『 東海道を歩く ー 品 川 宿  』

品川宿は、江戸時代、六千八百九十人以上の人が住み、街道の宿場で一番人口が多かった。 
江戸に近いため、宿場として成り立たないように思われるのだが、旅籠に置かれた飯盛り女を
目当てにくる人が多かったようで、旅篭が九十三軒もあり、殷賑を極めた、という。 





日本橋から品川宿

日本橋交差点 日本橋から国道1号線を南に向かうと、最初の交差点の日本橋交差点で、国道1号線は右折していくが、旧東海道は、直進する道で、現在の国道15号線(第一京浜)である。 
品川宿までは、自動車が多いこの道を歩いていく (右写真)
日本橋は手前から1丁目、2丁目の順に並んでいるが、金融街なので、銀行や証券会社が多い。 旧盆の時期なので、夏季休暇をとっている人が多いと思ったが、予想に反し、多くの
京橋1丁目 サラリーマンが歩いていた。 左に高島屋デパート、右側に丸善を見て歩くと、八重洲通りと交わる交差点に出た。  ここを横断すると京橋1丁目で、左側に ブリヂストン美術館がある。 入社したころ、東京駅から八丁堀にある会社に通ったので、懐かしい場所である。 といっても、当時のビルはなくなっていたが・・・ (右写真)
2丁目を過ぎると、鍛冶橋通りと交差する京橋交差点で、正面にガードが見えてくる。 
京橋の擬宝珠 少し歩くと、ガードの手前の左側、少し奥まったところに警察博物館がある。 
ガード下の建物前の植え込みに、京橋の擬宝珠(ぎぼし)と記念碑があった (右写真) 
京橋は、日本橋と同時期に架けられた橋だが、昭和三十四年に京橋川が埋め立てられて、暗渠になった時、なくなった。 江戸は、掘割や運河が縦横にある町で、多くの橋が架かっていたが、擬宝珠があったのは、日本橋、新橋と京橋だけである。
江戸歌舞伎発祥の地碑 なお、ガードをくぐった右側の交番の先にも、京橋の擬宝珠(ぎぼし)が残っている。 
道路の反対側(右側)の小公園の一角に、江戸歌舞伎発祥の地碑がある (右写真) 
寛永元年、中村勘三郎が、猿若中村座の芝居櫓を上げた場所である。 
その近くには、京橋大根河岸青物市場蹟の石碑があり、碑文には 「 江戸時代の初
煉瓦銀座之碑 期には数寄屋橋(現在はない)のあたりに青物市場があったが、火災に遭い京橋に
移り、昭和十 年まで続いたが、法律による中央市場の開設により、築地木場に移り、
三百年の歴史を閉 じた。 」 と、あった。 もう一度、擬宝珠のところに戻り、少し行くと、ガード下の建物の 道路側に、煉瓦銀座之碑があった (右写真) 
碑には、 「 明治五年二月、銀座一帯は全焼し、築地方面まで延焼し、燃失戸数が
テアトル銀座 四千戸を越えた。 時の東京市長が、不燃住宅の建設を計画し、煉瓦造り2階アーケード式 洋風建築を建てた。 これが銀座発展に礎になった。 」、とある。  
ガードの上には首都高速道路があり、ガードをくぐると、テアトル銀座があった。 
いよいよ花の銀座である。 道の名は中央通りと変り、新橋まで続く (右写真) 
銀座は、慶長十七年(1612)に、銀貨の鋳造所を駿河から移したのが始まりで、当時
銀座発祥之地の碑 は、新両替町と呼ばれた。 銀座と呼ばれるようになったのは、明治に入って からで
ある。  交差点を越えた銀座二丁目左側にあるティファニーの前には、銀座発祥之地
の碑があるが、 江戸時代には、ここに銀座役所があった (右写真) 
その先は、銀座の中心地で、松屋や三越などの大きな百貨店が並んでいる。
三越の向かいに、ミキモト宝飾店があり、店の前に、真珠王御木本幸吉の石碑があ
真珠王御木本幸吉の石碑 った。 御木本幸吉は、世界で最初に真珠の養殖に成功した人物で、宝石商として大成功をおさめ、現在のミキモト宝飾の基を築いた (右写真) 
その先は銀座4丁目交差点。 交差点を渡ると、五丁目〜七丁目と続き、松坂屋や日本初めてのビアホールのライオン、かね松などの老舗有名店が軒を連ねていた。 
その先に、首都高速道路の高架が見えてきた。 銀座八丁目の終りに博品館があり、
銀座柳之碑" 新橋出入口交差点では、銀座御門通りと交差す る。 首都高速のガードをくぐると、道の左側に銀座柳之碑がある (右写真)
碑には、西条八十作、中山晋平曲、「 植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり  吹けよ春風紅傘日傘 ・・・ 」 の歌詞と楽譜が刻まれていた。 戦前一世を風靡した東京音頭である。 現在の柳は同時の二世らしい。 新橋の地名は、慶長九年に橋が
鉄道歴史展示室" 架けられたことに由来する。 後に、芝口橋と改名され、明治に再び、新橋に戻ったが、川は埋め立てられ、橋はなくなってしまった。  新橋交差点を越えた、左側に展開する汐留再開発地区の入口に、旧新橋停車場の駅舎を再現した建物がある (右写真) 
松下電工東京本社ビルの手前になるが、今から百三十五年前の明治五年(1872)十月十四日、新橋〜横浜間で開業したのが、我が国鉄道事業の始まりである。 
新橋交差点" 開業した旧新橋停車場の駅舎を、当時と同じ場所に、開業当時の外観で再現した建物があり、鉄道や汐留の歴史などを紹介する鉄道歴史展示室が併設されている。  歩いている道(国道15号)は、新橋交差点から第一京浜と名前を変える (右写真) 
新橋駅を越えたところで、JRのガードをくぐり、歩き続けると、浜松町一丁目交差点で、左にややカーブする。 車の往来が激しい場所だが、会社が休みという時期なの
芝大神宮" で、本日は少なくて助かった。 少し歩くと、地下鉄大門駅のある大門交差点にきた。 
芝大神宮という平安時代の創建という古社があるので、立寄ることにした。 
交差点の手前左側の小道を入って行くと、芝大神宮があった (右写真) 
江戸時代には、芝神明と呼ばれ、大産土神として将軍家にも崇敬され、社殿の改築なども幕府の手で行なわれた神社である。  また、歌舞伎のめ組の喧嘩で有名であり、
五十貫の力石" 九月十一日から二十一日まで続く祭礼は、だらだら祭という名で呼ばれている。 
石段を上ると、め組と刻まれた水桶(?)があり、左の隅に五十貫の力石が奉納され
ていた。 江戸時代後期の文化文政時代頃から、職業とした力士の力比べが余興
として人気を博した、という。 港区内十四点残るうちの一点である (右写真) 
力石は、東海道を歩いて行くと、三重県や奈良県にも残っている。 
増上寺の山門 神社の奥を左折すると、交差点の右側に、増上寺の山門がある (右写真) 
増上寺は、明徳四年(1393)、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町)で、開基された寺だが、室町〜戦国時代に、浄土宗の東国の要として、発展して行き、 徳川家康の関東移封に伴い、天正十八年(1590)、徳川家の菩提寺となった。 慶長三年(1598年)、現在の地に移転したが、家康は、元和二年(1616)増上寺にて
旧芝離宮恩賜庭園" 葬儀を行うようにとの遺言を残し、七十五歳で亡くなった。 寺には、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の将軍の墓所がある。 
大門交差点まで戻り、浜松町駅の東側に行くと、旧芝離宮恩賜庭園がある(右写真)
この地は、芝浜と呼ばれた眺望豊かな海浜だったが、延宝六年(1678)、時の老中、大久保忠朝の邸地となり、 上屋敷を建てる際、約八年をかけて作庭し、楽寿園と名付けら
旧芝離宮恩賜庭園 れた。 明治九年(1876)、皇室の離宮・芝離宮となった。 大正十二年(1923)の関東大震災により、 建物や樹木のほとんどが焼失したが、翌年、昭和天皇御成婚記念として、東京都に下賜され、 庭園の復旧と整備が行なわれ、一般に公開された (右写真)
今や、周りはビルなどで囲まれているが、江戸時代には、その先は海で、 池には海水が入り込むように設計された回遊式築山泉水庭であった (9時〜16時、月休、150円)
更科布屋 当日は熊谷40℃、東京でも36℃を観測したようだが、この公園は別世界で涼しい風が吹いていた。  こうした場所を残さないと、東京はヒートランドになるなあ!!と思いながら、大門交差点まで戻り、昼を過ぎたので、寛政三年創業の石柱が建つ更科布屋に入り、昼食をとった (右写真) 
クーラーが効いているので、しばしの休憩となった。  四十分ほど休憩をし、また街道

屋形船や釣り船" を歩く。 それにしても暑い。 これまでにペットボトルのお茶を二本空にしたが、近くの自販機でもう一本購入した。 
古川に架かる金杉橋の下には、屋形船や釣り船が停泊していた (右写真) 
屋形船を運営する辰金によると、屋形船を始めて三十年というから、昭和五十年代の
芝4丁目交差点 高度成長期に始めたものだろう。 当時は、金杉橋の付近に民家があり、個人商店を
営んでいた人がいたが、どこに行ってしまったのだろうか?? 
芝4丁目交差点で、道は右へ大きくカーブする。 左折すると旧海岸通り、日の出桟橋。  右は三田であるが、ここは交差点を直進 (右写真) 
道の左側を歩くと、日比谷通りとの芝5丁目交差点を越えたところに、三菱ケミカルビル
西郷南州勝海舟会見之地碑 がある。 その隣は、ドコモショップのある第2田町ビル。  二つのビルの間の緑地に、江戸開城西郷南州勝海舟会見之地・西郷吉之助筆と、書かれた石碑があるが、ここは、薩摩藩田町屋敷があった場所で、慶応四年三月十四日、幕府陸軍総裁、勝海舟が西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めたところである (右写真)
十五代将軍、徳川慶喜は、このときすでに、上野寛永寺に謹慎して、恭順の姿勢を示
西郷勝海舟会見絵 していたが、旧幕臣の中には不穏な空気もあり、危機一髪の状態にあった。  これをみごと回避した両者の会見が、百万人が住む江戸を戦火から守ったのである。  勝海舟は、会談が失敗に終わった場合、自ら江戸の町に火をかける覚悟だったといわれ、火消しの神門辰五郎に秘かに命令を下していた、という話も残る (右写真)
三田、高輪辺絵図を見ると、薩摩屋敷の海側はJR田町駅になっているが、蔵屋敷
高輪辺絵図 (現在地)の裏は、当時、海に面した砂浜で、薩摩から送られてくる米などをここで水揚げしていた。 両側のビルの間を入ると、左手に鹿島神社が見える (右写真)
この境内に寄席文字の橘右近書、芝浜囃子の碑がある。 また、その先に小さな本芝公園があるが、ここから数十メートル間が、落語の芝浜で財布を拾う場面の芝浜である。  江戸時代はこのあたりまで海であり、つい最近まで船着き場があり、舟宿もあったようであるが、
大木戸跡 線路とビルに囲まれた狭い公園になってしまった。 街道に戻り、歩くと、札の辻交差点で少し左にカーブする。  右側に御田神社、左に笹川記念館を見ながら進み、右側奥の成覚寺を通り過ぎると、大木戸跡の交差点にでた。  この間、1qほどだろうか??  地下鉄泉岳寺駅手前の左側歩道に、こんもりした数本の木が見えた (右写真)
木の下に石垣が出現したので、ちょっと驚いたが、これが高輪の大木戸跡である。 
大木戸石垣 大木戸は、江戸の治安維持のため、宝永七年(1710)に芝口門に建てられたのが最初であるが、その後、享保九年(1724)に、現在地に移された (右写真)
明治初年に、西側の石垣は取り払われ、現在は、東側の幅5.4m、長さ7.3mの石垣だけ が残されている。  各町内にある町木戸に対し、江戸全体を守る木戸であることから、大木戸と呼ばれたようで、 最初は柵門があり、明六ツに開けて、暮六ツに閉めていたが、その後に門は廃止された。  浮世絵には、石垣のみが描かれているのはそういう
高級マンション 事情がある。 伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点は、この大木戸であることを知った。  江戸時代には、ここから品川宿までは、左側に海が続き、景色が良く月見の名所で、茶屋もたくさんあった、とある。 今は、左側は線路、その先にも建物が続き、海は見えない。 右奥には高級マンション群が続く (右写真)
東海道を歩く旅人は、ここらで送迎をうけたようである。  江戸っ子が東海道の旅に出ると、たいていこのあたりで、旅支度で忘れたことを思い出すようであるが、
泉岳寺中門 お揃いの蛤のむき身しぼりの浴衣で、神田を飛び出してきた東海道中膝栗毛の主人公、弥次と喜多は、幸い忘れた物はなかったが、ただ一つの心がかりは、酒屋と米屋の払いをせずに旅立ったことで、さぞや恨んでいることだろう。  泉岳寺交差点を右折し、坂を上っていくと、正面に泉岳寺の中門が見えてくる (右写真)
右にカーブする坂は、伊皿子坂と呼ばれ、その先には、魚籃(ぎょらん)坂がある。 泉岳
泉岳寺山門 寺は、徳川家康が桶狭間の戦いで討ち死にした今川義元の菩提を弔うため、慶長十七年(1612)、門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して、外桜田(現在のホテルオークラの近く)に創立した曹洞宗の寺で、寛永十八年(1641)の大火で焼失した後、三代将軍家光は、毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じ、泉岳寺を現在地に再建させた (右写真)
徳川家の庇護のもと、創建時から七堂伽藍を完備し、諸国の僧侶二百名近くが、参学
大石内蔵助像 する叢林として、また、曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして、名を馳せた寺だが、それ以上に寺の名を有名にしたのが、赤穂義士である。  天保年間(1830〜1843)に建てられたという重層八脚の山門を入ると、左側に、連判状を手にした大石内蔵助良雄の銅像があった (右写真)
その先の史蹟赤穂義士墓所の石柱を入って行く。 江戸城松の廊下での刃傷事件で無

首洗いの井戸 念の切腹をした浅野内匠頭長短の仇を討つため、元禄十五年(1702)十二月十四日、大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七人は、本所の吉良邸に討ち入り、本懐を遂げた後、上野介の首級を内匠頭の墓前に供えるため、ここまで歩いてやってきたのである。 
吉良上野介の首を洗ったという首洗いの井戸が参道の右側にあった (右写真)
石段を上り、墓所門をくぐると売店があり、線香などを売っていた。 その先右角に、長短
浅野長短の墓 公夫人之墓の石柱があり、浅野内匠頭の妻、阿久利の墓があった。  その奥の右側には、赤穂藩浅野家代々の墓、一番奥に、刃傷事件を起こした赤穂藩三代目藩主、浅野内匠頭長短の墓があった。  誰が建てたのか分らないが、立派な墓地である (右写真)
大石内蔵助らは、吉良上野介の首級を墓前に供え、仇討ちの成功を報告後、大石内蔵
大石内蔵助の墓 助は出頭して、処分を幕府の裁定に委せた。 幕府は、浪士たちを四大名家へお預け
としたが、翌年二月、幕府の幕閣が協議の上、全員切腹という沙汰を行い、預けられた大名家で、全員が切腹。 その亡骸は、浅野長短の墓の脇に、預けられた家別に葬られた。 大石内蔵助の墓は、主君の墓に一番近い、正面奥の右端にあった (右写真)
四十七士の墓は、柵で囲われた中に、づらーと並び壮観であるが、屋根がついている
高輪神社 のは大石親子の墓のみで、質素である。 また、寺坂吉右衛門(信行)は、泉岳寺到着前後に立ち退いたので、ここにあるのは墓ではなく、慰霊碑である。 
街道に戻り、また歩き始めると、右側の小高いところに高輪神社がある (右写真)
江戸時代には、高縄手とよばれた崖下の海沿いの道だったようである。
高輪二丁目交差点を右折し、桂坂を上って行くと、左側に東芝山口記念会館があり、 
高野山東京別院 坂を上った左側には、高野山東京別院があった。  慶長年間(1596〜1615)に、高野山学侶方の江戸在番所として、浅草日輪寺に寄留して開創され、明暦元年(1655)、幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673)、高野山江戸在番所高野寺となったというのが、別院の歴史である (右写真)
隣に高輪警察があった。 東芝記念館まで戻り、脇の細い道に入る。 
東禅寺山門 自動車通行不可とあるこの道には、洞坂という名が付けられていたが、道なりに下っていくと、右側に鬱蒼とした林があり、右側に山門がある寺があった (右写真)
東禅寺(とうぜんじ)という寺で、臨済宗妙心寺派の別格本山、正式には、海上禅林佛日山東禅興聖禅寺である。  幕末にはイギリス公使館として使われたが、文久元年(1861)、水戸藩の浪士によって襲撃され、初代英国大使、ラザフォード・オールコック
東禅寺 は無事だったものの、通訳など数人の犠牲者を出した。 文久弐年にも、 護衛役の信濃松本藩藩士によって再び襲撃されるという事件が起きている。 玄関の柱に当時に傷が残っているとあるが、どれなのか、確認できなかった (右写真)
この寺は、山門を入ると両脇が緑で、いくらか暑さも収まる感じがした。  その突き当たりに三重塔があり、その前にあった石仏は如意輪菩薩か?? 
品川駅創業記念碑 東禅寺を出ると、右側に高輪公園があり、第一京浜に出た。  交通量が多くなったが、江戸時代には、左側の線路から先は海で、眺望もよく、品川駅周辺は、茶屋が賑わったところである。 品川駅は品川区ではなく、港区に属する。 京急品川駅の次の駅が北品川とあるのはそうした理由であろう。 駅前に品川駅創業記念碑があった (右写真)
新橋〜品川間の工事が遅れた為、品川〜横浜間が明治五年五月七日、仮開通を記念
品川プリンスホテル したもので、品川駅はこの日を創業記念日としている。  明治維新により、京都から移ってきた宮家はこのあたりに邸宅を建てたが、敗戦後の宮家廃止により、広大な敷地は民間に売却され、跡地の大部分がホテルになった (右写真)
このように、大規模なシティホテルが多いのはそういう事情による。  駅を過ぎたところで、第一京浜国道と別れ、左手のJRの上を通る八ッ山橋を渡る。 八ッ山橋を渡ると、
八ツ山コミュニティー道路 京浜急行の踏み切りが見えてくる。  踏み切りの手前には、八ツ山コミュニティー道路があり、京橋や新橋の親柱、東海道五十三次をなぞらえた標石が並んでいて、東海道品川宿に誘導するようになっているのだが、あいにく工事中であった (右写真)
誘導ブロックの間を歩き、京浜急行の踏み切りを越えると、品川宿に到着する。 
 

後半に続く( 品 川 宿)








かうんたぁ。