坂下宿は箱根峠に次ぐ難所の鈴鹿峠を控え、大いに賑わったとされるが、明治に入り、鉄道の開通で人の出入りが変り、今は静かな集落になっていた。
平成19年4月12日、夜明け前に起きて、津市にある三多気の桜を写しに出た。
9時前には撮影を終えたので、車を走らせ、関まで来て、坂下宿まで歩こう、と思う。
関宿のはずれ、西の追分の駐車場近くに咲く桜は満開を過ぎ、落花しきりという状態だった。 ここは、柘植、上野を経て大和へ出る加太(かぶと)街道の追分で、現在は国道25号になっている (右写真)
東海道は国道1号に沿って続くが、この先鈴鹿越えが待っている。
箱根越えは天下の険として有名で、東海道一の難所であったが、関から土山までの鈴鹿
越え区間も、それに劣らなかった。 国道1号の右に沿って狭い道があるが、少し歩くと、三叉路になり、右に行くと、国民宿舎関ロッジ、左折すると、国道1号線に合流した。
右側に、最後のお店といえるコンビニがあるので、ここで必要なものを補充するとよい。
しばらくの間、国道を歩く。 流通センターを越えると、市瀬橋がある (右写真)
東海道は、橋の手前の右側にある狭い道に入る。 鈴鹿川沿いに進むと、道は左へカーブし、
小さな橋に出る。
東海道は、その手前で、川を渡ったようだが、その道は残っていない。
市瀬橋を渡ると、江戸時代には、立場だった市瀬集落に入る (右写真)
市瀬集落はS字形になっているが、真中で国道に分断されている。
道の両側には、古い家の建ち並んでいる。 そのまま進み、突き当たりを右へ。
その先で、道は国道と交差するので、走る車に注意して、向こう側に渡る。
すると、左側に、自然石を積み重ねたような常夜燈が建っている (右写真)
なお、その奥にあるのが、浄土宗本願寺派の西願寺である。
東海道は、車が一台通れる程度の細い道で、両側には、古い家が建つ。
この道は永く続かず、すぐに国道と合流してしまう。
これからしばらくの間は、国道を歩くことになる。
人家はほとんどなくなり、緩い登り坂になり、いよいよ山越えの道になっていく。
右側の道の先の畑に転び石というのがある。 元に戻しても街道に転がり出ては通行の邪魔をしたと伝わる岩である。
右側は下っていて、畑になっている。 道が左にカーブすると、正面に三角おにぎりのような山が見えてきた。 筆捨山である (右写真)
室町時代の絵師、狩野法眼元信が、山の風景を描こうとしたところ、雲や靄がたちこめ、
風景画めまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説から
名付けられた、とある山である。
正式の名前は、岩根山だったようであるが、歌川(安藤)広重も、東海道五十三次の坂之下宿では、筆捨山を描いている (右写真)
右に下って行く小道があり、旧東海道とも思えるが、途中で無くなっているようなので、歩かなかった。 坂は、より傾斜を増すが、この坂は、起こしの坂と呼ばれたようである。
坂を上りきると、筆捨山のバス停があった。 また、街道の雰囲気を残した民家もあった。
山は新緑の季節を迎え、なんともいえない黄緑の葉がまぶしい。
今度は下りになり、道は左、右、左にカーブと目まぐるしく曲がる。 やがて弁天橋を渡るが、右側の山桜に気をとられて、弁天社の存在に気がつかず通り過ぎた。
少し先の左側の民家の隣に、沓掛一里塚跡の石柱があった (右写真)
すぐに、橋(楢木橋?)にかかるが、手前右側の狭い道が東海道である。
この道は、国道と別れて、かなりの区間歩くことができる。
楢木集落に入ると、楢木のバス停があり、十軒ほどの家が建っていた (右写真)
集落を抜けると左側に、鈴鹿峠4.4qの道標があり、更に、百メートルほど歩くと、右側に、東海道自然歩道の案内板と道標があった。
このあたりは、家は点在するが、その先を併せても、六軒か、七軒しかない。
更に歩くと、これまでより大きな沓掛集落に入る。 江戸時代には立場茶屋があったところだが、古い家はそれほど多くない (右写真)
沓掛とは、山道で沓(草鞋)が壊れ、新品に取り替えた際、道沿いの木に、古い草鞋をひっかけて行ったことが名の由来である。
右側に、超泉寺という寺があった。
三重県は、皇室と関係が深い伊勢神宮があるせいか、神社が多いのだが、これまで歩いてきた集落には、神社は見かけなかった。
沓掛集落を過ぎると、また人家は少なくなる。
家は、主に右側にあるが、ここ十年くらいに新築されたと思える家が多く、その中に、坂下簡易郵便局があったが、普通の民家のような家だった (右写真)
道は穏やかな上り坂になり、また、家数が少なくなった。 やがて道は、三叉路になった。
右側の狭い急な坂を登ると、左側に、サッカーボールのような建物があり、道の縁には、東海道五十三次の宿場名が書かれた木柱が並んでいた (右写真)
サッカーボールのような建物は、鈴鹿馬子唄会館で、館内では哀調を帯びたその節回しが聞かれる (9時〜15時、入場無料、月曜日は休館)
旅人を乗せた駄賃馬を引く馬子(まご)が、鈴の音に合わせて、 坂は照る照る鈴鹿は曇る、
あいの土山雨が降る と、口ずさんだのが鈴鹿馬子唄である。
伊勢湾側の鈴鹿(坂下宿)は、晴れていても、峠を越えた近江側の土山宿では、雨が降っている、という気象の違いを謡ったものである。
右側にある旧小学校は、坂下青少年研修センターとなって活用されている (右写真)
構内の桜が落花しきりであった。
そのまま進むと、左側からの道と合流した。
二車線の広い立派な道路である。
この道を直進するが、左側に、国道1号の上り線が上に、下り線がその下に見えた。
山桜が咲き、ミツバツツジのピンクの花や黄色のサンザシ(?)の花も咲いているのが遠望できた (右写真)
自然を楽しみながら歩けるのはよいことである。
坂下宿はもうすぐ。
広い道路に入り、約一キロ程歩くと、小さな川に河原谷橋が架かっていた。
ここが、沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると坂下宿に入る (右写真)
坂下宿は、鈴鹿峠の登り口にある宿場町で、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内軒数は百五十三軒、人口は五百六十四人、本陣が3軒、脇本陣は一軒、旅籠は四十八軒だった。 人口の割に
本陣、脇本陣が多いこと、三軒に一軒が宿場というのは、これから鈴鹿を越えようとする旅人の多くが、泊まることを想定してのものだったのだろう。
江戸時代には、鈴鹿越えで賑やかな宿場だった坂下宿であるが、明治に入り、東海道の宿駅制が廃止され、更に、東海道線の開通で、人の流れが変ったことで一変し、坂下宿には、立ち寄る人もいなくなってしまい、すっかり寂れてしまった。
今では、ひっそりただずむ山あいの集落の一つである (右写真)
物産の集積地だったので、他の東海道より広かったようであり、家の前の道が二車線なのは、
当時からのもののようである。
道を歩いていると、左側に、伊勢坂下のバス停と公民館があり、バス停前に、松屋本陣跡と刻まれた石柱があった (右写真)
更に、その先の茶畑をはさんで、大竹屋本陣跡と梅屋本陣跡の石碑が建っていた。
大竹屋は、宿場一の大きさだったというが、このあたり一面が茶畑になっていては想像するのは難しかった。
梅屋本陣の道の反対側に、法安寺という寺がある。
山門の下には、南無阿弥陀佛という大きな石碑と西国三十三所順拝写と書かれた石碑があった (右写真)
石段を上ろうとすると、右側に不許葷酒入山閉と書かれた石碑もある。
石段を上っていくと、山門の左側には庚申堂があった。
山門をくぐり入ると、正面に本堂があり、右側に庫裏があった。
寺の玄関にしては立派だなあ!!、と思っていると、傍らの説明で分った。
松屋本陣から移築したものといい、この宿場で当時を偲ぶ唯一の遺構である (右写真)
法安寺の先にある橋を渡ると、右側にあるのが小竹屋脇本陣跡の石柱である。
この先、左側の家並みに沿った狭い道が東海道である。 道の右側に、身代わり地蔵尊と
書いた小さな祠があり、石仏が幾体か祀られていた (右写真)
その先の小さな橋が如来堂橋、別名上の橋というが、このあたりが坂本宿の端であったようである。
古い家は予想していたよりも少なく、宿場時代の面影はほとんど残っていなかった。
関宿より坂下宿まで坂道なので、鈴鹿越えは一日では無理かと思い、写真撮影のついでに途中までという気持で来たが、予想より早く終わってしまった。
公民館前のバス停に戻り、約四十分もバスを待ち、十三時十分のバスで、車を駐車した
関宿に戻り、今日の旅は終わった。
平成19年(2007) 4 月