『 東海道を歩く ー 岡崎宿(続き)  』




岡崎(おかざき) 宿

岡崎二十七曲り碑 法光寺の前を通ると、ここにも常夜燈があった。 道を直進すると、左にモニメントが現われてきた。 木を組んで造られた冠木門と岡崎二十七曲りの石碑があった (右写真)
江戸時代には、ここが岡崎宿の江戸方の入口で、番人が、冠木門をくぐって入ってくる旅人を監視していたのである。  岡崎宿は二十七曲がりといわれるほど、道が右折、左折を繰り返している。 宿場町であると同時に、岡崎藩五万石の城下町だったので、複雑になっていた
ヤンマーディーゼルの看板 のだろう。  いよいよ二十七曲りのスタート。 道の正面のヤンマーディーゼルの看板の前で、右に曲がる (右写真)
二つ目の若宮町交差点の角地に、 欠町より投町角岡崎城入口  と、書かれた、二十七曲り碑があるはずなのだが、市民病院移転後の新施設工事が行われていて、確認できなかった。  江戸時代には、このあたりが、投町で、投町茶屋があり、淡雪豆腐が名物だった、という。  名勝志に、 「  三州岡崎の駅口に茶屋あり 戸々招牌をあげて豆腐を売る其製潔清風味淡薄
根石観音堂 にして趣あり 」 と、あるが、当時、あわ雪茶屋で出されていたのは、葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた、あんかけ豆腐で、茶飯におしんことセットで、十八文だったと、天保十三年の記録にある。  ここを左折し、若宮1丁目東の交差点を直進すると、右側に曹洞宗根石寺、根石観音堂がある (右写真)
案内には、和銅元年(708)、天下に悪病が流行した。 元明天皇の命により、行基が六体の
法円寺 観音像を彫り、二体を根石の森に勧請し、祈祷をしたところ悪病は治まった。 又、岡崎三郎信康が元正元年(1573)、初陣に際し、観音像に祈願し、軍功をあげて、開運の守り本尊として、あがめられた、 とある。  左側に寺の本堂、右側に小さな社があり、二つの地蔵様が祀られていた。  右手の奥に、真宗大谷派法円寺がある (右写真)
このあたりは、地面を掘ると投げるのに良い石が出てきたので、投町、根石町という名前が
標石 ついた。  両町3丁目交差点を過ぎると、両町2丁目になる。 右手の極楽寺は、永禄九年(1566)の開山といわれ、天正三年(1575)に現在の場所に移った。  両町2丁目交差点から、百メートルほど先の交差点を右折するが、 角には、 両町より伝馬町角 の標石が建っている (右写真)
ここを右折し少し歩くと、右側に、両町公民館がある。 公民館の左側に、小さな社が置か

両町常夜燈 れ、その中に常夜燈が保管されている。 寛政弐年(1790)に建てられた、秋葉山常夜燈であるが、昭和二十年の戦災により、被害を受けたたため、その一部である (右写真)
そうしたものを大事にする地元の人達の気持はうれしかった。  ガソリンスタンドに突き当たったら、ここを左折する。  ここに到る道は、曲手(かねんて)で、岡崎城を避けて通るので、旅人は、岡崎城を見ることはできなかっただろう。 岡崎城は、松平清康が、享禄三年(1530)
マンホール に、現在の場所に城を移したことにより、誕生した城で、孫の徳川家康は城内で生まれている。 市のマンホールは、五万石と岡崎城、そして船の絵である。 ♪五万石でも 岡崎さまは…、と唄われたように、岡崎は徳川家康公の生誕地であるため、特別な扱いを受け、僅か五万石でも、お城の下まで、船が着くほどだった(右写真)
ここから先が宿場の中心地である。  伝馬通5丁目の交差点で、太陽緑道を横切り、
円頓寺 直進する。  伝馬通4丁目の右奥にある随念寺は、永禄六年(1592)に、家康が創建した寺で、松平七代清康とその妹久子の墓がある (岡崎城は巻末参照)
伝馬通4丁目西交差点の右奥に、唐風の門がある円頓寺がある (右写真)
岡崎宿は、総家数、千五百六十五軒、宿内人口、六千四百九十四人、と、東海道の中
伝馬町夜燈 でも、三番目に大きい宿場で、本陣は三軒、脇本陣も三軒、旅籠は百十二軒もあった。  道を一本左に入ると、伝馬町公民館があり、その前に、享保三年(1803)建立の秋葉山常夜燈が建っている。 もとは、東海道に面して立っていたが、ここに移された (右写真)
江戸時代には、伝馬町を中心に、本陣、脇本陣、旅籠があったとされ、旅籠は、文化九年(1812)の伝馬町家順間口書を見ると、伝馬通5丁目から籠田総門まで、軒を連ねている。  正保・慶安の頃(1644〜1651)からは、飯盛り女を置く旅籠があらわれ、岡崎は、岡崎女郎衆で、
東本陣跡 有名になった。  伝馬通交差点の右側の角の花一生花屋あたりに、東本陣があった、といわれる。 最初に本陣を勤めた浜嶋久右衛門が没落し、その後、磯貝久右衛門に代わったが、これもやめ、その後は服部專左衛門が勤め、本陣の大きさは間口十三間、建坪二百九坪、畳二百四十五畳だった、とある (右写真-伝馬通交差点)
写真を撮っていると、バスが近づいてきた。 気がつかなかったが、バス停前にいたのである。  江戸時代には、東海道には、石橋が架かっていたようで、左に行く小道は、專福寺に通じて
備前屋 いて、手前のバス停の前には、庄屋小七郎の営む旅籠があり、そこから、右に三軒目が、桔梗屋脇本陣であった。 交差点を越えた左側に、備前屋藤右衛門と書かれた暖簾の菓子屋・備前屋がある。 天明二年(1782)の創業という老舗で、八丁味噌煎餅のきさらぎは寛政十二年(1800)から作っている、というから驚き!! (右写真)
ふわーとして、口に入れると溶ける、淡雪という菓子は、この店を代表する菓子であるが、明治初めから、という。 江戸時代の名物、淡雪豆腐が消えたのは寂しいと考案したのが、この菓子
菓子二十七曲り だったことを知った。 これは、地元を歩かないと分からない・・・ 
備前屋の江戸時代の店は、市川メガネの右側あたりにあり、間口五間の店構えだったようだが、昭和二十年の空襲後に、この場所に移転してきた、といっていた。 なお、江戸時代(文化九年)には、この角に旅籠(木瓜屋吉三郎)があったという。  ショーケースには、岡崎宿二十七曲りという菓子があった。 これはどうやら、新作のようだった (右写真)
永田屋 江戸時代(文化九年)には、道の対面には、高札場と自身番があった。 備前屋の数軒先に、商家の糸惣の建物があるが、文化九年(1812)の伝馬町家順間口書(前述)に、小間物屋、糸屋惣兵衛として、名を連ねている。  その隣の永田屋も、天保十四年(1843)から商っていた、というから古い。 今は松坂牛を扱い、全国発送をしていた (右写真)
道の反対側にあるのが、漢方薬の大黒屋である。 元禄年間(1688〜1713)には居住し、
大黒屋 庄屋を勤めた家柄で、世襲名を小野権右衛門といった。 先程の伝馬町家順間口書にも、薬種・質商小野権右衛門と、書かれている。 (右写真)
家の前に置かれている石彫りには、作法触れとあり、土下座をしている姿が描かれていた。  作法触れとは、勅使、朝鮮通信使や大名行列がきたとき、町奉行が、町民に対して出した、街道や宿場での応対の仕方のことである。 
大黒屋の一本松 大黒屋の店舗右側の駐車場に、屋敷跡の碑と一本松が残っている、というので、入って行くと、大きく成長した松の木があった (右写真) 
備前屋、糸惣、永田屋、大黒屋は、江戸時代から今日まで、営々としてこの地で商売を続けているのは、凄いことと思った。  前述の伝馬町家順間口書では、この一軒おいた隣に備前屋があった、とある。  その隣が、鍵屋定七が営んだ脇本陣跡で、現在の市川メガネのところ
西本陣跡 である。 東海道はこの先で、左折し、また、右折していた。  突き当たり左折する右側に、中根甚太郎が勤めた西本陣があった。  伝馬通1丁目交差点の右側にあるコンビニのあたりである。 岡崎グランド劇場があったところだが、いつの間にか、コンビニに代わっていた。 その前に、西本陣跡の石碑が建っている (右写真)
この交差点を左折し、道を渡った角に、二十七曲りの 西本陣前角 の標石がある。 
指矢印付道標 江戸時代、この角には旅籠があり、その手前に、大津本陣があった。 大津本陣は、文政五年(1822)に、新たに、本陣になったもので、以前は、脇本陣だった。  五十メートル程南に歩き、次の交差点で右折する。  角の向こう側に、明治二年十二月に建立された道標が立っている。  道標には、 きらみち 、 西京いせ道 、 東京みち 、 明治二巳巳年十二月建之 と、刻まれていて、指矢印付きである (右写真)
この通りは籠田総門通りである。 少し歩くと、右側に赤いレンガ造り洋館が見えてきた。 
岡崎信用金庫資料館付近 岡崎信用金庫資料館である。 赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を使用、ルネッサンス様式のこの建物は、大正六年、旧岡崎銀行本店として建てられたものである (右写真)
岡崎宿の問屋(人馬会所)は、伝馬町と材木町にあった。 伝馬制により、岡崎宿で常時に用意する馬の数は、始めは三十六匹、寛永十五年には、馬百匹、人百人になった。 伝馬町の問屋は、岡崎信用金庫資料館のあたりにあったようである。 
左側の伝馬公設市場が、江戸時代の御馳走屋敷跡である。  御馳走屋敷は、間口十五間
以上もある立派な建物だったようで、公用の役人などをもてなす、 いわば、岡崎藩の迎賓館
籠田総門 的な役割を持っていた。 なお、伝馬公設市場は昨年12月で廃業になった。 
江戸時代には、この先に、岡崎城の籠田総門があった。  天正十八年(1590)、家康が江戸に移ると、田中吉政が岡崎城主になり、総堀を築き、城下町を構築した。  東海道東側の城内出入口としてつくられたのが籠田総門で、承久三年(1654)に造られたが、 東海道には、その後、枡形が設けられたようである (右写真ー伝馬町にあった籠田総門の石彫り) 
籠田総門は籠田公園前、西岸寺辺りにあった、とあるが、場所が特定できないため、これ
中央緑道籠田総門碑 から先の二十七曲りの道は、諸説あるようである。  欠町の東入口にあった二十七曲り碑では、籠田公園の西側を北上するルートになっていて、 東海道さんさくマップでは公園を横切るルートである。  小生は、東海道さんさくマップと同じ、中央緑道(西岸寺とNTTの間の道)を北上する。  中央緑道の真中に、籠田総門跡の碑がある (右写真)
NTTは総持尼寺跡である。  中央緑道を北上すると、籠田公園になり、公園を通り抜ける。 
籠田常夜燈 公園の東側に、寛政十年(1798)造立の、石工七左衛門作の常夜燈があった。  籠田総門の近くに建立されたが、数回移動し、公園完成後、現在地にきた (右写真)
公園の北西角には、 篭田町より連尺町角 の標石があった。  それにしても、宿場に入り、これだけじぐざくと道を変えるところは、中山道でも東海道でも記憶にない。  名古屋に東海道を通すのを避けたのと同じ理由があるような気がする。 これには、家康の意向があった
本町1丁目交差点 のだろう(?)  ここで、左折し、連尺通りに入った。 連尺町を進むと、本町1丁目交差点に出た。  交差点の先には、岡崎シビコなどのビルが見えた (右写真)
江戸時代には、ここを右折して行くと、岡崎城の信濃門があった。  東海道は、交差点を越えて、岡崎シビコの右側中央あたりまで歩く。  右折できる小さな道の角に、 岡崎城対面所前角 の標石がある。  道を挟んだ反対側のシビコ側に、岡崎藩校充文 充立館跡碑があった。 
連尺町常夜燈 また、道をまっすぐ進み、三叉路を左折すると、シビコの構内に、連尺町の常夜燈のミニチュアがある。 連尺町の常夜燈は、文政五年(1822)に建てられ、天保二年(1831)の大火後修復されたが、昭和二十年の戦災に遭った。 シビコの西側にあるのは、それを縮小したものである (右写真)
岡崎城の大手門は、シビコの南西あたりにあったらしい。 確認はしなかったが・・・
東海道に戻る。  岡崎城対面所前角 の標石にある、対面所とは、外来使節応対や領民の公事、評定を行った場所である。 
岡崎城対面所前角 江戸時代には、先程の岡崎藩校充文 充立館跡碑のあたりに、対面所があったのである。  東海道は、対面所の標石の先の細い道を通り、北へ向かう (右写真)
突き当たりにある市川内科の前に、 材木町口木戸前 の標石がある。  江戸時代には、この角から次の 材木町角 の標石のところまで、北西の方向に斜めに歩いたようである。  しかし、道は失われているので、ここで左折し、材木町1丁目を右折する。 

能見町常夜燈 材木町角 の標石は、ファミリーマートの道の反対側にあるのだが、見落としたので、三月一日にもう一度行き、歩道の植え込みの中に発見。 よく見ないと見つからない。  東海道は、ここを左折し、交差点を越えるのだが、小生はちょっと寄り道をする。  ファミリーマートを越え、右側に、マンションのある所を直進すると、左側に御旗公園がある。  ここにも、寛政十年(1798)の能見町と刻まれた常夜燈がある (右写真)
岡崎はどの町にも常夜燈があったのだろうか?!  街道に戻り、夕暮れが始まった道を
唐弓弦の家 歩く。 江戸時代には、材木町の問屋場が、材木町3丁目の交差点を越えた右側にあり、 伝馬町と交代で、五日毎に伝馬継立を行っていた。 岡崎は三河木綿の特産地で、戦前には、木綿の職人や商店が多くあったのである。  それを象徴するような家が柿田橋手前の右側にあった。 唐弓弦という道具を製造販売していた家である (右写真)
唐弓弦とは綿を打って柔らかくする道具である。  以前は、唐弓弦の看板を掲げていたの
材木町常夜燈 だが、今回訪れると看板はなかった。 掲示された紙を読むと、保存のため、修理中で外した、とあった。 伊賀川に架かる柿田橋の手前で左折すると、伊賀川の縁に、二十七曲りの標石があったので、川に沿って歩くと、赤い幟がぱたぱた音を出していた。  左手に上る道があるので上っていくと、幟の間から常夜燈が見えた (右写真)
常夜燈は、天保四年(1833)に建てられたものだが、最初は材木町から下肴町に入る角に
白山神社拝殿 立っていたのである。 白山神社の境内に入ると、幼児を遊ばせている若いお母さんがいた。  拝殿前の石灯籠には、大阪弦問屋と刻まれていた (右写真)
先程の唐弓弦のことを思いだした。 昭和三十年前半までは、三河木綿も残っていたのだが・・・  白山神社を出ると、右側に三清橋がある。  ガードレールで見づらいが、ここにも標石があり、下肴町から田町角 と、書かれている。  橋を渡ったら、信号を越えて、二本目の道を
八帖交差点手前 左折し、最初の道を右へ。 突き当たったら左へ。   突き当たったら、今度は右へ、次に、突き当ったら左へ進む。 すると、国道1号線に出る。 東海道は、道の向こう側にある対面の道を行くのだが、ここからは、残念ながら、渡れないので、右手にある八帖交差点の横断歩道橋を使い、反対側に出るしか方法はない (右写真)
横断歩道橋を渡り、左折し最初の道の角に、 板屋町角 の標石があるので、ここを右折し、
板屋町 板屋町へ入る。 板屋町は、文化年間(1804〜1818)頃、茶屋女と称する下女を置いたところ大繁盛し、天保十三年(1842)には、茶屋が三十四軒、百三十人を数える色街になった。 そのため、隣の藤川宿の茶屋が衰微したという。 少し歩くと、道幅が狭くなる。 バーや飲食店などを営んでいた形跡は残るが、朽ちぬのに任す建物があった (右写真)
東海道は、次の三叉路で、右側に、床屋があるところを右折する。 道の左側に、 板屋町角
板屋町常夜燈 の標石が建っているが、江戸時代には、ここに常夜燈があったが、現在は、道を直進し、交叉点手前の右側にある板屋稲荷神社の境内にあった (右写真)
板屋町の人達が、寛政九年(1797)に建立した秋葉山常夜燈で、石柱に火袋と屋根をのせている簡略なものである。  ここを左折すると、新田白山神社があり、その先は岡崎城である。 新田白山神社は、徳川家康の氏神で、永禄六年(1566)、上野国(群馬県)の新田(現太田市)より
松葉総門跡碑 勧請したもので、岡崎城内の白山曲輪に祀られていた。 白山神社は、新田義重 (源義家の孫で、新田の祖) が、 祭神であり、家康はこの時期に、源氏の棟梁、征夷大将軍になる野望を持っていたことになる。 「 板屋町角 」 の標石を右折し、真直ぐ進むと中岡崎町交差点にでる。  国道248号を渡ると、交差点の左側に、松葉総(惣)門跡の石碑がある (右写真)
松葉総門は、岡崎城への西の出入口で、東の籠田総門と一緒に、承応三年(1654)に造られたものである。   東海道は、松葉総門のところで、右に曲がり、門をくぐって、左に曲がり、松葉川
愛知環状鉄道の高架 に架かっていた松葉橋を渡っていた。 松葉川は埋め立てられ、松葉橋もない。  交差点を渡ると、愛知環状鉄道の高架下をくぐる。 高架下には、岡崎城下二十七曲り最後の標石、「 岡崎城下二十七曲り 八帖村 」 がある (右写真)
ここからは、江戸時代の八帖村である。 これで、岡崎宿の二十七曲りは全部歩いたことになる。 日が暮れて、周りに電灯が点ってきたので、今日の旅はこれで終えよう。 
藤川宿からの岡崎宿の旅は、岡崎の二十七曲りのルートを探索する旅になってしまった。 
岡崎は、戦災でほとんどの家が焼けてしまったので、常夜燈にしか古きを求められなかった
が、それでも大変満足した。 この後、左に歩き、名鉄岡崎公園駅から自宅へ帰った。 

  (ご 参 考)  岡 崎 城
 
岡崎城は、松平清康(家康の祖父)が、享禄三年(1530)、現在の場所に城を移したもので、徳川家康は、岡崎城で生まれた。 城内には、家康が産湯に使ったという井戸跡がある。  家康は、その後、織田信秀(信長の父)、そして、今川義元の人質となり、ここを離れたが、十九歳の時、ここに戻って自立し、自領の拡大に努めた。  家康は、元亀元年(1570)、本拠を遠江浜松城(静岡県浜松市)に移し、岡崎城は嫡男信康に与えたが、信康が自刃したので、重臣の石川数正、ついで、本多重次を城代とした。  家康の関東移封に伴い、秀吉の家臣の田中吉政が城主となる。 田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)、城の東、北、西に、総延長4.7kmの総堀をつくった。 
岡崎城 その後、家康による江戸幕府開設により、岡崎藩が誕生。 石高は5万石前後と高くはなかったが、神君出生の地として神聖視され、石高以上に権威があり、本多(康重系統)、水野、松平(松井)、そして、本多(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となった。  元和三年(1617)、本多康紀が、三層三階地下一階建て、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ天守閣を建てたが、明治の城取り壊しにより、明治六年〜七年に城郭の大部分が壊されてしまった。  現在の建物は、昭和三十四年(1659))に復元されたものである。

追 記 
この稿を作成するにあたり、備前屋さんでいただいた、岡崎宿プロムナードイラストマップと伝馬町家順間口書を参考にさせていただきました。 お礼申し上げます。 


平成19年(2007) 2 月


(39)知立宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。