『 東海道を歩く ー 日 本 橋  』


徳川家康が町割りを行なった際、橋の名前に日本の中心の橋ということで、 付けられたのが、日本橋である。
江戸時代は、「 お江戸日本橋七つ立ち!! 」 と、いう歌があるように、 旅人は七つ(早朝の4時頃)の暗いうちに、ここを出発し、東海道を西に向かった。  





日 本 橋

日本橋 日本橋は、慶長八年(1603)、徳川家康が町割りを行なった際、ここに架けられた橋の名前を 日本の中心の橋ということで、日本橋にしたことに始まる。  五街道の基点として里程はすべてここからと定められた。  当初は木橋だったが、これまでに何度も架け替えられ、 現在の橋は明治四十四年(1911)に造られたルネッサンス調の花崗岩の二連アーチ式石橋で、 橋銘は十五代将軍だった徳川慶喜の筆である  (右写真)
東京市道路元標 江戸名所図会によると、 「 この地は江戸の中央にして、諸方への行程もこの所より
定めしむ。 橋上の往来は、貴となく賤となく、絡繹(らくえき)として間断なし 」 と、あり、
日本橋は、諸国への里程の起点、五街道もこの橋を出発点としていた。 
明治になり、国道が開設された時も、ここが起点になり、東京市道路元標と、書かれた
鉄製の柱が、橋の基点に建っていたのであるが、昭和四十二年まの都電廃止に伴う
道路整備で、 橋の中央にある元標公園に移され、保存されている (右写真)
元標公園には、道路元標のレプリカとその横に、各都市への距離が記されていて、京都まで
道路元標 は503kmとあった。  これは、国道1号線の距離で、小生が歩く旧東海道は、百二十六里六町一間(492.1km)である。  現在の道路元標の文字は、当時の総理大臣佐藤栄作氏の揮毫である。  そのプレートは、橋の中央に埋め込まれていた (右写真)
また、江戸時代の魚市場は築地ではなく、日本橋の北詰にあった。 
本船町を中心に、本小田原町、安針町、長浜町、伊勢町と日本橋の北詰の左側、品川町
日本橋魚河岸発祥碑 を含めた七つの町で形成し、 「 日本橋 とゝでまんまを 喰ふ所  」 (誹風柳多留)とあるように、 百二十万の江戸の食を支えていた。  それを示す日本橋魚河岸発祥地の碑が建っていた (右写真)
東海道を歩こうという人の出発点は、この日本橋か、京都の三條大橋が普通である。  小生は愛知県に住んでいることもあり、鳴海宿と宮宿から東海道の旅を始めたので、残念ながら、 ここが出発点ではないが、それでも、日本橋に立つと、気分は違った。 
安藤広重の浮世絵・日本橋 安藤広重の東海道五十三次に、日本橋の出発する風景が描いている (右写真)
江戸時代の旅人は、「 お江戸日本橋七つ立ち!! 」 という歌があるように、七つという時刻(早朝の四時頃)に、 日本橋を出発して東海道を西に向かった。  七つ時は、夏でも夜が明けきれない時間であるが、江戸時代は野外照明がないので、夜は歩けないし、宿場の木戸も 閉められて、中に入れないという時代だったので、早発(はやだち)し、夕方の早い時間に宿に入るのが旅の常識だった。  平成19年8月16日(木)、旧盆で、一番暑い時期である
東京市標 が、日本橋から品川に向って歩くことになった。  栃木県で開かれた高校の同窓会へ出席したついでに歩くことにしたからで、那須塩原から新幹線に乗り、 上野から地下鉄で、日本橋に着いたのは、9時14分であった。  従って、早発とはいかなかったが、京三條大橋に向かって出発!!  日本橋の欄干の青銅の照明灯装飾の麒麟は、東京市の繁栄を、獅子は、 守護を表した(祈願した)したものだが、 人気もいない日本橋で小生を見送ったただ一つのものだった (右写真)


平成19年(2007)   8 月


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かうんたぁ。