『 東海道を歩く ー 土 山 宿  』


鈴鹿峠は気象が変りやすいところで、箱根峠に続く難関といわれた。 
京を目指し険しい山道を歩いた旅人が初めて出会う里が土山宿だった。
土山宿の鈴鹿峠側の入口には、琵琶湖へと注ぐ野洲川の支流・田村川がながれていて、
蟹ヶ坂飴を商う店があった。




 

坂下宿から土山宿へ

平成19年5月11日(金)、早朝4時半に自宅を車で出て、6時15分に関駅前に着いた。 
車できたのは6時45分発伊勢坂下行きのバスに乗るためである。  今日は、鈴鹿峠を
坂下公民館 越えて土山宿を訪問し、更に水口宿まで歩く予定なので、早出となったのである。 
JRの関駅は無人駅であり、また、隣の道の駅の売店も営業していなかったので、自動販売機で飲み物だけをリックに詰めてバスを待った。  バスは定刻に来て、伊勢坂下には七時前に到着し、坂下公民館前から今日の旅が始まった (右写真)
前回来たのが、四月十二日なのだが、約一ヶ月経過している間に、緑がかなり濃くなっていた。 前回歩いた本陣跡や身代地蔵の前を足速に通過し、山中橋を渡り、林にかかると、
伊勢街道名所図会坂下宿の一部 枝が多く落ちていた。  少し歩くと、右側に民家があり、国道1号線に合流する手前に、大道場岩家十一面観世音菩薩、と書かれた石柱が立っていて、その脇に、閉じられている鉄製の門がある。  江戸時代の伊勢街道名所図会の坂下宿の中に、崖下に、観音堂があり、その脇に、滝が落ちている絵が描かれている (右写真)
岩屋観音あるいは清滝の観音というもので、前回は門が閉まっていて、入れないとあき
観音堂 らめていた。 もしかと思い、民家の脇を通り抜けると、薄暗い林になり、石仏や石碑が並んでいる。 石段を上って行くと、崖の下に木で作られた社があった (右写真)
これがどうやら観音堂である。  左側には、ちょろちょろという程度であったが、滝が流れていた。  蛇でも出てきそうな陰気な場所なので、お参りを済ますと、そこくさと退散した。 
七時二十分、岩屋観音の前で国道1号の下り線に合流する。 
少し先の右側に、東海自然歩道の道標があり、右に上る表示がある。 
東海自然歩道の道標 この道標はよく見ると、旧東海道は国道1号を歩く表示になっている (右写真) 
東海自然歩道は、国道に平行して、林の中を歩くが、その先で、国道と合流するのである。  従って、この区間は国道でも東海自然歩道でも好きな道を歩けばよい。 
国道を五百メートルほど歩くと、右側から東海自然歩道の道は降りてきて、国道に合流した。 鈴鹿川の橋の手前で、東海道は右に入る。 その先に東海自然歩道の道標があり、
片山神社の石柱 左側に片山神社の石柱が建っていた (右写真) 
左にせせらぎの音を聞きながら、暗い杉林を歩いて行く。 
すると、右側の崖下に小さな岩や木の枝が折れたのがいくつか転がっている。 
小生が前回坂下宿を歩いた数日後、鈴鹿山脈の地震が起き、亀山城の石段が崩れた。 テレビにその風景がうつしだされたが、そこを歩いたばかりだったので、驚いた。 
小さな社 これらの岩は、その時の地震によるもので、一瞬どきとしたが、その後歩いたところは、木が擦れて落ちた枝が落ちてる程度でほっとした。 その先の道の左下に小さな社があった (右写真)
左右は杉林で、谷川が流れていてじめじめしたところであるが、江戸時代初期に、坂下宿 があった所だといわれ、古町という地名が残っている。 

片山神社石柱 坂下宿は、慶安三年(1650)九月の大洪水で、ここにあった宿場が壊滅的な被害に遭った。  山川、田畑、民家が全て頽廃したため、翌年、十町(1km余)ばかり下の場所に移転し、復興したのである。 その移された場所が、先程通過した坂下宿である。  細い上り坂の路を行くことしばし、小さな石橋を渡ると、片山神社の石柱と鳥居がある (右写真)
延喜式内社片山神社とあり、江戸時代には鈴鹿大権現とも呼ばれた神社である。 
片山神社の極めて小さな社 神社にお参りしようと思い、石段を上っていったが、火災にあったのか、あったと思われるところには、土台とした敷石があるだけで、奥まったところに極めて小さな社があった。  その前に建つ石柱には、牛頭王 下町中と刻まれていた (右写真)
石段を上ったところにある大きな常夜燈は、文化十二年の建立である。  石段を下りた鳥居の周りには、天保七年や文化十二年の常夜燈が建っていた。 更に、坂に沿って幾つかの
鈴鹿流薙刀術発祥の地碑 常夜燈が並んで建っていて、鈴鹿流薙刀術発祥の地の碑もあった (右写真)
今や、廃墟化しかねない神社であるが、東海道の往来が盛んだった時には、多くの参拝があったのだろう。  東海道はこの神社から八丁二十七曲がりと呼ばれた鈴鹿峠越えが始まる。  片山神社の鳥居を右折すると、急坂を登る道になるが、薄暗い杉林の中で荘厳な
頭上に国道の橋桁が見えてきた 雰囲気があった。 曲がりくねった山道は、途中に一部だけ石畳が残るが、大部分はコンクリートで補強している。  道はかなりの急坂だが、登って行くと、頭上に、国道の橋桁が見えてきた (右写真)
その下をくぐり登っていくと、国道の横に出て、そこには、広場があり、東海自然歩道の大きな看板が立っていて、坂下から鈴鹿峠までは2.1kmで、35分とあった。 
芭蕉句碑 看板の横に鈴鹿峠の上り口があるので、上り始めた。 ここは石段になっていた。 
左側に芭蕉句碑が建っていた。 
      『  ほっしんの    初にこゆる    鈴鹿山    』
西行法師は公家の地位を捨てて旅にでたが、鈴鹿峠では、その心情を歌に詠んでいる。 
  『  鈴鹿山  浮き世をよそに  ふり捨てて  いかになりゆく  わが身なるらむ  』 
芭蕉は、西行法師の上記の和歌が頭にあって、上記の句を詠んだのではないだろうか?? 
鈴鹿峠を越える始めての官道は、阿須波道と呼ばれ、平安時代の仁和弐年(886)に開通した。 
国道の風景 当時の鈴鹿越えは、ぶっそうだったようで、山賊にかかわる伝承が多く残っている。  ややゆるい坂を上り、ひと汗かく頃には雑木林に出る。  道脇から下を覗きこむと、国道1号線の上下二本の道がループになっている様子が見られた。 また、それを覆う樹木も前回見た黄緑から濃い緑に変っていた (右写真)
雑木林から杉林に変り、しばらく上ると、突然、平らな道になった。 どうやら、上りは、
東海自然歩道の道標 終わったようである。 これで鈴鹿は越えたのか?  あっけない幕切れである。 
ここには、東海自然歩道の道標があった (右写真)
道標には、左折すると、田村神社跡10m、鏡岩150mとある。  思ったより早く峠を越えたので、鏡岩に寄り道することにした。  田村神社跡には、石柱が建っているだけだが、田村神社は、明治三十九年の神社合祀令により、先程訪れた片山神社に合祀されてしまったので
杉林 ある。 鏡岩への道は、きちんと手入れされている杉林の中を歩いて行くのだが、道として作られていないので、道は、ところどころの杉に紐が結ばれているのを目印に歩いた (右写真)
鏡岩は絶壁にちょこんとある大きな石で、縦二メートル三十センチ、 横二メートルの大きさで、石質は硅石である。 大きな岩でかっては鏡のように光っていたので、登って来る
鏡岩 旅人の姿が映り、それを見て、盗賊が旅人を襲った、という伝説があり、鬼のかがみともいわれた。 鈴鹿峠が難所だったのは、こうした山賊の存在も大きな要因の一つだったのだろう (右写真)
山賊の気分になって、岩から身を乗り出すと、国道を走るトラックの姿が見られた。 

先程の道を戻るのだが、細い道が分岐しながら続いているので、
境界石 中間地点に、道標がないと迷ってしまいそうと思ったが、実際に迷った。  曲がる場所に気付かず通りすぎ、高畑山に行きかけたが、そこにあった道標に高畑山方面とあったので、 間違いに気が付いて、ことなきを得た。  街道に戻り、そのままを進むと、急に明るい場所に出た。 
「界 右滋賀県近江の国 左三重県伊勢の国」、と書かれた石柱があった (右写真)
鈴鹿峠は海抜三百七十八メートルで、伊勢国と近江国との国境である。  とうとう鈴鹿越えを
土山町山中 果たしたのだ!! その先には、歴史の道東海道土山宿・現在地土山町山中、という道標やら、東海道の石柱など、いくつもの道標と東海自然歩道の大きな案内板があった (右写真)
江戸時代には、松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の茶屋が建ち並び、旅人で賑わっていた、という。  現在でも、茶屋の石垣が残り、当時の面影を感じることが
土山の茶畑 できるとあったが、茶屋がどこにあるのか分らなかった。 
このあたり一帯に、茶畑が広がっていて、茶の刈り取りを待っていた (右写真)
茶畑で採れるお茶は、土山茶といい、葉は厚く、二番煎じ、三番煎じでも、美味しくいただけるお茶だ、という。  土山町は、今回の合併で、狸で有名な信楽町、甲賀忍術で有名な甲賀町、水口宿のある水口町などと、一緒になって、甲賀市になった。 少し歩くと、巨大な石積みの
万人講常夜燈 常夜灯が見えてきた。   万人講常夜燈といわれるもので、重さ三十八トン、 高さは五メートル四十四センチもある存在感のある常夜燈である  (右写真)
二百七十年前に、四国金比羅神社の講中が建てたものだが、旧山中村高畑山天ケ谷産の粗削りの大きな自然石をそのまま使って、山中村を始め、坂下宿、甲賀谷の人 三千人が結集して作られたものと伝えられる。  常夜燈は、東海道沿いに立っていたが、国道トンネル工事の
ため、現在地に移されたのである。 トイレやベンチがあって、休憩できるので、一服していると、
国道に合流 突然右足がつった。  今日は、朝から強風が吹いていて、やや肌寒かったが、休んでいる間に、身体が冷えてしまったようなので、持参したTシャッツとウインドブレカーの上下を着た。  八時四十五分、足に気使いながら、下って行くと、一軒の民家の前で、トンネルを抜けて来た国道に合流してしまった (右写真)
道の反対側には、ラーメン屋があったが、土山宿到着までに見たただ一軒のお店だった。 
鳥居と常夜燈 両側に点在する家は、万年講の常夜灯を作った人々の子孫達なのだろうか?  道の右側に、鳥居と常夜燈を発見。 横断歩道はないので、車に気をつけながら、国道を渡り、反対側に渡る。   近づいてみると、鳥居と常夜燈は、畑の道を伸びていたのだが、国道工事で、道から外れた感じになっていた (右写真)
この先に神社があるだろうと思い、国道と別れ、右の道に入ったが、右側は山で、左側は
白い花 田植え前の田圃である。 少し歩いた左側の家の庭には、山桜だと思うが、白い花が咲いていた (右写真)
その先はT字路に突き当たったので、左折すると、国道に戻ったが、途中には、神社はなかった。 あの鳥居はどこのもの? 
山中の交差点の周りには、家が多かったので、旧山中村の中心はここだったのだろう。 
熊野神社の石柱 馬頭観音と二体の像が並んでいる道祖神のような石仏があった。  国道を横断し、左側を移った。  しばらく歩くと、左側に、熊野神社の石柱と鳥居が建っていた (右写真)
神社にお参りしようと中に入って行くと、道の両側と正面に網がある。 侵入禁止なのかと思ったら、鹿が入るので気をつけてという、注意書きがあった。  指図に従って、網をくぐり、更に進むと、広い境内に出た。  社殿は新しいものだった。 山里で農業をやるのはいろいろな苦労が
数軒の家 あるのだなあ、と思いながら、街道に戻った。  国道をしばらく歩くと、
左側の小山が国道にせりだしてくるあたりに、近江山中氏の発祥の地の山中城があった
ようである。  その先の数軒残る集落の道は、東海道であるが、すぐに終わってしまった (右写真ー集落の裏側が旧東海道)
山中氏は、鎌倉時代の嘉禄二年(1226)、橘中務丞俊信が鈴鹿山の賊を退治した功績で、
十楽寺南無阿弥陀仏石碑 山中村地頭と鈴鹿山盗賊追捕使に任じられたことが始まりで、地名をとり、山中氏と称した。  国道を歩くと、十楽寺の標識の脇に、南無阿弥陀仏の石碑があった (右写真)
十楽寺の建物は新しいが、境内の常夜燈は天保三年とあるので、歴史はあるのだろう。  道の対面に石碑があるので道を横断して見に行くと、一本松緑地という石碑があり、最近作られたものだった。 右に川が流れていて、小田川橋が架かり、その先には、民家が点在していた。 
鈴鹿馬子唄石碑 橋を渡りかけたが、国道に戻り、国道をそのまま歩いてくると、右側に狭い道があり、国道と別れた。  小さな橋を渡ると、小公園があり、東海道 鈴鹿 山中 の石碑と石灯籠があった。  右側には、 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 、と刻まれた、鈴鹿馬子唄の大きな石碑があった (右写真)
小公園には、休憩できる東屋(あずまや)があり、数台置ける駐車場もあった。 東屋で、持参
農耕機の民家 したお菓子を食べ、お茶を飲み、しばし休憩。 公園を出ると、道を右折し、まごうたはし(馬子唄橋)の手前まで行き、そこで左折して、細い道に入るのが東海道である。 少し先の右側に、地蔵大菩薩の常夜燈と祠が建っていた。  両脇の民家の間からは、はるか向こうの第二名神高速道路の橋の上を工事用のトラックが上を走っている様子見えた (右写真)
民家がなくなると、両側は田圃で、すでに田植えは終えた苗が強風に揺れていた。 
第二名神高架橋 そういえば先程の民家の前に田植えに使った農耕機が置かれていたなあ!! 
九時二十分、 第二名神高速道路の高架橋の下をくぐる。 その下に、滋賀県知事による滋賀県工事第1号という記念碑があった。  しかしこの高架橋は,巨大な何と高いことか?! (右写真)

その先で、国道と再び合流した。 
山中一里塚公園 合流したところに、小公園があり、山中一里塚公園の標石があった (右写真)
東海道は、ここから先、土山宿までは、左右に曲折しながら続いていたようであるが、国道1号線が、それを突っ切るよう一直線に敷かれてしまい、旧街道は畑になったり、原野に戻ったりして、今や跡形もなく失われてしまっている。  従って、ここが一里塚の跡かは、多少疑問は残るが、それはそれとして、江戸から百九番目の一里塚である。 
観音道道標 境内に、 いちゐのくわんおん道 と、刻まれた道標があり、側面には、  盡十方(つくすとも)  世にはえゆきや  大悲心   と、いう虚白の句が刻まれている (右写真)
「 いちゐのくわんおん道 は、現代人には、読めない詠み方だが、櫟野(いちいの)観音道である。   観音道は、東海道から分岐し、旧神村、旧櫟野村に至る道で、大原道とも、呼ばれた。 ここはその道の追分で、南西に伸びて、第二名神高速の橋脚に向かってあった。 」 、と傍らの説明
馬子唄碑と馬・馬子の石像 板にあるが、道路工事の都度、古い道が消えていく現状を目にした。 
更に、奥まったところには、馬子唄の碑と馬と馬子の石像があった (右写真)
ここからしばらくの間、国道1号線を歩く。  風は相変わらず強いが、気温は少しづつ高くなってきたようである。  国道に、東京まで437kmの標識があるが、このあたりから、左へカーブし下っていく。  右側に民家が見え始めると、猪鼻の信号交差点で、右に下る道があるので入ると、道脇に若宮神社の石柱が建っていた。  ここは江戸時代は、猪鼻村で、道を降り、
旅籠中屋跡 左折すると、東海道は、わずかだが残っていた。  右側の浄福寺の先に、緑に覆われた家があり、緑の間から、旅籠中屋跡の石柱がちらりと見えた。  こんなところに旅籠があったのだ、と興味をもって、正面からみると、つつじの間から、明治天皇聖蹟碑が見えた (右写真)
表札には、猪鼻村旅籠中屋武助とあり、明治天皇が立ち寄られた休憩されたところのようである。  その先は、S字のカーブで、上りきると国道にまた合流した。 
白川社 十時三十分、下りに入ると、途端にアゲンストの風が顔にあたり、息苦しいくらいである。 やがて、左前方に町が見えてきて、道の駅 あいの土山1q の表示板があった。  右側に細い道があったので入ると、白川社の石柱があり、鳥居に先には小さな社が二つと白川神社御旅所の石柱が建っていた (右写真)
道の脇の案内板によると、先程歩いてきた国道の右側を下りた小道が、江戸時代の 東海道で、その先でなくなっているようである。 また、蟹塚があると表示されていたので、寄ることに
蟹塚 した。  もう一度、国道まで戻り、道を横断した右側を下りると、細い道があるので、その道に入る。  少し行ったところで、右側の林に下り、じめじめした地面を歩くと、谷川の向こうに、蟹塚と書かれた石碑と説明板があった (右写真)
平安時代、蟹坂に大きな蟹が出て旅人を苦しませていた。 それを聞いた京の僧、恵心僧都が、現地に赴き、往生要集を唱えると、 蟹の甲羅はバラバラに砕け散った、という話が残る。 
茅葺き屋根だったと思える家 先ほどの南土山案内板まで戻ると、十一時ちょうどだった。  岐阜女子大の吉見さんの論文(岐阜女子大学紀要第30号2001.3)によると、 明治時代の蟹坂地区は、農家がほとんどだったようで、その名残りといえる茅葺き屋根だった、 と思える屋根にトタンをかぶせた家が残っていた (右写真)

ここから土山宿までは、八百メートルほどの距離である。 街道を進むと、正面に工場が
蟹坂古戦場跡の石柱 見えてきた。  工場に挟まれた道を通り抜けると、小さなトンネルがあり、そこをくぐると視界が広がり、正面に駐車場が見えてきた。  五十メートル程歩くと、右側に、大小の碑があり、小さい石柱が蟹坂古戦場跡碑である (右写真)
戦国時代、伊勢の大名の北畠具教とこの地を領する山中秀国が、ここ蟹坂の地で戦ったことをその脇の案内板は説明していた (詳細は巻末参照)
この後、会社の駐車場と左側の田圃に挟まれた道を直進すると、田村川に突き当たる。 
田村川を渡れば土山宿である。 

(ご 参 考) 蟹 坂 合 戦
天文十一年(1542)、伊勢の北畠具教(とものり)は甲賀制圧を目指して軍を進め、一隊を割いて鈴鹿を越えさせ、山中城を攻めさせた。  山中城主の山中秀国はよく戦って北畠勢を敗走させた。  これを知った北畠具教は一旦兵を引かせたが、すぐに軍を増強させて、再び山中城攻略にかかった。  山中秀国は近江守護の六角定頼に援軍を乞ったので、ついに、北畠と六角の大戦争になったのである。
一万二千人の北畠軍に対し、一万に満たない山中、六角連合軍はよく戦い、ついに北畠勢を敗走させ、北畠具教の甲賀進出を阻止した。 この合戦の主戦場がここ、蟹坂である。


後半に続く( 土 山 宿)








かうんたぁ。