遺蹟碑 道理で、なんぼ探しても見付けられないはずである。 マンションの入口の壁に、小生が見た菓子屋の看板が大事そうに残されて いたが、御主人の無念さを感じた。 その先の右手に、JRの山科駅がある。 道を越えた右側に、RACTOビルがあり、植え 込みに、明治天皇御遺蹟と書かれた石碑が建っていた (右写真)
明治天皇は、東京に遷都の際、京都と東京の間を数回往復されたが、その際、本陣あるいは小休所として三回利用されたのが、 毘沙門堂の領地内にあった奴茶屋だった。 
道標 昭和の終わりまでは、料亭として残っていたが、現在はビルの中に移り、こじんまりと営業をしているようである。 ビルの前の 石碑は、明治天皇と奴茶屋の関係を示そうと建てられたもののようである。  少し歩くと、 右三條、左五条橋・・ と、刻まれた道標があった。 左の五条橋・・は、澁谷越道で、五条大橋へ出る旧道であ る (右写真)
国道1号線は、ほぼ同じルートを通っているようだが、澁谷越道は、途中で途切れている。 
(詳細は巻末参照)

(ご 参 考)  六地蔵めぐり
  後白河天皇は、都の守護、往来の安全や庶民の利益結縁を願い、小野篁(おののたかむら)により作られた六体の 地蔵尊像を平清盛、西光法師に命じ、保元弐年(1157)に、京都の入口に当たる街道筋に、安置させたもので、俗に六地蔵といわれ る。 各寺で授与される六種のお幡(おはた)を家の入口に吊るすと、厄病退散、福徳到来のご利益があるとし て、六地蔵めぐりの行事が定着した、といわれる。  この行事は、八月二十二日〜二十三日に行われ、六体の地蔵尊を祀るお寺、即ち、大善寺(伏見地蔵)、浄禅寺(鳥羽地蔵)、 地蔵寺(桂地蔵)、源光寺(常盤地蔵)、上善寺(鞍馬口地蔵)と徳林庵(山科地蔵)を廻り、お幡をいただいてくるというもの である。

(ご 参 考)  人康親王(さねやすしんのう)
人康親王は、仁明天皇第四皇子で、弾正尹兼常陸太守となったが、両目を患い、隠棲した場所が諸羽山の麓、現山科区四ノ宮で、 四ノ宮と言う地名は、仁明天皇の第四皇子であった親王からという説が一般的とある。 親王は琵琶の名手であったとされ、江戸 時代には座頭や琵琶法師の祖先とされた、と案内にあるが、徳林庵の六角堂の奥に、人康親王 蝉丸 碑が立っている。 


(ご 参 考)  五条別れ道道標
北面には、右ハ三条通、東面には、左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道、南面には、宝永四丁亥年十一月、西面に は、願主・・・とある。 
左の五条橋・・は、澁谷越道で、五条大橋へ出る旧道である。 澁谷越道は、渋谷街道といい、道標から南下し、京都薬科大の校舎の中を通り、山科団地や山科中央公園(山科本願寺跡)を抜け、国道1号に出る。 この先、国道に沿って、旧道が残っていると思えるが、はっきりしない。 川田道交差点から上花山へ北上し、花山トンネルをくぐるが、その一角に残る人道トンネルは花山洞といい、渋谷街道の名残りである。 
なお、道標にあるひがしにしとは、東西本願寺のことで、六条大仏は方広寺、今ぐ満きよ水道は、今熊野観音寺、清水寺への道である。 


後半に続く( 東海道の終着点 京三条へゴール )







かうんたぁ。