『 東海道を歩く ー 丸子宿(鞠子宿)  』


府中宿から丸子宿に向かうと、安倍川があり、橋が架けられなかったので、川越人夫により川を越えていた。 
川を越えると、手越の里があるが、室町以前は東海道の宿駅として栄えたところである。 
丸子宿は、鞠子とも麻利子とも書かれたようで、最初は丸子川の向こうの山側にあったが、東海道のルート
変更により、手前に移された。  この宿場の名物はとろろ汁で、東海道中膝栗毛にも登場する。




府中宿から丸子宿

川会所の跡 平成19年7月31日(火)、府中宿を歩き、府中宿の京側の入口があった川越町を過ぎると弥勒町に入る。 信号交差点を越えた右側に、交番があるが、これは、江戸時代の安倍川川会所の跡で、それを示す案内板が脇の歩道に建っていた (右写真)
安倍川は、東海道のなかで、架橋が禁じられた橋の一つで、川越人夫により川を越えていた。  川会所は、安倍川の両岸にあり、町奉行所から川場係同心二人が出張して、警備監督に当り、
架橋記念碑 川役人が勤務して、川越人夫を指示したり、川越賃銭の取り扱いをしていた。 この川会所は、間口六間、奥行四間半で、五人位の裃を着た役人が詰めていた、という。 交番から先は、みろく公園という小公園があるが、交番の裏に、明治七年の架橋記念碑が建っていた。 安倍川橋の建設の顛末を記したもので、明治四十一年に建てられたものである (右写真)
安倍川に最初に橋が架かったのは、明治七年(1874)のことで、宮崎総五という人が、多額の
由井正雪公之墓趾 私財を投じて架けた木橋の有料(賃取)橋で、安永橋という名だった、とある。 
公園の中を歩くと、由井正雪公之墓趾と書かれた、大きな石碑があった (右写真)
由井正雪は、三代将軍、家光の逝去に伴う混乱に乗じて、幕府転覆を図ろうとしたという容疑で、慶安四年(1651)七月二十六日、駿府の府中宿梅屋町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊していたところを、駿府町奉行落合小平治の部下に囲まれ、同志と共に自刃した、という 事件で、慶安の変
と呼ばれる。 安倍川畔にさらし首になったが、誰かの手で、その首を寺町の菩提樹院に埋め
弥勒の道標 た、 といわれる。 正雪の首塚とされる石塔が菩提樹院にあるようだが、菩提樹院はその後沓谷霊園に移転した際、首塚も一緒に移転している。 その先、新通りに面して、東海道夢舞台 静岡市弥勒の道標が建っていた (右写真) 
府中宿の境から二町(0.2km)、丸子宿境まで十六町(1.8km)とある。 
静岡県が建てた道標は、静岡市内では見なかったので、久しぶりという感じだった。 
明治天皇御小休止趾碑 この辺りは、江戸時代には河原だったところであるが、弥勒町という町名は、慶長年中に、安倍川左岸に山伏が還俗し開いた、弥勒院という名の寺に由来する。 
また、山伏が河原で売った餅が安倍川餅の始まり、とある。 
その右側に、明治天皇御小休止趾の石碑があった (右写真)
江戸時代には、ここに立場があったので、明治天皇もそこで休憩されたのだろう。 
冠木門 安倍川橋前のバス停に、冠木(かぶき)門があった。 冠木門は、静岡市制百十周年記念事業として開催された、静岡葵博 会場に建てられたもので、東海道宿駅制度四百年を記念して、府中宿の西の見附に近いこの場所に移築した、と書かれていた (右写真)
みろく公園の先で、東海道は本通りの道に合流する。 江戸時代には、安倍川を臨んで、道の両側に茶屋が並んでいた、といい、ここの名物が、安倍川餅であった。 道の左側に、
石部屋 石部(せきべ)屋という、江戸時代から続く安倍川餅の店がある (右写真)
江戸時代初期、徳川家康が立ち寄った茶店で、店主が、きな粉を安倍川上流で取れた砂金に見立てて、つきたての餅にまぶし、献上したところ、家康は大いに喜び、安倍川もちと名付けた、という伝承がある。 家康の話の真偽のほどは分らぬが、江戸時代中期には、すでに茶屋の
安倍川義夫の碑 名物として有名になっていたようである。  十返舎一九の東海道中 膝栗毛にも、 ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ 安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり  と、記されている。  石部屋の隣に、安倍川川渡り人足にかかわる美談を記した安倍川義夫の石碑がある (右写真)
江戸時代の安倍川は、川渡り人足の手で渡るのが普通だったが、自分の足で渡る人もいた
安倍川 ようである (右写真ー川渡り人足が活躍した安倍川川岸)
さて、その話だが、 紀州の漁夫が仲間とこつこつためた百五十両を懐に入れ、川を渡ろうとした途中で、 落としてしまう。 それを拾った川越人夫の喜兵衛は、財布をもって旅人を追いかけ、宇津ノ谷 峠でようやく追いつき、財布を返した。 漁夫は礼金を申し出たが、喜兵衛は当然のことを しただけと受けとらなかったので、奉行所に預けて立ち去った。
安倍川橋 奉行は、礼金を喜兵衛に渡そうとしたが、固辞したので、礼金は漁夫に返して、その代わりにご褒美として、代わりの お金を与えた。  というものである。 
その先にも、あべ川もちやが二〜三軒あったが、すぐに、安倍川橋に出た (右写真)
橋は、大正十二年(1923)に、英国の鋼材を使用して造られたもので、三代目。 全長四百九十メートル、全幅七メートルの橋であるが、歩道は左側にしかなく、歩いているのは私だけ。 
安倍川橋 すれ違う自転車は、自分の方が優先する態度なので、こちらが避けなければならない。  橋の途中で安倍川を見ると、水が少なかったが、昨日降った雨のせいか、濁っていた。  昔、川の上流で砂金がとれたとは思えない感じである (右写真)
けっこう長い橋だったが、歩道帯があったので、安心して渡り終えることができた。 
橋を渡ると、手越集落に入る。 安倍川橋から鞠子宿までは1.8kmの距離である。 
手越バス停 ここは、手越(てごし)の里と呼ばれ、平安から鎌倉時代にかけての旧東海道(鎌倉街道) の宿駅として栄えたところである。 また、平家物語の平重衡との悲恋の話に登場する、千手前(千寿の前)は、手越の長者の娘と伝えられている (右写真ー手越バス停)
千手前に関する史跡を見に寄り道をする。 手越バス停から百メートルほど歩くと、 右側に、心光院入口と書いた看板があるので、右に入る狭い道を歩き、心光院への標示板がある
少将井神社 分岐点で、左側の小道に入ると、奥の方に鳥居が見える。  そのまま入ると、山に突き当たったところに、少将井神社があった (右写真)
建久四年(1193)の建立と、伝えられる古い神社で、素盞鳴尊が祭神であるが、ここが手越長者の館跡とされ、千手前の生誕の地と、伝えられているのである。 鳥居の脇には、庚申塔があり、石段の上には、林葉山と刻まれた常夜燈があるが、自然石の上に、金属製の社(やしろ)
千手の前石像 載せたような、珍しい燈籠である。  境内の左手奥には、白拍子姿の千手の前の石像があり、謡曲史跡保存会が建てた、謡曲・千手と少将井神社の案内板があった (右写真)
「 源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。 和歌、琴、書に秀でた千手の 前の優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。  東大寺を 焼いた重衝を、奈良の
クスの大木 荘は重い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してし まったのです。 嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。 重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲・千手の生誕の地と伝えられています。 」 と、あった。 
境内には、覆いかぶさるように成長したクスの大木が多い (右写真)
これらの樹木に古い歴史を感じたが、室町時代以後、東海道のルートが変り、宿駅
高林寺 が、丸子(毬子)へ移ったことから、手越宿は、次第に衰えていった。  街道に戻る。 
道の左側に、手越の灸で知られる、臨済宗妙心寺派の高林寺がある (右写真)
寺史によると、手越の灸は、承応二年(1653)頃、人々の治療のため始められたものという。 寺紋は武田菱(たけだびし)で、武田信玄の家臣、一条信龍の三代目松井正近による開基、とあった。 その先の右に入った先にも、東林寺という、手越の灸の元祖と名乗る寺院があった。 
松並木 その先に、静岡手越郵便局があり、右側には、君盃という銘柄の造り酒屋、市川屋があった。  道を進むと、国道1号線と合流する手前に、数本だけだが松並木が残っていた (右写真)
手越原信号交差点は五叉路になっている。 国道1号線に出たら、歩道橋を渡り向こう側に出て、国道1号を岡部の方へ進む。  交差点から先は静岡市駿河区丸子1丁目である。 
少し歩くと、佐渡(さわたり)の信号交差点がある。 
佐渡交差点 東海道はここで左折する。 交差点の手前に横断歩道橋があり、道の反対側に行けるが、歩道橋を通り越し、佐渡交差点まで行っても、左折することはできる (右写真) 
交差点を渡り、県道208号線に入って行くと、丸子宿に到着である。 

* 丸子宿は、平成19年5月21日(月)に訪問しているが、前回は丁子屋で食事がとれなかった、また、柴屋寺にも訪れられなかったので、それらに訪れるため、今回(7月31日)、再び、歩くことにした。 
次章は、5月に書いたものをベースとして、今回新たに訪れたところを加え、再編集した。


丸子(まりこ) 宿

地蔵堂 平成19年5月21日(月)、今日は丸子宿から藤枝宿まで歩く予定である。 名古屋から車で来て、六郷駅に車を停めたこともあり、静岡到着が九時半を過ぎていたが、JR静岡駅からバスで丸子に向かい、佐渡(さわたり)バス停で降りて、今日の旅が始まった。  東海道(県道208号線)の右側に、道路に突き出した建物があった (右写真)
これは、駿河一国百地蔵第十番の看板があり、子授地蔵尊を祀る地蔵堂である。 
道の対面の奥に佐渡公民館があるが、道脇に夢舞台東海道 丸子宿の道標があり、
佐渡公民館 府中宿境から二十一町(2.3km)、岡部宿境まで二里九町(9km)と書かれていた。 
公民館の方へ入って行くと、左側に、万葉仮名で刻まれた、さわたりの手児(てご)万葉歌碑があった (右写真ー左側万葉歌碑、正面は公民館)
江戸時代、佐渡村だった地区の人達が、丸子1丁目に変ることを惜み、碑を建設したもので、
手児万葉歌碑 碑の上部には、万葉集巻第十四あずま歌から、佐渡にかかわる歌を、万葉仮名で書き、下部には、「 さわたりのてごに い行き逢い 赤駒が あがぎを速み こと問はず来ぬ 」と記され、 佐渡の美しい少女と道で行きあったが、私が乗っていた赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさず来てしまった。 という、解説があった (右写真)
丸子二丁目 県道を丸子の中心部に向って、しばらく歩くと、道は右にカーブしていく。 左側に静岡銀行やバスの営業所と車庫があり、両側は商店街になっていた (右写真)
丸子宿は、鞠子とも麻利子とも書かれたようで、文治五年(1189)に、源頼朝が、奥州平定で功があった、手越(てごし)平太家継に、丸子一帯を与え、宿駅を設けたのが始め、といわれる。 当時の宿駅は、この先にある丸子川を越えたところにあったが、東海道のルート変更で、
丸子四丁目 丸子川の手前に変えられた。 江戸時代の丸子宿の長さが東西七町だったとあるが、江戸側の入口は、どこにあったのだろうか?? 
七町とは、七百七十メートルであるので、現在の丸子の中心であるこの商店街付近にあったとは考えづらいのである (右写真)
商店街を通り過ぎると、左側に、長田西小学校があり、学校の前に、東海道の名残りの松と
一里塚碑 思えるものがあった。 その先の右側の道脇に、小さな石柱があり、道路に向って、 いちりづかあと、と刻まれていた (右写真)
少し行くと、左側の菓子屋徳栄堂の前で、道幅が半分になる。 丸子宿の江戸側の見付は、枡形になっていた、とあるので、このあたりが、そうではないだろうか、というのが、小生の推理であるが・・・  少し歩くと、右側にかなり古い家があった。 
水神社 その対面の小高いところに、水神社があった。 石段下には、丸子宿に関する資料が書いてあり、なかなか役に立った (右写真)
丸子宿は、江戸幕府の慶長六年(1601)の東海道開設の際、丸子川の東側に移されたのだが、元宿の地が狭いことや安倍川を渡ることを考え、当地に移したのであろう。 東海道宿村大概帳によると、宿内の家数二百十一軒、宿内人口は七百九十五名だった、とある。 
脇本陣跡 水神社の隣の家の先は、道に沿って石垣になっていて、上り口に、馬頭観音が祀られていた。 このあたりは、古い家も残っているのだが、道幅はせまいのに車が多いので、のんびり見てもいられないのは残念である。  道が右にカーブすると、左側の民家の一角に、明治天皇御小休止趾の碑が建っていた (右写真)
明治天皇が、明治元年の東京遷都の折りに立ち寄った脇本陣の跡である。 丸子宿は、
横田本陣跡 日本橋から二十番目、府中宿から一里十六町(約5.7km)、西は宇津ノ谷(うつのや)峠を越えた岡部宿まで二里(約8km)のところに出来た宿場で、脇本陣から五十メートル程歩くと、右側の民家前に、史跡丸子宿本陣跡の石碑が建っていた (右写真)
ここは、横田本陣の跡で、右隣の二軒の古い家のあたりに、問屋場があったようである。  山越えや川越えを控える場所なので、かなりの需要が望めそうに思えるのだが、旅籠は二十四軒
藤波脇本陣跡 と多くない。 府中が、東海道屈指の大都会なため、そちらに泊まる人は多かったからである。 五十メートル歩くと、右側に明治天皇御小休所阯の碑があった。 藤波脇本陣の跡で、明治弐年、明治天皇が立ち寄られたところである (右写真)
その先右側のお茶製造業の家前に、お七里役所という石柱が建っていた。 由比宿にもあったが、紀州藩が設けたお七里役所という藩専用の飛脚が駐在した場所である。 
御土産屋 少し歩くと、左側に茶屋松福園、右側には駐車場があり、御土産屋がある (右写真)
店の左側の植栽の中に、清酒 千寿白拍子の説明板があり、白拍子だったといわれる千寿の前は、重衡処刑後は尼となり、磐田に住んで重衡の菩提を弔った。 その故事にちなんで名付けられた酒の宣伝である。 一生懸命読んだ後で宣伝だと分った。 
芭蕉句碑 看板裏にある芭蕉句碑には、 
 『  梅わかな    丸子の宿の    とろろ汁   』   と刻まれていた (右写真) 
その先には、駿府築城時に切り出された石の残りという辰石や馬頭観音があり、その右手に、十返舎一九の碑がある。 十返舎一九の東海道中膝栗毛では、 弥次喜多が
ここに 立ち寄り、夫婦喧嘩のどたばた騒ぎに巻き込まれ、
『 けんく(喧嘩)する 夫婦は口をとがらして 鳶(とんび)とろろに すべりこそすれ 』
丁子屋 という狂歌を詠んでいる。  となりの茅葺き屋根の家は、広重の東海道五十三次の浮世絵に、丸子、名物茶屋 として登場する、とろろ汁の丁子屋である (右写真)
慶長元年(1596)の創業から四百年以上にわたり、とろろ汁をだしてきた老舗で、現在の店主は十三代目という。 時計を見ると、営業時間(11時から19時ー木曜日は休み)まで三十分も待たないといけないので、先に進むことにした。 

丁子屋大広間 (追記)7月31日、前回は時間が早くて利用できなかった丁子屋で昼食をとった。  半自動の戸を開けると、土間で椅子席になっている。 畳の方がよいというと案内されたのは大広間。 鴨居には、東海道五十三次の浮世絵が架けられていた (右写真)
メニューからマグロの角煮が付いたとろろ定食を頼んだ。 千五百円なり。 
仲居は二千円の品を勧めたが、小生はとろろだけが食べたいので、さしみなどに興味がない。 
とろろご飯 七月末の平日とあって、団体客もなく、思ったより早く出てきた (右写真)
とろろ汁は、自家栽培された自然薯をすりつぶして、出汁で薄めたものだが、他と違うのは白味噌を隠し味にしていることという。  それを麦飯の上にたっぷりかけていただくのだが、付いてきたあさつきのきざんだものをかけて食べたのが一番うまかった。 お櫃の飯と出されたとろろを平らげて終了したが、愛知県瀬戸市の天然の自然薯を 出す店の方が美味いので、東海道を
歩くついでならともかく、わざわざ食べに来るほどの ものではない、と思った。 
丸子宿の道標
丁子屋の前の川のへりに、夢舞台東海道 静岡市丸子宿の道標がある (右写真) 
道は二又に分かれているが、ここは丸子宿の西のはずれである。  
右側の道の十メートル先に、松の木などが植えられているポケットパークがある。 
    『 人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして  』
細川幽斎の歌碑 と書かれた細川幽斎の歌碑があった (右写真) 
細川幽斎(藤孝)は、戦国時代の武将で、肥後細川藩の始祖、細川忠興の父であるが、古今伝授を授けられた有名な歌人でもあった。  天正十八年(1590)三月八日、豊臣秀吉の小田原攻略の先陣として、うつの山路を越えて、ここに差し掛かった時、地元の人
が「 まりこ川 」 というのを聞いて、詠んだ歌といわれる。 
旧東海道は、左側の丸子川を渡る道で、橋を渡ると丸子宿は終わりである。 

駿府匠宿 (追記) 7月31日、前回訪れることが出来なかった柴屋寺に行く。  細川幽斎の歌碑を過ぎると、国道に出る。 国道が左にカーブしていくところで、右側にある道に入る。 国道1号バイパスの道路が見えると、駿府匠宿という建物がある (右写真)
カーブを曲がった左側の建物の間に、丸子城入口と書かれた看板があった。 そのまま直進すると、とろろ汁の看板をかけている店が多くあった。  川に沿った道を進む
芝屋寺山門 と、右側に駐車場があり、吐月峰柴屋寺に到着。 柴屋寺の山門のあたりはじめじめとして薄暗い。 傍らの案内文によると、天柱山 吐月峰芝屋寺(とげつほうしなおくじ)は、連歌師宗長が、永正元年(1504)、草庵を結び余生を送った所である (右写真)
吐月峰の名で知られる連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は駿河で生まれ、連歌師の宗祇に学び、上京して大徳寺の一休に師事した。  その後、應仁の乱の頃に、この地に戻り、今川氏親に仕え、連歌師として有名をはせた (詳細は巻末参照)
芝屋寺本堂 山門をくぐり、寺の玄関で入場料を払おうとしたが、人がいないので、大声でお願いします、と叫んだ。 出てこられた住職(?)に三百円を払い、本堂に上がった (右写真)
寺というより別荘という雰囲気で、茶室もある。 現在は、寺といっても仏事は行なわず、歌会や俳句等の集いの場となっているようだ。 庭の外の山は、京都嵯峨から移植した竹林に囲まれており、ここで作られた竹細工は、吐月峰(はいふき)のいう名が付けられ、名品として販売されて
芝屋寺庭園 いる。 宗長は、京都銀閣寺を模した庭園を築いた。 
本堂の開けられたガラス窓の外には、庭が広がっていた (右写真)
無人の縁側で、しばし物思いにふけてから、この寺を後にした。 

(ご参考) 柴屋寺の誕生

連歌師宗長が、若い頃は、応仁の乱により、京都だけではなく、地方でも、下克上のきざしが強くなっていた。 
駿府においても、今川の内訌が起きていたが、今川氏親は、難を避けるため、駿府の外城である丸山城に寄り、十余年を過ごした。 芝屋寺は、当時の丸山城内で、若き宗長は、氏親と共にこの城内にあった、という。 氏親は、伊勢新九郎(後の北条早雲)の働きで、長享元年(1487)、駿府城に戻り、国守になるが、その後も宗長が住む柴屋軒を訪ね、堂宇を建てたのが柴屋寺である。 家康も朱印状を与え、修復したという。 
庭園は、宗長自ら築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り、東北方から湧出する岩清水を引き込み、西方に聳え立つ天柱山を採りいれた借景庭園で、国の名勝に指定されている。

(ご参考)
平成19年5月21日 JR静岡駅→(バス)→丸子宿→岡部宿→藤沢宿→藤沢駅
平成19年7月31日 静岡駅→府中宿→丸子宿→丁子屋で昼食→柴屋寺→(バス)→JR静岡駅
 


(府中宿〜丸子宿)      平成19年(2007) 7 月
( 丸子宿 )      平成19年(2007) 5 月
(丸子宿・再訪問)      平成19年(2007) 7 月


(21)岡部宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。