『 東海道を歩く ー 藤 川 宿  』


本宿は、間の宿であり、法蔵寺の門前町として賑わっていたという。  法蔵寺には、家康を祀る
東照宮や近藤勇の首塚がある。 
街道の左側のこんもりとした山に、家康が難を逃れたと伝えられる鳩ヶ窟がある山中八幡宮がある。 
藤川宿は、広重の棒鼻の絵で有名であるが、僅か九町二十間の短い宿場だった。 



赤坂宿から間の宿・本宿へ

鳥居 平成19年2月20日、2月というのに暖かく、歩くのには良い日である。 今日は赤坂宿から岡崎宿まで行く予定である。  赤坂宿から藤川宿へは山あいの道を行く。  宿を出るとすぐに、右側に、鳥居があり、その前の石柱の正面に、郷社八幡宮とあり、脇を見ると、 東京角力 錦戸春吉 と、刻まれていた (右写真)
力士が、故郷に錦を飾る意味で寄進したものだろうか?? 鳥居を入ると、杉の森八幡宮がある。 大宝二年(702)、持統上皇が東国御巡幸の折、勧請したと、伝えられる古い神社で、
夫婦楠 寛和弐年(986)の棟礼が現存する、という。 境内にある一つの根株から二本の幹が出ていることから、夫婦楠と呼ばれる大クスは、推定樹齢千年を数える風格ある古木で、今も威勢よく枝を広げていた (右写真)
八幡宮を出ると、小さな石仏が祀られていた。 左側に常夜燈も建っていた。 そのまま歩くと、家並みも少なくなり、車もほとんど通らない静かな道になった。 右側に、音羽中学校がある。 右側に、開運毘沙門天王尊の石柱が細い道の角に建っていた。 その先に医院があり、
栄善寺 その先には薬局もあった。  左側の道傍に、栄善寺の石碑が建っている。 道を入って行くと、崩れそうな石段の右側に、二つの石室があり、石仏が祀られていた。 また、その右には、燈籠と石柱が建っていた。 石段の左に、小さな祠もあった。 石段を上ると、質素なお堂の前に出た (右写真)
栄善寺は、西暦1272年、円空上人の創立で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を
八王子神社の入口 治したという伝説がある寺である。 街道に戻り歩くと、長沢(旧長沢村)に入る。 道の左側に、八王子神社の石柱が建ち、左側の秋葉山常夜燈は寛政十二年の建立である。 八王子神社に寄るため、細い道を入って行った (右写真)
道の突き当たりに、洞泉寺がある。 そのまま、道を進むと、右側に村社八王子神社の石柱があり、常夜燈と鳥居が建つ。 湿気の多そうな参道は石段になっていて、結構な
八王子橋 傾斜できつかった。 石段を上ると、神社があったので、お参りをした。 境内には、庚申塔が建っていた。 帰りは、左側の車道を下る。 途中の石室に、石仏が祀られていた。 街道に戻ると、小川にかかる橋(八王子橋)の手前に、一里山庚申道是ヨリ・・・  と、書かれた道標がある (右写真)
八王子橋を渡り、三河湾オレンジロードという有料道路の下をくぐる。 ここまでの道の両脇
長沢一里塚跡 には、家が続いていたが、少し疎らになった。 左側の道の脇に、長沢一里塚跡の道標が建っていた。 江戸時代の分間絵図には、両脇に一里塚が造られ、右の一里塚の手前には、傍示杭が立っていることが描かれている (右写真)
このあたりは、昭和五十年頃までは、松並木があったようであるが、右の一里塚跡には、最近建てられた、と思える住宅が建ち並んでいた。 その先の右側の長沢小学校のグラント脇に、
長沢小学校グラント 長沢城址の説明板があり、ここから北西一帯にあった城で、長沢松平氏の初代親則が、長禄弐年(1548)頃より居城した、といわれ、寛永十一年(1634)の家光上洛の際には、グランド付近に、長沢御殿が建てられ、休憩に利用された。 その御殿も、延宝八年(1680)には廃止になった、とあった (右写真)
右手に高速道路が見え、車が走るのが見えた。 道の東側に、児子神社の石柱が建って
誓林寺 いるが、神社は、ここより三百メートル先の高速道路を越えた山麓にある。 少し先で、右にカーブするが、カーブした右側に誓林寺という寺がある。 親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵が始まりで、応仁年間(1467〜1469)に、信海が寺にした、と伝えられる寺である (右写真)
この道は、国道1号線に合流するまでの間、古い建物が数多く残っている。 しばらく、
連子格子の家 音羽川の流れを左に見ながら歩く。 右側に、安政十年(1798)の秋葉常夜燈と村社巓神社の石柱が建っていた。 巓神社は北方四百メートルの山の中にある。 常夜燈も右側のはなくなっていた。 山口バス停のところまでくると、右手の山はかなり接近し、道幅もだいぶ狭くなった。 右側に、漆喰壁に連子格子が沢山嵌った家があった (右写真)
少し先の右側の石垣の上に、磯丸 みほとけ 歌碑と書かれた石柱と観世音菩薩と刻まれた
みほとけの歌碑 石碑、そして、三頭馬頭観音像が祀られていた。 石段を上ると、磯丸歌碑 あふげ人 衆生さひどに たち給ふ このみほとけの かかるみかげを 、があり、裏面には、一百萬遍供養塔とある。 また、観世音菩薩像が祀られていた (右写真)
磯丸とは、糟谷磯丸のことで、彼は伊良湖村に生まれた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた人物である。 この碑は、観音堂の庵主、妙香尼が、弘化三年(1846)、落馬して亡くなった旅人の
みほとけの歌碑 供養のために建てたものといわれる。 右にカーブするところに秋葉常夜燈と石仏が安置されている二つの祠がある (右写真)
千束川を大榎橋と千両橋で渡ると、上り坂になり、関屋の交差点で、国道 1号と合流し、東海道の道は終わってしまう。 ここから二キロほどは車の多い国道の左側を歩かなければならない。 やがて、岡崎市に入る。 市境の本宿町深田の信号の手前に、自然と歴史を育む町 本宿 と、書かれた碑があり、近くに説明版がある。 

本宿から藤川宿へ

本宿 本宿(もとじゅく)は、東、西の三河が接するところで、古は、駅家郷、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道の要地として、中世以降は法蔵寺の門前町として発展したところである。 江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿(あいのしゅく)になっていた。 新箱根入口の信号交差点の先を左に入ると、東海道の道が残っている (右写真)
新箱根入口の表示はこれまで何度となく通りながら、新箱根とは?と、不思議に思っていた が、 名鉄本宿駅前の標示板に、 昭和九年(1834)、鉢地坂トンネルが開通し、本宿と蒲郡を
法蔵寺門前 結ぶ県道が完成し、最新型の流線型のバスが走った。 風光明媚、箱根に似ていることから、新箱根観光道路と命名され、これを記念し、本宿音頭なるものまで創られている、  とあるのを見て、なるほど!!と、納得したのである。  少し歩くと、左側に、常夜燈があり、その奥にお堂が見える。 法蔵寺である (右写真)
東海道名所図絵に、  本尊阿弥陀仏、門前に大木の古松あり、稿掛松(そうしかけまつ)という  、と書かれている寺で、松は今でも、門前にあったが、傍らの説明では、何代目かの松
法蔵寺 らしい。 法蔵寺だんごの説明もあり、江戸時代、茶屋の名物で、押しつぶした形状の団子を串刺しにした、みたらしのようなものだったようである。  橋を渡り、かなり急な階段を上ると、鐘楼の間から本堂が見えた (右写真)
法蔵寺は、大宝元年(701)、行基上人が開き、時の天皇から出生寺の寺号を賜って、勅願寺となった、という古刹で、松平氏の初代、松平親氏が、嘉慶元年(1387)に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺と改めた。 初代の親氏以来、松平家の帰依を受け、家康も、子供のころ、ここで
近藤勇の首塚 勉強したという徳川家と縁が深い寺である。 現在は、浄土宗西山深草派で、二村山法蔵寺といい、本尊は阿弥陀如来である。 左側にある六角堂へ向かって歩くと、その先に、新選組隊長、近藤勇の首塚がある。  板橋で処刑された近藤の首級は、京三条大橋の西にさらされていたが、同志が三晩目に持ち出し、近藤が生前敬慕していた、この寺の住職、称空義天和尚に依頼し、埋葬されたのである (右写真)
(注)慶応四年(1868)四月二十五日、近藤勇は、江戸板橋の平尾一里塚付近の刑場
松平家の墓 で、官軍により、斬首処刑され、首級は、京都に送られたが、胴体は、少し離れた板橋駅前に埋葬されている。  また、彼の生家の近くの三鷹市の龍源寺にも、近藤勇の墓がある。  家康の祖先の松平家の墓がその上の山腹にぐるーと輪になったように並んでいた。 中央の大きな法篋(きょう)印塔が松平親氏のものか? (右写真)
更に上ると、徳川家康を祭った東照宮があった。 
東照宮 伊奈備前守の常夜燈一対や大番(おおばん)組の多くの燈籠などは、何時作られたのかは分からないが、天領であった時期を考えると、元禄十年以前であろう。 東照宮は、全国に五百ほどある、といわれるが、これもその一つで、家康の育ったところであるから、造られたのだろう (右写真)
愛知県には、もう一つ、豊田市下山に松平東照宮がある。  燈籠にある大番とは、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊である。 大番の職務は、
法蔵寺本堂 戦時にあっては、本陣備において攻撃を任務とした騎馬隊として働き、平時には、江戸城下および要地の警護を担当した。  急な石段を降りると、本堂である (右写真)
徳川家の三つ葉葵が、瓦や壁に刻まれ、建物の彫刻も、華やか図案であり、江戸時代には、幕府より知行地を戴く権勢を誇った寺院であったことが分かった。  街道に戻ると、法蔵寺の左手前に、 右国道1号 左東海道 と、刻まれた道標があった。 
冨田病院入口 少し歩くと、右側に、不動院とあり、左側に、石仏が祀られている。  建物は集会所になっているようで、これと不動院とはどういう関係にあるのか、分からなかった。 
法蔵寺橋から約百五十メートル歩くと、左側に、冨田病院の看板があった (右写真)
本宿陣屋跡と代官屋敷の案内があり、 元禄十一年(1698)、旗本柴田出雲守勝門
本宿代官屋敷 (柴田勝家の子孫)の所領になり、ここに陣屋が置かれ、柴田氏の子孫が明治まで治めた。 陣屋の代官職は富田家が世襲し、現在の居宅は文化十年(1827)の建築である とあった。 道を入って行くと、正面に近代的な病院があるが、右側の駐車場の一角にある建物は古いが、大変大きな建物である。 これが代官屋敷なのだろう (右写真)
江戸時代の本宿は百軒程度の集落で、村内往還道は十九町(約2km)、立場茶屋が、
常夜燈 長沢村との境の四谷と本宿の法蔵寺の二ヶ所にあった、という。 百五十メートルほど歩くと、右側に、秋葉山常夜燈が建っていた (右写真)
ここを右折すると、国道1号線を越えた先に、名鉄本宿駅がある。 本宿駅は、八角屋根、銅板葺きの塔楼をのせた蒲郡ホテル(日本三大クラシックホテルの一つ)の建物を似せた建物だったが、平成四年の国道1号拡張の際、惜しまれながら、壊された。 
十王堂跡 その先の左側の建物前には、十王堂跡の標示があった (右写真)
本宿は古くから、麻縄の産地として知られていたようで、東海道中膝栗毛にも、  ここは麻のあみ袋などあきなふれば、北八、みほとけの誓いとみえて、宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物  、という記述がある。 豊川信用金庫がある交差点の手前の右側に、工事中
宇都野龍碩邸跡 の家があり、一里塚跡の標柱があったが、工事用の部材で見えなくなっていた。 一本松の枝ぶりの良いのを見ながら歩くと、左側に、屋敷門がある家がある  (右写真)
宇都野龍碩邸跡とあるが、宇都野龍碩は、シーボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医で、安政年間に植疱瘡(種痘)を施した人物である。 その先には、松の木が何本か見えてきた。 この先の本宿町沢渡の信号交差点で、本宿は終わるが、ここにも、道標と本宿の
名鉄の線路沿いの道 説明板があった。 東海道は、再び、国道1号と合流。  道路を渡り、国道の右側の歩道を歩く。 ここからは、江戸時代山綱村だったところである。 東海中学を過ぎると、旧舞木村に入る。  本宿から一キロほど歩くと、名鉄の線路沿いに出る  (右写真)
少し歩くと、国道の右側に一段低くなった、線路に沿った細い道があるので降りていく。 
舞木集落 そのまま歩いていくと、右側に名鉄山中駅がある。 舞木の地名は、山中八幡神宮記の一節に、 「 文武天皇(697〜707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる 」 とあり、このことから舞木となった、といわれる。  名鉄の線路に沿って人家は並ぶが、古い家は少ない (右写真)
右手の愛宕社、興円寺、延命地蔵尊、永證寺をみながら舞木橋を越えるとわずかながら
大雄山興円寺 松並木が残っている。 大雄山興円寺の石柱に、旧山中村とあるが、興円寺は、1710年に開創された寺である (右写真)
旧山中村とあるが、この先の舞木町の説明板には、 舞木村は古くは山中郷に属していたが、江戸幕府の三河代官が市場村の一部を藤川宿に移転させた際、残りの市場村と舞木村を合併し、現在の舞木町になった、 と、あるので、山中村だったのは山中城があった戦国時代か?  舞木西交差点で、また、国道と合流する。  展望は良く、四方八方が見渡せた。 
山中八幡宮常夜燈 国道の向こうに、山中八幡宮の赤い鳥居と鳥居の東側に建てられている常夜燈を見つけた。 小生は畑の中の道を歩き、常夜燈に向かう。 
想像したより大きな常夜燈で階段が付いていて、火屋があるものである  (右写真) 
八幡宮の氏子達が天保四年(1833)に建立したもので、山中御宮、常夜燈と刻まれていた。 これだけ大きなものが神社から離れたところにぽつんと建つのは大変目立つ。 
山中八幡宮鳥居 歩いて、赤い鳥居に近づいた  (右写真) 
鳥居の右側に、樹齢六百五十年という、岡崎市指定天然記念物の大クスノキがあった。 二股に分かれ、今なお、元気な枝ぶりを空に向かって、伸ばしていた。 
この先は石段で、急な上にかなり長い。 上らない(のぼれない?)人のために、階段の下に、遥拝所があり、たまたまお参りにきた婦人は、ここで祈って、立ち去っていった。 
山中八幡宮 石段は湿って、苔むしていて、大変歩きづらい。 上らないで、下で遥拝する気持が分かった。  塵取門をくぐると、正面に、山中八幡宮があった (右写真)
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、八幡大神だが、徳川家康と縁が深い神社である。  弘治四年(1558)、今川家から開放された家康が、初陣の三河寺部城攻めに際し、戦勝祈願をしたところである。 慶長弐年(1597)には、石川数正等に命じ、衡門を建てて、社殿を造営
出世竹 している。  また、三代将軍家光は、寛永十一年(1634)、上洛の途中に、当社に参拝、東照 宮合祀、葵の紋の使用を許可された、とも伝えられる。 本社の左手前に、家康が、戦勝のお礼に参拝した際残した、とされる出世竹がある (右写真)
三河一向一揆で、門徒たちに追われた家康が身を隠し、その難を逃れた、と伝えられる 鳩ヶ窟がある。 三河一向一揆は、永禄六年(1563)、家康の 家臣、菅沼定顕が、上宮寺から糧米を
鳩ヶ窟 強制徴収したことに端を発した事件で、一揆方の追っ手が、家康がひそんでいた 洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ち、  人のいる所に鳩がいるはずがない と、追っ手は立ち去った、という逸話が残る (右写真)
鳩ヶ窟は、本社に入る手前で、左折すると、両脇は藪のようになっている道を行くと、注連縄が張られていて、洞窟は、神聖な場となっていたが、人がひとり入れるかどうかという、大きさ
列車基地だった。  街道に戻る途中、国道に近いところに入口があり、御開運御身隠山と書かれた石柱と常夜燈一対と鳥居が建っていた。 こちらは神社の裏から入って行く感じになる。  国道に戻ると、右手上方に、名鉄の列車基地があり、赤い電車が並んでいた (右写真)
やがて、道が右にカーブすると、市場町の交差点に出る。 その先の左側に入る道が東海道で、藤川宿はすぐである。 

(ご参考) 山 中 城

山中八幡宮の南西に山中城址がある。 山中城は、標高196mの山頂に築かれた山城で、戦国時代、岡崎城主、西郷(松平)氏により築城されたが、三代目の西郷信貞が大永四年(1524)、甥の安祥城主、松平清康の家臣、大久保忠茂の奇襲に逢い、山中城は、一夜で陥落し、岡崎城も、清康のものになった。  その松平清康も、天文四年(1535)の守山崩れと呼ばれる事件で、家臣に誤殺され、その子、広忠時代に、嫡男、竹千代(徳川家康)は、今川家の人質に取られ、この城も、今川家の管理になり、織田氏との戦争の前線基地を果した。  山中城が、松平家に復したのは、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後である。  永禄六年(1563)の三河一向一揆では、一揆側に占拠されている。  家康は、東三河制圧の基地として、この城を重視し、永禄七年(1564)、酒井忠次をこの城に入れ、山中郷を与えた。 以後、天正十八年(1590)の徳川家康の関東移封まで、酒井氏による山中城統治が続いた。

藤川(ふじかわ) 宿

広重の描いた藤川宿 藤川宿は、安藤広重が描いた大名行列が棒鼻を通る風景で知られる (右写真)
藤川宿は、日本橋から三十七番目の宿場であるが、赤坂宿より二里強(9km)キロしかなく、家数は三百二軒、宿内人口は千二百十 三人と少ない。 慶長六年(1601)に伝馬朱印状が発給されて宿場になったものの、村の規模が小さいためやっていけなくなり、 慶安元年(1648)、藤川宿の東側に、五百メートル程道を伸ばし、隣村の市場村から六十八戸を移転させて、
東棒鼻跡 加宿市場村を作った、という歴史がある。 市場町の交差点で、道路の左側に渡り、五十メートルほど先の細い道に入ると、すぐ のところに、従是西藤川宿、と書かれた標柱があり、正面にモニュメントが見えてきた (右写真)
ここは、藤川宿の江戸方の入口の棒鼻があった所で、東棒鼻と呼ばれる。  棒鼻とは、土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、そこに番人がいて、宿場の出入りを監視して
棒鼻 いた。 ここにあるのは、平成四年に復元されたものである (右写真)
棒鼻に入ると、曲がりくねった道になっていた。 当地では、曲手(かねんて)と呼んでいたが、一般的には、枡 形とか鉤型といわれるものである。 左側の細い道に入り、三叉路で右折すると、また、丁字路になるので、ここを左折する。  この角には、道中記に書かれて有名になった茶屋かどや佐七があった、と案内があった。  東海道中膝栗毛 にも、
『 かくて藤川にいたる。 棒鼻の茶屋、軒毎に生肴をつるし、大平瓶、鉢、店先に並べたてて、
秋葉山常夜燈 旅人の足をとどむ。 弥次郎兵衛の 「 ゆで蛸で たこのむらさきいろは 軒毎に ぶらりと下がる 藤川の宿 」 これより宿 をうちつぎ、出はなれのあやしげなる店で休みて・・・  』 と、あるので、江戸時代には、道の両側に茶屋が並び、客引きが 凄かったように思われる。 道はその先で突き当たるが、そこに、寛政七年(1795)建立の秋葉山常夜燈が建っていた (右写真)
左右に道があるが、この道は棒鼻の右側を通る道で、東海道は、ここで左折していた。 
連子格子の家 江戸時代には、棒鼻からここまでの右側の道はなかった筈である。  ここは、前述した加宿の市場村である。 通りに古い連子格子の家が何軒か残っていた (右写真)
その先の右側に、一対の常夜燈と鳥居があり、傍らの石柱には、津島神社と書かれていて、奥の方に社殿が見えた。  道の左側から、少し入ると、片目不動と書かれた赤い幟がひるがえっている。 真言宗醍醐派の法弘山明星院という寺で、建物も 敷地も小さく、パッと
明星院 しない寺に思えたが、寺の本尊、不動明王が、徳川家康の窮地を救ったということで、有名なのである (右写真)
徳川家康が、戦で追い詰められた時、見知らぬ武士に助けられたが、武士は敵の矢で、片目を潰され消えてしまった。 後日、 家康が明星院に参拝した折、堂内の不動尊の目が、潰れているのを見て、あの時の武士は、不動尊の化身だったのだと感謝した、 という話が
高札場跡 残っている。 本尊の不動明王立像は、秘仏なので、お目にかかれなかった。 その先で、橋を渡ると、江戸時代の藤川村である 。 道の右側にある駐車場の一角に、高札場跡の案内板があった (右写真)
高札場は、高さ一丈、長さは二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が掲示されていた、という。 その内、三枚は、この先の 資料館に掲示されている。 
問屋場跡 道の反対にある称名寺という寺には、代官だった烏山牛之助の位牌がある。  武田成信や雷電と争ったという力士の江戸さき(山の下に大その下に可という字)の墓があった。 なお、武田成信は、藤堂家の家臣で、武田信玄の弟の信実の八世にあたる。  その先の米屋が問屋場跡である (右写真)
米屋の生垣前に、問屋場跡の石柱と案内板があった。 
商家銭屋跡 その斜め前にある民家が、昔の商家の銭屋の跡で、連子格子の建物が、昔の賑わいや旅人姿を偲ばせる雰囲気があった (右写真)
江戸時代の東海道宿村大概帳には、本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠は三十六軒あったとあるが、最初は二軒あったようである。   銭屋のはす向かいにあったのが、本陣だった森川家で、現在は第二資料館になっていた。  藤川宿の本陣は、二軒あったが、 その後、退転(おちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には、森川久左衛門が
脇本陣跡 本陣を勤め、建坪は百九十四坪だった、という。  宇中町の右側に、立派な門がある家がある。 脇本陣を務めた大西喜太夫の橘屋である (右写真)
当時の家は、現在の百三十坪ほどの敷地の四倍で、明治天皇御小休所の坐所があり、昭和三十年の岡崎市との合併前の藤川村役場にもなっていた。 現在は、藤川宿資料館(入館無料、9時〜17時、月曜休)になっている。  門は当時のままで、庭には脇本陣跡の石碑も
関山神社の燈籠 あり、館内には、宿場街道の模型や古文書、古地図が展示されていて、江戸時代の藤川宿がどのようだったのか知ることができた。  そこを出て、街道に戻ると、その先の右側には、関山神社の燈籠が建っていた (右写真)
その先の左側には、伝誓寺がある。  その先に、麦が少し植えられていて、むらさき麦の表示があった。  藤川は、根元から穂先まで紫色をしたむらさき麦が、名物だったのだが、
西の棒鼻跡 長らく栽培されず、幻の麦となっていた。 平成六年に、栽培に成功し、現在では、数箇所で栽培しているようである。 
その先の右側にある藤川小学校前に、西の棒鼻跡がある (右写真)
その一角に、広重の師匠の浮世絵師、歌川豊広の歌碑があった。
 「   藤川の  宿の棒鼻  みわたせば  杉のうるしと  うで蛸のあし  」 
と刻まれている。 
十王堂 交差点を挟んだはす向かいには十王堂がある (右写真)
十王が、座る台座の裏に、宝永七庚寅(1710)七月と、記されているので、十王堂の創建は、この年と推定される。 
その奥には、成就院があり、境内の右側に、芭蕉句碑がある。 
芭蕉句碑    「   爰(ここ)も三河  むらさき麦の   かきつはた   はせを   」
句碑の裏に、寛政五歳次発丑冬十月 と、あるので、寛政五年(1793)に建てられたもので、 「 当国雷門月亭其雄弁連中 」 「 以高隆山川之石再建 」 と、あることから、西三河の俳人達が再建したものであることが分かる (右写真)
西の棒鼻は、藤川宿の京方(西)の出口で、ここで、藤川宿は終わる。 
藤川宿は、僅か、九町二十間(約1020m)の短い宿場町だった。  


平成19年(2007) 2 月


(38)岡崎宿へ                                           旅の目次に戻る





かうんたぁ。