『 東海道を歩く ー 新 居 宿  』

新居宿は新居の関所が置かれたところで、「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しい関所だった。 
今でも、当時の姿で関所は残っている。 また、紀州藩の御用宿だったという旅籠も残る。




新居(あらい) 宿

浜名湖 浜名湖は、もとは淡水湖で、室町時代に、大地震と津波で砂浜が流されるまでは、陸続きであった。 当時は、海の通じる川があり、その上に架かる橋を渡れば、舞阪から新居まで歩けていけたのである (右写真-新居から見た今切方面) 
地震以降、東海道は、陸づたいに行くことができなくなり、舞阪から新居までは一里半
今切の渡し (約6km)の距離を約二時間の舟便によった。 これを今切(いまぎり)の渡しという。 
安藤広重の東海道新居宿の絵には、その様子が描かれている (右写真)
昭和七年に浜名橋が完成し、この渡しは廃止になったので、この区間は電車に乗るか、弁天島経由で、橋を渡るかの方法をとらなければならない。 JRを利用した 場合は、新居町駅で降り、新居関所までは、約八百メートル、十分ほどの距離である。 
山頭火句碑 新居町駅前には、 浜名街道 水まんなかの道がまっすぐ 山頭火   と、いう句碑が建っている (右写真)
平成19年1月30日、天気予報では三月下旬頃の陽気とあり、歩くのには最高の日で ある。 今回は、車を利用して、新居へ来て、新居宿から白須賀宿を経由して、二川宿を 訪問し、東海道本線の二川駅から新居駅に戻り、車で名古屋に帰るつもりである。 
舟溜り 名古屋を早朝に出て、国道1号線を走り、新居への到着したのは八時三十分、新居関所 の開館が九時なので、丁度良い時間だった。  関所駐車場に車を置いて、関所に向かうと、浜名川に架かる浜名橋の左側に、多くの小さな舟が係留されていた (右写真)
浜名橋には、新居宿の浮世絵がレリーフになって、幾つか描かれていた。  川の右側には、小さな秋葉神社があったが、壊れかけていた。  両脇には、御土産物屋や飲食店が並んで
広重の浮世絵 いた。 舞阪宿の渡船場で舟に乗ると、新居宿の入口は新居関所だった、という。 安藤広重は、その様子を東海道荒井(新居)宿として描いている (右写真)
創設された当初は、浜名湖の今切口に近い、現在、大元屋敷と呼ばれるところにあったが、地震や津波などの災害で、移転が強いられ、さらに移転し、その後、現在の場所に移ったと、説明にあった。 今切にあったので、今切関所といい、今切の渡しというのだ。 
新居関所 なるほど! なるほど!  道の右側に、特別史跡・新居関跡があった (右写真)
九時前であったが、掃除をしている女性を見かけたので、「 まだですか? 」、と聞くと、
「 いいですよ!どうぞ!! 」 と、いってくれたので、四百円を払って入館した(9時〜4時30分、月休) 新居関所と資料館だけなら三百円だが、その先の旅籠を含めた料金である。 
渡舟場 門をくぐると左側に堀のようなものが見えるので、なにかな?と、不思議に思ったが、江戸時代の渡舟場を再現したものだった (右写真)
江戸時代には、関所のすぐ東が浜名湖で、関所の構内に渡船場があり、対岸の舞阪と船で行き来していたのは、前述の浮世絵の通りである。 明治以降の埋め立てにより、渡船場などが無くなったが、平成十四年、古絵図などに基づき、護岸石垣、渡船場、面番所へ の通路などを復元したのである。  新居関所は、正式には今切関所といい、慶長五年(1600)に設置され、
面番所 幕府が管理したが、元禄十五年(1702)、三河国吉田藩に管理が移された。  面番所、書院、下改勝手、足軽勝手の建物は、嘉永七年(1854)の大地震で大破、翌安政弐年に建替えられた (右写真ー面番所)
面番所等の建物は、三十年程前に修理された時、小学生の息子が見たいというので、訪れたという記憶がある。  当時は外からのみの見学だった。 今回訪れると、屋根などが古くなり、
勤務風景 かなり傷んだ、という感じがした。 手形を改める面番所では、番頭を筆頭に、給人、下改などの役人が勤めていた、当時の様子を人形で再現していた (右写真)
新居の関は、箱根の関所と同じように、 入り鉄砲に出女 の取り締まりが厳しかった所で、女人はこの関所を通るのを嫌がった。 船囲い場跡内に、女改長屋があり、関所勤務の足軽の母親が住み、関所を通る女性を調べていた、という。  資料館には、長崎勤番の大名の家来が、長崎の女を秘かに郷里に連れ帰ろうとして、関係者の多くに、 重罪が執行された事件が、
船囲い場跡 紹介されていて、そんなに厳しかったのか、と思った。  関所手形に、女、鉄砲の他、乱心、囚人、首、死骸というのもあり、船の出入りに出船手形、入船手形があることも知った。 関所を出て、街道に戻る。 関所の手前を左に入った空き地に、船囲い場跡石柱が建っていた。 ここは、舞阪宿からの渡船用の船をつないだところで、常時百二十艘が配置されたが、 大名通行などで足りなくなると、寄せ船制度で、近郷から集められた、とあり、船でも、助郷のような制度があったのである (右写真)
その先の右側に、鉄柵で囲まれたお堂があり、なんだろうと気になりながら、去ったが、後日
無人島漂流の碑 調べたところでは、秋葉常夜燈のようだが、どうして囲まれているのか、不思議である。 街道に戻り、少し歩くと、関所の反対(左)側に、江戸時代、享保四年から元文四年までの二十一年間無人島の鳥島で生き、なんとか生還できた新居出身の船乗りの石碑があった。 建てたのは最近のようであるが・・・ (右写真)
この辺りは、番所を囲む竹やらいがあったというから、関所を出入りする大御門を出たあたり
旅籠紀伊国屋 だろう。 新居宿は、面番所でお調べを受けた後、大御門から出ると、西に向かった並んでいた。  宿場の人口は三千四百七十四人、家数七百九十七軒で、本陣は三軒あったが、脇本陣はなかった。 旅籠は二十六軒(時代により変動があるが)
街道の左側に、旅籠の一軒であった紀伊国屋の建物がある (右写真) 
ここが先ほどのチケットのセットになった施設であるので、躊躇なく入館(詳細巻末参照) 
紀伊国屋内部 建物は、明治七年(1874)の大火で燃失、二階建てに建替えられ、一部増築もされたが、江戸後期の旅籠建築様式が、随所に残されている。 江戸時代には、この家の前後左右に、旅籠が林立していたが、その中でも大きかった 、と、説明板にあった。 
建物内は、確かに、旅籠風な造りであったが、庭は広く、手入れされていた (右写真)
街道を少し歩くと、T字路に突き当たり、泉町交差点である。 
武兵衛本陣 正面の屋根の上に、浜名湖競艇の道案内が乗る家は飯田武兵衛本陣の跡である。 
小浜、桑名、岸和田など、七十を数える大名が利用し、明治天皇も明治元年の巡幸、還巡幸など、合わせて、四回利用している。 建物は当時のものではなく、家の前に、それを示す石碑と案内板があるだけである (右写真)
東海道は、ここで左折するが、武兵衛本陣の左隣は、伊勢屋という旅籠で、その隣に、
八郎兵衛本陣跡 疋田八郎兵衛本陣があった。  疋田八郎兵衛は、庄屋や年寄役を務め、本陣には、吉田藩の他、御三家など、百二十の大名が利用した。 門構えと玄関のある建坪百九十三坪の屋敷だったが、この場所は空き地になり、それを示す石碑が建っていた (右写真)
また、 八郎兵衛本陣の隣に幕末の絵図では、医者高須弥久が住んでいた。  なお、もう一軒の疋田弥五郎本陣は、道が突き当たる手前右側にある疋田医院のところにあった。 
寄馬跡碑 その先には、寄馬跡と書かれた石碑がある (右写真)
宿場には公用の荷物や公用の旅人のため、人馬を提供する義務があり、東海道の場合、人足百人、馬百疋、と決められ、それだけの数の人馬を用意していた。  しかし、それでは不足する場合は、助郷制度により、近隣の村々から集められたが、とり寄せた人馬のたまり場が寄馬である。 その先の少し入ったところに、諏訪神社があった。 
諏訪神社 諏訪神社は、遠州新居の手筒花火として有名で、古くから東海道の奇祭として知られていた、という (右写真)
江戸時代享保年間頃(今から約二百八十年前)、新居関所を管理していた、三河の吉田藩から伝えられた、と言われる。 吉田藩の花火は見たことあるので、新居の花火も、機会があれば見てみたい(巻末参照)
照明の脇に仲町発展会と記され、この町で一番賑わうところと思えるが、人の姿はない。 
昼飯を買おうと手作りパンの店に入たが、きつねずしなども売っていたので、パンとすし
を買い、自動販売機でお茶を購入し、昼の準備は完了。  その先の左側にあるのが、
一里塚跡 池田神社。  小牧長久手の戦いで、戦死した池田信輝の首を、徳川方の武将、長田伝八郎が、首実検ののち、ここに首塚を築いたもので、享保二十年(1735)に池田神社となった。  右側の若宮八幡宮の先に、西町公民館があり、その向かいの民家の一角に一里塚跡の案内板があり、左(ひがし)に榎(えのき)、右(西)に松の木が植えられていた、とある (右写真)
棒鼻跡 道はその先で二又になるが、東海道は右の方である。 右にカーブし、その先で更に左にカーブし、そのまま進むと、国道1号線に合流する。  この左カーブの手前に、棒鼻跡の石標がある。 ここは、新居宿の西の入口で、一度に多くの人が通行できないように、土塁が突き出て、枡形をなしていたところである (右写真)
棒鼻とは駕籠の棒先の意味。 大名行列が宿場に入るとき、先頭(棒先)を整えたので、そう呼ぶようになった、といわれる。  今は土塁は崩されて跡形もなく、また、道も増やされているので、枡形といわれても少しピンとこなかった。 ここで、新居宿は終わりになる。 

(ご参考) 室町以前の浜名湖

浜名湖は遠州灘につながる海水湖であるが、かっては、淡水湖だったのである。 奈良時代から平安にかけて多くの和歌が詠われたが、琵琶湖の近い淡海(近江)に対し、浜名湖は、遠い淡海ということで、遠江という名前が付けられた、という歴史がある。  当時の浜名湖は、浜名川を経由して、遠州灘(海)に注いでいたが、平安時代の貞観四年(862)に、この川に橋が架けられた。 清少納言の枕草紙に書かれている浜名の橋で、この橋を使って、舞阪から新居まで、歩くことができたようになったのである。 ところが、室町時代の明応七年(1498)の大地震とそれに伴う津波により、陸地が崩れ、遠州灘と浜名湖がつながってしまったのである。 その結果、東海道は陸づたいに行くことができなくなり、舞阪から新居までは舟によった。 それが、今切(いまぎり)の渡しである。

(ご参考) 旅籠・紀伊国屋

「 紀伊国屋の創業は分からないが、元禄十六年(1703)には、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿になっていた、という。 紀伊国屋の屋号は、正徳六年(1716)からだが、昭和三十年頃に廃業するまで、約二百五十年の長きにわたり、旅館業を続けてきた。 」  とある。 
主人が紀伊の出であったことから、紀州藩の御用を勤めるようになったと思うが、敷地内に紀州藩七里飛脚の役所が置かれたこともあり、また、帯刀、五人扶持を認められるなど、他の旅籠とは違うなあ、と思った。 
( 9時〜16時30分 、月休 )

(ご参考) 遠州新居の手筒花火

諏訪神社は遠州新居の手筒花火として有名である。 
江戸時代の享保年間頃(今から約二百八十年前)、新居関所を管理していた、三河の吉田藩から伝えられた、と言われる。 三河地方では、二十歳への誓いなど、祈願の色濃い花火であるが、ここ新居の花火は、お囃子に合わせて、花火を抱えて踊るような、奔放(ほんぽう)な手筒花火である。 毎年7月下旬の金、土曜日の2日間行われ、古くから東海道の奇祭として知られている。 

 


平成19年(2007) 1 月


(32)白須賀宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。