『 東海道を歩く ー 白須賀宿  』


江戸時代には、西から旅してくると、潮見坂で、始めての富士が見られた、という。 
白須賀宿は、格子戸のある古い民家や間口の狭い家並みなど、今でも江戸時代の面影を残している。 




新居宿から 白須賀宿

上下神社 新居宿の西のはずれ、棒鼻を過ぎて、まっすぐ行くと、橋本交差点で、国道1号線にぶつかる。  ここにあった東海道夢舞台という道標には、橋本ー新居宿加宿と、あるので、江戸時代には、新居宿に加えた宿場になっていたのであろう。 
国道1号線を地下道でくぐると、対面に、上下神社がある (右写真)
その左の消防署の近くに、女屋跡というところがあるが、鎌倉時代、橋本宿の長者が住んだ屋敷跡と言われるが、この橋本集落は、古代の橋本駅跡で、大変古い歴史がある
風炉の井 ところである。 国道を左に進むと、左側の民家の一角に、風炉の井という、古い井戸が残っている。  言い伝えによると、建久元年(1190)、源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊したときに、井戸の水を使って、茶の湯を味わった、とされる (右写真)
更に、奥に進むと、浜名橋跡に出られるようだが、そこまでは行かなかった。  新居宿の項で書いたが、浜名湖は、かっては陸続きの淡水湖で、唯一の川が浜名川で、海に
教恩寺 通じていた。 鎌倉時代には、浜名の橋のたもとに、橋本駅舎があり、旅籠や女郎屋が軒を連ねて、橋本千軒というほど賑わったと、いわれる (詳細は巻末参照)
今や、そのような雰囲気や気配は全然なかった。  橋本西の交差点は三叉路で、東海道は右の道に入るが、その手前に、教恩寺という古い寺がある (右写真)
正安弐年(1300)の創建と伝えられる寺院で、江戸時代後期に建造された楼門が印象的
旧東海道 である。 ここから、再び、東海道で、いつのものが分からないが、古い家も残っていた (右写真)
少し歩くと、三叉路で、左折するのが、東海道である。 なお、右折すると、先ほどの棒鼻跡の石碑のあったところにでる。  東海道はぐるーとUユータウンしてここまできたという感じである。 この先はのどかな道に変わった。  歩いて行くと、松の木がぽつりポツリと現れた。 

紅葉寺跡 右側に、紅葉寺跡の案内を見つけたので、入っていく。  紅葉寺は紅葉山本学寺といい、建久元年(1190)、高野山より毘沙門天を勧請して建立された、といわれる。 室町幕府、足利義教(よしのり)が、永享四年(1432)、富士遊覧のとき、立ち寄って、紅葉を賞したので、紅葉寺と呼ばれた、とある (右写真)
今は石段だけでそれ以外には何も残っていなかった。  右側の山沿いには家が続くが、
昭和の松並木 左側は田畑で家は一軒もない。  しばらく歩くと、本格的な松並木が現れた。 江戸時代だろうと思っていたが、マツクイ虫で松並木が全滅したため、昭和六十二年に植え直したと、説明にあった (右写真)
右側に別れていく道の脇に、検校ヶ谷と書かれた石碑があった。  江戸時代、盲目の座頭が、最高位の検校の地位を得るため、東国から京に上る途中、このあたりで道に迷い、倒れて
藤原為家と阿仏尼の歌碑 しまった。 その後、検校ヶ谷と呼ばれるようになった、と説明にあった。 
左側の松並木の下に、藤原為家と阿仏尼の歌碑がある (右写真)
 「 風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣り舟 」(藤原為家) 
 「  わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで 」(阿仏尼)
為家は藤原定家の二男で、続後選和歌集や続古今和歌集を編纂した人物である。 
阿仏尼は、為家の継室で、彼の没後出家し、鎌倉へ下向の折、十六夜日記を書いた。 
この歌は、その時、詠ったものだろう。 道の左側は、低くなっていて、田畑が広がり、
立場跡 ビニールハウスが点在しているが、国道1号線は見渡せた。 松並木が終わると、大倉戸集落に入った。  左側に東新寺という寺があるが、その手前の木の繁みの下に、立場跡の説明板があった。 ここの立場茶屋は代々加藤家が務めていた、とあった。 新居宿と白須賀宿の中間だから茶屋が置かれたのであろう (右写真)
東海道名所図会に、  高師山は高志或は高石と書す。 遠江記云白菅より續きて北山
までの間をいふ。 又あるいは高師山は今天神祠より白須賀の邊まで續きし山をいふ。  
梅の花 と、紹介されている高師の山は、古来、歌や文学で名高い。 
「  朝風に 湊をいづる   友船は  高師の山の もみじなりけり  」(西行法師)
「 高師山 はるかに見ゆる ふじの根を 行くなる人に 尋ねてぞしる 」(民部卿為家)
道脇で、咲きだした梅をカメラに収めた (右写真)
明治天皇御野立所趾 この地は暖かく感じたが、鎌倉時代には、秋に紅葉があったのだろうか?、と思った。 
高師山の範囲ははっきりしないが、このあたり一帯の山を呼ぶのであろう。 
東海道は、その山裾を縫って行った、とあるが、この辺りには古い家が多く残っていた。 
道の左側には、明治天皇御野立所趾の石碑が建っていたが、明治天皇もそうした故事を知り、休憩されたのだろうか?? (右写真) 
道は山裾を縫って行くと、湖西市。 しばらく歩き、新町に入ると、右側に火鎮(ほずめ)
火鎮神社 神社という名の神社があった。  記録が火災にあって紛失したので、由来は分からないが、古いことには間違いない、というようなことが書いてあった (右写真)
少し先の町名は元町である。 道の傍らに、静岡県が設置した夢舞台東海道の道標には、白須賀宿と書いてあるが、最初に白須賀宿があったところである。 
宝永四年(1707)の地震と津波で、大被害をうけたため、白須賀宿は、潮見坂の上に移転した
元町付近 ので、元宿といわれる。 
道は上り坂になり、家は両脇にあるが道より少し高くなっていた (右写真)
少し歩くと、たばこ屋の先に四差路がある。 このあたりが、移転する前の元白須賀宿の中心地だった。  元町一里塚跡の石柱が民家の前に建つだけで、寂れたところという風情である。  なお、このあたりでは、一里塚のことを一里山と呼んでいた、とある。 
神明神社 この先から人家が少なくなり、道も上ったり下ったりするが、傾斜はたいしたことはない。  浜名湖カントリークラブの風力発電のプロペラがやけに大きく見える。 両脇に家数が増え、古い家も多く、立派である。 道は左右にふれながら、続いていた。  やがて、右側に神明神社の鳥居が現れ、中に入ると木が茂り、威厳がある雰囲気である (右写真)
神社の隣の家は屋敷門が付いたすごく立派な家だった。 その先から、また、家が少なくなる
蔵法寺 が、左側の遠くには潮見バイパスを走る車の姿が見える。 一キロくらい歩くと、奈良時代末から平安時代に始まった、とされる蔵法寺の山門があった。  現在の寺は、慶長三年(1598)に曹洞宗の寺として開かれ、徳川家康より二十三石を賜ったという寺で、この近くで戦死した今川氏親(義元の父)の墓がある (右写真)
境内には、海底から引き上げた、という潮見観音も祀られていた。 
潮見坂入口 その先は三叉路で、いよいよ潮見坂にさしかかる。  三叉路の家の前の小さな石柱には、右旧道、左新道とある。 どちらも坂の上に達することはできるが、右折する細い道の方が古い道である。 どちらにするか迷ったが、古い道を行くことにした (右写真)
自動車も通れる道であるが、車がすれ違うには、かなり気を使う道幅しかない。 また、勾配がかなり急である。 えっちら、えっちら、と上っていく。 道はカーブしているが、
潮見坂 上っていくと、右側に、潮見坂を説明した案内板があった。  その先で、左側から道が合流してきた。 これが、どうやら新道である。  新道の下の方角を見ると、海が見えた。 これが潮見坂のゆえんである (右写真)
さらに高く登ればよく海が見えるだろうと、よいしょ!よいしょ!と、登った。 頂上まで着いたが、右側は畑で、家が遠くにぽつりぽつりあるだけである。 
おんやど白須賀 足利将軍の足利義教は、富士遊覧の旅で、ここで富士を眺めて、
   「 いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹れし 富士を眺めて 」 
と、いう句を詠んでいるが、 今でも富士山を見ることができるのだろうか?? 左側に、おんやど白須賀 という施設がある (右写真)
少し歩くと、右側に中学校があるが、道の反対側に、潮見坂公園跡という石碑が建っている。 
潮見坂上の石碑群 大正時代に造られた公園が中学校に変った、と説明があった。 織田信長が武田勝頼を滅ぼして、尾張に戻るとき、徳川家康はここに茶亭を新築して、もてなしたところである。 また、明治天皇が御巡幸した時も、ここで小休止されていて、景色を愛でた、と書かれた記念碑が建っていた (右写真)
その他にも、たくさんの石碑があり、潮見坂上の石碑群と呼ばれている。 
遠州灘 遠州灘より遥かに遠い太平洋のかなたから打ち寄せる浪と、潮の流れを鳥瞰することが出来る、という景観が紹介されていたので、期待していたが、少しもやっとしているのと距離が遠いこともあって、期待したような景観は得られなかった (右写真)
丁度正午になったので、新居宿で買ってきたお稲荷さんと巻き寿司を食べた。 包み紙を見ると、パン屋が作ったのではなく、他所から仕入れたもので、余りおいしくなかったが、途中にお店は一軒もなかったので、買ってきたのは正解であった。 

(ご参考) 古代の東海道(鎌倉街道)の橋本宿

鎌倉時代に書かれた東関紀行に、 「 橋本といふ所につきぬれば、ききわたりしかひありて、けしきいと心すごし。 南には潮海あり、漁舟波に浮かぶ、北には湖水あり人家つらなれり。 」 という記述があるが、鎌倉時代には、浜名の橋のたもとに、橋本駅舎があり、旅籠や女郎屋が軒を連ねて、橋本千軒というほど賑わったと、いわれる。 
(注)東関紀行は、仁治三年(1242)に京都から鎌倉へ旅した紀行文で、作家は未詳である。 
当時の浜名湖は、陸続きの淡水湖で、海に通じていた川は浜名川のみであった。 その川にかかる橋が浜名橋である。 従って、室町時代の地震と津波で、今切が決壊するまでは、この橋を渡たれば、陸伝いに舞阪まで行けたのである。
 

白須賀(しらすか) 宿

東町 昔の旅人は、三河から遠江に入り、最初の本格的な坂を上り、潮見坂の上に到着し、遠州灘を見ると、東国が近づいたと実感したのだろう。 小生は逆の京都を目指す。 
道が緩い下り坂になり、下っていく。 やがて、東町に入る。 ここは宿場のあったところではないが、連子格子の家が並び、昔の宿場の面影を残していた (右写真)
写真写りも良く、趣ある町であった。 パートに出ている主婦が多いのか、昼休みを
曲尺手の道 利用して、自宅に戻る風景が見られた。 道を更に下ると、枡形に曲がっているところに来た。 白須賀宿の東の入口にあたる、曲尺手(かねんて)と呼ばれるところである。 曲尺手とは、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた、とある (右写真)
宿場には外部の侵入に備えたこのような施設が設けられ、一般的には 鉤型と呼ぶところ
鷲津停車場往還道標 が多いが、静岡県と愛知県では曲尺手と呼んでいたようである。 曲尺手手前の右角に、鷲津停車場往還と、刻まれた道標があった。  道を右折し、狭い道を進むと、東海道線の鷲頭駅へいけるのだろう。  道標には、駅までの距離が書いてあった (右写真)
明治に入り、東海道の宿駅制度が廃止された後、開通した東海道線は、潮見坂を避けて、北方の鷲津を通ったので、この地区はかなりの影響を受けたはずである。 
白須賀宿は、遠江(とうとうみ)国の最西端の宿場である。    前述したように、最初は、
本陣跡 潮見坂下にあったのだが、宝永四年(1707)の地震と津波により、大半の家が流失したため、翌年、潮見坂の上に移転をしたのである。 宿場の中心は、伝馬町で、それほど古い家はないが、新しい家にも、江戸時代の屋号を書いた看板が掲げられていた。 
郵便局の先のJA(農協)のはす向かいの家の前に、本陣跡がある  (右写真)
美容院と隣の立派な屋敷の間に、本陣だったことを示す説明板があり、本陣は木村庄左衛門が務め、元治元年(1864)、建坪百八十四坪、畳の間二百三十一畳、板敷き
脇本陣跡 五十一畳の屋敷だった、とある。 天保十四年(1843)に編纂の東海道宿村大概帳によると、白須賀宿は、東西十四町十九間(約1.5km)で、 加宿である隣の境宿村を含めて、人口は約二千七百七十人、家数は六百十三軒で、本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠は二十七軒だった。  道を隔てた隣の自動販売機がある家が脇本陣跡 (右写真)
家の脇の石柱で、脇本陣だったところと分った。 そのまた隣の公民館前のバス停の
夏目甕麿邸址 あたりに、問屋場があったというが、何の形跡や表示はなかった。 その先に交差点があり、それをを越えた右側の家の前に、夏目甕麿邸址、加納諸平の生誕地の石碑があった。 ここは、夏目甕麿(なつめみかまろ)居宅だったところで、加納諸平(かのうもろひら)はその子である (右写真)
詳しいことはわからないが、夏目甕麿は、伊勢松阪の本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めたという人物。 
火防地 加納諸平は、甕麿の長男で、紀州和歌山の藩医の養子となり、 晩年には、紀州国学者の総裁となったという人物、案内板にあった。 
道を歩いていると、火防地、と書かれているところにきた (右写真)
宿場が高台に移り、津波の心配はなくなったが、冬になると西風が強く、わらぶきの家が多かったので、火災が起きると、大火事になった。 その予防策として考えられたのが 火防地で、宿場の三地点、六ヶ所に設けられた。 火防地は、間口二間(約3.1m)、奥行四間半(約8.2m)
庚申堂 の土地に、常緑樹の槙(まき)を十本ほど植えた、とある。  その先の右側に、庚申堂があり、お堂の前に、お使いのサルの置物が並べられていた (右写真)
境内の常夜燈には、文化十三年の銘があったので、庚申堂は古い歴史をもつのだろう。  その先の右側にも、火防地があったようで、それを示す小さな石柱が建っている。 
そのまま進むと、三叉路になるが、東海道は、左の道をまっすぐ進む。 
このあたりは、江戸時代は境村で、白須賀宿同様、旅籠を営むものがいて、白須賀宿の
境宿道標 加宿になったが、宿が繋がっていたので、一体で運営されていたようである。 
少し歩くと、右側の古い家の前に、夢舞台東海道 境宿の道標があった (右写真)
近くの谷川道の石柱は、昔の道標である。 夢舞台東海道は、東海道四百年を記念して静岡県が建てた道標で、小生は、大変お世話になったが、これが最後の道標であった。  このあたりにある家はかなり古く、しっとりとした雰囲気を感じさせる家が多い。 
といっても、江戸末期から明治にかけて、東海地震が起きているので、江戸時代の建物
三叉路 は皆無だろう。 先程訪れた家の奥さんの話では、格子のある家は、昭和の初期の作で、夏は涼しくていいが、間口が狭く、奥行が長いので、暗いのが難点と、こぼしていた。  少し歩くと三叉路で、ブロック塀の下に、高札建場跡と書いた小さな石柱があった。 最近造られた道標だが、ここに、高札場と立場茶屋があったという意味だろう (右写真)
その先に、成林寺という寺があり、境内に南無阿弥陀仏と刻まれた石碑があったが、風化して
笠子神社 哀れみを感じた。 道は上りになっていき、その先で、国道41号(旧国道1号線)に合流した。  国道の対面の山に、笠子神社が祀られているが、村社とあるので、境村住民の鎮守社だったのだろう。 白須賀宿は、笠子神社で終わりになる (右写真)
白須賀宿は、格子戸のある古い民家や間口の狭い家並みなど、江戸時代の面影を残していたので、東海道では数少ない昔の宿場の雰囲気が感じられるところだなあ!!と思いながら、宿場を後にした。


平成19年(2007) 2 月


(33)二川宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。