『 東海道を歩く ー 赤 坂 宿  』


御油宿から赤坂宿の間には、国の天然記念物の松並木がある。 
弥次さん、喜多さんが、悪い狐がいて旅人を化かすから、といわれたのも、この場所である。 
赤坂宿には、大橋屋という、東海道でただひとつ江戸時代から営業を続ける旅館がある。




御油宿から赤坂宿へ

石仏群平成16年10月17日、御油宿を見て、赤坂宿へ向う。 隣の赤坂宿までは僅かに十六町、およそ千七百メートルの距離。 御油宿を出ると、上五井である。  松並木の手前には公民館があり、その前には馬頭観音などの石仏が並んで祀られていた (右写真)
最初からここにあったようには見えないので、国道を整備したとき集められたものと思うが、間違いだろうか?。  街道を歩くと、左側に十王堂が建っていた。 
十王堂 十王は、冥界に合わせて、死者の罪業を裁判する十人の王のことで、彼等の裁判を受けて、次に生まれてくる場所が決まる、とされる。 この考えは、平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に、全国に伝わったようである (右写真)
この建物は、明治中期に火災に遭い、再建されたものだが、江戸時代の絵図に、描かれて
御油の松並木 いるので、十王堂は古くからあったようである。 
少し歩くと、松並木に出た (右写真)
松並木は、慶長九年(1604)に、東海道の開設と共に整備されたもので、国の天然記念物に指定されている。 天然記念物に指定されるだけのことがあり、背が高く、太くなった松が多い。 そうした松が六百メートルも続いていた。 
その下を車が時々通るが、排気ガスでやられないのであろうか? 少し心配である。 
弥次喜多茶屋食堂 松並木の中間あたりの左側に、弥次喜多茶屋食堂があった (右写真)
十辺舎一九の東海道中膝栗毛で、弥次さん、喜多さんが、留め女に袖を引かれたり、この先の松並木には悪い狐がいて、旅人を化かすから、ここに泊また方がよい、と脅られる場面があるが、そこから名前を付けたのだろう。 
杉並木をあっという間に歩き終えると、もう赤坂宿である。 

赤坂(あかさか)宿

見附跡 御油の杉並木を過ぎたあたりに、赤坂宿の見附(みつけ)跡の看板があった (右写真)
見附とは、宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、旅人の出人を監視したところである。  赤坂宿では、江戸方(東)は、関川地内の東海道を挟む両側にあり、京方(西)は、八幡社入口の片側にあった。  東の見附は、寛政八年(1796)、代官辻甚太郎のとき、
関川神社 ここから関川神社前に移されたようだが、その後、また、ここに戻されたようである。  なお、見附は、明治六年に一里塚などと共に廃止されている。 
少し歩くと、左側に関川神社がある。 関川神社は、三河国司、大江定基の命をうけた赤坂の長者、宮道弥太次郎長富が、クスノキのそばに、市杵島媛命を祭ったのが始めと、伝えられているが、  社殿脇の大クスは、推定樹齢約八百年である (右上写真)
芭蕉句碑 木の根元からえぐられている部分は、慶長十四年の十王堂付近の火災の火の粉が飛び、こげたものと、伝えられてきた。 境内には、芭蕉の句碑がある (右写真)
     「  夏農月(夏の月) 御油よ季いてゝ(御油よりいでで) 赤坂や  」 
この句は、夏の夜の短さをわずか十六丁で隣接する、赤坂と御油間の距離の短さにかけて、詠ったものである。 
この句の通り、御油宿から赤阪宿までは、松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまう
松平彦十郎本陣跡 ほどの近さであった。  四百メートル程歩くと、赤坂紅里(べにさと)の交差点に到着。 右折すると、名電赤坂駅である。 それにしても、紅里とはかっての色町を想像させる名前であるが、このあたりが赤坂宿の中心だったところ。 工事中の門の近くに、松平彦十郎本陣跡 と表示された案内板があった (右写真)
当初、松平彦十郎が、本陣と問屋を兼務していたが、文化年間より、問屋は、弥一
尾崎屋 左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれた。 本陣は四軒あったが、その内、二軒は道の反対側にあったようである。 
交差点の右側に、民芸品を売る古い建物の尾崎屋があった (右写真)
その先右側に郵便局があり、街道から左に入ると、長福寺がある。 平安時代、三河の国司
長福寺 だった大江定基との別れを悲しんで、自害した、赤坂の長者の娘、力寿姫の菩提を弔うために建てられた寺で、山門の門額には、三頭山と書かれていた (右写真)
大江定基が寄進した、恵心僧都の手によると伝えられる聖観世音菩薩が祀られている。  幕末の頃、赤坂代官所に勤めていた役人の手紙に、 長福寺の桜も満開になったでしょう。 昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します、 と、記されていた、
連子格子の家 とある山桜は、旺盛に葉を茂らせていた。 樹齢約三百年、幹の周り約三メートル三十センチで、桜の咲く頃再度訪れてみるか!?と、思った。 
街道に戻ると、古い連子格子の家があった (右写真)
呉服屋の向かいの家に、小さな表示板がぶら下げられていて、問屋場 (伝馬所)跡 と表示されていた。 問屋場は、間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)で、人足三十人、馬十頭
大橋屋 をつないで、宿場間の公用の荷物や旅人を次の宿場まで運んでいた。 その運営には、問屋、年寄、帳付、馬指といった宿役人があたっていた。  伊藤本陣跡の隣は旅館、大橋屋である。 江戸時代には、旅籠伊右衛門鯉屋という屋号で、旅籠を営んでいた家で、東海道で唯一、今もなお、営業を続けている (右写真)
大橋屋の創業は、慶安二年(1649)、建物は、正徳六年(1716)頃の建築で、間口九間、
大橋屋内部 奥行二十三間ほどの大きさであるが、赤坂の旅籠では大きい方であった、という。 
入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の様子を留めていた (右写真)
宿泊する人が減っているが、会食や昼の食事でなんとかやっているようすであった。 
赤坂宿は、享保十八年(1733)の家数は四百軒だったが、その内、旅籠が八十三軒もあった上、隣の御油宿とは、僅かに、十六丁(1.7km)しか離れていないので、競争が激しく
なるのは必然で、旅籠だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱えることになる。 
浄泉寺 また、飯盛り女になるという地元事情もあったようである (巻末参照)
大橋屋の隣の境に、高札場の木柱が立っていたが、気をつけないと分からないだろう。
伊藤本陣跡の裏にあるのが浄泉寺で、境内に百観音があるが、本堂の脇のイチョウが黄色く色づいて、きれいだったが、その反対側に大きなソテツがある (右写真)
安藤広重の東海道五十三次のなかに、赤坂 旅舎招婦図 と、題された旅籠風景がある
ソテツ が、描かれているのは、旅籠鯉屋の庭のソテツである。 明治二十年頃の道路拡張により、旅籠からここに移植されたもので、推定樹齢は二百六十年という (右写真)
本堂と離れて建っている薬師堂は、赤坂薬師といい、赤い幟が林立していた。  街道を歩いて行くと、右側に、赤坂陣屋跡の表示があった。  陣屋は、代官所ともいわれ、年貢の徴収や訴訟を取り扱ったところである。 赤坂陣屋は、三河国の天領を管理するため、幕府が設けた
赤坂陣屋跡 もので、国領半兵衛が代官のときに、豊川市の牛久保から移ってきた。 幕末から明治にかけては、三河県の成立にともない、三河県役所となり、明治二年六月、伊那県に編入されると、静岡藩赤坂郡代役所と改められたが、明治四年の廃藩 置県により、伊那県が額田県に合併されると、赤坂陣屋は廃止された (右写真)
反対側の奥に、音羽町役場、手前に休憩施設(よらまいかん)がある。 音羽まつりが開催されて
よらまいかん いて、この前に巡回バスが頻繁に来て、客を乗せていった (右写真)
陣屋跡の看板前に、男子高校生が三人並んで座っていたので、祭の内容を聞くと、音羽某(なにがし)という歌手が来て歌うとか、トークショーがある、という。 なんとなく楽しい雰囲気だった。 彼らと別れ、また、街道を歩く。 少し歩いたところに連子格子の古い家があった。 老人は、祭りには関係ないなあ!!という顔をして、自転車で通り過ぎていった。 
見付跡 その先の駐車場の一角には、十王堂跡の標柱が建っていた。 
対面の民家の駐車場に、赤坂宿の京側入口を示す見付跡の標柱があった (右写真)
赤坂宿は、ここで終りになる。 

(ご参考) 赤坂宿本陣

赤坂宿には、伊藤本陣、松平彦十郎本陣、弥一本陣など、四つの本陣があった。 
本陣は、参勤交代の大名、幕府の役人、公家などが休泊するところで、玄関、書院、上段の間(他の部屋より一段高くなった部屋)を備えていた。 
音羽町の資料によると、
『 赤坂宿の本陣は、初め、彦十郎家一軒で行われていましたが、宝永八年(1711)の町並み図では、庄左衛門家、弥兵衛家、又左衛門家が加わり、四本陣となっています。 四本陣のうち、伝統のある彦十郎家は、間口十七間半、奥行二十八間、部屋の畳数四百二十二畳、門構玄関付きの大変立派なものでした。 慶応四年の町並み図では彦十郎家、長崎屋、桜屋の三本陣と輪違屋の一脇本陣となっています。 』  
とあり、時代とともに変遷があったようである。

(ご参考) 飯盛り女の活躍

飯盛り女は、当初は、泊り客の食事や寝具の世話 をするものだったが、やがて遊女化していった。 これには、住民の生活が豊かでなかったという背景がある。 
「 御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い 」、「 御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ 」 と、俗謡で詠われたように、赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようで、音羽町(旧赤坂町、旧長沢村、旧萩村が合併し誕生)の資料によると、
『 飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。 
寛政元年(1789)の『奉公人請状之事』には、「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出します。   今年で11歳、年季は12年と決め、只今御給金1両2分確かに受け取り、御年貢を上納いたしました。 』
とあり、住民の生活が豊かでなかったことから、子女を飯盛女として奉公させざるを得ない惨状だったという印象を受けた。


平成16年(2004)10 月


(37)藤川宿へ                                           旅の目次に戻る








かうんたぁ。