『 東海道を歩く ー 二川宿  』


二川宿に連子格子の家が多く残り、独特の雰囲気がある。 
豊橋市二川宿本陣資料館には、文化四年、本陣の玄関棟と表門、享保年間建築の土蔵、
宝暦三年(1753)建築の主屋が修復されて公開されている。 
隣の旅籠の清明屋も、文化十四年(1817)に建てられた建物で、一緒に見られる。




白須賀宿から二川宿

旧東海道か 平成19年1月30日、今日は新居宿から白須賀宿を経て、二川宿まで歩く予定である。  白須賀宿のはずれの笠子神社の手前で、国道42号(旧国道1号線)に合流したが、国道の右側の民家の前に細い道があったので、これが旧東海道と思った (右写真)
しかし、左にカーブすると、すぐに無くなってしまった。 その先の信号交差点を渡ると、道は上りになり、橋がみえてきた。 近づくと、幅が二間(約3.6m)ほどの小さな川がある。 
境橋 ここに架かる橋は、たった四メートルほどで、橋よりガードレールの方が目立つが、ここが静岡、愛知の県境で、江戸時代以前は、遠江(とうとうみ)と三河(みかわ)の国境で、太古から境界線を巡って、何度となく、戦いが繰り広げられたのである。 川の名は境川といい、その上に架かる橋は境橋である (右写真)
橋の先には、愛知県と豊橋市の標識があり、橋桁には、静岡県県境の表示があった。 
たった四m弱の川であるが、国境は国の境を決めるものなので、たとえ一メートルであっても、
地蔵様 譲れぬものだろう。  それはともかく、静岡県は広かった。 明治の県設置までは、三つの国、伊豆、駿河と遠江国からできていた。  東海道を旅する人は、伊豆の箱根宿から遠江の白須賀宿までの約四十五里(180km)を五日から八日、川止めがあれば、更に、数日加わり、多くの日数を要して、抜けていたのである。  橋を渡った左下の畑に、一体ぽつんと立つ石仏があるが、社(やしろ)もなく、畑の中にあるのは何か理由があるのだろうか? (右写真)
その先の一里山東交差点は三叉路で、左右は国道1号線である。 これまで歩いてきた 国道42号は、かっては、国道1号線だったのであるが、潮見バイパスが開通した後、
平成の松並木 その名前を奪われた。 多くの車が、潮見バイパスに入っていったので、名前返上はやむをえないだろう。  東海道は、ここから三弥町交差点先の二川ガード南までの四キロほどの区間は残っていないので、国道を歩かなければならない。  すぐに、一里山の交差点で、道の右側には、松の木が数本植樹されていて、平成の松並木にしたい、と書いてあったが、そうなるといいですね!! (右写真)
このあたりは、江戸時代には立場茶屋があったところだが、民家が見られない殺伐とした
馬頭観音 所に変っていた。  少し歩くと、右側の少し小高いところに、壊れた祠から身体を現わしている石仏があった。 よく見ると、三体の馬頭観音のようだった (右写真)
その先の小さな社を覗く込むと、津島神社、秋葉神社と書いてあったが、小生のように、なんの神様かしら?と、覗きこむ人が多いからだろう。  更に、左に目をやると、一里塚の看板がある。 馬頭観音や津島神社があったところは、こんもり盛り上がっていたが、この塚が、細谷の一里塚だったのである。  この辺りは、一里塚のことを一里山と呼ぶ ので、それが地名に
細谷一里塚 なった。 江戸時代には、一里塚も松並木も吉田藩の管理だったが、明治政府が一里塚を民間に払い下げた際、反対側(南側)は宅地の一部になり、残っていた部分も大正末期には全てなくなった。 現在残る北側は、東西十一メートル、南北十四メートル、高さ三メートルの一里塚で、当時のものと同じなのかは分からないが、東海道に残る数少ない一里塚であることだけは間違いない (右写真)
ここから四キロの間は、国道1号をただ延々と歩き続けることになる。 
国道1号 三月末の気候といわれる程、天候が良いので、歩いていると熱くなり、着ているものを脱いた。  困るのは対向するトラックで、粉塵を吹き付けて、去っていく (右写真) 
数年前の中山道の近江路で、国道6号を暑い中、延々と歩いたことを思い出した。  あの時は五月か、六月だったので、もっとひどかった。 それよりはましである。  道の両側は、畑がずーっと拡がっている。 畑の区画が大変大きく、土の色が異常なほど赤かった。 
きゃべつ畑 どの畑にも、きゃべつだけが植えられているので、その迫力は凄い (右写真)
先日のテレビで、豊作すぎ値崩れが起きたので、値崩れ防止にブルドーザーで、きゃべつを潰す風景が写されていたが、空き地になっているのはそうした畑なのだろうか? など、 たわいないことを思いながら、歩いて行った。 弥栄下、三ツ板を通り、豊清町茶屋ノ下、籠田、
神鋼電機 三弥町交差点を過ぎると、左側に大きな工場がある。 神鋼電機でそれを横目で眺めながら歩いていると、右側に新幹線が現れた (右写真ー左、神鋼電機)
二川ガード南交差点で右折し、国道と別れると、ここからまた、東海道の道になった。 
新幹線のガードをくぐり、梅田川に架かる筋違橋を渡り、東海道線の踏み切りを越え、 すぐ左に曲がると、町並みが見えてきたが、そこが二川宿の入口である。

二川(ふたがわ) 宿

一里塚跡 町に入ると、四差路があり、右側のたばこ屋の角に、一里塚跡と書かれた小さな石柱があった。 二川の一里塚の跡で、日本橋から七十二番目の一里塚である (右写真)
少し先を右折して、奥に入ると、普通の家のような寺がある。 曹洞宗の寺院で、十王院という。 天正十三年(1583)に、私庵として始まり、十王堂とも、念仏堂とも、称せられた。 境内には、寛永十九年(1632)に建てられた、二川新町開山の石碑がある。 碑文には、後藤 源右衛門は、二川宿開宿当時の本陣と問屋を勤めた人物で、寺を開いた一翁善得は、その祖で
妙泉寺石碑 ある、というようなことが書いてあった。 東海道の道は昔のままの狭い道なのに、思ったより多くの車が入ってきて、又、出てゆく。 車が怖いという感じがするが、地元の人達はすごく普通のように生活しているのが、不思議に思えた。  道の右側に、南無妙法蓮華経と書かれた大きな石碑がある (右写真)
芭蕉句碑 日蓮宗の妙泉寺で、山門をくぐり入っていくと、芭蕉の句碑があった。 紫陽花塚と、呼ばれるもので、寛政十年(1798)の建立である (右写真) 
句碑には、 「  阿ちさゐや  藪を小庭の  別座敷  」 という句が刻まれていた。 
街道に戻ると、道の両脇には、間口が狭く奥行の古い建物が、ところどころに残り、風情のある風景を演出している。 そうした町並をぽこぽこ歩いた。 
街道の右手に、白壁に囲まれた二川八幡神社の鳥居があった。 二川八幡神社は、
秋葉山夜燈 永仁三年(1195)に、鶴岡八幡宮より勧請し、創建された、と伝えられる神社である。  毎年八月十日に行われる湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ、多くの人々が集まり、賑わったという(現在は十月に祭典は行われるようである) 
境内の秋葉山常夜燈は、二川新橋の枡形南にあったものをここに移したもので、文化六年(1809)の建立である (右写真)
二川宿は、慶長六年(1601)の東海道開設と同時に設けられた宿場だが、問屋を二川村
東駒屋 だけで負担するには、小さな村なため、隣の大岩村と共同して行うよう、幕府は決めた。  小さな橋を越えて歩いて行くと、宿場の江戸側の入口である鉤型の右側に、歴史を感じる古い建物が連なっていた。 江戸時代から、味噌やたまり醤油を造ってきた商家で、現在でも赤味噌を製造販売している東駒屋である (右写真)
宿場に関する、続きの話。  宿場の二川村は小規模で、かつ、大岩村と一キロ強(1.3km)も
東問屋跡 離れていたため、しばらくすると、問屋(人馬継立業)の荷役業務を負担しきれなくなった。  幕府は、正保元年(1644)、二川村を西に、大岩村を東に移動させて、両村を接近させ、大岩村を二川宿の加宿とし、大岩町に問屋を設けた。 これが西の問屋といわれるもので、その先のシキシマショップ(?)に、東問屋があった (右写真)
現在は、東問屋跡の小さな石柱が建っている。 その先の民家の小さな庭の一角に、
脇本陣跡 脇本陣跡という案内板があった。  脇本陣の建物は間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)で、畳数は九十三畳あった、といい、脇本陣の仕事を松坂家が務めていたが、それ以前は、本陣がここにあったのである (右写真)
(注)本陣と脇本陣の位置が変った経緯については、巻末参照。 
豊橋市二川宿本陣資料館 少し歩くと、豊橋市二川宿本陣資料館がある(400円、9時30分〜16時30分、月休) 
江戸時代、公家、大名、幕府役人などが、旅の途中、宿泊休憩した専用施設を本陣というが、現存するものは少なく、 東海道では、ここと草津宿のみである (右写真)
本陣は、馬場彦十郎が文化四年(1807)から明治三年(1870)の本陣廃止まで、現在地で、務めた。  本陣の持ち主、馬場家から市が寄贈を受け、現存部分の改修と明治以降
二川宿本陣 取り壊されていた書院棟の復元工事を行い、江戸時代の姿を復活したもので、文化年間の間取図によると、 間口十七間半(約32m)、敷地は五百二十五坪(約1733u)、建坪は百八十一坪余(約598u)と、門、玄関、 上段の間を備えた堂々たる建物。  その後も増改築が行われ、安政弐年(1855)には、総坪数二百三十三坪半となり、最も整備された状態になった (右写真-門、玄関、)

上段の間 残っているのは、文化四年、本陣開設時に建築した玄関棟と表門、享保年間建築の土蔵、宝暦三年(1753)建築の主屋である。 なお、今回見た上段の間、風呂や厠は、壊された書院棟が復元した時に作ったものだろう (右写真ー上段の間)
本陣内は、家人が住む主屋と大名が泊まる書院棟に別れていた。 大名が泊まる際、本陣は部屋を貸すだけで何もしない。  料理やその他一切の雑事は、大名が連れて
御殿飾りの雛人形 きた料理人などが行ったのである。 当日は、雛人形展示の準備で、部屋一面に箱などが広げられていて、足の踏み間もない状況であった。  その中で、興味を持ったのは、御殿飾りの雛人形である。  御殿の中に、男雛と女雛そして三人官女が入っていて、その下に段飾りが並べられるものである (右写真)
御殿飾りは昭和初期から昭和三十年ごろまでは流行したようだが、 見たのは初めてある。 江戸末期から大正までのものは稀で、展示するものはすべて昭和のものだった。 
旅籠清明屋 旅籠の清明屋は、寛文年間(1789〜1801)頃開業し、代々八郎兵衛と名乗っていた。  本陣の隣に建っていたことから、大名行列の際、家老や上級武士が泊まったようである。 現存する建物は、文化十四年(1817)に建てられたもので、主屋、繋ぎの間、奥座敷で構成されている。 中に入ると、右側の板の間の前で、旅人が草鞋を脱ぐところを再現していた (右写真)
(注)二川宿本陣資料館は、右側に資料館、左側に本陣と旅籠屋清明屋があり、駐車場は大きく広かった。  小生のように歩いてくる人もあるが、ドライブで寄る人も多いようである。 

高札場跡 二川宿は六町三十六間(約700m)、加宿の大岩町は五町四十間(約600m)の長さだったが、この辺りが両者のほぼ中間に位置した。 天保十四年(1843)に、旅籠は三十八軒あったが、本陣の周りに多くあった、とある。 街道に戻り、少し歩くと、左カーブする左側の小さな社の前に、石灯籠、二川町道路元標と高札場跡の石碑があった (右写真)
江戸時代には、高札場がここにあり、また、前述した二川八幡神社境内にある常夜燈も道の両脇にあり、二川宿の西の入出口になっていた。 この場所がへこんでいるのは、
石仏群 鉤型のなごりである。 ここから、加宿の大岩町に入る。 道を右折して、奥に入って行くと、大岩寺に行ける。  大岩寺は、曹洞宗で、千手観音が本尊、元は岩屋山麓にあって、岩屋観音に奉仕した六坊の一つだったが、正保元年(1644)、二川移転とともに現在地に移転した。  境内の一角に、馬頭観音などの石仏群が祀られていた (右写真)
元からあったようには思えないので、道路工事で道が拡張されたときに、旧東海道 から集められたものと思うが、間違いだろうか? 高さ三十三センチの黄金燈籠一対、狩野派の手法で
西問屋場跡 馬が描かれた絵馬四枚と岩屋堂観音経は市の指定文化財であるが、吉田城主、池田輝政の曾孫で、岡山藩主、池田網政が、元禄 〜宝永にかけて、郊外にある岩屋観音寺へ寄進奉納したものである。 街道に戻ると、右側の民家の前に、西問屋場跡の石柱が建っていた。 江戸時代、大岩町にあった方の問屋場跡である (右写真)
連子格子の家の隣の家に目がいき、気がつかないで通り過ぎるところだった。 
大岩神明宮 その先の四差路の左側の交番の前に、郷倉跡の石碑があった。  右側に入って行くと、突き当たりに、大岩神明宮がある。 神明宮は、文武天皇弐年(698)に、岩屋山南に勧請したのが、始めといわれ、保延元年(1135)、大岩村が本郷に移転したときに遷座し、その後も、大岩村の移転とともに遷座し、正保元年(1644)に現在地にきた (右写真)
境内には、寛延四年(1751)の燈籠、文化四年(1807)の秋葉山常夜燈、文政六年(1823)
茶屋本陣跡 の手水鉢がある。 境内は広く、樹木は大きく育っていて、社殿も歴史ある雰囲気のものだった。  街道に戻ると、左側のおざきという店の前に、立場茶屋跡の石碑があった。 本陣と七百メートルも離れていないところで、茶屋があったのだろうか?? (右写真)
ほんの少し歩くと、左手に、JR二川駅が見えた。 四時前なので、無理すれば吉田宿にいけるのだが、車を置いた新居の駐車場が五時までなので、ここで終了することにした。 
JR二川駅 二川駅は、二川宿と離れた大岩町側におかれたため、二川宿周辺の開発は進まず、古い町並が残ったのである。 駅に入る手前に連子格子が立派な家があった (右写真)
今日は、新居関所を見た後、白須賀宿を経由し、二川宿に来て、本陣も見た。 
この後、二川駅から新居駅まで電車に乗り、新居から車で帰宅した。

(ご参考) 二川宿本陣の変遷

宿場開設当初は、二川宿の本陣が幕末に脇本陣を務めた松坂家の場所にあった。 本陣の職は、後藤五左衛門が務めていたが、再三の火災に遭った結果、寛政五年(1793)に没落してしまった。 跡を継いだ紅林権左衛門も、文化三年(1806)12月の火災で再起することができず、役を辞した。 
文化四年(1807)、本陣職が紅林から親戚の馬場家に代わったが、当主の馬場彦十郎は、本陣経営は儲からないので乗り気でなかったが、代官からの指示で引き受けることになった。 この時、本陣は馬場家の建物を増築する形で行うことになり、隣が松坂家が営む脇本陣であったため、その土地を譲り受け、代わりに、脇本陣は火災で焼けた本陣跡地に移転することになったのである。 従って、元本陣跡ということにもなる。

二川宿は東の白須賀宿とは一里十七町(約5.8キロメートル)、西の吉田宿とは一里二十町(約6.1キロメートル)ほど離れている。 宿町の長さは加宿を含めて、十二町十六間(約1.3キロメートル)で、豊橋市二川宿本陣資料館の辺りが、二川宿と加宿の大岩町のほぼ真中に位置し、天保十四年(1843)に旅籠は三十八軒あったが、本陣の周りに多くあったようである。 

(注)平成19年2月8日、二川宿に再び訪れた。 前回は二川宿の鉤型までは丹念に見たが、加宿の大岩町は、鉄道時間が気になり、さっと終わっていたので、もう一度、大岩町は見て回ることにした。 その結果、上記二川宿は、1月30日の旅という形を採っているが、それに書き足して、編集している。 


平成19年(2007) 1 月
(二川宿再訪問・追加加筆)   平成19年(2007) 2 月


(34)吉田宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。