丸子宿と岡部宿の間には、宇津ノ谷峠があり、平安時代には、蔦(つた)の細道と呼ばれた道が作られ、
この様子は在原業平の伊勢物語に書かれている。
その後、別のルートが造られたので、江戸時代の旅人はその道を歩いたのだが、明治時代にトンネルが
できたことで、この道も忘れ去られた存在になった。
岡部宿は、山に囲まれた集落で、江戸時代の大旅籠柏屋は歴史資料館になっている。
平成19年5月21日(月)10時57分、丸子橋を渡って、県道208号線を進むと、右側に、丸子元宿高札場緑地という標柱があり、高札が沢山建っていた (右写真)
ここは、文治五年(1189)、地元の豪族、手越(てごし)平太家継が、源頼朝から、奥州平定で功があったとして、丸子一帯を与えられ、丸子宿を設けたところで、このことは吾妻鏡
に記述がある。 室町時代の連歌師の宗長は、 丸子という里は、家五、六十軒、京鎌倉旅宿なるべし と、書いているので、ここに宿場があったことは間違いない。 しかし、東海道が変更され、川向こうに、丸子宿が移ったことから、元宿と呼ばれるようになった。 左手に、段々になっている茶畑が拡がり、集落には、古い家が多く残っている (右写真)
国道1号線の向こう側に見える山は、丸子城跡のようである。 しかし、そうした光景も
束の間。
川沿いには、昭和の遺物のモーテルが並ぶ。 それを無視して、歩いて行くと、左側に、元宿山大日如来登山口、と書れた狭い道があるが、
その道には入らず、そのまま道を進むと、二軒屋公民館の隣に、観音堂があり、境内には庚申塔が建っていた (右写真)
二軒屋交差点で、国道1号線と合流したが、丸子橋から1キロメートルくらいあった
だろうか??
ここで、少し寄り道をした。 交差点を右折し、国道を越えると、右側に大きな看板があり、ようこそ大鈩!!と、書かれていた。 右側の小高いところが、丸子城のあった山である。 橋を渡って、五百メートルほど行ったところに、誓願禅寺というお寺がある (右写真)
永禄十年(1567)、連歌師の里村紹巴(じょうは)が、柴屋寺への道を間違えて訪れた寺であるが、
境内には、大阪落城直後に駿府で没し、この地に葬られた片桐且元夫妻の墓がある。
街道に戻り、国道1号線を進み、舟川交差点の長源寺入口の矢印がある所で、左側の細い道に入った (右写真)
少し歩くと、道の左側に、長源寺の案内と起樹天満宮の石柱があったので、中に入っていくと、鳥居の奥に、源頼朝ゆかりの起木天神が祀られていた。
菅原道真を祭神とすることから、古来、神域に紅梅が多く、赤梅ヶ谷といわれたのが、赤目ヶ谷に変ったといわれるところで、赤茶色の大きな石で造られた、丸子赤目ヶ谷起木天神
碑があり、それには、 「 風は松声をとどめて静かに、山はそう馬を含んで渕(ふか)し 」 、と漢文で書かれた詩が刻まれていた (右写真)
その隣に、日本近代茶業之先駆者 多田元吉翁碑がある (右写真)
多田元吉の名前は、初めて目にしたが、日本の茶業の先駆者であったようである。
幕臣だった多田元吉は、明治維新後、この地を開墾して茶を植え、更に茶の研究のため、中国やインドに渡り、
紅茶の製造技術を習得し、その時、インドから紅茶用の茶の木を持ち帰ったのが日本の紅茶の始まり、という。
碑の前の茶の木には、静岡県知事、静岡市長、インドアッサム州の三本の木が植えられていた。
長源寺に出たところで、再び国道1号線と合流し、そのまま歩いて行くと、一本の高い松の木が見え、近づくとその先に、もう一本の松の木があり、そこにはドライブイン東海道があった (右写真)
時計を見ると十一時三十八分である。 少し早いが昼飯とあいなった。
とろろそばを注文し、コンビニで買ってきたおにぎりも、同時に食べたので、満腹。
十二時に旅を再開する。
向こう側に渡る横断歩道橋が見えてきたので、歩道橋を渡り、道路の右側へ行く (右写真)
金色の観音様の前の細い道に入り、その先にある橋は渡らずに、川沿いの道を左に進む。 ここには、家具を製造する工場兼物流センターがあった。 また、道端には名は分らないが、
黄色の菊のような花が咲いていた。 道はすぐに国道1号線に合流してしまった。
その先のガソリンスタンドで、また、国道と別れて、右側の狭い道に入る。 少し歩いて、国道に出ようとすると、前方に、二台のパトカーが止まっている (右写真)
何事か?と近づき、質問すると、スピード違反の取締り、という。 その先には机が用意され、違反者が不貞腐れた顔をして、係官と応対していた。 事故は困るが、下り坂だからスピードも
出るわね!!、と違反者に少し同情をしながら、通り過ぎた。
やがて、正面に、横断歩道橋とその先にトンネルが見えてくる (右写真)
横断歩道橋を渡り、反対側に行くと、道の駅宇津ノ谷(うつのや)の売店などの施設がある。
また、蔦の細道を歩く場合も、反対側に行かなければならない。
蔦(つた)の細道は、在原業平の伊勢物語で、古来から知られた有名な道で、今でも多くの
ハイカーが歩いている。
蔦の細道を歩いても、旧東海道を歩いても、所要時間はほとんど変らないようだが、今回は東海道を歩く旅なので、右側の駐車場の大型トラックを見ながら歩き、トンネル手前で、右側の県道208号線に入った (右写真)
ときどき大型トラックが通るが、国道1号よりずっと静かな道である。
右側に古い家が残っている集落を見ながら、左にカーブ。
やがて、道は二又になり、左側の細い道の右側に、周辺案内の地図があった (右写真)
左側の道が東海道で、この道に入って行くと、道の左側に、夢舞台東海道 宇津ノ谷の道標があり、岡部宿まで3.2kmとあった。
村中橋を渡ると、どの家にも屋号があり、家の前には屋号を書いた表札が出ていた。
ゆるい坂道を登って行くと、右側に明治天皇の旧蹟を示す石碑がある家があった。
お羽織屋という表札を掲げた家は、豊臣秀吉が小田原攻めの時、拝領した羽織を今日まで家宝として伝えてきた (右写真)
拝観料二百円で見学ができ、中に入ると右正面に羽織が掛けられ、ウインドーケースには徳川家康や慶喜拝領の茶碗や諸大名が休憩した名簿が展示されていた。
なお、その先で右折した先に、峠名物十団子で有名な慶雲寺があり、峠の地蔵堂の地蔵菩薩がこの寺に移され、祀られている (詳細は巻末参照)
時間がないので、寺には寄らず、真っすぐ行くと、かなりの勾配のある細い石段になり、両脇には古い家が建っていた (右写真)
石段をのぼりきると、右にカーブするタイル貼りの道で、少し歩くと、車が通れる道に出た。
そこには、夢舞台東海道 静岡市宇津ノ谷の道標があり、岡部宿境まで二十六町(約3km)とあった (右写真)
東海道はここで、道標の右側にある細い山道に入って行く。
なお、車道を左に行くと、明治のトンネルに至るが、車はそこまでである。
また、五年前にはここから階段を上って、東海道に入れるようになっていたのだが、今回訪問したら、閉鎖されて利用できないようになっていた。
ここからは完全な山道になる。
入ってすぐ、左側にある馬頭観音は、死んだ馬を供養したもので、大正五年と嘉永五年の建立である。 お馬ちゃんもこの道は難儀しただろう (右写真)
きちんと整枝された林の中を歩いて行くと、宇津ノ谷の集落を見下ろせるところに出た。
宇津ノ谷集落の説明板があり、「 宇津ノ谷は丸子宿と岡部宿の中間にある間(あい)の宿で、
宇津ノ谷名物の十団子を求めたり、無事峠を越えたたことでほっとしたところである。 」 と、あったが、さっき歩いてきた道や家が眼下に見えた (右写真)
先程より暗い道になり、少しじめじめしてきた。 薄暗いため薄気味が悪い。 歌舞伎の 蔦紅葉宇都谷峠 という演目で、按摩の文弥が重兵衛に殺されて、百両を奪われ、それを悪の仁三に現場を見られ、ゆすられる場面があるが、 ここで、人が飛び出してきたら、腰を抜かすと思った。
そうしたところに、小さな石碑のようなものがあり、山口雁山の墓とある。 山口雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府や駿河で活躍をした俳人だが、享保十二年(1727)に旅に出た後、音信不通になったため、弟子たちは、雁山が旅先で死んだと思い、墓を建てたのである (右写真)
ところが、彼は生きていて、三十七年経った、明和四年(1767)に八十一歳で亡くなった
のだが、墓を撤去せず生き続けた彼は大物である。 明治四十三年の大洪水で、山崩れを起こし、墓はここに移動してきた、とあった。
少し歩くと、右側に段々になった石垣があるが、これは、現在、慶雲寺にある地蔵菩薩が祀られていた延命地蔵堂を支えるために築いたものである (右写真)
江戸時代の後期に作られた東海道分間延絵図によると、道幅が二間(約3.6m)の道が、この
上を左から右に伸びていて、旅人はこの上の道を歩いていたのである。
明治の山崩れで、道は壊れ、上にあった山口雁山の墓も下に落ち、道も現在のように変った、という訳である。
階段を上って行くと、右側に少し入ったところに、地蔵堂の跡があった (右写真)
江戸時代から残るものは、途中で折れた供養塔法界碑のみである。
なお、前述した歌舞伎で、按摩の文弥が重兵衛に殺されたのは、地蔵堂の前という設定になっている。
地蔵堂跡を過ぎると、道の真ん中が削られたような感じのところに出た (右写真)
ここが宇津ノ谷(うつのや)峠だった。
ここから下り坂で、道なりに下っていくと、舗装道路に出た。 このあたりは、国道宇津ノ谷トンネルの管理道路の工事で、大きく変えられてしまった、という。 そのまま、舗装道路を下りていくと、二又に出た。
右側の看板には、右 坂下明治トンネル、左 旧東海道入口と、表示されていた。
折角なので、明治のトンネルを覗くことにし、ここを右折し、坂を下ると、その先はT字路で、左明治道、右明治トンネルと標示があるので、指示通り歩くと、トンネルが見えてきた。 このトンネルは明治三十七年に造られたものである (右写真)
最初に造られたのは、明治九年に地元の有志が金を出し合って造った巾三間、高さ二間、長さ百二十三間(223m)のくの字形の有料トンネルである。 トンネルを通るのに、人は五厘、荷馬は
一銭二厘、人力車は一銭五厘をとられた、という。 明治二十九年、照明用のカンテラの失火で、枠組が焼失し、その後、赤煉瓦のトンネルになった。 宇津ノ谷峠越えの東海道は、明治のトンネルの開通により、通る人もなくなった。 しかし、このトンネルも、昭和五年、旧国道のトンネルが開通すると、使命を終えた。
先程の二又まで戻り、左側の山道を行くと、途中の左側に、髭題目碑があった (右写真)
天保六年に、備前国木綿屋門平他、清水や島田の人達が、金を出して建てたものだが、
碑の正面に、髭のように跳ねて書く書体で、南無妙法蓮華経のお題目が刻まれている。
曲がりくねった山道を下っていくと、右側の斜面に、ら(草冠の下に羅という字で、蔦という意)径記碑跡という標石があり、文政十三年(1830)、駿府代官、羽倉外記が、つたの細道が消滅するのを恐れて、ここに石碑を建てた、とある (右写真)
しかし、その石碑は、この下の地蔵堂裏に現在は移動して、ここにはなかった。
眼下に、駐車場が見えてくると、宇津ノ谷峠越えの山道も、ようやく終わった。
夢舞台東海道 参勤交代の道と書いた道標には、岡部宿境まで十八町(2km)とあった。
峠を下った所が坂下で、駐車場の先に蔦の細道公園がある (右写真)
公園を先には、鎌倉時代に東海道の宇津ノ谷峠越えルートが開設されるまで使われて
いた蔦(つた)の細道が残っているが、そちらには行かず、このまま東海道の旅を続けた。
右折して坂道を下ると、右側に地蔵堂があった (右写真)
地蔵堂の創建は定かではなく、誰が始めたかも分らないようであるが、元禄十三年(1700)、岡部宿の住民達が地蔵堂を再建し、鐘楼も建てた、とあり、祀られている延命地蔵尊は、霊験あらたかだったようで、鼻取り地蔵と稲刈地蔵の言い伝えが残っている。
境内には、多くの石仏があり、墓も宝しょう印塔の形をしているので、室町時代以前と思われた。 羽倉外記のつたの細道の石碑は、屋根の下に保管されていた (右写真)
この地蔵堂の前で、東海道は終わり、国道1号線に合流してしまう。
遠くを見ると、道が右にカーブするところがあり、歩道橋がかかっているのが見えた。
国道を歩き、横断歩道橋があるところまできた。 信号機には廻沢口とあるが、上った歩道橋から、右側には、これまで歩いてきた宇津ノ谷山や国道トンネル、そして、道の駅宇津ノ谷が望めた (右写真)
歩道橋を渡って、国道の反対の右側に出た。 国道から右に入る小さな道を進み、突き当たったら左へ行く。
右の山には、茶畑が広がり、のどかな風景である。 道は左
右に曲がりながら進む。 このあたりは横添集落と思うが、左側に岡部川が現れ、道と平行して流れ、道の右側に住宅は続くが、古い家は残っていなかった (右写真)
道なりに進むと、やがて、両側二車線の県道208号線と合流したので、
県道をしばらく行くと、道の左側に、岡部宿の案内板が建っていた。 十三時五十七分、岡部宿の入口に到着した。
(ご 参 考) 蔦(つた)の細道
蔦の細道は、古代から中世(約700年〜1570年頃)の東海道で、古くは、宇津の山越えとか、蔦の下道と呼ばれた。 平安時代に在原業平の伊勢物語に書かれたことで広く知られるようになった。
( 伊勢物語 )
『 行き行きて、駿河の国にいたりぬ。 宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つた、かへでは繁り、物心ぼそく、すずろなるながめを見ることと思うに、修業者あひたり。
「かかる道はいかでいまする」といふのを見れば、見し人なり。 京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
「 駿河なる 宇津の山べの うつつにも ゆめにも人に あはぬなりけり 」
』
と、ある。
(ご 参 考) 十 団 子
宇津ノ谷峠の地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩と十団子の話。
『 昔の話である。 この地にあった梅林寺という寺の住職に腫れ物ができた。 小僧に膿を吸い出させて、傷は治ったのだが、小僧は人肉の味を覚え、宇津ノ谷峠を通る旅人を捕らえては食べる鬼となってしまったのである。 ある日、峠にひとりの坊さんがやって来た。 鬼は人の姿に変えて、坊さんの前に現れた。 坊さんは 「 お前を成仏させるために来た。 正体を現せ。 」 というと、大きな鬼の姿に戻った。 「 なるほど、大きいな! それでは、なるべく小さなものに化けてみろ! 」と唆(そそのか)すと、鬼は手のひらにも乗る小さな玉へと姿を変えた。
お坊さんは、この玉を杖で叩いて、十に分けて、ぺろりと飲み込んでしまった。 この坊さんは、実は、宇津ノ谷峠の地蔵堂の地蔵菩薩だったのである。 』
それから後、この鬼の災いはなくなった。 里人は、この地蔵菩薩を道中守護として祀り、昔を忘れぬために、数珠の形に十団子をこしらえて、災難よけのおまじないとして、旅行の際持たせたり、食べさせたりするようになった。
江戸時代には峠の茶店で、女中が十個づつ杓子ですくって旅人に売ったと言う。
峠の地蔵堂がなくなった後、地蔵菩薩は慶竜寺に安置されている。 お祭りのご縁日に売っている十団子はどういう形のものだろうか?、見てみたい気がした。
岡部宿の入口に、町が作った岡部宿の案内板があった (右写真)
岡部宿は、東海道の開設と同時に誕生した宿場で、川原町、本町、横町の三町で構成されていたが、往来の増加により、寛永年間に、内谷村が加わり、明治五年一月の伝馬所廃止により、宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えた、 とあり、
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳では、宿内人口、二千三百二十二人、家数、四百<六十七軒と
ある宿場町であった。 県道を歩いて行くと、右側の高台に、お堂が見えたので、階段を上って行くと、十石坂(じゅっこくざか)観音堂があり、多くの石仏が祀られていて、常夜燈もあった (右写真)
階段を下りて少し歩くと、道端に小さな祠と磨耗した感じの常夜燈があった。 岡部宿の
入口は、枡形になっていて、常夜燈があったというが、どのあたりにあったかは、確認できなかった。
岡部川に架かる岡部橋の手前で、県道と別れて、右の狭い道に
入った。 このあたりが江戸時代の本町だろうか? (右写真)
その先の右側に、笠懸の松という表示があり、なんだろうと、小道を入ると、笠懸の松の説明板があった (西行法師と笠懸の松との関わりは巻末参照)
山には登らず、街道に戻ると、專称寺があり、江戸時代に奉納された西行坐像と鎌倉時代の
不動尊像がある、という。
旧東海道の表示に従い左に進み、岡部橋を渡ると、また、県道208号線と合流した。
県道を反対側に渡ると、昔の大旅籠、柏屋の建物があった (右写真)
天保五年の岡部宿大火の後、天保七年に再建された建物で、平成十年、国の登録有形文化財に指定された。
現在は、岡部町の歴史資料館として公開されているものだが、訪れた日は
休館日で、内部を見ることができなかったのは、残念である。 なお、柏屋山内家は、旅籠屋と質屋を兼業し、代々問屋や年寄などの宿役人をつとめた家柄である。
この建物の少し先の屋敷の角に、岡部宿本陣址の標柱があったので、ここが岡部宿の内野本陣の跡のようである (右写真)
岡部宿には、本陣も脇本陣も二軒あったが、残りの施設がどこにあったのかは確認できなかった。
その先の右側に、土蔵があるしっかりした家がある。
どういう家かと思って近づくと、杉玉が吊るされていて、初亀醸造株式会社という造り酒屋だった (右写真)
岡部宿に宿泊した様子を十辺舎一九は東海道中膝栗毛で、次のように描いている。
雨の宇津ノ谷峠を滑ったり、転んだりして、苦労して越えた、弥次さん喜多さんは、
増水のため、大井川が川留めと聞いて、岡部宿に投宿する際に、一首を詠んだ。
『 豆腐なる 岡部の宿に つきてけり 足にできたる 豆をつぶして 』
東海道は、この前で県道と別れて、左側の細い道に入る (右写真)
カラータイル(?)が敷き詰められおしゃれな道である。 入るとすぐに、夢舞台東海道の道標があり、藤枝宿まで5.5qの表示があった。
その先の小川に架かる橋は、
橋と思えない小さな橋であるが、姿見の橋という名が付いていた。 美女の誉高い小野小町が、晩年になって、東下りで岡部宿に泊まり、水面に写った自分の姿を見て、美貌の衰えを慨嘆した、という話が残る橋である (右写真)
少し先で、県道と合流しそうになるが、道があるので、そのまま歩くと、突き当たるので、道を右折すると県道に出た。 合流地点の対面には、合併さずに残った岡部町役場があった。
県道を左折し、そのまま県道を歩くと、少し先の右側に、ディリーストアがあり、
その隣に、五智如来ののぼりがひらめいていたので、中に入って行った。 以前、ここに誓願寺という寺があったが、廃寺になってしまい、五智如来石仏だけが残ったものである。
公民館の奥に、五体の石仏が並んで立っていた (右写真)
その先の左側に、カゴメの工場があり、道の右側に、松並木の松がある。 その先にも
わずかながら松並木が残っていた。
松並木が途絶えたところに、藤枝バイパスの高架橋があり、歩いてきた県道は、国道1号と名前を変えた。
少し歩くと、内谷新田交差点で、常夜塔と「 これより東海道 岡部宿 」 の道標が建っていた (右写真)
ここが、岡部宿の京側の入口で、岡部宿はここで終わる。 時刻は、
十五時ジャストだった。
(ご 参 考) 笠懸の松
謡曲 「 西行西佳 」 にまつわるのが、横町の小高い山の上の松である。
西行法師が、愛弟子の西佳を伴って、東下りの旅をしたところ、川渡しの場で、武士との揉めごとに巻き込まれ、西行が、暴力を振るわれたのに我慢ができず、西佳は、相手の武士を杖で殴ってしまった。 西行は、仏に仕える身として、辱めに耐える大切さを説いた後、西佳を破門にしてしまう。
西佳は、師を慕って後を追うが、岡部まで来て病に倒れ、最後に身体を休めた松の木に
『 西に行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の 松に残して 』
という、辞世を書き残した笠を架け、そのまま帰らぬ人になった。
東国からの帰途、この地で夜の宿を乞うた西行は、その庵の戸にかけられた古い檜笠に気付き、庵主から、彼が行き倒れになったことを知った。 西行は、深い悲しみを受け、次の歌を残し、岡部を去っていった、といわれている。
『 笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな 』
平成19年(2007) 5 月