『 東海道を歩く ー 舞 阪 宿  』


浜松宿から舞阪宿へ行く途中に、奥州平泉の藤原秀郷と彼の愛妾によって創建された、 と伝えられる
二つ堂がある。 
その他には、史跡に見るものはないが、松並木と秋葉常夜燈はかなり残っている。 
舞阪宿から新居宿へ行くには船渡しによったが、船着き場を雁木と書き、舞阪宿ではがんげと呼んだという。




浜松宿から舞阪宿

成子交差点 平成19年4月20日(金)、浜松宿を探訪後、舞阪宿に向かう。  伝馬町交差点をでて、右に緩くカーブする国道257号線を歩くと、成子交差点に出る。 交差点には、右折は雄踏(県道62号線)、直進は豊橋、舞阪(国道257号線)表示されている (右写真)
道路には、雄踏街道、東海道と、それぞれ表示されているが、旧東海道はここで右折し、病院の脇の細い道を行き、成子幼稚園のある寺の前で左折し、大通りで右折し、菅原町交差点で左折するのが正しいと思う。 勿論、道路標識通り行っても、菅原町を過ぎた ところで、同じ
ところにでられる。 成子交差点の左手前に、夢舞台東海道の道標があり、舞阪宿までは
堀込ポッポ道 10.9kmと表示があるが、道路標示の舞阪は13kmと、かなり違う。  菅原町交差点で左折し、集落を行くと、道の左右に、小道の公園があり、堀込ポッポ道とあるが、中には、大正七年(1918)に国産された軽便機関車(ケ91タンク機関車)が展示されていた (右写真)
パチンコ屋を越え、JRの高架をくぐると、成子交差点で別れた国道257号線に合流 するが、このあたりが浜松宿のはずれである。  新幹線の高架をくぐると、森田町交差点 で、この通りにはデーラー(自動車販売店)が多く集まっている。 更に歩いていくと、東若松町、旧可美村。 
鎧橋 小川に架かる橋は、平安時代の末期、浜松駅の西にある鴨江寺と比叡山延暦寺がいさかいをおこし、比叡山の僧兵が東海道を攻め下って来た時、鴨江寺の軍兵はこのあたり一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋を守り固めて戦ったので、その後、鎧(よろい)橋と称された、という橋である (右写真)
橋の北に、合戦で戦死した約千人を葬り、千塚(血塚)と呼んだ、と傍らの案内板にあった。 
八丁畷一里塚跡 そのまま歩いて行くと、左側の八丁畷のバス停の先の民家の駐車場に、一里塚跡の標柱があった。 昔は、八丁畷と呼ばれた土手の上に松並木が続き、一里塚の榎は、街道を行く旅人の道標になっていた、と説明にあった (右写真)
道が右に大きくカーブすると、二又になるが、東海道は、国道257号で、右の道を行く。
二の御堂 交差点の右側には、村社八幡神社の石柱があり、右から順に、馬頭観音、高札場跡、二の御堂の標柱が並んでいて、その右側に、お堂があった (右写真)
このお堂は二の御堂といわれるもので、その脇には、明治三年まで、高札場があった。  馬頭観音は、当時からここにあったのかは書いてなかったが、旅人や馬の安全を祈願して祀られたものである。 松の木が大きく伸びて見づらいが、道の反対側にも、お堂がある。 
南の御堂 それで、二つ堂と呼ばれるのだが、二つ堂は、奥州平泉の藤原秀郷と彼の愛妾によって、天治年間(1125頃)に創建された、と伝えられる (右写真)
京に出向いている秀郷が、大病であることを聞いた愛妾は、京に上る途中、ここで飛脚から秀郷死去の知らせをきき、その菩提を弔うため、街道の北側に御堂を建てて、阿弥陀如来を祀った。 実は、訃報は誤りだったのである。  京の秀郷は病気が回復し、帰国の途中、この地に来て、この話を聞き、愛妾への感謝の気持を込めて、南の御堂を建て、薬師如来を祀った、
八幡神社 という伝承が残る。 江戸時代の旅の案内書、東海道名所図絵には、若林二つ堂として紹介され、 「 むかし奥州伊達秀衡の室上京の時、ここに建立す。 本尊阿弥陀、薬師の二仏、長二尺五寸ばかりなり 」 と、書かれている。  道の右側の細い道を入ると、その先に、大きな木に囲まれた、八幡神社があった (右写真)
若林バス停 ここから先は古い家もこれといった史跡もないので、単調な道を延々歩くことになる。 
少し歩くと、若林バス停から松並木が現れてきた (右写真)
道路標識には豊橋37km、舞阪10kmとあるので、浜松宿から3kmほど歩いたことになる。  このあたりは、若林町で、少し歩くと、可美市民サービスセンターがあり、可美小学校跡の標柱があった。  数百メートル歩くと、右側に紳士服の青山や晴山などのお店があり、町らしい感じ
諏訪神社 であるが、その先の松並木が現れたところからは、人家はなくなっていく。 左手奥に可美公園が横に長く続いているが、道の両脇は、カントリーロード店があるだけで、車は全てただ走り去っていく。  しばらく歩くと、大永四年(1524)に、信濃国の上諏訪神社より勧請した、という諏訪神社があった (右写真)
木造の秋葉山常夜燈が民家に一角に建っていた。 右側に可美小学校があり、ここから、
熊野神社 増楽町になった。 その先の右側に、熊野神社があり、境内の常夜燈の脇に、高札場跡の標木があった (右写真)
可美中学校から出できた新入生と思える可愛い子達が、にこやかな挨拶をして、熊野神社に入っていった。  数百メートル歩くと、右側に、モンテカルロという名の自動車用品店があった。  駐車場の植栽の中に、 従是東濱松領 と、書かれた領界石があった。 
従是東濱松領領界石 江戸時代には、ここが浜松藩の松平家と堀江藩の大沢家の領地の境だったので、これは浜松藩が建てたものだろう (右写真)
その少し先の右側の民家の前に、堀江領境界石の標木があったので、境界石を探したが見からなかった。 
(注)上記の堀江藩の記載についてー江戸時代には藩ではなかったので、正しいのは堀江領である。  明治に誕生した幻の堀江藩について記しておきたい。 
大沢氏は、堀江領五千六百石を領し、陣屋を構えた高家旗本であった。 ところが、大沢基寿が、明治維新のどたばたに便乗し、石高を一万六石と虚偽申告し、大名に昇格し、堀江藩が誕生した。 堀江藩は、その後の廃藩置県で消滅するので、明治初期三年間だけの藩だった。  大沢基寿は、その後、成立した堀江県知事になり、華族に列せられたが、虚偽が発覚し、知事を解任され、士族に落とされた。 

熊野神社 雨はすっかり上がり、空は明るくなってきた。 右側におおこうち眼科の看板が出ているが、その先の家の前にある駐車場に、高札場跡と秋葉山常夜燈跡の標柱があった。 
そこから少し歩くと、赤い鳥居の熊野神社があった  (右写真)
しばらく歩くと、高塚駅入口の交差点がある。 
高塚西バス停付近 更に歩くと、高塚西バス停の先で、道が左にカーブし、二又に分かれる。 
道路の表示は、右が舞阪駅、篠原、左は豊橋、国道1号線とある  (右写真)
東海道は右の狭い方の道を行くのである。 角に、理髪店があったが、そこを通り過ぎようとしていたら、足の具合が気になった。 新しい靴が足にあたり、違和感があるのである。 道端にリックを置き、靴下を脱いて足を調べた。  水膨れになっていたが、絆創
立場バス停付近 膏を張るだけですんだので、やれやれである。 再び歩き始めた。 ここから舞阪宿の入口の新町まで約四キロである。  国道とは違うので、交通量はかなり減った。 少し歩くと、立場というバス停があり、左側には、数軒だが古い家が残っていた  (右写真)
江戸時代には、このあたりに、立場茶屋があったのだろう。  今は、普通の住宅地に
篠原一里塚跡 なっていた。 なお、国道と別れたところから、高塚町から篠原町に、浜松市南区から西区に変っている。 神社を過ぎると、家がたて込んできた。  右側の住宅の中に、篠原一里塚跡の標札があった。  東海道宿村大概帳には、 壱里塚木立 左松右榎 左右の塚共篠原村地  と、記されている一里塚である (右写真)
道路(県道316号)を進むにつれて、車の通行が多くなったのは、国道257号が、篠原ICで、
秋葉常夜燈 国道1号になり、この道と平行して走っている影響かもしれない。  札木バス停付近の民家は、大きな家が多く、道路に面して蔵が建っている家もあった。  東海道本線が、右から急接近してくる。  右側に、秋葉山常夜燈の祠がある (右写真)
その先にも、秋葉山常夜燈は点々と続く。 左側の小学校の前に、大きな松があり、小さな橋を渡ったところにも、松の木が残っていた。 篠原交番の隣の愛宕神社の境内にも、
稲荷神社 秋葉山常夜燈が建っていた。  坪井町北交差点を過ぎると、右手に、永享十二年(1440)、伏見稲荷より勧請した、と伝えられる稲荷神社があった (右写真)
拝殿は天正十六年(1588)に再建された、という記録はあるようだが、現在の建物は、大正十一年の建立である。 赤い鳥居の先にある石鳥居は、文化十三年(1616)のものである。  子供達が遊んでいたが、境内に入り、持参したパンを食べ、ポカリスェットを飲み、しばしの休憩
観音堂聖跡 をとった。 再び歩き始めると、右側の奥に入ったところの空地に、史跡引佐山大悲院観音堂聖跡の石碑が建っていた。   霊験新たかな観音像が祀られていたようで、東海道名所図会にも、記述がある、といい、観音像は、如意寺(坪井町5815)に安置されている、と傍らの説明文にあった(右写真)
近くにまた、木造の秋葉山常夜燈が祀られている。 常夜燈は、集落毎にあるのだろう か? 
春日神社 バス停は馬郡観音堂となり、馬郡町に入ると、蔵を持った家が現れた。 東本徳寺を過ぎると、現在建て替え工事中の西本徳寺があらわれた。  両方とも日蓮宗 の寺院である。 馬郡跨線橋南交差点を渡ると、道の名は、県道49号になった。 右側のこんもりした森には、応永弐年(1395)に奈良春日大社から勧請した春日神社があった (右写真)
春日神社の社殿前には、狛犬ではなく、二頭の鹿が、鎮座していた。  舞阪駅南入口交差点を越えると、松並木が見えてくる。  舞阪宿はもう少しで到着である。 

舞阪(まいさか) 宿

旧東海道の松並木旧東海道の松並木は、徳川家康の命令で、慶長九年(1604)に、黒松が植えられたのが始めである。 正徳弐年(1712)には、馬郡村の境から舞阪宿の東のはずれの見付石垣まで、八町四十間(約920m)の間に、千四百二十本植えられた、とあり、それから四百年経過しようとする今日でも、道の両側に、ずらりと立派な松が並び、見付石垣までの七百メートル間に、三百三十本が並んで立っていた (右写真)
旧浪乗り小僧のあるポケットパーク 道の右側には、十二支の彫り物、左側には、東海道の宿場のレリーフが置かれていた。  東海道の松並木を歩いて行くと、新町交差点の手前に、ポケットパークがあり、 浪乗り小僧のかわいい置物があり、その言い伝えが書かれていた (右写真)
新町交差点で、斜めに交差する国道1号線を渡った。 
二百メートルほど行くと、道の両側に小さな石垣が現れる。 
舞阪宿見付石垣 舞阪宿の入口を示す見付石垣で、江戸時代には六尺棒を持った番人がここに立ち、宿場に出入りするものを見張っていたのである (右写真) 
舞阪宿は、弘化弐年(1845)の記録によると、家数二百六十五軒、人口千二百六十四人、本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠が二十八軒だったが、舞阪町は、今回の町村合併で 浜松市に吸収され、浜松市西区舞阪町になった。  二十メートル程歩いた左側に、江戸から六十七番目
舞阪一里塚跡 の舞阪一里塚跡の石碑があるが、その手前に、正面に秋葉大権現、西面に津島牛頭天王、南面には両皇大神宮、そして、東面には、文化十二年乙亥正月吉日と刻まれている石灯籠が建っている (右写真)
文化六年(1809)に、舞阪宿の大半を焼く大火事があり、火防せの秋葉山信仰から、この常夜燈が設置されたもので、秋葉山だけなら普通だが、その他に海の安全を願って、伊勢神宮や
舞阪宿の家並み 厄病退散の津島神社も加えているのは珍しい。 住民の安全と宿場を火災から守るという気持が、この地区に多い木造秋葉山常夜燈ではなく、多くの神々に願う石製の燈籠になったのだろう。  両脇に建つ家は、全て、切妻造りの二階建て (右写真)
しらす干しとのりを売る店が数軒あり、その他に電気屋や八百屋、米屋など数軒あるが、
宝珠院 その他は商売をしている様子がない。 食堂を見つけたが、看板はカレー。  舞阪のうなぎは有名なのに、うなぎ屋はない(?) 
更に行くと、宝珠院の前にも、両皇太神宮常夜燈があった (右写真)
左側の小道の入口には、岐佐神社の矢印があった。  そのまま道を進むと、右手の民家の駐車場の一角に、本陣跡の石柱があった。 舞阪宿には、宮崎伝左右衛門と源馬徳右衛門
舞阪宿脇本陣 の二軒の本陣があったが、源馬本陣の跡のようである。  道の反対にある立派な建物は、舞阪宿脇本陣の茗荷屋堀江清兵衛宅である (右写真)
主屋、繋ぎ棟と書院の三棟からなっていたが、現在残る建物は、天保九年(1838)に建てられた書院部分のみである。  脇本陣は大名や公家、公用の幕府役人らが使用したが、利用がない時は旅籠として営業した。 その時は、主屋の二階が客室になった
西町常夜燈 という。 書院の庭に面した一番奥は、大名の上段の間である( 内部を無料公開している )  脇本陣から五十メートルほど歩くと、目の前が浜名湖だが、手前の左側に、夢舞台東海道 舞阪宿の道標があり、西町常夜燈が建っていた。 文化十年(1807)二月、西町の住民が建立したもので、こちらのは、正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津島牛頭天王、南面が文化十年二月吉日願主西町中、となっていた。 
今切の渡し 道の反対に、木製の常夜燈があるが、今切(いまぎり)の渡しがあったところである。 江戸時代に開設された 東海道は、ここから新居宿までは船渡しとなった (右写真)
舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)といい、往還より海面まで東西15間、南北二十間の石畳になっていて、階段状の船着き場になっていた。 
浜名湖は遠江と書かれたように淡水湖で、太古の東海道は陸続きで、歩けたが、明応
ふぐ採りの漁船 七年(1498)の大地震と津波により、陸地部分が決壊した結果、浜名湖と遠州灘がつながってしまった。 これを今切と呼ぶ。  渡船場だったところは、スロープになり、海岸にはふぐ採りの漁船が係船されていた (右写真)
その奥に魚市場があったが、堤防の先には国道1号のバイパスの橋が見える。 
国道1号のバイパス 橋のあたりの一部が、地震で海につながったのである (右写真)
新居に向かう船は、季節により変るが、関所の関係から朝一番は午前四時、夕方の最終は午後四時だった、という。  舞阪の渡し口は、三ヶ所あり、この船着場はまん中の、旅人が一番利用する本雁木で、南側に、荷物を積みおろす渡荷場があった。 
北雁木 少し北に行くと、大名や幕府公用役人が利用した北雁木が現れた。  (右写真)
北雁木は、明暦三年(1657)から寛文元年(1661)にかけて、造られたもので、往還から巾十間(約8m)の石畳が水際まで、敷き詰められていた。 また、船着場にある木製の常夜燈は、渡し口が夜でもわかるようにしたものである。 
ここで舞阪宿は終わりになる。 

舞阪宿から 弁天島へ

弁天神社 新居宿から先は歩き終わっているので、弁天島駅から帰宅することにした。 
北雁木から北に向かうと、弁天橋がある。  弁天橋を渡って国道と合流する角に弁天神社があった。 境内には天女伝説で知られる子宝の松がある (右写真) 
それから先は温泉旅館が数軒続く。  日帰り温泉を行っている旅館が1軒あったので、入って帰ろうかと思ったが、出る前に風呂を沸かしておいてと頼んだのを思い出し、そのまま駅の構内に入っていった。  弁天島駅は競艇の時に備えてぷラットホームの巾が 広いが、今日は
やっていないので、同窓会帰りのおばちゃん達がおしゃべりに熱中して いるほかは数名が静か
に電車を待つだけである。  二十分ほど待つと電車がきたので、豊橋までそれに乗り、豊橋で
名鉄特急に乗り換えて帰宅した。 


平成19年(2007)   4 月


(31)新居宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。