『 東海道を歩く ー 岡 崎 宿  』


藤川宿から岡崎宿へ行く途中に、大岡越前守の領地であった西大平藩陣屋跡がある。 
岡崎宿は、宿場と同時に城下町だったので、二十七曲がりという迷路のような道になっていた。
岡崎藩は徳川家康の生誕地であるため、僅か五万石でもお城の下まで船が着くほどの特別な扱いを受けた。 





藤川宿から岡崎宿へ

藤川一里塚跡 平成19年2月20日の朝、赤坂宿を出発し、藤川宿を経由し、岡崎宿まで歩く。 
西の棒鼻を出て、三十メートルほど先の左側の民家の一角に藤川一里塚跡の表示がある。  東海道の開設と同時に作られた一里塚だったが、天保年間には右側(南側)はすでになくなり、北側の榎は昭和初期に枯れてなくなった、という (右写真)
藤川宿は、天領の三河代官所の管理だったのに、この始末なのはこの地が貧し 吉良街道追分 かったことを示すような気がした。  道の右側に松の木が現われ、歩くに比例して増えていった。  少し先の三叉路は、藤川村の西の端で、左側の道は、南西の方向に分かれ、土呂、西尾、吉良方面に行く道で、吉良道とか、吉良街道と呼ばれていた (右写真)
吉良街道は、吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として、重要な脇往還で、藤川は東海道だけではなく、吉良街道も通る交通の要衡だったのである。 また、藤川宿は、二川宿、赤坂宿、
吉良道道しるべ 御油宿と連名で、荷車の使用を願い出て、東海道で最初に幕府の許可を得ている。  これらから見ても、物資の運搬が激しかったことが分る。 東海道との分岐点には、石造常夜燈と文化十一年(1814)甲戌五月建立の二百年前に建てられたと記された吉良道の道標が残っていた (右写真)
お茶壺道中が通ると、雨が降るというジンクスがあり、お茶壺のなみだ雨という話が残っ

松並木 ている。  藤川宿の西端から松並木が始まる。 名鉄踏切から約四百メートルほどの間は特に立派で、一里山から宇北荒古にかけて、長さ約一キロの間に、樹囲約二メートル、樹高約三十メートル程のものを含めて、約九十本のクロマツが残っている (右写真)
道は、藤川西の交差点で国道1号線と合流する。  この後、約二キロの区間は、大型トラック
東海道の説明板 を見ながら歩かなければならない。 見合新町北の交差点の手前で、国道の左側にある、松並木が残る細い道に入る。 その先の信号がない交差点の手前に、東海道の説明板があるが、風化して見えなくなっていた (右写真)
見合新町交差点まで行くと、松並木は途絶え、道幅が細くなった。  美合町南屋敷の交差点を過ぎると、更に、狭くなった。  県道48号を越えると、道の両脇に、スクラップ工場の車が
山綱川に架かる橋 うず高く積まれている。 新車同様の車に見えるが、事故でエンジンや足回りをやってしまったのだろうか? もったいない!! など、思いながら、山綱川に架かる橋を渡った。 橋の手前に、「 川を美しく、生田蛍保存会 」 の看板があったが、源氏蛍は自生しているのだろうか? (右写真)
橋を渡ると、右側に東海道の道標があり、その先に、車の修理工場があった。 

大平東交差点の坂道 そのまま進むと、道は乙川に突き当った。 左側の堤を降りて、川の中を歩いていけるかも知れないが、それは辞めて右折し、 大平橋を渡ると、大平町になった。 少し歩くと、大平東交差点に出たが、ここでは右に入る道が旧東海道である。 交差点を 横断し、道に入ると、少し上り坂で、東海道の道標があった (右写真)
右側に薬師寺があり、その先の右側に、秋葉山常夜燈とその奥に、火の見櫓が建っていた。 
つくて道道標 少し先は三叉路で、つくて道と東海道と刻まれた道標があった (右写真)
そのまま進むと、大平郵便局の前に、西大平藩陣屋跡の案内がある。  西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が領地を治めるために設けたものである。 忠相は旗本だったが、七十二歳の時、将軍吉宗の 口添えもあり、四千八十石の加増を受け、一万石の大名になった。 藩主だったのは、わずか三年で、その後、子孫が継ぎ、 七代に渡り、明治維新を迎えた。 
西大平藩陣屋 忠相は大名といっても、江戸常駐の定府大名だったので、参勤交代をしたことはなく、ここにきたことはない。   右奥に百メートル程入ると、陣屋の門構えが見える。 西大平藩陣屋がここに置かれたのは、藩の領地が三河国が主で、西大平村が東海道筋にあり、江戸との連絡の便利なことから、と思われる (右写真)
陣屋には、郡代一名、郡奉行一名、代官二名、手代三名、郷足軽四〜五名程度の少人数が
西大平藩陣屋の中 詰めていた。  又、額田組十二村、宝飯組五村、加茂、碧海組七村が領地で、それぞれの組に、割元と呼ばれる陣屋役人が置かれ、年貢の徴収と村々の取締りを行っていた。  門の中に入ったが、内部はなにもない更地だった (右写真)
街道に戻り、また、歩き始める。 上野山專光寺という寺がある。  郵便局から百五十メートルほど行った左側、大平西町バス停そばに、大平一里塚があった。 
西大平一里塚 高さ二メートル四十 センチ、底部の縦七メートル三十センチ、横八メートル五十センチの菱形で、植えられていた榎は、昭和二十八年の伊勢湾台風で倒れてしまったため、植え直したもの (右写真)
左側のみしか残っていないが、昭和十二年に国の史跡に指定されている都会に残る数少ない一里塚である。 その先の公園(?)に、小さな祠と大きな常夜燈があった。 
小さな祠と大きな常夜燈祠には、三頭馬頭観音と子育 地蔵などが祀られていて、町内安全と書かれた常夜燈は、昭和八年の建立である。 秋葉山常夜燈は幕末から明治に建てられたと思っていたが、昭和のものは始めてだった (右写真)
信号のない交差点を渡って進むと、道は左にカーブし、ファミリーマート岡崎総合センター前で国道1号線と合流する。 
村社八幡社 右手に少し入ったところに、村社八幡社があり、転座は安永六年、とある (右写真)
この先、高速道路の建設で変わっているが、 岡崎インターチェンジ入口の手前にあるアオヤマダイソー脇の細い道に入り、インターチェンジ入口の下をくぐって向こう側に出る。 この先、左の道を行くと国道1号線に出る。  国道出たら、そのまま筋違橋東交差点の先、左に吉良屋というメシ屋があるところで、国道と分かれ、右へカーブし、法光寺の前を通り直進する、
という予定だった。 どうしたことか、インターチェンジ入口の下をくぐったところで、道を間違えて、
ユーストア前に出て、欠町交差点に出てしまった。 
更に、急にお腹が痛くなり、我慢しきれずに近くの喫茶店に駆け込み、コーヒーを注文し、
法光寺 トイレに突入。 この日は暖かく、歩くに比例し、着ているものを次々脱いたが、気が付かない内に、気温が下がって、腹を冷やしたようである。 温かい部屋で一服し、服も替えたので、なんとか歩けるようになった。 こんなことで三十分以上時間を消費した。  岡崎宿の入口の法光寺を探して歩き、法光寺の前からなんとか再スタートができた (右写真)


後半に続く( 岡 崎 宿)








かうんたぁ。