『 東海道を歩く ー 四日市宿  』


これは桑名の焼き蛤、という言葉があるが、富田は江戸時代立場茶屋があり、それを名物にしていた。 
十返舎一九の東海道中膝栗毛では、焼き蛤を北八が褌の下に大騒動を起こしている。 
四日市宿は伊勢参詣の分岐点であり、陸海交通の要地で商業の盛んな土地だった。




 

桑名宿から四日市宿へ

神戸岡神社 平成19年1月19日、桑名宿の見学を終え、四日市宿に向う。 桑名宿のはずれの矢田の火の見櫓の先で、街道は左折し、南下する。 少し歩くと、右側に神戸岡神社という小さな神社がある。  最初は、街道の反対側にあったが、明治二十九年、神社統合令により、立坂神社に合祀されたが、昭和三十年代に再度この地に移された (右写真)
このあたりは西矢田町か、福江町であるが、ここまでは、うどんやや飲食店はけっこう多い が、この先から四日市までほとんどないと思った方がよい。 小生は、町屋橋を過ぎて、 昼飯を食べようとしたが、飯屋はなく、喫茶店で食べたが、まずかった。  
了順寺 その先は、昔の大福村。 火の見櫓から七百メートル位歩くと、立派な構えの浄土真宗本願寺派の了順寺という寺院がある。  山門は桑名城の遺物と伝えられる (右写真)
道理で立派なのである。  その先で見つけた江崎松原跡の案内板には、 七里の渡しから大福までの東海道は、 両側に家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての百九十二間 (約345m)は、両側とも家がなく、松並木になっていた。 眺望がよく、西には鈴鹿山脈が遠望され、
城南神社 東は伊勢湾が見られた、 とあり、松並木は、昭和三十四年の伊勢湾台風頃までは残っていたようであるが、松の木は一本もなく、その上、両脇には家が建ち並んでいて、想像するのは困難だった。 了順寺から七百メートル位歩くと、 鳥居の前に大神宮の一の鳥居下賜と書かれた石碑がある神社がある (右写真)
城南神社で、伊勢神宮に天照大神と豊受大御神が鎮座する前、この地に仮座したこと
から、式年遷宮後の鳥居と建物の一部が下賜されるという。 伊勢神宮の一の鳥居は、
古い家 桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後、この神社の鳥居になるのである。  国道258号線に出たら、地下道を通って向こう側へ渡り、  そのまま真直ぐ進む。 江戸時代の安永(やすなが)は、東海道の桑名宿の入口にある立場だった。 道は少し上りになり、ややカーブしているが、右側に古い家が残っている (右写真)
江戸時代の安永は、町屋川(員弁川)の舟運の舟積場だったところである。 
左側の藤棚のある料理旅館の玉善は、江戸時代には茶屋を営み、街道名物の安永餅
常夜燈と里程標 を売っていた、という。 左手に国道が見えるが、小道を直進。 左側の楠は、樹齢二百年の老木で、注連縄(しめなわ)が結ばれていた。 
右側の石積の上の常夜燈は、桑名の根来市蔵という石工が彫った伊勢両宮常夜燈で、東海道の灯標として伊勢神宮の祈願を込め、桑名、岐阜の材木商により、文化元年(1818)に寄進されたものである (右写真)
その前に、明治二十六年に建立された石造里程標が建っていて、正面に、 従町屋川
町屋川 中央北 桑名郡 、左面に、 距三重県県庁舎拾一里口町余 、 と刻まれている。 
そのまま進むと、川が見えるところで、行き止まり。 左手に橋が見える (右写真)
十返舎一九は、 旅人を 茶屋の暖簾に 招かせて のぼりくだりを まち屋川かな  、と詠んでいる。  東海道の案内板があり、  寛永十二年(1635)に、ここから対岸に橋が架かった。 川の中州を利用し、大小二つの板橋だったり、一つの板橋だったりした。
町屋橋からの遠望 中央に馬がすれ違えるように広くなっていた。 昭和十二年に国道1号線の橋が架かり、その橋はなくなった、 とあった。  ここには、橋が架かっていないので、左手に見える国道1号線の町屋橋を渡る。 桑名市はここまでである。  橋の上は風が強く、耳がちぎれるくらい寒く感じた。 右側に遠い先に、鈴鹿の山々が見えた (右写真)
左側は川越発電所と思うが、大きな煙突から煙がたなびいていた。 川を渡ると、三重郡
縄尾 朝日町縄尾である。 東海道は、橋を渡り終えたところで、右に曲がり、坂を下り、すぐに左折して、細い道に入る。 ここから近鉄伊勢朝日駅まで、約八百五十メートル。 道はやや上りであるが、江戸時代には、だらだら坂と呼ばれたようである。 道の両側は、民家で埋め尽くされていて、ほとんどが新しい家だが、一部古い家がある (右写真)
道の右側に、十一面観世音菩薩の石柱が建っているが、奥の金光寺の石柱だろうか? 
山口誓子の句碑 入らなかったので、確認はできなかった。 その先の右側に、真光寺があった。 
その先の左側のタバコの看板のある店前に、山口誓子の句碑があった (右写真)
その先の左側の黒い倉のような建物前に、一里塚跡の石柱が建つのが縄尾(なお)の一里塚があった所である。 その先の右側には、東海道の道標がある。  富士の光、清鷹の看板を上げた安達本家という造り酒屋の前を通り過ぎると、東芝の工場が 右にあり、左側に、近鉄の
榎 伊勢朝日駅がある。 ここから、朝日町のはずれの朝明川までは八百メートルほどの距離である。 踏み切りを渡ると、左側に、旧東海道の石碑がある。 新しいもので、宿駅四百年記念に建てたとおもうが、駅に近いため、その目は自転車置場化して、書かれているものも見えないのは、残念である。  十メートル先の榎(エノキ)は、樹齢三百年余で、東海道の並木の一本だった、という (右写真)
松の方は、戦時中の松根油の採取のため切られて、残っていなかった。 

古い家 その先の右側に、連子格子が素晴らしい家があった (右写真)
少し歩くと、旧小向村で、右側に東海道の道標と御厨小向神社の石柱が建っていた。  その先の左側角に、橘守部旧蹟の表示があるが、ただの畑である。  橘守部は、この地の庄屋の家に生まれたが、父親が一揆加担の容疑で、家は破産し、ここを追われている。 その後、独学で国学を学び、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに、天保の国学四大家の一人に数えられた人物である。 本居宣長を痛烈に批判し、古事記よりも日本書紀を重んじ、神話の伝説的な
浄泉坊 部分と史実の区分の必要性を説いた。  その先の右側にある寺院は浄泉坊で、東海道を通る大名は、駕籠を降りて、黙礼をした、と伝えられる寺院である。  浄土真宗本願寺派であるが、徳川家ゆかりのある奥方の菩提寺になっていたことがあり、山門や瓦に三葉葵の紋がついている (右写真)
その先は交差点で、左右の道が最近造られたもののようである。  交差点を越えると、
二又 石垣の上に白い壁で覆われた西光寺という寺があるが、この寺も古い。 右側の細い道の角に、JR関西線朝日駅入口の表示板があり、百メートル奥に無人駅がある。  駅前を過ぎると、右側の柳屋という雑貨屋の先で、道が二又になっている (右写真)
東海道は、左折するが、道は、すぐに右へカーブする。 ここからは、一本道である。 
しばらく民家が続くが、なくなったところから、桜並木になる。 春は桜が咲ききれいだろうと
朝明川 思った。  正面に伊勢湾岸道路が見えてきて、そのガートをくぐると、朝明川(あさけがわ)にでた。 朝明川は、壬申の乱の際、大海人皇子が伊勢神宮に遥拝し、戦勝を祈願した遼太川である、と伝えられる川である 。 朝明川の堤にあると思った、弘化三年(1846)に建てられた常夜燈は、、ここにはない。 街道脇から高速道路の手前にある道路の西方三十メートルほどのところに、昭和六年に移されていたのである (右写真)
なお、この常夜燈には、 多賀神社常夜燈 、 五穀成就 、 と刻まれている。 
タカハシ酒造 橋を渡ると、四日市市松寺に入る。 道の右側にある狭い道の角に、御厨神明社の大きな石柱が建っていた。 左側に、タカハシ酒造という造り酒屋があった (右写真)
左の石碑の前のうす汚れた案内には、伊勢松寺の立場はこのあたりにあった、と書かれていた。 蒔田に入ると、右手に御厨神明神社があり、同じ境内に宝性寺があった。  宝性寺は、天平十二年(740)、聖武天皇の勅願で創建された、と伝えられる由緒ある寺だが、
宝性寺 永禄十一年(1568)の伊勢長島の一揆で燃失、その後建てられたものも燃失した。  現在の建物は、文化十一年(1814)の建設と、鬼瓦の銘から推定できる、とあった。 本堂は、間向拝付き三間四方の入母屋造りの本瓦葺きである (右写真)
獅子の彫刻があったが、素晴らしいものだった。  境内に、御厨神明神社があった。  伊勢神宮の御厨の地に建て られたので、その名があるようで、以来、蒔田村の氏神として信仰されて
冨田一里塚跡 きた、という。 三峡鉄道の高架下にあるJR関西本線の踏切を渡ると、百五十メートルほどで、やや変則の 四差路があり、左にカーブした道を左折する。  その先、三峡鉄道と近鉄の高架をくぐると、小さな一里塚橋がある。 昔は庚申橋といっていた橋である (右写真)
その橋を渡ると、右側に、冨田(とみだ)一里塚跡の碑がある。  東海道の開設により、大名行列や伊勢参りなど、多くの旅人の行き来で、冨田付近はたいへんな賑わいを見せたようで 
東海道中膝栗毛 ある。 冨田は、江戸時代には立場になっていて、多く茶屋があったが、茶屋の名物は焼き蛤である。  十返舎一九の東海道中膝栗毛では、喜多八が騒動を起こしている (右写真)
「 富田の立場にいたりけるに ここはことに焼はまぐりのめいぶつ、両側に茶屋軒を 並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り 」 、とあり、弥次郎兵衛と喜多八の二人が焼き蛤でめしを食ったのはいいが、焼き蛤が喜多八のへその下に落ちやけどするはめになり、「 膏薬は まだ入れねども はまぐりの やけどにつけて よむたはれうた 」
屋根神  と、いう狂歌が落ちになっている。 このあたり一帯は、古代には海であったが、次第に陸地化した土地で、美味しい蛤がとれたのも、この土壌のおかげだろう。 右側の連子格子の家の屋根に、陶器の神様が祀られていたが、これまでも数ヶ所で見た守護神であろう (右写真)
なお、桑名の名物の蛤を土産にと願う声が高まり、誕生したのが、蛤を溜まり醤油で煮て作った佃煮で、 桑名の殿様 しぐれで 茶々漬  と、民謡にも唄われるほどの人気ぶりだった。 
八幡神社 東海道名所図会にも、 「  初冬の頃美味なるゆえの時雨蛤の名あり、溜まりにて製す 」 、 とあるが、時雨蛤という風情ある名前は、芭蕉門下の各務至考の考案らしい。  残念なのは海が遠くなり、全然見えないこと。 ここが蛤の産地であることは想像できない。 
道をすすむと、左側に八幡神社があった (右写真)
冨田六郷氏神記に、 「 改安弐年(1279)に冨田地頭佐原豊前守政盛により東富田に勧請
力石 された 」  、と記されている神社で、祭神は応神天皇である。  明治四十二年に神社統合令で、鳥出神社に合祀されたが、昭和四十年、現在地に社殿を建て、再建されたものである。  境内には、力比べに使われたという、およそ百キログラムの横長の丸い石(力石)が置かれていた (右写真)
江戸時代には、八幡神社が富田の西端で、八幡の森が茂み、昼でも暗かったと、伝え
長興寺 られるが、今は近鉄の御蔭で、ここから冨田駅にかけての方が家が多い。 
道をそのまま進むと寺に突き当たる。 突き当たりの寺は、富田山長興寺で、十六羅漢堂がある (右写真)
東海道は、手前の三叉路のクリーニング屋の角を右に曲がり、仲町通りを歩く。 そのまま進むと、右側に、富田地区市民センターがある。 その前に、右 富田一色、東洋紡績、川越村、と書かれた道標が建っていた。 これは大正六年十月に造られたもの。 
近くに、明治天皇御駐れん跡という石碑が建っていて、 明治天皇は、明治元年(1868)
明治天皇御駐れん跡 九月二十日、京都を発ち、二十五日、富田茶屋町の広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を賞味になられた。 同年十二月十九日、京都に戻られる途中も、小休止された。 更に、明治二年に、神器を奉じて東京に遷都されたときと明治十三年陸軍大演習で、行幸されたときも寄られている。  と、説明があった (右写真)
明治天皇が休憩された屋敷は、東海道に沿った、現在の富田小学校から富田地区市民
薬師寺 センターにかけてあった、という。  十四川に架かる十四橋 に、十四川堤の桜並木は、両岸千二百メートルにわたって、ソメイヨシノが約八百本植えられている。 日本の桜の会より、全国表彰を受けた、とあった。  橋を渡ると、南富田に入る。 弘法大師が彫ったという秘仏の薬師如来を祀る薬師寺がある (右写真)
少し歩くと、旧茂福村で、突き当った三叉路に、新設用水道碑という大きな石碑があり、
新設用水道碑 脇に、力石が置いていた。 今度は、大石が一つと小さな石が数個である (右写真)
明治時代中期、二つの寺の御堂を再建するため、土台石の奉納があった。 その際、地固めに集まった人達の間で、休憩時に奉納され た石を持ち上げ、力競べを行わせた。 茂福地区では、その後も、大正の終わりまで力競べが続いた と、案内板にあった。 
東海道は、三叉路を左折し、その先で、すぐに右折する。  しばらく歩くと、右側に、茂福
羽津の常夜燈 (もちぶく)神社の石柱があるが、神社は、この奥(西)に三百メートル程行かなければならない。  そのまま進むと、産業道路の八田三丁目交差点にでる。 このあたりは、自動車販売店や工場が多く、これまでの風景とは違う。 少し雑然とした家並みの中を少し歩くと、右側に、羽津の常夜燈といわれた燈籠があった (右写真)
少し上ると、米洗川(よないがわ)があり、橋を渡ると羽津町になる。 
しばらく歩くと、真央法願上座と書かれた石柱があり、その脇に、小さなお堂の薬師堂があった。 
松の木 少し歩くと、一本だけぼつんと立つ大きな松の木がある (右写真)
斜めに傾いた枝が妙に良い感じである。  しばらく歩くと、志氏(しで)神社の鳥居にきた。 神社は、四世紀末に築造されたといわれる前方後円墳の前に建てられている。 境内にある、丹比屋主真人の歌碑には、 後れにし  人を偲はく 四泥の崎 木綿(ゆう)取り垂(し)でて さきくとぞ思ふ 」 と、いう万葉集の歌が書かれているが、聖武天皇に随行し、志氏神社に詣でた時に、妻の無事を祈って詠んだ歌といわれる。 志氏神社の鳥居は、享保十年(1725)に建てられ
志で神社の鳥居 たものである。 この神社は、延喜式に記載がある古い神社で、志氏と表示したが、氏は、正式には、氏という字の下に一が付く字で、ホームページに変換されない外字である (右写真)
しでは四泥(しで)と同音なので、この地が、その歌の地であることは間違いないだろう。 
古代には、このあたり一帯が海で、四泥の崎と呼ばれていた泥地だったところである。 
その土を使って焼かれたのが、 四日市の特産品になった万古焼で、桑名の豪商が、
志で神社の鳥居 元文年間(1736−41)に、窯を築いて焼いたのが始まり、といわれる。 茶器や急須などが主製品で、持つと非常に軽く、上品な薄い作りで、壊れやすいと思えるが、半磁器のため、見た目より丈夫なようである。  製品に万古または万古不易の印を押したので、万古焼きと呼ばれるようになった。  鳥居の脇には、五穀成就と刻まれた常夜燈と八幡宮御神前と刻まれた常夜燈が建っていた (右写真)
境内にある狛犬は、神様から留守を守るようにと、言いつけられたにかかわらず、遊びに
光明寺 出かけたため、左右の足を折られた 、という言い伝えが残る。 その先には八十宮御遺跡という石碑がある、光明寺という大きな寺があった (右写真)
八十宮(やそのみや)は、吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称で、異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王がいる。 生後一ヵ月で、時の将軍、徳川家継と婚約したが、夫となる家継も、わずか六歳だった。 その二年後に、家継が死去したため、史上初の武家へ の皇女降嫁、関東下向には至らなかった。 その後、出家し、法号を浄琳院宮(じょうりんいんのみや)
金場町道標 と称され、四十五歳で亡くなったとある。 八十宮と当寺との関係はどういうものか、分らなかった。  光明寺を過ぎると、道が左へカーブ、すぐに右カーブ。 そして、しばらくの間歩き続けると、国道1号線に合流し、東海道はここまでで、国道を歩く。  少し歩くと、金場町の交差点があり、そこには小さな道標があった (右写真)
表面には、右くわな 左四日市道、右面には、右四日市、大矢知道とあり、左面に、大正十二年一月三日、陰刻に、羽津四区除雪紀・・、と刻まれている。  大矢知は、左に行くはずだが、
旧東海道 四日市と並んで書いてあるのは何故か、もともとここにあった のか?、など疑問が残った。 七百メートルほど、国道を歩くと、左に入る道がある。 これが東海道で、この先百メートルほど、道が残っている (右写真)
その先の左側にあるのは、多度神社で、明治四十二年に海蔵神社に合祀されたが、大正九年に再建されたものである。  そのまま歩くと、海蔵川に突き当たり、東海道は途切れてしまう。 
一里塚碑 江戸時代には、川に土橋が架かっていた。 元禄三年(1690)の東海道分間之図には、 海蔵川に突き出た辺りに、一里塚が記されている。 昭和二十年に川を拡張した際、一里塚だったところは、川の中に入ってしまった。  現在土手際にある三ツ谷一里塚跡の石碑は、最近になって建てられたものである (右写真)
先程の東海道分間之図には、海蔵川をかいぞ川と書いてあったが、国道に架かる橋には、
嶋小餅屋 かいぞうばしと刻まれていた。  国道にかかる海蔵橋を渡り終えたら、すぐ左折すると東海道に入れる。 といっても、古い家がある訳でもなく、民家と商店が続くだけである。  川原町の交差点で大きな道を横断し、少し歩くと前方に三滝橋が見えてくるが、手前の小さな橋の脇に嶋小のだんこの看板を架けた嶋小餅屋があった (右写真)
三滝橋の手前の民家のような造りの家には、創業元禄 文蔵餅 三滝屋という看板があったが、文蔵餅とはどういうものだろうか?  三滝橋を渡ると、四日市宿に入る。 

四日市(よっかいち) 宿

浮世絵・四日市宿 四日市は、かっては浜辺の美しいところで、諸国の物産が集散する港町として栄えたところである。  江戸時代の前に、数多くの市場が開かれ、やがて、毎月四日に立つようになった。 そこから四日市の名がついた、と言われる。  広重の四日市宿の浮世絵は、川に突き出た縄手道の上に、突然強風が吹き、吹き飛ばされた笠を追う男と、板橋を歩いて平然と立ち去る男を描いている (右写真)
浮世絵にある三重川は、三滝川のことで、海蔵橋から約七百メートルほどの距離だった。 
三滝橋 四日市宿は、三滝橋(右写真)を渡ったところから諏訪神社の手前までの六町二十間(約700m)の短い宿場町であるが、宿内人口は六千八百九十人 、家数千五百六十一軒 、本陣が二軒、旅籠が百十一軒もあった。 これは、伊勢参詣に使われる伊勢街道の分岐点にあったことで、陸海交通の要地で、商業の盛んな土地だったことによる。  江戸時代の寛永年間に刊行された、 東海道名所図会には、 「  当駅海陸都会の地にして商人多く、宿中繁花にして、
笹井屋 旅舎に招婦見えていと賑はし 」 、と書かれている。 
三滝橋を渡ると、少し先の右側に、笹井屋という菓子屋がある (右写真)
名物のなが餅を売る店で、創業は天文十九年(1550)という老舗である。  津三十六万石藤堂家の始祖、藤堂高虎が、足軽時代から、 吾れ武運の長き餅を食うは幸先よし と、好んで食べたという菓子で、長き餅の名の通り、細長い餅の中に、餡を入れて焼いた素朴な味で、
黒川農薬店 程よい甘いが残る。 飽食の時代の今日では、さほど美味いと思えないが、当時は、最高のお菓子であったのに違いない。   道の左右には、普通の家やビルが建っていて、当時の建物は皆無である。  右側の福生医院が問屋場の跡で、近藤建材店が帯や本陣跡、その先にある黒川農薬店が、黒川本陣跡である (右写真)
これといった表示もないので、自分で確認するしかない。 史跡が好きで探索する人で
文化七年道標 なければ、どこにでもある通りにすぎない。 そのまま歩くと、交差点にでるので、交差点を越えて、正面にぶつだん屋と書かれた看板のあるビル前に出る。  道はここで右にカーブするが、カーブする右側に、すぐ江戸道の道標がある。 すぐ江戸道、すぐ京いせ道、京いせ道・ゑどみち、文化庚午冬十二月建、書かれた道標である (右写真)
文化七年に造られ、この先の江戸の辻に建っていたものを、昭和二十八年に複製し、当地に置いた、とあり、 本物は個人蔵とのこと。 
スワマエ表参道商店街 東海道は、江戸時代には、ここから諏訪神社の前に向かって、斜めに横断していたが、区画整理で様相を一変し、それを辿ることはできない。 この道標が、仏壇屋の周辺が宿場の中心地だったことを示している感じがした。  道案内に従って、道標のところで右に曲がり、国道1号線に出たら左折、最初の信号で国道を渡り、 正面にあるアーケードのスワマエ表参道商店街に入った (右写真)

道標のあったところが中部(旧南町)で、諏訪神社が諏訪栄町(旧新田町)であるが、
諏訪神社( 区画間(整理された地域 ) に、四日市場と呼ばれた市場があったが、今はその痕跡すら残っていない。  このスワマエ表参道の入口右側に、諏訪神社がある (右写真)
建仁弐年(1202)、信州諏訪の諏訪大社に勧請し、分祀した神社で、当地の産土社である。 大四日市祭の名で行われている諏訪神社の祭礼が、江戸時代の東海道名所図会に、 祭式の楽車(だんじり)ねりものあり、近隣群集して賑しき神事也 、 と紹介されている。 
近鉄四日市駅の西側の鵜ノ森公園は、室町時代に、浜田城があったところである。 
鵜ノ森神社 浜田城は、文明二年(1470)に、田原孫太郎景信の三男の田原(赤堀)美作守忠秀が築城し、その後、藤綱、元綱など、四代続いたが、織田信長の部将、滝川一益に攻略されて落城した。 なお、田原孫太郎景信は、俵藤太秀郷の子孫とされ、隣の鵜ノ森神社には、俵藤太秀郷が祀られている (右写真ー鵜ノ森神社)
日も暮れてきた頃、四日市宿の探訪は終わった。 近鉄デパートを覗いた後、近鉄四日市駅から名古屋へ帰った。


平成19年(2007) 1 月


(44)石薬師宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。