『 東海道を歩く ー 亀 山 宿  』


庄野から亀山宿に行く途中に、打ち首を覚悟で築いたといわれる女人堤防がある。
亀山宿は粉蝶城と言われた美しい城のある城下町であった。




庄野宿から亀山宿へ

汲川原町交差点 平成19年3月18日(日)、8時過ぎにJR加佐登駅に着き、庄野へ。  庄野宿はすでに訪問済なので、朝の光を浴びた家並みが美しいと思いながら、通り過ぎた。  庄野宿の石柱を過ぎると、庄野宿の終わり、そのまま進むと汲川原町で国道と交差。 立体交差になっているので、そのままでは進めない (右写真) 
国道1号を歩き、交差点を越え、ガードをくぐり、反対側に出て、右折し、左側の道に入る。 
平野道の道標 次いで、国道1号をガードでくぐり、反対側にでる。  この先は、東海道が国道1号と平行しているが、亀山まで残っている。 田畑の道を道なりに行くとすぐに集落に出た。  江戸時代の汲川原村で、左側の民家の角に、平野道の道標があった (右写真)
道の反対に高札場があったようであるが、その面影もない。 また、見たところでは古い家はなかった。  道は多少カーブしているが、バス停に沿って歩いて行く。  左側に、本願寺派の
女人堤防碑 真福寺があり、少し行くと、道の左前方に大きな椿の木が見えてきた。 椿の花が咲き、散った花が地面に落ちていた。  椿の横に女人堤防碑がある (右写真)
鈴鹿川の洪水に悩まされていた村民が、神戸藩に堤防の補強を願い出たが、対岸の神戸藩の城下町を守るため、堤防の補強は許可されず、打ち首覚悟で六年の歳月をかけ、約四百メートルの堤防を造った。  今から百七十年前の文政十二年(1829)のことである。 
領界標 男性が作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造った、と言われる。  現在は、所どころで、道路により分断されているようすだった。  女人堤防碑の近くに、従是東神戸領と刻まれている領棒石と燈籠が建っていた (右写真)
領棒石は亀山藩中富田との境界からここに移設したらしい。  右側には、山神碑と常夜燈があったが、山神碑は江戸時代からここにあった、という。  手洗石は、文化十年(1813) のもので、その他、常夜燈もあり、道の裏には古墓群があった。  中富田町(旧中富田村)に入り、
川俣神社 すこし行くと、三叉路になったが、ここは右に行く。  百メートルほど歩くと、左側に、式内川俣神社があり、街道に背を向けて、社殿が立っている。  鳥居の左に、大正十五年の常夜燈があり、右側の石柵の中には、中富田一里塚跡碑と従是西亀山領と書かれた領棒石が立っていた (右写真)

享和三年(1803)発行の東海道亀山宿分間絵図によると、汲川原村との堺に、領棒石が
常念寺 置かれ、その右(西)に、中富田一里塚、高札場、そして、川俣神社の順にあったことが描かれている。  また、高札場の前には、大名や公家を接待する御馳走場があった。  境内には、樹齢六百年の楠の大木や山神碑、安政三年の手洗石がある。 西富田町(旧西富田村)に入ると、両脇に住宅地が続く。 右側に、常念寺があった (右写真)
天台真盛宗の寺院で、かって、ここには、延命地蔵尊を祀る平建寺があったが、安政地震後、
川俣神社 常念寺が移転してきた。 三叉路に、ひろせ道と書かれた道標があった。 
上り加減の道を鈴鹿川に沿って進み、前方に見える堤防が近づくと、登り坂の左側に、川俣神社という名の神社が、また、あった (右写真)
川俣神社が多いには、各村が水害の害から逃れようと建てたことがこれだけの数になったのだろう。 鳥居の脇にある常夜燈は、慶応弐年(1866)のものだが、元は、大筒川辺にあった
無上冷水井跡碑 ものらしい。 近くの道標には、右 ひろせ 、左 はたけ と、刻まれている。  境内に入ると、神戸城主だった織田信孝(信長の子)が愛した、無上冷水井は既になく、その跡の石碑が建っていた (右写真)
その他、庚申塚、献燈(1803年)、座標の石柱、和泉橋の柱、などがあった。 
堤防に上ると安楽川が見え、対岸に東海道が続いている。 
和泉橋 江戸時代には、真っ直ぐ行ける土橋があり、出水の時は渡しとなった。 
左手の川の下流に和泉橋があるので、そちらに向かう (右写真)
河川敷では子供が野球に興じていた。 
橋を渡るとすぐ右へ折れ、堤防の上の道を川に沿って百メートルほど進み、川と別れ、左へカーブする道に入ると、和泉町。 古い家はほとんどない。 
道標のあるところ 右にカーブする手前の右側の狭い道の両側に、道標があった (右写真)
左は江戸時代のもの、右は大正三年のもので、両方とも、右のぼり道と刻まれている。  その先の左側には、地蔵堂があるが、先程の道標を含めて、江戸時代から現在地にあった、という。  その先は小田町だが、集落が続いているので、区別はできないが、ここにも、古い建物は残っていなかった。 右側の小高いところに、極楽山地福寺がある。 
明治天皇御小休所碑 寺の右手にある空地に、明治天皇御小休所の碑が建っていた。 その近くに、和泉橋旧橋の主柱が残されていたが、かなり雑な扱いだんだなあという印象である (右写真)
道を下り、交差する道を横断すると、右側に踏切が見える。  道を直進し、線路沿いに進み、踏切の前を通ったら、右、そして、左、また、右とカーブを繰り返し、井田川駅の手前で右折して線路を渡り、三叉路に出たら、そこを左折する。 
国道1号の陸橋 道の右側に、小さな祠があり、石仏が祀られていた。 少し歩くと、左手に、井田川駅があるが、無人駅で、駅舎というようなものはなさそうだった。 駅前で右折し、直進すると、国道1号線に出た (右写真)
東海道は、直進なので、歩道橋を渡り、反対側に出ると、右側にコンビニがあり、その先にすき家があった。 まだ十時半だが、朝が早かったので、ここで牛丼を食べ、一服した。 
茶臼山古墳 食事後、目の前の坂道を上り、最初の交差点を右折し、百五十メートル程行くと、茶臼山古墳があった。  標高六十一メートルの山頂に、六世紀初期造られたこの地方最大の墳墓で、長径二十メートル、高さ四メートル以上の大きさで、西側に入口がある横穴式石室には石棺が二つ安置されていた、という (右写真)
交差点を左折するのが、東海道なのだが、茶臼山古墳に寄り道をしたのである。 
川合椋川橋 街道に戻り、坂道を登り、交差点で左折し、住宅地を歩き、坂道を下り、真宗高田派西信寺の前を通り、そのまま進むと、椋川に架かる川合椋川橋に出る (右写真)
昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624〜1644)ごろ、亀山藩士、生田現左衛門が私財を投げうって、水流を南に変え、橋を架け替えたので、現左衛門橋と呼ばれた、とある。 橋から百メートルほどのところに、国道1号の陸橋があり、その下をくぐる
谷口法悦題目塔 と 二百メートルほど先に、谷口法悦題目塔と呼ばれる大きな石碑が建っていた。 傍らの説明によると、この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から、川合の焼け地蔵さん、法界坊さんと呼ばれ、親しまれてきた、とある (右写真)
南無妙法蓮華経と書かれた二メートル五十九センチの大きな石碑は、江戸時代中期の貞享から元禄年間の頃、京都の日蓮宗信者の谷口一族によって、各地の刑場跡や主要街道の
和田道標 分岐点などに建立された題目塔の一つである。   以前には、この前に東海道刑場供養塚の標識があったと記憶するが、裏に民家もあり、刑場跡ではまずいということになったのか?! 表示がなかった。  その先の信号交差点を越えて、細い道を行くと、左の歩道上に、和田道標が建っていた (右写真)
この道標は、東海道と神戸道の分岐点(追分)に立っているもので、市内最古の道標である。 
正面に、従是神戸白子若松道、脇に、元禄三庚午正月吉辰とあり、元禄三年(1690)に
東海道 建てられたことが分かる。 神戸白子若松道とあるが、神戸道は、亀山城下から亀山藩若松港への重要道路だった。 道標は折れて、鉄枠で固められていて、痛々しかった。 このすぐ先で、ちょっとだけ県道28号と合流する。  歩道橋手前を右に曲がる、すぐに東海道の看板がある (右写真)
なお、和田交差点を左折していくと、鈴国橋があり、その先が国府町。  伊勢国府の
あったところで、国衙跡や惣社の他、王塚を始め幾つかの古墳群、住居跡や縄文時代の
遺跡がある。  興味のある方は立ち寄られるのもよいだろう。 
(ご参考) 伊勢国の国府、国分寺、国分尼寺に興味のある方は  友人のページ「国府物語」をご覧ください。

石上寺 東海道は緩い登り坂となる。  坂が始まってすぐの左側に、井尻道の道標があった。  右側に福善寺があり、少し先の民家の庭にあるミモザの真黄色の花がきれいだった。  坂道は少し急になると、右手に石垣があり、見上げると幟がひらめく寺がある。 石上寺で、この寺は、延暦十五年(796)、熊野那智社の夢告をうけた紀真龍によって、新熊野三社が勧請され、この鎮護のため開基された神宮寺である (右写真)
その後、朱雀天皇の勧請寺になったと伝えられ、建久三年、源頼朝から寺領社殿の寄進を
和田一里塚 受け、同五年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉幕府の手厚い保護を受け、壮大な伽藍を有したが、 織田信長の伊勢進攻による兵火により、伽藍を失い、衰退した、と伝えられる。 現在の建物は、明和三年(1766)に再建されたものである。 境内には、仁王護国般若経石塚の石碑があり、古文書も多く残っているようである。  和泉式部が参籠したという言い伝えもあり、付近には式部の梅や式部の井戸がある。 街道に戻り、寺の石垣を見上げると、 満開のこぶしの花が美しかった (右上写真)
和田一里塚 けっこう急な坂であるが、それほど長くは続かない。 坂が終わると、右側に和田一里塚があった。 といっても、平成五年に一里塚があった東側に近接する場所に復元された一里塚である。  (右写真)
昭和五十九年に道路が拡張されるまでは、一里塚の一部が残されていた、とあるが、
区画整理で消えていた。 県道41号は、このあたりは広くのびのびしている感じがする。 
地蔵堂 道を直進すると、信号交差点で国道306号線を渡ると、道路は再び狭くなった。 その先の左側に亀山ロウソクがある。 仏壇やXマスケーキでお世話になったが、輸出が振るわぬので、苦戦しているようである。  右側に、小さな祠があるのは地蔵堂で、もとは左側にあった、という (右写真)

少し歩くと、右側に大きな鳥居が見えて来た。 この鳥居は、能褒野(のぼの)神社の
能褒野神社鳥居 鳥居である。 神社の入口と思い一キロ以上歩いたところで、案内もないのでおかしいと思い、引き返した。 能褒野神社は、日本武尊を主祭神とする神社で、日本武尊墓陵とされる字塚の傍らに建てられた神社である (巻末参照)
明治時代の創建なので、この鳥居は江戸時代にはなかった (右写真)
神社はここから北へ約四キロも先だったので、引き返したのは正解だった。 

後日になるが、平成二十一年五月、桑名に用事で訪れたのが早く終わったので、足を伸ばし、
能褒野神社へ訪問したので、下記する。 

(ご 参 考)  能褒野(のぼの)神社

能褒野神社鳥居 能褒野神社へは車で訪れた。 国道1号の小田町交差点を右折(西へ)し、 県道640号に入り、鳶ヶ尾交差点で右折し、県道639号に入り北へ向う。 能褒野橋を渡ると、左側に公園の駐車場が あったので、車を止めて、道路を北に上ると、能褒野神社の石柱と鳥居があり、石段を上って行くと、右手に能褒野神社が あった (右写真)
この南側にあった王塚とか、丁字塚と呼ばれていた前方後円 墳を明治政府が、日本武尊の
能褒野神社社殿 墓であると認定し、能褒野陵としたことを受けて、地元の人達が、日本武尊の遺徳をしのぶため、神社の創建が企画した。  明治 十六年、伊勢神宮祭主、久邇宮朝彦親王 より、能褒野神社の社号が、そして、明治十七年三月、神社創建の許可を得て、能褒野陵の周りを整備し、明治二十八年 (1895)、社殿が完成、神宮祭主、賀陽宮邦憲王から御霊代を拝戴して能褒野神社の鎮座祭が執り行われたのが、神社の創始 である (右写真)
主祭神が日本武尊で、建見児王および弟橘姫命を配祀としているのは、明治四十二年の
能褒野陵の森 神社合祀令により、元小天宮の弟橘姫 と県主神社の建見児王、そして、式内社の那久志里神社、同志婆加支神社を含む近隣の約四十の神社を合祀して現在の神社に なったためである。 神社誕生のきっかけになった能褒野陵は、御幣川と安楽川の合流点に近接する標高四十五メートルの印 端部にあり、深い森に覆われている (右写真)
古事記には、 「 そこより幸行して能煩野に到りましし時に、・・・ 」 とあり、能煩野で日本武尊が 亡くなり、白鳥となって飛んでいき、白鳥御陵を造った、とあり、古くから日本武尊が
能褒野陵 死去した地であると伝えられる能褒野はどこかといわれてきた。 一帯には日本武尊の墓に比定される古墳がいくつかあった が、明治十二年(1879)、当時の内務省がここにある全長約九十メートル、後円径五十四メートル、高さ約九メートルの三重県北部 最大の前方後円墳を日本武尊の墓であるとし、以来ここは宮内庁の管轄になったのである (右写真)
案内に従って石段を上がると、柵が周りを囲んでいて、自由には立ち入り出来なくなっている。 足を痛めた武尊がそう長い 距離は歩けないはずなので、東海道を歩いた時、訪れた
山の神 鈴鹿市加佐登の白鳥塚の方が近いので近いので、軍配を上げたいのだが、 政府は何を根拠にしたのだろうか? 入口の石段のところにあった案内板は、そうしたことは触れず、埴輪などから前方後円 墳は4世紀末の築造であること。 山の神が祀られていた所の先や樹木が生えているところにあるこんもりとした丸いものは 陪塚とあるが、能褒野陵とは関係はなく、古墳時代後期のものとあった (右写真)
最後に、古事記の関連部分を参考までに掲載したい。 

『 古 事 記 』

そこより幸行(いでま)して能煩野(のぼの)に到りましし時に、国を思(しの)ひて、歌ひたまひしく、
「 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし 」
また歌ひたまひしく、
「 命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の くま白檮(かし) が葉を うずに挿(さ)せ その子 」
この歌は国思(しの)ひ歌ぞ。また、歌ひたまひしく、
「 愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も 」
こは片歌(かたうた)ぞ。この時に、御病いと急(には)かになりぬ。 しかして、御歌よみしたまひしく、
「 嬢子(をとめ)の 床の辺(へ)に 我が置きし 剣の大刀(たち)  その大刀はや 」
歌ひ意(を)ふるすなはち崩(かむあが)りましき。 しかして、駅使(はゆまづかひ)を貢上(たてまつ)りき
ここに、倭(やまと)に坐(いま)す后等(きさきたち)また御子等、諸(もろもろ)下り到りて、御陵(みはか)を作り、すなはちそこのなづき田に匍匐(は)ひ廻(もとほ)りて、哭(な)きて歌よみしたまひしく、
「 なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍匐(は)ひ廻(もとほ)ろ ふ 野老蔓(ところづら) 」
ここに、八尋(やひろ)(しろ)ち鳥(とり)に化(な)りて、 天(あめ)に翔(かけ)りて浜に向きて飛び行(い)でましき。
しかして、その后また御子等、その小竹(しの)の苅(か)り杙(くひ)に、足切り破れども、その痛きを忘れて、哭(な)きて追はしき。この時に歌ひたましく、
「 浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな 」
また、その海塩(うしほ)に入りてなづみ行きましし時に、歌ひたまひしく、
「 海処(うみが)行けば 腰なづむ 大河原(おほかはら)の 植ゑ草 海処は いさよふ 」
また、飛びてその礒に居(いま)しし時に、歌ひたまひしく、
「 浜つ千鳥 浜よは行かず 礒づたふ 」
この四つの歌は、皆その御葬(みはぶり)に歌ひき。 
かれ、今に至るまでに、その歌は、天皇(すめらみこと)の大御葬(おほみはぶり)に歌ふぞ。  かれ、その国より飛び翔(かけ)り行きて、河内の国の志幾(しき)に留りましき。  かれ、そこに御陵(みはか)を作りて鎮(しづ)まり坐(いま)さしめき。  すなはちその御陵を号(なづ)けて、白鳥(しらとり)の御陵(みささぎ)と 謂ふ。 
しかるに、またそこよりさらに天(あめ)に翔(かけ)りて飛び行しき。 すべて、この倭建(やまとたける)の命(みこと)、国を平らげに廻(めぐ)り行しし時に、久米(くめ)の直(あたひ)が祖(おや)、名は七拳脛(ななつかはぎ)、恒(つね)膳夫(かしはて)として従ひ任へ奉りき。

 

亀山(かめやま) 宿

本町4丁目 能煩野神社の鳥居の下に、地元の人が書いた木札の従是西亀山宿があり、このあたりから、元の亀山宿となる。 
本町4丁目からは、商店が続き、古い家も所々に残っている (右写真)
交差点を渡ると、右側に亀山本町郵便局がある。  本町3丁目の交差点の左側に、小公園があり、説明板には、巡見道は、ここから北に向かい、菰野を経て、濃州道と合流した後、
本町2丁目 美濃に入り、中山道と繋がる道で、寛永十年(1631)に始まった巡見使が使った道で、そう呼ばれた、とあった。  本町2丁目に入ると、古い家も所々に残っている中、右手に城が見えた。 しかし、近づいてみると、城を看板にした呉服屋だった (右写真)
このあたりから、道は、左へ弧を描いてカーブする。  各家には、当時の屋号を書いてあるが、特筆するものはなかった。 しばらく歩いていくと、東町バス停のある三叉路に突き当たるが、
江戸口門跡 亀山宿の東の入口での江戸口門があったところである (右写真)
江戸口門は、説明によると、延宝元年(1673)、亀山藩主、板倉重常によって築かれたもので、東西百二十メートル、南東七十メートルを土塁と土壁で囲み、北側と東側には、堀を巡らせる曲輪を形成し、東端に、平櫓が一基築かれた。 西側の区画に、番所が置かれ、通行人の監視と警護にあたっていた、とあるが、その面影はどこにも残っていない。 
東町商店街 江戸口門を入ると、亀山宿であるが、亀山藩の城下町でもあったので、こうした城下町の堅苦しさを嫌って、大名も旅人も亀山宿に泊まるのを敬遠したようである。 
東町は宿場の中心で、旅籠や本陣、脇本陣、東問屋場があったらしいが、商店街になってしまい、宿場だった面影はなかった (右写真)
右手に黒い板塀で囲まれた寺院(福泉寺と法因寺)が見える。 百五銀行の辺りが、
鉤の手 樋口太郎兵衛が務めた本陣や椿屋弥次郎の脇本陣などがあったところ、と聞いていたので探したが、百五銀行は移転してしまい、それらの跡は確認できなかった。  東海道は交番の前の交差点を左折し、狭い道に入る。  道はカラーモール化されているが、亀山城を迂回するため、何度も鉤の手に曲がるようになっている (右写真)
左右にカーブしながら、坂を下る。 坂の途中の左側には、遍照寺と誓昌寺があった。 
大きな古い家 お彼岸なので、寺では施餓鬼や法話が行われ、人の出入りが激しかった。 
少し歩くと、なだらかな下り坂になった。 道が大きく左にカーブするところに、大きな古い家が残っていた (右写真)
天保十四年の東海道宿村大概帳によると、亀山宿は、家数五百六十七軒、宿内人口は千五百四十九人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠二十一軒である。  右にカーブすると、
亀山城が見える 右側に濠があり、その先に亀山城の石垣と櫓が見えるところに出た (右写真)
江戸時代には、堀の脇に、松が植えられていたようである。 信号のない交差点に出ると、正面に、亀山宿分間地図が描かれたモニュメントがあった。  その脇に、狭い道があり、その道を上るのが東海道で、上ったあたりに、若林又右衛門が務めた西問屋があったようであった。 ここで、亀山城址に寄り道をすることにした。 
石井兄弟仇討ちの碑 右折すると、亀山城址に行けるので、そちらに向かって歩く。 上り坂になっていて、右側には、お濠がある。 その脇に、亀山城石坂門跡の木柱があった。  石坂門は西の丸から二の丸に通じる枡形の楼門で、三間十間の長さで、高さは四間あった、と説明があった。  木柱の脇に階段があり、下に降りると、石井兄弟仇討ちの碑があった (右写真)
江戸時代初期の延宝(1673-1680)年間に、石井源蔵、半蔵兄弟が大坂城代青山家の家臣
松並木の生き残り だった、父石井宗春の仇討ちで、亀山城外で本懐を遂げた。 江戸三大仇討ち の一つである。 道に戻ると、道の反対に一本の松があるが、これは、石坂門から外濠に沿って植えられた松並木の生き残りである (右写真)
亀山城の、濠から左は城壁で囲まれ、西の丸が建っていたというが、今は、学校や住宅地に変っていた。 
亀山城址の石碑 坂を上って行くと、道の左側に、亀山城址の石碑があった (右写真)
その先を左折すると、右側に、案内板と亀山城楠門跡の木柱が建っていた。 楠門は、本丸に入口にあった門である。  亀山城は、文永二年(1265)、関実忠により、若山(現亀山市若山町)に築城されたが、その後、現在地に移された。  江戸時代には、亀山藩六万石の居城となったが、江戸時代の初め、堀尾忠晴が、丹波亀山城と間違えて、三層の天守閣は壊されて
亀山城多聞櫓 しまった。 寛永十三年(1636)、藩主、本多俊次が、城の大改修を行い、天守台に多聞櫓を築いた。 粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれ、その優美さで知られた名城であるが、明治時代に、城は壊されたが、黒板張りの多聞櫓は、士族授産の木綿緞通工場として使用されたため、破壊されずに今日まで残った (右写真)
三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されている。 上洛する徳川家康、 
多聞櫓 秀忠、家光などが本丸を休泊に利用していることから、歴代の藩主は、二の丸で居住し、本丸は空けていた、という逸話も残っている。 多聞櫓に登ると、白壁と黒板のコントラストはなかなかよいなあ!!、と思った (右写真)
石段を降りると、明治天皇亀山行在所遺構と書かれた石柱を見つけた。 明治天皇も利用していたのである。 
屋号が掲示された古い家 坂道を下り、さっき右折したところまで戻り、東海道の旅を再開する。  坂を上ると、道は右にカーブし、西町になる。 江戸時代には、ここに西町問屋があった。 
道はまっすぐ。 このあたりの家にも、江戸時代の屋号が掲示されていた (右写真)
右側の家の前に、沼慾斉生家跡の木柱があった。 飯沼慾斉は、江戸時代末期の本草学者(植物学者)である。 
倉付きの古い家 百五十メートル歩くと、道の両脇に、右郡役所、左、東海道、右東海道、左停車場と書かれた小さな道標がある。 この右奥に、二の丸に入る青木門があったようである。 
その先の左側には、倉のある古い家があった (右写真)
そのまま歩くと、T字路に突き当たる。 ここは右折し、その先のT字路でまた、左折する。 ここは鉤型になっているのである。  左カーブからは下り坂となり、右折、左折を繰り返して
梅厳寺前 行くと、梅厳寺の前に出た。  梅厳寺の入口には、十一面千手千眼観世音菩薩の石柱があり、京口門跡の説明板があった (右写真)
京口門は、亀山宿の西端の竜川左岸の崖の上にあった。  亀山藩主、板倉重常が、寛文十二年(1692)、亀山宿の西入口として造らせたもので、石垣に冠木門を設け、 亀山城の一部としての機能を備え、棟門と白壁の番所が付いていた。 
梅厳寺前 坂道の両側には、カラタチが植えられ、下から見上げると、門や番所が聳え立つ姿は壮麗を極め、亀山に過ぎたものの二つあり、伊勢屋の蘇鉄と京口御門と詠われた、 とある。  右写真は、説明板にあった明治初期の京口御門であるが、威風堂々としていて、立派なものだっただろうと思われる。 
亀山宿は、このあたりで終わるのだろう。 


平成19年(2007) 3 月


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かうんたぁ。