『 東海道を歩く ー 石 薬 師 宿  』


日永は伊勢街道の追分である。 伊勢神宮の二の鳥居といわれるものがあり、その下に湧き水がある。 
更に行くと、日本武尊命に由来する杖つき坂がある。 「 吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり 」 といった
ことが、三重の始まりとされる。 
石薬師宿は、泰澄が開創した石薬師寺が有名でその名が付いたとされるが、佐佐木信綱を生んだところである。




 

四日市宿から日永追分へ

古い家 平成19年1月25日。 9時前に近鉄四日市駅に到着。 前回終えたスワマエ表参道のアーケード街の端から東海道を歩き始める。 駅前の大通りを横切ると、浜田町であるが、四日市は戦災で中心街は焼失したので、古いものはない (右写真)
少し歩くと、小さな川があり、阿せちばしと刻まれた、円筒状の石碑が橋の脇に立っていた。 
丹羽文雄生誕之地碑 少し歩くと、左側に郵便局があり、その隣に、アルミサッシで囲まれた保育園があり、その奥 に寺院が見えた。 この寺は、崇顕寺(そうけんじ)で、アルミサッシの脇に、 仏法山崇顕精舎 丹羽文雄生誕之地 と、書かれた石柱が立っている (右写真)
  丹羽文雄は、この寺の住職の長男として生まれた。 戦後、銀座を描いた風俗小説で一世を風靡 (ふうび)し、親鸞や蓮如などの宗教小説で人間の深い業を描いた。 昭和五十二年(1977)には、第一回の文化勲章を受章している文壇の重鎮である。 
古い家 その先に東海道の道案内があり、右折すると、三百メートルで浜田城祉、鵜森神社、鵜の森 公園にいける。 なお、この道案内は、その先にもポイントポイントにあり、役にたった。  しばらく進むと中浜田町。 古い家が立ち並ぶようになった。 このあたりは戦災を免れたのだろうか? (右写真)
道が右にカーブすると、近鉄線のガードが見えてきた。 諏訪神社から近鉄のガードまでは、
古い家 約九百メートルで、ガードをくぐると、南浜田町になる。  道は右にカーブし、その先で、近鉄内部(うつべ)線と平行する道に合流した。  左折し、この道を線路に沿って歩くと、赤堀駅前に出た。  その先右側の連子格子の家の前に、小さな祠に納まった地蔵様が祀られていた (右写真)

鈴木家 古い街並みは続くこのあたりは赤堀集落で、慶応年間(1865〜1868)ごろには、居酒屋や 傘屋、種屋、畳屋など、多くの商家が立ち並んでいた、という。  右側に立派な古い建物があり、案内板に、鈴木薬局(旧鈴木製薬所)とある (右写真)
鈴木家は三百年近く続く家柄で、第四代の勘三郎高春が、寛永三年(1750)、蘭学の盛んな長崎に赴き、漢方を伝授され、 赤万能即治膏や 萬金丹 などの膏薬を製造、販売する旧家
鹿化川 である。  この建物は、嘉永五年(1852)に建てられたもので、がっちりした建物には 歴史の重みが感じられた。 落合川渡ると、前方が小高くなっているのが見える。  
一段高いところにあるのが、鹿化川で、そこに架かる橋を渡る (右写真)
川が周りの土地より高いので、車が勢いをつけて上ってきた。 右側に見える山々には
大宮神明社 雪はほとんど見られない。 雲が多くなったのは気になるが、先週の桑名より風が弱いのは助か る。 その先の右側の小さな社は、大宮神明社である (右写真)
垂仁天皇の時代に、倭姫命が天照大神を伊勢に遷す際、この社に一時留まった、という伝えがあり、名所記に、 松林のうちに、天照太神の社あり、 と記されている神社で、  前身は、五百メートルほど西の岡山の地にあった舟付明神で、四百年ほど前に炎上した後、現在の地に
興正寺 移ってきた、とあり、当時の岡山は海に面していた、と案内にあった。  そこから、二百五十メートル歩くと、交差点があり、右手に日永駅がある。 このあたりは、相変わらず古い街並みである。 更に、二百五十メートル程歩くと、右側に、真宗高田派の興正寺がある。 貞観六年(864)の創建といわれる古い寺である (右写真)
天白川がこの寺を囲むように曲がっているのは、滝川一益が堀の役目をするようにした、と
日永神社 いわれ、昔の人は、滝川堤と呼んでいた。  その先の小高いところを流れているのが天白川で、橋を渡ると、両聖寺がある。  信号交差点を渡ると、右手にあるのが日永神社で、名所記に 、 ひなの村。 この村にも太神宮の御やしろあり と、記されている神社で、昔は南神明社といった古い神社だが、創建の時期は分からない (右写真)
神戸藩主本多家の崇敬が厚かったという神社だが、明治四十年に周囲の神社を合祀
日永神社道標 して、現在の名前になった。 境内の片隅にある石柱は、日永追分の神宮遥拝鳥居の傍らに立っていた道標である。 案内板には、嘉永弐年(1849)に現在の道標に替えられた時、この道標が不用になり、近くの追分神明社に移され、明治の神社統合により、追分神明社が合祀された際、道標もここに移された、と推定される、とあった (右写真)
石柱の正面に、 大神宮いせおいわけ 、右側に、 京 、左側に、 山田 、裏面に、 明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 專心 、と刻まれていて、明暦弐年(1656)に、專心という僧侶の
日永一里塚跡碑 手で、建てられたことが分かる。 隣にある長命山薬師堂の薬師如来像は、平安末期から鎌倉期のものといわれ、市の有形文化財である。  少し歩くと、左側のたばこ屋の向かいの倉庫の横に、日永一里塚跡の碑が建っていた (右写真)
気を付けて歩かないと、見落とすところだった。  左側に、一本立っている松の木は、松並木の生き残りのようである。 それにしても、この道は車の行き来が多い。 平行している国道を
日永の追分 避けた車が流入するからだろう。 信号交差点を過ぎると、右側に伊勢みそ、伊勢蔵しょうゆと書いた看板の店があった。  やがて、国道1号線と合流したが、日永神社から千五百メートル位だろう。  国道を百五十メートル歩くと三差路になるが、そこが日永の追分である。 日永の追分は、伊勢参宮道との別れ道だった (右写真)
四日市宿と石薬師宿の間にあることから、間の宿とよばれ、周辺には、多くの旅籠や
日永の二の鳥居 立場茶屋などが並んでいた、という。  現在は、自動車が行き交う三差路の真中になってしまっていた。 車に注意して渡ると、伊勢神宮の大きな鳥居がある (右写真)
この鳥居は、安永三年(1774)、久居の出身の渡辺六兵衛という商人が、江戸から京都に行く途中、ここから伊勢神宮を遥拝するのに、鳥居がないのは残念!!と、この土地を購入し、江戸の伊勢出身者に募って建立したもので、桑名の一の鳥居に対し、二の鳥居といわれる
二の鳥居の常夜燈や道標 もの。 鳥居は、伊勢神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることになっている。  鳥居の脇には、常夜燈や道標が建っている。 嘉永弐年(1849)建立の道標には、右、京大坂道、 左、いせ参宮道と書かれていた (右写真)
昔の伊勢街道は、鳥居の下を通っていたが、道路改修の際、現在のように道がずらされ、三角地は小公園になった。  歩き続けてきたので、ここで小休止。 鳥居の脇に湧き水があるので、降りて手元のペットボトルに注ぎ、飲んでみるとなかなか美味しい。  地元の人達がタンクを持って水汲みにきていた。
(ご参考) いせ参宮道に興味のある方は   「 伊勢街道を歩く 」をご覧ください。

日永追分から石薬師宿へ

近鉄追分駅 日永追分から右に分かれる道が東海道で、現在は国道1号線になっている。 左へ行くのは伊勢街道で、伊勢神宮に至 る。 江戸時代、この付近には、数軒の茶屋が立ち並んでいて、鈴鹿を目指す者も、伊勢に向かう者も、休憩して身支度 をしたり、腹ごしらえをしたので、たいへん賑わった。 周りは変わっているが、道標通り右へ行くと、近鉄追分駅がある (右写真)
また、団扇が特産で、特に夏には日永団扇を土産物として買い求める旅人が多かったという。 
まんじゅう岩嶋屋 追分の茶屋の名物は、まんじゅうだった。 近鉄内部線の踏み切りを渡ったら、すぐ左の細い道に入る。 曲がってすぐの右 側に、追分まんじゅう岩嶋屋がある (右写真)
東海道中膝栗毛の中で、弥次さん喜多さんは、「 名物の饅頭のぬくといのをあ がりやあせ。 お雑煮もござります。 」 と茶屋の客引きにあい、美人のいる鍵屋に入ったのだが、居合わせた金毘羅参り 途中の旅人と、饅頭の食べ比べをすることになり、賭けに負けてしまう。 相手は
まんじゅう岩嶋屋 手品を使い、食べた振りをしていたのが、 後で分かり悔しがる、という話である。 「 饅頭のぬくといの 」 という茶店の女の言葉から、蒸したての温かい饅頭が供さ れたと判断するのが正しいが、追分まんじゅう岩嶋屋には、蒸し饅頭はない。 岩嶋屋の追分饅頭は、天保時代から守り続けて きた酒酵母を使った酒饅頭だった (左-薯蕷饅頭(160円)と右-追分饅頭(105円))
五十年前に三重県菰野町の店から分家し、開業した店という。 違う饅頭だったが、小粒でなかなかうまかった。 店の前の 道が東海道で、このあたりが、小古曽集落である。 
慈王山観音寺 一本の静かな道が続くが、少し歩くと三叉路になる。 ここは右で、そのまま歩くと大蓮寺前に出る。 続いて、慈王山観音寺がある。 この寺は禅宗の一派、黄檗宗の末寺で、山門は四脚門形式で、屋根の両端に異国風のマカラを上げていた (右写真)
隣の細道の奥に、小許(古)曽神社(おごそじんじゃ)がある。  延喜五年(905)の延喜式神名帳に記載されている古社である。 
前方に病院が見える その先、道が右へ直角に曲がるが、そのまま奥に進むと願聖寺がある。 道は左へ曲がる。 直角に曲がっているのは、昔大きな寺の境内があったからといわれる。 その先で交差点に出る。 正面には病院が見えるが、ここでどうするか?  (右写真)
東海道は交差点を越え、病院に向かって歩くと、小古曽三丁目の交差点に出る。 病院の前の二本の松は、街道名残の松といわれ、昔は松並木であった、という。 道の左
内部川に出る 奥は、近鉄の内部駅で、東海道は、交差点を渡って、向こう側の道へ入る。 少し歩くと、内部川岸に出た。  内部川は、古には、三重川と呼ばれたようで、万葉集の第九巻に、 「 わが畳 三重の河原の磯うらに 斯くしもがもと 鳴くかはづかも 」(伊保麻呂) と、詠われている。  江戸時代には橋があったというが、道はここでで終わっていた。 しかたがないので、左側に見える国道の内部橋を渡り、対岸へ渡った (右写真)
対岸は、 四日市市采女町。 采女とは、宮廷で天皇に仕えていた、給仕など雑用をする
東海道に入る途中の道 女官のことで、地方豪族から未婚の美女がつかわされた。 地名の由来であるが、雄略天皇に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得て、この地の名前にした、といわれている。  橋を渡り終えたら、右側の階段で下に降りて、国道の下をくぐりぬけ、直ぐに右折すると、国道に平行する小道で、青い橋で川を渡ると、左側にマックスバリューの駐車場が見える (右写真ー振りかえって写したもの) 
采女集落 駐車場の先で左折すると、東海道で、ここから杖衝(つえつき)坂を上り終えた先まで残っている。 マックスバリューを左に見ながら、通り過ぎ、采女集落を歩くが、古い家はあまりないという印象である。 すれ違ったバイクの郵便屋が何故か風景にマッチしていた (右写真)
少し上り坂かと思える道を歩き、突き当ったところで右折し、そのまま、進むと国道に出るが、それでは行きすぎるので、その手前の左の道に入った。 
金比羅堂 少し行くと、道の正面の小高くなっているところに、金比羅堂が建っている (右写真)
金比羅堂の境内には、日本武尊(やまとたてるのみこと)の墓と、伝えられるものがあった。  ここから、杖衝坂の登りが始まるが、この坂には、日本武尊にちなむ伝説がある。 
古事記によると、 日本武尊は幾多の苦難の末に東国を平定し、帰途についたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、深手を負った。 大和に帰るため、伊勢国に入り、このあたりまで来た
杖衝坂 とき、急坂で登れなくなり、持っていた剣を杖してようやく登ることができたことから、この坂を杖衝坂と、名付けたとある (右写真)
また、伊勢名勝志にも、 「  杖突坂 采女村ニアリ官道ニ属ス、伝へ云フ倭武尊東征ノ時、桑名郡尾津村ヨリ能褒野ニ到ルノ時、剣ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク・・・・ 」  と、記述されている。  金比羅様の前を過ぎると、坂は左右とカーブし、勾配が急に険しくなる。  杖衝坂の長さは、二百メートル程であるが、高低差が五十〜六十メートルと、かなりの急坂である。 
芭蕉句碑 一般車両は国道を通るが、地元民の車が坂にかかると、ゆっくりゆっくり登っていくので、かなりの傾斜であることが分かる。  坂の中腹には、昭和四年(1929)に、県が建てた杖衝坂の石碑があり、その先に芭蕉句碑があった (右写真)
芭蕉の笈の小文に、 「 貞亨四年(1687)、 美濃より十里の川舟に乗りて むかしも桑名よりくはでと詠る 日長の里に馬かりて 杖つき坂をのぼるほどに 荷駄打ちかへりて 馬上がり 落ちぬ 」 、とあり、 「 歩行(かち)ならば  杖つき坂を  落馬かな  」 という、季語がない句を詠んでいる。 
句碑を建てたのは、村田鵤州(かくしゅう)で、宝暦六年(1756)のことである(巻末参照)
(注)芭蕉の句は、歩いて登ればこんなしくじりをしなかったのに、庶民(芭蕉を指す)の身ながら、おこがましくも馬に乗ったばっかりに、急な坂で、荷鞍が打ち返り、落馬してしまった。 この坂は遠い昔、景行天皇の皇子、日本武尊が重い病をおして、都に帰りたい一心から、腰の剣を杖にして、吾が足三重に曲がる程疲れたとおっしゃりながらも、あえぎあえぎ越えられたのだった。 歩いてのぼればよかったのに、もったいないことをした、という意。 

井戸 その先にある二つある井戸には、ふたがかけられているが、四季を通じて湧き出る井戸で、東海道の旅人が渇きをいやし、近隣の家々では朝夕この井戸の水を求めてやってきた、という (右写真)
日本武尊は、さらに、少し進んだとき、 吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり 、と言い、その地を 三重 と言うようになったとも伝えられている。 これが三重郡(県)の由来である。 
血塚社 急坂を登りつめると、血塚社がある (右写真)
日本武尊が坂をようやくの思えで登り終え、血止めをしたところといわれ、前述の伊勢名勝志にも、 側ニ血塚アリ尊ノ足ヨリ出デシ血ヲ封ゼシ処ナリト云フ 、 と書かれている。  この坂は、自動車をはじめ、歩行者にも難所であったので、昭和の初期、丘陵の北側中腹にゆるやかな坂道を新設し、これが現在の国道一号となった。 
坂を上りきる手前 から、右側に自動車が行き来するのが見え始め、上りきった所で、
采女一里塚碑 国道1号線と合流した。  采女一里塚は国道1号線と合流した地点の国道の反対側にあるが、ここには横断歩道がない。 小生は車がこないのを確認して、道を横切り、道の右側に出たが、まねはしない方がよい。  道路右側の出光のガソリンスタンドとマルエイ設備の間に采女一里塚の碑が建っていた (右写真)
ガソリンの値段が名古屋に比べ、かなり安いのには驚いた。 また、左側に食べもの屋
豊冨稲荷神社 が二軒とコンビニもあった。 旧東海道にはないが、国道となると、お店もある。  ないだろうと、駅で弁当を買ってきたが、その心配はなかったのだ。  その先の左側に、豊冨稲荷神社が見える。 寛治弐年(1088)の創建で、参勤交代の大名が通行する時は、庶民や旅人はここで迎えたという土下座場があった、という (右写真)
それはともかく、そのまま右側を六百メートル程行くと、采女の信号交差点に出るので、 国道を横断し、道の反対側(左側)に出て、そのまま国道を歩く。 
なお、ここを左折し、同じくらい行くと、国分の集落があり、西の畑の中に伊勢国分寺跡がある。 
(ご参考) 伊勢国の国府、国分寺、国分尼寺に興味にある方は友人のページ「国府物語」をご覧ください。

国分町交差点 ここから先はデーラー(自動車販売店)やガソリンスタンドが並ぶが、すぐに鈴鹿市になる。  国分町交差点で、左の道に入る。 これが東海道である (右写真)
右側に2つのお堂がある前を通り、少し歩くと下り坂になり、また、国道1号線とぶつかる。  そのまま進むと、大谷の交差点で、信号手前の右手にある地下道を使って、国道の反対側に出る。  国道の反対側に出たら、国道右側の歩道に沿って進む。 
右側に自由が丘という団地が続く。 団地が終わるあたりから道は左にカーブを始める。
川を渡ると、国道は上りながら大きく左にカーブするが、中山道は右の細い道である。 
団地の端から百メートルくらいだが、ここが石薬師宿の入口である。

(ご 参 考)  村田鵤州が建てた芭蕉句碑
 
芭蕉句碑 村田鵤州は、芭蕉句碑の側面から裏面にかけて、
 「 この坂に杖つき坂の名があることは日本武尊醒ヶ井の御足を三重の県に曳きます時、佩きたまへるところの御剣をときはしめて杖につき賜うより二千歳の今でも野童樵夫これを呼ぶこと大尊を尊崇し泰る自然の徳化成るべし 」 と、書いて、 芭蕉の五文字、歩行ならばに、日本武尊の故事を重ね合わせている (右写真ー芭蕉句碑側面)
鵤州は、 「 されば芭蕉翁の五文字に自己を罪して実情を導くの意即ち我が国の大道なり予これを感じるのあまり不朽の石に雫して古きをしのぶ旅客にもてなすのみ 」 と書き、
 「 花に雪に こころの杖の 道しるべ 」 と、結んでいる。 

石薬師(いしやくし) 宿

石薬師宿入口 安藤広重の石薬師宿の絵には、石薬師寺とその後ろの山を背景にした数軒の藁屋根の家が描かれている (右写真)
カーブする国道の手前で、右側の細い道に入ると、東海道石薬師宿の石碑が建っていて、その傍らに、信綱かるた道と称して、佐々木信綱の歌の色紙が掲げてあった。 
「四日市の 時雨蛤(しぐれ)日永の 長餅の 家土産(いえずと)まつと 父は待ちにき 」 
北町地蔵堂 この先にも続いていたが、風雨に曝されて朽ちたようになっているのは少し哀れみを感 じた。 その先の左側には、延命地蔵が祀られている北町地蔵堂がある (右写真)
祀られた経緯は分からないようだが、江戸時代からのもののようである。 石薬師宿は、元和弐年(1616)に、四日市宿と亀山宿の間が長いため作られた新宿である。 幕府領(天領)であり、宿場ができるまでは高宮村と呼ばれていたが、宿場ができても、総家数は二百四十一軒、
古い家 宿内人口は九百九十人と、宿場の規模が小さかった。 本陣は三軒あったが、脇本陣はなかった。 旅籠が十五軒(時代で数は変わるが)に対し、百姓が百三十軒で、広重の絵の通り、農村的な性格を有していたのである。  ここから少しの間、上り坂である。  上りきったあたりから石薬師宿である (右写真)
右の奥の方に、大木神社が見えたので、入っていった。 
大木神社 大木神社は、延喜式に記載されている古い神社で、東京遷都の時には明治天皇の使者が訪れ、玉串代を納めている。 また、蒲冠者といわれた頼朝の弟、源範頼とゆかりのある神社である (右写真)
ここで駅で買ってきた弁当を食べ、先ほどの日永追分でペットボトルに汲んできた水を飲んだ。  なかなか美味しい水なので、わざわざ汲みにくる人の気持が分かった。 
信綱の歌碑 境内にある石碑には、 大木神社に詣で侍りて 文学博士源信綱、 とあるが、佐々木信綱のことである。 石碑には引き続き、 月ごとの朔日(ついたち)の朝 父と共に もうでまつりし産土(うぶつち)のもり 、冬をおへる 森木木のかけらみて あしきまつらふ神の恵を という歌が刻まれていた (右写真)
街道に戻って、また歩き始める。 
旧本陣小澤家 右側に立派な建物が見えてきたが、本陣であった小澤家である。 
昔はもっと広い屋敷だった、というが、国学者萱生由章はこの家の出で、元禄の宿帳には赤穂藩浅野内匠頭の名も見える、と案内にあった (右写真)
旅籠は、本陣を取り囲むように建っていたようで、斜め前には、問屋の園田家があった。  あと二軒の本陣は、小学校のあたりにあったようであるが、表示がないので分からなかった。 
石薬師文庫 天野記念館は、タイムレコーダーで、有名なアマノ(株)の創業者が、ふるさとのために建てて贈ったもので、その隣にある建物は、石薬師文庫である (右写真)
建物の前にある四角な石碑には、佐佐木信綱と佐佐木幸綱の歌が刻まれている。 佐佐木信綱は、明治から大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として、万葉集の研究にあたった人物で、佐佐木幸綱はかれの孫にあたる。  その脇に、道路元標を記念した石碑がある。 
信綱歌碑 この建物は佐佐木信綱が贈ったもので、文庫を贈るにあたり、
「 これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために  」 、という歌を詠んだが、 建物の右側に、地元の人達は、昭和四十年、信綱死後二年祭に上記の歌を刻んだ記念碑を建てた (右写真)
その前にも別の道路元標があった。  石薬師文庫の左側の連子格子の二階家が、信綱の
信綱資料館 生家である。 信綱は、一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごした。 家の前には、信綱の歌碑があった。  生家の向こうには、佐佐木信綱資料館がある (右写真)
その先の左側にある浄福寺は、室町時代の開創、真宗高田派で、ご本尊は阿弥陀如来、佐佐木家の菩提寺であった。  山門入口の左側には、佐佐木信綱の父、佐佐木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれている。 
石薬師寺 道はその先、左にカーブし、その向こうには国道を跨ぐ瑠璃光橋がある。  橋を渡ると、右手に石薬師寺。 東海道名所図会に、高宮山瑠璃光院石薬師寺、とある寺で、石薬師宿という名は、全国的に有名なこの寺から付けられた、とある (右写真)
奈良時代の修験道の僧、泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのが始めで、その後、弘法大師が、自ら薬師如来像を刻んで、開眼供養をされた、と伝えられ、かなり古い寺である ことが分かる (詳細は巻末参照)
石薬師寺本堂 本尊は、石仏薬師如来で、菊面石に彫刻してある、という。 天正三年(1575)、織田氏の兵火で、 諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したが、御本尊は難を免れた。 慶長六年(1601)に、城主の一柳監物に建てられた本堂は、桁行三間、梁行四間の寄棟造り、本瓦葺きで、一間の向拝がつくものである (右写真)
佐佐木信綱は、昭和七年八月、この寺を詠んでいる。 
石薬師寺 「 峰時雨 石薬師寺は広重の 画に見るがごと みどり深にし 」 (右写真)
境内には西行法師、や一休禅師、松尾芭蕉の歌碑が建っていた。
「 名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり 」 (一休禅師) 
「 柴の庵によるよる梅の 匂い手やさしき方もある住いかな   」 (西行法師) 
「 春なれや  名もなき山の  薄霞   」  (松尾芭蕉) 
これで、石薬師宿は終わる。

(ご 参 考)  石薬師寺
 
「 今から約1200年前の聖武天皇の神亀三年(726)に、泰澄がこの地を訪れたとき、森の中の大地が地鳴りをして巨石が現れた。 これはきっと医王尊即ち薬師如来が民衆を救うために現れたのだと感じ、堂を建て敬ってお祀りされた。 その後、嵯峨天皇の弘仁三年(812)、弘法大師が、自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされた。 時の帝である嵯峨天皇の耳に達し、天皇は直ちにこの寺を勅願寺としたので、堂坊も整い、塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達した。 天正三年(1575)の織田軍による兵火で、諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したが、住職の円賢えんけん法印はすぐに仮堂を造りお祀りし、 神戸(かんべ)城主、一柳監物直盛の手により、寛永十一年(1626)に諸堂諸坊を再建された。 」 (寺の由来記による)  


平成19年(2007) 1 月


(45)庄野宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。