江戸時代に一番人気があったのが、お伊勢参りである。
江戸からは0伊勢さんに向かうには、東海道を進み、宮の渡しで桑名に渡る。
桑名の渡しで迎えてくれるのが伊勢神宮の一の鳥居である。
桑名のやき蛤を食べて歩くと四日市宿に到るが、そのはずれにあるのが日永の追分。
ここで、東海道と別れて伊勢に向かう道が東海道の脇往還の伊勢街道である。
東海道の脇往還である伊勢街道を歩き始めたのは平成21年2月13日(金)。
出発点の日永の追分へは名古屋から近鉄で四日市駅にゆき、内部線に乗り換えて追分駅まで行き、駅を出て国道1号の追分交差点に向かった。
交差点の手前の小高いところには、右 京大坂道 左 いせ参宮道 と刻まれた、嘉永弐年(1849)建立の大きな道標があり、
その奥には、屋根は銅板、火袋は木製、台座は石製の立派な常夜燈が建っていた (左下写真)
江戸時代には東海道と伊勢街道の追分には茶屋や旅籠が多く建ち並んでいたというが、面影は残っていない。
鳥居は、久居の出身の商人、渡辺六兵衛が伊勢神宮に寄れない旅人のため、神宮が遥拝できるように建立したもので、
桑名の一の鳥居に対し、二の鳥居といわれ、江戸時代は鳥居の下をくぐり、伊勢に向っていたが、
道路改修により道がずらされ、鳥居のある三角地は小公園になり、伊勢街道は、国道1号になっている (左中写真)
伊勢に向かって国道1号の歩道を出発する。
四百メートル程歩くと追分3交差点で、その先に高架橋があったが、ここで国道1号は高架上の国道25号と合流してしまうが、
伊勢街道は高架の下をくぐり、直進する道である。 この道は県道103号(四日市鈴鹿線)で、歩道は右側にしかない。
左側の歩行者用の線が引かれているだけの危険な道を三百メートル程進むと、左に入る道の角に、四基の道標が建っていた。
三重四国八十八ヶ所十二番札所とあるのが二つ、子安地蔵密蔵院、大治田密蔵院の道標、その間に、壊れかけた祠の中に小さな石仏が祀られていた (右中写真)
左折して百メートル先に本尊が薬師如来であることから、薬師寺ともいわれる蟹築山密蔵院があった (右下写真)
この寺には、その昔、海中より蟹が薬師如来を運んできて、当寺に安置されたという伝承があり、本尊はかに薬師と呼ばれる。
天正三年(1575)の長島一揆では、織田信長の軍勢により焼き討ちされ、堂宇はことごとく焼失したが、
本尊と弁財天はかろうじて難を免れた。 現在の建物は明治十三年以降に再建されたものである。
街道に戻り、四百メートル位歩くと左側に三菱化工機、右側に福島鉄工所見えたところからは工場が多い。
右側にDAISOの看板があるところの先を右に入ると、僅か四百メートル足らずの旧道が残っていたが、
土手に突き当たると左にカーブし、県道に合流してしまった。
内部川に架かる河原田橋の歩道橋を渡るとすぐ右折し、土手上の道を行き、
先程の旧道の延長線にある導水管の橋で、左に降りる道を下るとその先に妥女集落が見えたが、
道の両側の家は今まで歩いたところと違い、家は大きく古い家が多い (左下写真)
少し行くと、交差点の先、左側に、距 津市六里三十二町などと、各地からの距離が刻まれた石柱が建っていたが、
これは明治時代に建てられたもので、津市六里三十二町とあるのは三重県庁からの距離である (左中写真)
交差点の手前の右側の道は旧妥女道で、入って行くと用水のような小川が流れているが、
手前に常夜燈が、隣には、庚申と山の神と書かれた石碑と中央に役の行者像も建っていた。
常夜燈は天保十四年(1843)に建立されたもので、以前は内部川橋にあったのをこの北河原田の西端に移転した、という (右中写真)
元の道に戻り、その先に進むと、交差点先の右側に鳥居と常夜燈、その先に狛犬、その奥に河原田神社の標柱が見えたので、
参道を上って行くと、先程の用水が流れていて、川の先には河原田神社の標柱と険しい石段があった。
河原田神社は、周囲六村の六つの神社を明治四十二年に合祀してできた神社で、
社殿の右側の石垣の上には四つの山の神の石碑が祀られていて、社殿の左手には、神武天皇遥拝所というのもあった。
参道を下り、川を渡った堤の道に戻り、左折して少し進んだところの桜の木の下に、庚申塔が八基並んで建っていた (右下写真)
交差点に戻り、道を直進し、左手の真宗高田派の名刹、光明山常超院は寄らずに通り過ぎる。
五百メートル程歩くと、また、県道に出たが、斜めに細い道があるので、県道に走る車に注意しながら、道を横断した。
ここからは鈴鹿市高岡町で、道を南下すると、JR関西本線の踏切の前方に堤防が見えてきた。
踏切を渡り、右折して線路に沿って進むと、県道の高架橋があり、その奥の小さなトンネルをくぐると、
右側に式内高岡神社の標柱があり、奥の踏切の前に鳥居が見えた。
そのまま進むと、右手の空地に、大きな永代常夜燈が建っていた (左下写真)
寛政十一年(1799)に建立されたもので、常夜燈と書かれた脇には江戸伊勢屋仁三郎、
台座の左側には庄屋、年寄、組頭、中央には江戸、尾張、遠州、伊勢の寄進者が書かれている。
最初は高岡橋の北詰東にあったが、道路の工事などでここに移された、と思われた。
道は堤防の上に続く。 堤防道の左側には鈴鹿川が流れ、その先に青い色の高岡橋が架かっていた。
江戸時代、嘉永六年(1853)に現在より西側に木橋が架けられるまでは、鈴鹿川を越える橋がなく、
川はすぐ増水して渡るのは大変だった、という。
橋を渡り終えると右折して、少しの間、堤防道を歩と、前方に常夜燈が見えてきた。
常夜燈は堤防道を下った三叉路の正面にあり、正面に太神宮常夜燈、側面には国土安穏と五穀成就、
裏面には、文化四年(1807) 丁卯正月と書かれていて、点燈のための階段が付けられていた (左中写真)
伊勢街道は、常夜燈の左側を下って行く。
集落に入ると、道の両脇に家が続くが、それはつかの間、その先は広々とした田畑が展開していた。
これは、奈良時代の条里制のなごりで、ここからしばらくはキチンと区画された土地が続く。
畷道のような道が一直線に続いているが、その道に車がけっこう入り込んでくる。
七百メートル歩くと、家の数が増えてきたが、ここは、旧十宮村二軒屋の入口で、右側に常夜燈がある (右中写真)
常夜燈は、文化十四年(1807)に建立されたものを大正九年に再建したという。
少し歩くと、道は右にカーブし、小川に橋が架かっている。
それを越えた右側に案内板があり、坂道の両側に石垣と土塁が現われた (右下写真)
案内板によると、 「 江戸時代、手前は須賀村、この地は神戸宿の十日町で、ここは、神戸藩の城下への入口にあたり、
石垣の間に、三間の木戸を設け、番所で城下に入る人を監視していた。 」 とある。
石垣は、神戸見附時代のもの、とあり、石垣の先の左側には、式内 阿自賀神社の標石が建っていた。
神戸が城下町として発展したのは、神戸信孝の時代で、十日町を中心に小山町、石橋町、新町の神戸四町ができた。
江戸時代に入ると、一柳直盛が神戸藩を創設し、城下町を拡張し、町数は八つになり、
本多氏の時代になると、伊勢街道の隆盛と共に、町は拡張し、明治に初めには、十一町になり、家数は六百軒近くだった、という。
通りには、二階建ての連子格子の家が何軒も残り、宿場町だった雰囲気を残している。
右側にある旅館 加美亭の看板の家は、江戸時代に旅籠を営んでいた、という (左下写真)
前述の阿自賀神社が気になり、交差点を左折し、県道を越えると、鬱蒼とした森があり、神社の入口は裏側のようなので、
道を探して、中に入っていくと、石段を上った先に社殿があった (左中写真)
阿自賀神社の由来によると、 「 当神社は、我が国で水稲農業が始まる西暦紀元前二乃至一世紀には創建されていたであろう。
紀元四世紀頃には、現在の古墳が築かれ、その後墳丘上に社殿が建立されたが、その時期は明白ではない。
記録上では、延喜式神名帳が初見である。
室町時代、将軍足利義満、足利義持公が、この須賀の地を東大寺八幡宮に寄進。 八幡宮を勧請し武運を祈願した。
神戸城主、一柳貞盛は氏神と崇め、大坂の役に際し弓矢を奉納して出陣し、弓矢八幡宮とも呼ばれたが、
江戸時代には須賀八幡宮といわれた。 明治に入り、旧名の阿自賀神社に戻り、今日に至っている。 」 とあった。
小山と思っていたのは古墳で、その上に神社が建っているのには驚く。
神社は古代からの歴史を持つと共に、この地は古い時代から勢力を張っていた豪族がいたということである。
街道に戻り、道なりに進み、近鉄の踏切を渡ると、神戸八丁目交差点にでる。
交差点を越えて狭い道に入ると、蛍の名所で有名な六郷川に架かる大橋がある。
橋を渡って進むと、三叉路で、伊勢街道はここを左折し、左側にある三重銀行の三叉路で、右折する。
このあたりは、江戸時代、高札場があったので、札の辻と呼ばれたところである。
最初の三叉路の角の旅館 あぶいの前には、距津市元標五里参拾四町参拾六間と書かれた大きな標柱とその下に、神戸町道路元標があった (右中写真)
江戸時代、このあたりが神戸宿の中心で、右折した先の左側に古い家がわずかに残るあたりに本陣があったようである。
最近の再開発事業でこの辺りはすっかり変わってしまった。
道の右側には江戸時代、旅籠を営んでいた旅館 辺見屋があったが、スーパー名門などの建物ができ、旅館はなくなっていた。
その先の交差点の左右の道は車の通行が多いが、交差点を越え、道が狭くなる左側に真宗高田派神戸別院 専修寺がある。
門前には、明治天皇行在所跡碑が三基も建っていたが、明治天皇は、明治十三年七月三日に立ち寄られ、今でも御殿が残っている、という (右下写真)
道の反対側には、真宗高田派願行寺があった。
道は左に、右にゆるやかにカーブし、道なりに進むと、突きあたりに魚次商店がある三叉路に出た。
伊勢街道は左折であるが、神戸城址に寄るため、右折すると、このあたりは古い家が残っていた (左下写真)
右側に宗休寺、その先に慎福寺があり、左側の小路に入って行くと、左に神戸高校、右側に神戸公園があった。
「 神戸城は、伊勢平氏の関氏の一族、神戸氏が、戦国時代の1550年頃、築いたのが始まり。
織田信長の三男、信孝が神戸氏の養子となり、神戸氏の名跡を継ぎ、天正八年(1580)に野面積みの天守台の上に、金箔張りの瓦を乗せた五重六層の天守閣を築いた。
しかし、信長の死後、神戸信孝は秀吉との戦いに敗れ、自刃したので、文禄四年(1595)、天守閣は桑名城に移され、三層櫓になった。
享保十七年(1732)、本多忠統が入城し、神戸城を修復したが、天守閣は再建されることはなかった。
明治の城壊し令により、神戸城は壊されて、二の丸だったところに神戸高校が建てられた。 」 と案内板にはあった。
公園の奥を上っていくと、史跡 神戸城祉の石柱とその奥に野面積みの本丸部分の石垣があったが、
今なお残っているのは本丸の石垣とお濠の一部だけだった (左中写真)
街道に戻り、歩く始めると、右側カーブのところに真宗大谷派浄願寺がある。
その先には、再び六郷川があり、川に架かるのは幸橋。
その先の右側に村瀬病院の大きな建物があるが、その対面に背の高い常夜灯がある。
三層に積まれた石の台座の上に五段の切石積と常夜燈が乗っていて、周りを石の柵に囲んでいた。
嘉永二年(1849)に建立した常夜燈が、明治八年の洪水により倒壊してしまったので、
それを惜しんだ地元地子町の人々が再建したもの、とあったが、大きく見事なものである (右中写真)
少し歩くと、県道8号に出た。 時計を見ると、十二時少し前。
右手を見るとジョーリーパスタというイタリアンレストランがあったので、そこに入り、パスタとスープセットを頼み、休憩に入った (右下写真)
三十分程で食事は終わり、午後の部が始まるが、天候があやしい。 朝の予報では、黄砂が多く、くもり、夜遅く雨であるが、
外に出て、空を見上げると、急速に雲が厚くなりつつある。 大丈夫だろうか?
神戸宿の見附が何処にあったのか分からなかったが、次の白子宿までは約一里半ある。
県道8号を斜めに横断すると、道の左側に式内 矢掎(やはし)神社の石柱があり、
常夜燈と鳥居をくぐって、中に入ると、社殿は比較的新しいものだった (左下写真)
この神社は、伊勢神宮の外宮系で、祭神は建速須佐之男神で、
社殿の左側に、山神と書かれた石碑が二基あり、吹きさらしではあるが、屋根が付いた下で祀られていた。
その先に進むと、右側の小路の両脇に大日如来道の道標がある (左中写真)
これらの道標は、その先百メートル先の大きな道を越えたところにある大日如来への案内であるが、
今は大日堂はなく、大日如来像は雨露に曝されている。
鎌倉権五郎云々の石柱は、大日堂前の円柱に、寛治元年(1087)、鎌倉権五郎之塚とあるので、
歌舞伎で有名な鎌倉権五郎景政の墓があった、という伝承があるのだろう。
道を進むと伊勢鉄道のガードをくぐるが、左手に行くと鈴鹿駅がある。
伊勢街道はガードをくぐると、すぐ広い道に出る。
道の左側には宇気比神社と八幡宮があるが、この広い道を斜めに横断すると、左側に鳥居と石の燈籠があり、
小さな山神碑が祀られていた (右中写真)
南無滝谷不動明王の赤い幟を出した寺院が道の奥に見えた。
豆腐力の看板を出した家の手前に三叉路があり、交通安全の旗の下に、右若松道の小さな道標があるが、注意しないと見落とすものである。
豆腐力の看板をだした家の先で、道は右にカーブするが、右側には、鳥居と燈籠があり、山の神がまた祀られていた。
この先は、田畑の中に家があるという感じで、道は左にカーブし、小さな金沢川を渡る。
少し歩くと、国道23号線の肥田町交差点である (右下写真)
先程から雨つぶが、ぱらぱらしてきたが、しばらくするとやんでしまい、その後は帰宅まで降らなかった。
交差点を渡ると、左側にカンセイの工場があり、道は右へカーブするように続いていた。
国道23号と平行するように進み、小川に架かる島橋を渡ると、北玉垣町に入った。
道の右側に、新しい燈籠と鳥居があり、その奥に、山神が祀られている (左下写真)
その左側にも常夜燈と鳥居があるが、その先は公民館のような建物で、裏にまわると小さいが社殿があった。
伊勢神宮の神を祀る天白社のようで、前の建物は遥拝所なのだろうか?
その先の交差点を渡り直進すると、左側に玉垣小学校があるが、その先で道は突き当たり、その先はお寺になるが、
伊勢街道はここで右に曲がる。
曲がり角の家の角には、丸い自然石に右さんぐう道と刻まれた、文化四年(1807) 建立の道標がある (左中写真)
右折すると、左側に古く大きな屋敷があり、屋敷の角を左折し、黒い壁や塀を見ながら、通り過ぎる。
道を直進すると、右手にあるのは国道23号がある西玉垣町交差点で、伊勢街道はこの三叉路を左折するが、
右側には、元治二年(1865)建立の左さんぐう道の手指道標が建っていた (右中写真)
その先の交差点は、少し変形で、伊勢街道は右折するのだが、交差点の先に神社の鳥居が見えたので、歩いていくと、
式内社 彌都加伎(みずかき)神社の石柱と、常夜燈、鳥居があった (右下写真)
神社の参道の砂も駐車場も建物も新しく、最近整備されたようである。
街道に戻ると大きな古い家が多く建ち並んでいた。
右左にカーブした先の三叉路の左側には、自然石で作られた道標が建っていた。
これは、先程の式内 彌都加伎神社への道標だが明治天皇の明治弐年(1869)の伊勢神宮参拝に際し、
勅使が派遣されたのを記念して建てられたものである。
少し歩くと、道の右側に、赤い鳥居と常夜燈があり、山の神が祀られていた。
近くの電柱には玉垣町とあり、ここはかっての玉垣村の南の出口だったのだろう。
道はその先で右にカーブし、交差点に出る。
左右の道は県道507号であるが、伊勢街道はこの道を横断して、斜めの道に入り、道なりに進む。
大きな塔のようなものがあるのはフジクラ鈴鹿工場で、道を横断し、工場の正門を見ながら進む (左下写真)
広い工場を見ながら南下すると、菅原社の石柱があり、小高いところには社殿がある。
道はやや左にカーブするが、このあたりは北江島町で、開発された住宅地になっていた。
道はその先で多少ぎぐしゃくするが、右側からの道が合わさった先で、右にカーブすると、床屋のある交差点に出るので、交差点を横断し、
斜めの道に入っていく。
このあたりは中江島町で、少し歩くと、近鉄の線路に突き当たるので、ここで右折する (左中写真)
右折すると踏切があるので、踏切を渡る。
踏切を渡った先の左側の少し奥まったところにお堂があり、少し離れたところに六体地蔵尊菩薩と書かれた石碑があったが、
北の端の地蔵堂である (右中写真)
お堂に祀られているのは鎌倉時代に作られた石仏で、六道に迷う衆生を救う菩薩が本体の周囲に刻まれている。
案内によると、 「 北の端の地蔵さんと呼ばれるようになったのは江戸時代からで、
縁日の八月二十四日には参拝者が列をなす程賑わったといわれる。
また、白子や寺家などから江戸方面へ行商にでる型紙商人らは、旅の無事をいのり、切ない見送りを受けたところである。 」
お堂の東側の道の反対側に、役の行者神変大菩薩が祀られていた。
踏切を越えたところまで戻り、踏切の先の道を右折して進む。
このあたりは南江島町だが、家の建ち方が直線でなく、ぎざぎざなのであるが、これは防衛のためだったといわれる (右下写真)
白子宿は江戸時代の江島、白子、寺家を含めた総称だったようである。
二百メートル程歩くと、突き当たりに多くの看板がある信号交差点がある。
伊勢街道は、この交差点を左折する。 道が屈折しているが、江戸時代にはここは鉤型になっていたのではないだろうか。
左に入る道の角に、江島神社と書いた大きな石柱があったので、入っていくと、大きな常夜燈が建っていた (左下写真)
この常夜燈は、文政三年(1820)初秋、白子港と江戸の間を往来していた廻船問屋の船の航海安全を祈願して、
江戸にあった伊勢商人の大伝馬町組と江戸白子組の船荷取扱関係者(これを江戸両組という)が、この神社に寄進したものである。
江戸時代には、常夜燈のすぐ東南は港の入江の小浜と呼ばれる波打ちぎわで、常夜燈が灯台代わりになっていた、という。
車道を越えて進むと江島若宮八幡神社の参道で、その先に江島若宮八幡神社の新しく建て替えた大きな社殿があった (左中写真)
神社の由来書には、 「 平安時代初期、醍醐天皇が、宮中に奉祀されていた神社を伊勢神宮の戌亥の地に転座したもので、
大鷦鷯命、品陀和気命、息長帯比売命を主祭神に十七柱の神々を祀っている。 神社には、江戸時代に奉納された絵馬が百二十余残っている。 」 とあったが、
拝殿を見渡しても、絵馬はどこにもなく、旅籠 のじまやの看板と鏝絵が復元されたのが掲示されているだけだった。
なお、神社の左手には若宮稲荷大明神がまつられていて、赤い鳥居が林立していた。
街道に戻り、また、歩き始めると、江島本町の通りには、連子格子の家がところどころに残っている。
左側の鮮魚、仕出し 鈴鹿屋とある家と右側の家の間に、陣屋跡の案内板があり、
「 江戸時代の江島村は、始めは天領だったが、その後、紀州藩の旗本領になり、
享保年間には小笠原肥前守の知行地となり、陣屋が建てられ、本居宣長の門下、国学者村田橋彦が代官を務めた。
明治弐年三月十四日に明治天皇が伊勢両宮の参拝の帰途、小休止された。 」 、とあり、
陣屋は、ここから東の公民館あたりまであったようである (右中写真)
鈴鹿市白子コミュニティセンターの前には、安濃津治安裁判所、登記所、法務局跡の案内板があった。
江島二丁目には、連子格子の家だけでなく、卯建があり、虫籠窓の家も残っている。
やがて、県道551号が右手に向かう交差点に出た。
伊勢街道は直進であるが、交差点を渡ると、道は狭くなった。
なお、交差点を左折していくと、近鉄白子駅にでる。
その先には白子本町郵便局と隣に古く大きな屋敷がどんとあるが、
この屋敷を避けるように、道は右に、そして左に回っていくが、江戸時代には、ここも鉤型になっていたのだろう (右下写真)
右折した右側の駐車場の一角に、高札場跡の案内板があり、江戸時代には、白子代官の高札場になっていたところ、とあった。
その先右側の白子東町公園には、旧河芸郡役所跡の石碑があった。
その先の右側の旅館松葉屋の先を右側に入った小路の右手に白陰禅師、東美祢禅師足跡地の石碑があったが、
この地では珍しい妙心寺派の龍源禅寺である (左下写真)
更に北に向かうと、勝速日神社があった (左中写真)
「 寛永十一年(1634)、紀州藩の別邸と代官所を創設する時、久留真神社が現在地に移転させられたが、
その時、氏子が南北の二派に別れ、北側の氏子は、栗真にあった八重垣神社と勝手明神を合祀し、現在の地に新たな神社、勝速日神社を作った。
八重垣神社は素盞鳴尊(牛頭天王)を祀っていたので、この地を牛天王(ごてんのう)と呼んだりするようになった。
毎年春の祭礼日に出る山車は江戸時代のもので、木造の二階屋形で、高さ三メートル六十センチ、漆塗り、金箔仕上げで、大変金をかけたものであるが、
これは当時伊勢型紙を扱う羽振りの良い商人がいたためできた。 」 、ということが書かれていた。
江戸時代の白子は、伊勢街道一番の商業が栄えたところで、数多くの大きな問屋や廻船業者があり、伊勢商人が活躍していた。
伊勢型紙で染めた衣類は、江戸百万人に人気のある商品だったが、
松阪の三井家を筆頭とする伊勢商人は完成品をここ白子の港から江戸へ送りだしていた。
白子型紙問屋として最も大きな店が寺尾家だったが、現在も健在で、伊勢型紙資料館、寺尾家住宅として公開している (右中写真)
街道に戻ると、その先は古き時代にタイムスリップしたように、古い家が両脇に建っていた。
県道6号の大通りを横断し、用水に架かる和田橋を渡り、三百メートル歩くと、道は突き当たるので、右折、続いて、
左折すると、右側にかっては福徳天王社といわれた、縣社 久留眞(くるま)神社があった (右下写真)
転座の経緯は前述の勝速日神社の通りで、祭神は大己貴尊、須世理姫命、漢織姫命である。
少し歩くと、正面に唯信寺、隣に黒塗りの立派な家があり、道を右折すると、屋敷に突き当るが、屋敷の角には、道標が建っている。
道標の左面には、指矢印の←の下に神戸四日市 道、右面には、同→の下にさんぐう道、とあるもので、角の家の先祖が建てたものである (左下写真)
白子二丁目にも、連子格子の家が多く残っていた。
金網で囲った空地に、同心屋敷跡の案内板があり、道の両側に、相対して五軒づつ建っていた、と書かれていた。
その先の民家の駐車場の一角に、目付役所跡の案内板があり、この役所は道の西側に少し入ったところに、敷地面積五反ほど、建坪五十余坪だった、とある。
少し歩くと、釜屋川があるが、このあたりから寺家である。 川に沿って左に入って行くと、近鉄鼓ヶ浦駅がある。
橋を渡り、駐車場の先を右折すると、朱塗りの仁王門に突き当たった。
仁王門は元禄十六年(1703)に建立されたものだが、痛みが激しくなり、昭和五十四年に修復された、とあった (左中写真)
仁王門の前に、子安観音寺の大きな石柱が建っていたので、中に入ると朱塗りの本堂があった (右中写真)
案内板には、 「 この寺は、真言宗高野山派の寺で、聖武天皇の天平勝宝年間(749〜756)に、道證上人により開山され、
室町時代には、正親町天皇の綸旨を賜い、勅願寺として寺領を授かっている千二百年前からある古刹である。
本尊は、日本三大観音の一つといわれる白衣観音である。
平安時代の頃、白子浦の海から鼓の音がするので、網を投げ入れたところ、鼓(つつみ)に乗った白衣観音が現れたので、お堂を建てて安置した、という言い伝えがあるが、
これが当寺の本尊、白衣観音の由来である。 」 とあった。
本堂の前に、立派な銅燈籠があり、燈籠の正面に、治工津之住前但馬守次男 辻弥三右衛門尉藤原玄種、
裏面に、寛文六年(1666)丙ウ午暦十二月吉祥日、と刻まれている (右写真)
辻家は梵鐘造りの名家で、秀吉の死後、豊臣家を破滅に導いた方広寺の梵鐘を鋳造した時、脇棟梁を務めたのが、祖先の辻越後守家種である。
上野東照宮の燈籠を辻重種が、一身田高田本山の燈籠には、辻陳重の名が、刻まれている。
本堂の左手には、国天然記念物 白子不断桜の石標があり、案内板には
「 不断桜は、年中花や葉が絶えないことから名付けられたといわれ、伊勢型紙はこの桜の葉が虫食ったのを見て思いついた、と言われる。 」とあった。
この桜は、秋冬春と咲くとあったので、四季桜の一つと思うが、今日の桜の木は冬空の寒さに打ちのめられたように立っていた (左下写真)
伊勢街道は、観音堂前を西に向かう。
吉原鍼灸接骨院の看板がある変則交差点は看板の方に直進すると、三叉路に突きあたる。
三叉路の手前左角に、高さ百二十七センチ、二十五センチの角の石に、西面に 左くわんおん道 北面に 右さんぐう道 南面に弘化四年(1847)六月吉日再建 と、刻まれた道標が建っていて、
三叉路の駐車場の一角にある案内板には、 「 寺家は細い路地が入り組み、現在でも当時の面影が残っているが、江戸時代にはその角々に伊勢路の道標が建っていた。
現在はこの道標とこの先の道標のみになった。 」 と、書かれていた ( 左中写真)
三叉路を右折すると、道は狭くなるが、約五十メートルのところの三叉路の白い家の角に、左いせみち、右くわんおん道と刻まれている道標がある。
道標の頭部と北面に窪みあるが、これは型紙職人が砥石をならすために出来たもので、当地に伊勢型紙職人が多くいたことの証拠だという (右中写真)
交差点を越えて、左にカーブすると、右側に伊勢型紙工房 勇匠庵という家があり、そのまま進むと、左側から先程別れた道が合流した。
伊勢街道は、用水に架かる小さな橋を渡る (右下写真)
その先には堀切川が流れていて、その先は磯山になるので、寺家はここまでなので、白子宿は終わりである。
今日の旅はここまでとして、道を左折し、釜屋川の橋を渡り、左折して近鉄鼓ヶ浦駅へ行き、白子駅で急行に乗り換えて帰宅した。