『 東海道を歩く ー 関 宿  』


亀山宿から関宿へ行く途中に、野村一里塚がある。 三重県に残る唯一の一里塚で、現存
するのは北塚だけであるが、樹齢三百年を越す椋の木は、今も元気である。 
関宿は、西の追分で大和街道が、東の追分で伊勢別街道とつながっていたので、伊勢参りへ
の旅人も多く、大変繁盛した宿場である。  、今でも、約三百八十軒の古い家が残っている。 





亀山宿から関宿へ

浮世絵の亀山宿 平成19年3月18日、加佐登駅から庄野宿に入り、亀山宿を経て、関宿まで歩く予定である。  亀山宿の京口門を出ると、京口坂である。  東海道の浮世絵の亀山宿は、大名行列が雪の中、京口坂を登っていく風景が描かれているが、 かなり急な坂を上って行く様子が描かれている (右写真)

今日は、天気はよいが風が強く、歩くのが難儀するくらいであるが、急坂の雪道をどの
達川に架かる橋 ような気持で歩いていったのだろうか? 坂を下ると、深い谷があり、達(竜)川が流れているが、今は橋が架かっているので、難なく越えていけるが、江戸時代には、橋はなかったので、この下の照光寺から川を渡り、対岸の坂を登っていったのである (右写真)
橋を渡った右側から下を見ると、その照光寺があった。 
古い町並 寺に入っていくと、赤堀水之助(源五右衛門)の石碑があった。 赤堀水之助は、亀山城の濠の脇に、石川兄弟仇討ちの碑があったが、その相手である。 彼は、京口門外で討たれたが、哀れに思った人達が、この寺に墓を建てた。 石碑は、平成に入って、造られたものである。  道の両脇には古い家が残っていた  (右写真)
道は狭いが、歩道を示すスペースは橙色で塗られているので、インパクトがあった。 
古い建物 歩道はグリーンで表示されているのが多いが、この色の方が目立つような気がする。 
この先にも、古い建物が残っていた (右写真)
三百メートル程先の左側にある慈恩寺は、神亀五年(728)、聖武天皇の勅願により行基が開山し、忍山神社の神宮寺として創建さ れた、と伝えられる寺である。 
慈恩寺 慈恩寺の本尊は、九世紀初頭、弘仁年間(810〜824)頃の作とされる、約一メートル六十二センチのヒノキ一本彫りの阿弥陀如来立 像で、平安時代初期の代表的な彫刻作品として国の重要文化財の指定をうけている。 なお、慈恩寺は、天正三年(1575)には、法 相宗から浄土宗に改宗し、江戸時代の中頃、長福寺から現在の名前に改称している(右写真)
その先の左側にある小さな道の角の民家に、天照皇太神御鎮座跡 忍山(おしやま)神社山道、
忍山神社社殿 と書かれた石柱が建っていた。 忍山神社は、集落の南の外れ、鈴鹿川の北岸近く、関西本線の北に位置し、この先の交差点 を左折し、国道を越えて行った先にあるが、文明四年(1472)の戦火で焼け落ちるまでは、愛宕山と呼ばれる海抜九十メートル の丘陵の南麓に、神宮寺の神福寺と共にあった、という (右写真)
この神社は、延喜式神名帳に載る古社で、 垂仁天皇の時代、皇女倭姫が御杖代となって、 野村一里塚 天照皇大神の鎮座の地を求めて、 大和の国から忍山に御遷幸になり、神宮を造営し、御鎮座になること十年、なおも南へ遷り坐した、と伝えられる由緒正しい 神社である。 
交差点を越えると、右前方に、野村一里塚の巨大な木が見えてきた (右写真)
(むく)の木を植えている一里塚は 珍しく、国の史跡に指定されている。 
現存するのは、野村一里塚の北塚だけで、その上に植えられた椋の木は、樹齢三百年を
狭い道 越し、幹周り五メートル、高さ二十メートルの大木に成長している。 南の塚は大正十二年に壊された。  この先、車が1台しか通れない細い道となる (右写真)
風が強く、帽子が飛ばされそうになって、あわてて、帽子を脱ぎ、折りたたんで、外套のポケットに入れた。  道の脇の空地に、大庄屋 打田権四郎昌克宅跡、 と書かれた木柱が立っていた。 左にカーブして行き、一里塚から七百メートル程歩くと、右側に、寺がある三叉路に
布気地区 出た。  東海道の道案内があり、右が東海道で、布気皇舘太神社 能古茶屋跡、とあるので、右の道を行く。 このあたりには、古い家が一部残っている (右写真)
布気地区は、江戸時代、立場茶屋があったところで、元禄三年(1690)に開かれた能古(のんこ)茶屋が有名だった。  亭主の禅僧道心坊能古は、奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなし、好評をえた。  松尾芭蕉も能古の友人で 
    「    枯枝に    鳥とまりたるや     秋の暮      」  
布気皇舘太神社 という句を残している。  道は左にカーブしているが、入ってすぐの左側に布気皇舘太神社があり、能古茶屋は、この前にあったようである (右写真)
布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社は、延喜式に小布気神社とある式内社で、天照皇御神、豊受大神、猿田彦命などが祭神である。  皇舘とは、垂仁天皇の御代、天照大御神を忍山に還幸の折、大比古命が、神田、神戸を献じたことに由来し、神戸七郷
下り坂 (野尻、落針、太岡寺、山下、水下、小野、鷲山)の総社である。 東海道名所図会に、
天照大神五十鈴川遷幸の際の行宮の古跡也、とあるのは、ここにも還幸されたという説があるからだろう。  明治四十一年、近郷の小社、小祠を合祀し、現在の名前になった。 直進すると、下り坂。  東海道は直進の矢印があるので、坂を下る (右写真)
下ると東海道の道案内があり、大岡寺畷と示されているのに従って進む。  真直ぐ進むと
大岡寺畷木標 国道1号線に出るが、その手前で左折し、歩道橋を渡って、国道1号とJR関西本線を越え、鈴鹿川沿いに道なりに進む。 この辺りは、畑の中の一直線の道で、一人も歩いていない。 
七百メートル程進むと、大岡寺畷と書いた木標があった (右写真)
畷(なわて)とは、直線道路のことで、大岡寺畷は、鈴鹿川の北堤で、千九百四十六間(約3.5q)にわたる東海道一の長い畷であった。  江戸時代には松並木があったので、
名阪高速道路 里謡に、「 わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり 」 、と謡われたというところである。  芭蕉は、ここでは珍しく、和歌を詠んでいる。 
  「  から風の 太岡寺縄手  ふき通し  連もちからも  みな坐頭なり  」  
小学校前を通り,名阪高速道路の高架をくぐる (右写真)
高架下の壁には広重の東海道の浮世絵が描かれていた。 畑の向こうには、関西本線
大岡寺畷 が走るが、現在、国道1号のバイパス工事が行われていて、 完成時には景色が変りそうな気がした。  鈴鹿川は水量少なく,歩いてでも渡れそうな浅さで、早春の日できらきらと輝いていた (右写真)
道は線路に近づき、やがて踏み切りを渡ると、国道1号線にでたので、歩道橋を使い、反対側に渡る。  国道をしばらく歩き、小野川橋を渡ると、関宿はもうすぐ。  

(ご参考) 関宿の歴史

三重県関町は、明治以降、宿場のあった、関中町を中心に周辺の村が合併してできた町で、現在の人口は七千二百人である。 町内には、関宿と坂下(さかのした)宿の二つの宿場があった。 関の地名は、古代に、鈴鹿関が設けられたことに起因している。 
奈良朝以前には、伊勢の鈴鹿、美濃の不破(ふわ)、越前の愛発(あらち)の三関が最も重要とされていて、日本三関と総称されていた。  関の地名は、この中の鈴鹿の関が地名となって残ったもので、東方の攻撃から都を守るため置かれた関所である。  鈴鹿関の誕生は、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った壬申の乱(672)の際、大海人皇子がこの地を固めたことによるが、延暦八年(789)、神武天皇により廃止された。  その後も、天皇崩御や政変などの世の中が殺伐する度に関守が派遣され関が固められたというから、何らかの施設が残されていたのではないだろうか? 
関のあった場所は複数の説があるらしく、また、関の規模など、はっきりしたことは分からないようである。 
それはともかく、関は、大和朝廷時代には加太越えの大和街道が、また、京に都が移ってからは、鈴鹿峠越えの東海道が通っていたので、東国への重要な交通の要所だった。  中世に入ると、伊勢平氏の末裔である関氏がこの付近を所領。 また、行基が建立した地蔵院が、近在の人々や旅人の信仰を集め、門前町が形成していき、集落そのものが、関地蔵と、呼ばれるようになったのである。  関の町並みは、安土桃山時代の天正年間に、亀山城主、関盛信が道路を改修し、新所と木崎の間に中町を建設したときに基礎ができたが、徳川家康による宿駅制度の実施により、慶長六年(1601)、東海道の四十七番目の宿駅となったことにより、大きく飛躍した。 参勤交代で往来する大名行列や京、大坂から江戸を行き来する飛脚や商人が頻繁に往来する東海道の大宿場に変貌したのである。    また、西の追分では大和街道と、東の追分で伊勢別街道につながっていたので、伊勢参りへの旅人も多く、大変繁盛した宿になった。  しかも、幕末に発生した御陰参りを契機とした全国的な旅ブームにより、旅の目的が娯楽になり、伊勢から離れたこの地は飯盛り女だけではなく、酌婦を抱えた女郎屋が五軒もあるという一大歓楽地の要素を強めていったのである。  明治二年に宿駅制度が廃止されたが、往来する旅人の数はむしろ増加し、宿場はなお繁盛していった。  このように繁盛していた関宿であったが、明治三十三年、関西鉄道(現JR関西本線)が全通し、さらに参宮線も開通したことによって、関町の宿駅としての機能は殆んど失われてしまった。  更に、名神高速道路の開通と名阪国道の開通により、国道1号線の通行量も大幅に減り、物資輸送も変化していった。  関宿は、地元の人を相手とした商売を続ける町であったが、国道1号のバイパスが、町のはずれを通ったことにより、近隣に生活する人々のための商業地となっていた町も、国道沿いに出来たスパーマーケットなどの商業施設に客を奪われ、現在では静かな住宅地になってしまっている。 
隣の亀山市との合併話が決まり、平成17年1月、関町は消えることになった。 亀山市関町○○という名にのみ、名前が残るようで、寂しい気がする。 
(注)この稿は、平成の合併で、亀山市に編入される前の関町時代に書いたものである。 


後半に続く( 関 宿 )







かうんたぁ。