『 中山道を歩く  (8) - 高崎宿・板鼻宿  』





(13)高崎宿

倉賀野宿の西のはずれ、安楽寺から四百メートル歩くと、スーパーフレッセイがあり、 その先左側の調剤薬局のクスリのマルエ左横に入ると畑地の先に浅間山(せんげんやま)古墳がある。 

  * 「 浅間山古墳は前方後円墳で全長百七十六メートル。  木が茂り薮が深いので上に登るのは難しく外形を見るだけ。  以前は街道からよく 見えたようだが、家が建って気が付かないと通りすぎてしまうところである。 

「旧中山道」の標識のある県道121号を歩く。 ここから高崎駅前までは中山道の史跡 は残っていないので、正六交叉点を越えた次の信号交叉点を左折し、六百メートル先の 常世神社を目指す。 上佐野町第二公民館のさき、上越新幹線の線路の下にある 常世神社は佐野常世の屋敷跡といわれる。 左手には烏川が流れる佐野窪町がある。 

  *  「 上佐野町は謡曲「 鉢の木 」で有名な佐野源左衛門常世が 所領を横領された後、住みついた所と言われる。 佐野船橋歌碑は文政十年(1727)、 供養と道しるべのために建てられたもので、万葉集十四東歌上野国の歌の一首 「 かみ津けの 佐野の舩はし とりはなし 親はさくれと わハさかるかへ 」 と いうの歌が刻まれている。 碑面上には舩木観音とあり、下に馬頭観音像が陰刻されて いる。 江戸時代の旅行案内、木曾名所図会には 「 佐野むらにあり。 むかし烏川を 船橋にて渡せし、その橋をつなぎし榎の大樹今にあり、木かげに舟木の観音の石仏あり 」  と記されている。 烏川は現在はもっと西を流れているが、昔はこのあたりが川岸 だったようで、ここから降りて、佐野の渡しで、舟を繋いだ橋を渡ったので あろう。 」  

その南東には定家神社がある。  学問の神として崇敬されるとあったが、 新古今集の藤原定家の歌「 駒とめて 袖打はらふ かげもなし さののわたりの  雪の夕暮 」 と関係あるのかは分からなかった。 
定家神社から新幹線に沿った道を歩くが、左下には上信線の佐野のわたし駅が見える。  ここから約一キロ行くと琴平神社前交叉点に出る。  その西に荘巌寺と琴平神社がある。 
荘厳寺は真言宗のお寺で、飯玉山荘厳寺で、寺の前には庚申塔や地蔵像が建っていた。 

浅間山古墳
     旧中山道の121号      楠森橋
浅間山古墳
旧中山道の121号
荘巌寺


隣にあるのが琴平神社である。 この神社の誕生の話は面白い。 

  *   説明板には 「 琴平神社は多仲金比羅とも呼ばれる。  古来、お稲荷様が祀られていたが、文化年間、高崎藩士の寺田宗有が一昼夜で 讃岐から勧請した伝えられる。 」 とある。  
  それにしても一夜でお稲荷さんから讃岐金比羅さんに変えられたのには参拝者は驚いた ことだろう。  地元の人の話では、商売の神様として信仰を集め、縁日には参詣人が 多く屋台の店が並ぶとのことである。 

この神社で面白いのは仁王門があることである。  表側には神官像が祀られ、裏側には仁王像が収められていたが、神仏混淆の名残りで あろう。 隣にある飯玉山荘厳寺と関係があったのかも知れない。 

琴平神社
     神官像      仁王像
琴平神社鳥居
神官像
仁王像


琴平神社に上り参拝した。 本殿脇には絵馬の他、商店主が送った大きな掲額が あった。
道路の下をくぐり抜けると、鎌倉街道記念碑を見付けた。 
鎌倉街道が通っていたことを示す記念碑で 「 高崎から藤岡、児玉、寄居を経て、 笛吹峠を越え、入間川を渡り、所沢、藤沢を経て、鎌倉入りをしていた。 」 と 記されていた。 

琴平神社
     琴平宮奉納額      鎌倉街道記念碑
琴平神社
大きな掲額
鎌倉街道記念碑


街道に戻るため、城南大橋交叉点から上佐野西交叉点まで国道17号、そこで左の道に 入り、立体交差の和田多中町の交叉点の左側に出て中山道(県道25号)を進む。 
新後閑町交叉点の先に上越新幹線の高架があり、高崎の市街地に入る。 
上毛電鉄を越えると和田町(江戸時代は新喜町)でこのあたりから高崎宿である。 
高崎宿は倉賀野宿から一里三十町の距離で、江戸から十三番目の宿場である。 

  *  「 鎌倉時代、高崎には和田氏によって和田城が築かれ、 鎌倉街道の宿駅として栄えていた。  慶長三年(1598)井伊直政が箕輪から城を移し、地名も高崎とし近世の城下町が発達する。  中山道は新喜町(現在の和田町)、南町、新町、通町(安国寺・大信寺前通り)、白銀町、 元紺屋町、北通町、九蔵町、椿町、本町を通っていたが、その後の道路改修で 現在の広い道に吸収されてしまっている。

高崎駅の北方の交叉点近くにある新町交番の裏に諏訪神社がある。 なまこ壁のある 土蔵造りの小さな神社で、建物に龍の絡まる鳥居が張り付けてある。  火事の多かった高崎の町を示し、社殿には江戸時代の焼け痕が残っている。 

  *  説明板「諏訪神社本殿及宝石」  
「 当社は太田蜀山人が享和二年(1802)に壬戌紀行で「諏訪大明神の社はちいさき土蔵 づくり云々」と記すところである。 当地は度重なる火災を受けた街で、特に風下 に当たる新町等の諏訪神社の氏子は 火災から社を守るために、この瓦葺(旧)と塗屋と いう土蔵づくりに工夫をしたものであろうと思われる。この独特な神社建築は極めて めずらしく、かつ「火事の街・高崎」を示す好例であって貴重である。社殿は文化四年 (1807)の火災と推定できる焼け痕を残している。社殿の中には「宝石」と称する丸い 石がある。宝石は、この社が箕輪にあった頃に諏訪社を信仰する真田氏によって招請 されたものだと「高崎志」に記されている。慶長四年(1599)に高崎に移るに際し、一緒 に移されたものであろう。   高崎市教育委員会  」  

和田多中町交叉点
     新町交叉点      諏訪神社本殿
和田多中町交叉点
新町交叉点
諏訪神社本殿


  天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口3235人(男1735人女1500人)、家数837軒、 旅籠15軒(大4軒、中5軒、小6軒)と人口は多いのに、高崎宿には本陣や脇本陣が なく、旅籠もわずか十五軒だった。 
高崎宿ができた頃は徳川譜代大名でも武門の誉れ高い井伊家の城下町であったので、 参勤交代で往来する大名は恐れをなして、高崎宿に泊まることを避けたため、本陣や 脇本陣は商売が成り立たず、すぐに廃業してしまった。 
新田町交叉点の西には興禅寺がある。 新田義重を開基として治承元年に創建された 曹洞宗の寺院で、高崎市内では最も由緒ある寺である。 井伊長政が高崎城を築いた際、 境内をせばまれ、その後、大内松平氏が城主になった天保年間に、現在地に 移された。 
興禅寺から西に向うと高崎公園がある。 公園の北側に水堀があり、その北には 高崎市役所がある。 
高崎市役所が高崎城の跡だが、北側に石垣の一部が残っているだけである。 
高崎市は戦災で町が焼失したため、古いものはほとんど残っていない。 

興禅寺
     高崎市役所      高崎城の跡
興禅寺
高い建物・高崎市役所
高崎城の跡


高崎公園の南に源頼政を祀る頼政神社がある。 

  *  「 頼政神社は高崎藩主の松平右京太夫輝貞が 元禄十一年(1698)、祖先の源頼政を祀ったのがはじめである。 大河内松平氏の祖先 とされる源頼政は源頼光の玄孫で、保元・平治の乱で功をたてた武人であり、また、 源三位と称せられた歌人でもあった。 」  

境内にあった ピンクと黒い石できた記念碑は内村鑑三の碑である。 

  *  「 内村鑑三は、万延2年、高崎藩の江戸の武士長屋に生まれ た。 明治から昭和初期を通じて活躍したキリスト教徒で、無教会キリスト教の創始者と して知られ、国木田独歩、正宗白鳥、有島武郎、志賀直哉、小山内薫など、作家や 戯曲家に精神的な影響を与えた。  」  

高崎市役所前交叉点を東に進み、あら町交叉点から連雀町交叉点へと中山道を北上 する。 連雀バス停の右側の小路を東に行くと大信寺がある。 

  *  「 三代将軍家光の弟忠長は寛永九年(1632)高崎城内に幽閉され、 高崎城主安藤重長が赦免を哀訴したが認められず、寛永十年(1633)切腹を命じられた。  忠長は切腹をせず、自刃した。 二十八才の若さであった。 大信寺の十一世、心誉 上人がこの地に埋葬した。 死後四十三年後の延宝三年(1675)四代将軍家綱の時、免罪 され、墓石を建立することができた。このため、大信寺はこれまでの七石に更に 百石の加増を受けた。 忠長の墓は高さ二・三メートル余の五輪塔で、周囲に石の 玉垣がむぐらされ、さらに鎖でつながされていたことから、鎖のお霊屋と呼ばれ ていた。 」  

「お江戸みたけりゃ高崎田町」と歌われ、太田南畝も壬戌紀行(じんじゅつきこう)で 「 江戸にかへりし心地ぞする 」 書いている。 中山道で碓井峠を越える、あるいは 三国峠を越えて初めての大都会の雰囲気があったのだろう。 
田町交叉点を北上し、次の交叉点を右折すると左側に善念寺の石柱が建っていて、その 奥に本堂がある。 

  *  「 善念寺は法道山弘真院と号し、天文九年(1540)和田信輝が開基、 弟の正故和尚が開山した浄土宗の寺院で本尊は木造阿弥陀如来立像である。  高さ九十五・五センチ、鎌倉時代初期の作と推定され、県の文化財に指定されている。  平成9年、痛みの修理を行った際に像内から文書が発見され、明暦元年(1655)に善念寺 七世三誉上人の時代に修理が行われたことが分かった。 」  

頼政神社
     内村鑑三の碑      善念寺
頼政神社
内村鑑三の碑
善念寺


中山道はその先の本町三丁目交叉点まで道の幅が広いが、江戸時代のままという。 
ここは三国街道との分かれ(追分)で、 右に行くと、渋川、沼田を経て三国峠を越え、 長岡から出雲崎に出て、佐渡へ渡る、江戸と佐渡金山を結ぶ重要な道だった。 
中山道は交叉点を左折する。 本町一丁目交叉点に出ると正面は赤坂町で、右側に長松寺、 左側に恵徳寺がある。 

  *  「 赤坂山長松寺はかなり大きな寺院で、本堂は火災で焼失した ものを寛政元年(1789)に再建したと伝えられている。  本堂の天井に描かれた二つの絵 はその時描かれたもので、一点は龍、もう一点は天女である。 作者の狩野探雲 (かのうたんうん)は野上村(現富岡市野上)の出で、狩野派の狩野探林の弟子として、 江戸城西の丸普請の際、障壁画の製作に従事した。 天井画が描かれたのは六十五歳〜 六十七歳とあったので晩年の作と思ったが、八十八歳まで生き長寿を全うしていた。  涅槃図はその晩年(八十一歳)の作である。
この寺に松平忠長切腹の間がある。  松平忠長は二代将軍徳川秀忠の二男で、駿河、遠江、甲斐の三国五十五万石 を与えられ駿河大納言に任じられたが、将軍となった家光に切腹を言い渡され、 廿八歳という若さでなくなった。  高崎での経緯は大信寺の項の通りである。 」  

恵徳禅寺は曹洞宗の寺院で説明板に詳しく記されていた。 

  *  説明板 「曹洞宗 恵徳禅寺」  
「 天正年間(1573〜1592)井伊直政公が伯母である恵徳院宗貞尼菩提の為、箕輪日向峰 に一宇を創立し松陰山恵徳院と称した。 慶長三年(1598)直政公和田城入城の折に 此の寺を城北榎森に移し松陰山東向山恵徳寺と改めた当時寺領弐拾石五斗の御朱印地で あった。後の城主酒井家次公の時慶長九年(1604)〜元和二年(1606)の間に現在地「赤坂」 に移る。 
群馬郡箕郷町瀧澤寺第四世勅特賜大光普照禅師龍山永潭大和尚に依り開山。この禅師は 箕輪在住の頃より直政公の信任厚く或る時 「 和田の名称を松崎と変えたいが 」 の 問に、「 松は枯れる事があるが高さには限りがない。 その意をとって高崎は いかがか 」 と進言した処、直政公は大いに喜び、「高崎」と命名したと云う。 
本像は釈迦牟尼部仏を安置し奉る。 
  平成元年五月吉日  恵徳二十九世 大峰達雄 書山口勇 石匠永井昭二  」 

本町三丁目交叉点
     長松寺      恵徳禅寺
本町三丁目交叉点
長松寺
恵徳禅寺


恵徳寺の先の交叉点を右折して北に進むと君が代橋東交叉点で国道17号に合流 する。 高崎宿はここで終わる。 




(14)板鼻宿

烏川に架かる君が代橋を右側の歩行者用の橋で渡るが、このあたりは赤城山や榛名山 の展望がよい。 
烏川に架かる君ガ代橋は明治天皇が行幸された時にこの橋を利用したことから名である 。 
広重の 「 木曽街道六拾九次之内高崎 」 の絵は、このあたりが描かれている。 

  *  「 右に榛名山を望むのどかな渡し場の風景が描かれ、今でも 赤城山、榛名山の展望が良いところである。 
烏川は最初は舟渡しだったが、明和七年(1770)に、橋が架けられ、以後、旅人一人五文、 荷駄一駄五文、冬季は八文の橋銭が課せられた。 」  

橋の先に下に降りられる道があり、降りて行くと 万日堂がある。 

  * 説明板「万日堂」  
「 元は国道十八号南側にあったものを国道拡幅工事のため反対側の現在地に移動 した。 本尊としてみかえり阿弥陀像が安置されている。 これは顔が 左向きやや下方を見ているため、寝釈迦(涅槃像)ではないかという説もある。 みかえり阿弥陀 は日本全国でも五体しかわかっていない。 」   

君が代橋
     烏川遠望      万日堂
君が代橋(振り返って写す)
烏川遠望
万日堂


中山道は君が代橋西交叉点で、国道と別れて右側の道(国道406号)に入る。 下豊岡 交叉点は直進し、豊岡バス停の先の三叉路を左折する。この道が旧中山道である。  直進する道は榛名草津道で、分岐点に自然石の「信州分去れ道標」があるはずだが、 気が付かず通り過ぎた。 入るとすぐ右側に八坂神社の石祠と「榛名山草津温泉…」 と彫られた石の道標がある。 のんびりと七百メートル歩くと右側に若宮八幡宮が ある。 大田南畝の壬戌紀行には 「 鐘楼ありて木立物ふりたり 」 と書かれている 神社で、わりと広い境内を保ち、 物ふりたりという雰囲気は今でもあるが、 かってあったといわれる鐘楼はなくなっていた。 

 *  「 若宮八幡宮は永承六年(1051)源頼義、義家父子が奥州の安倍氏 の叛乱を鎮圧する途次、豊岡の地に仮陣屋を設け、しばらく逗留し、軍勢を集めると共 に当社を建立し、戦勝後、立ち寄り、戦勝報告をするとともに、額を奉納した、という いわれがある神社である。 寛文二年(1662)に、社殿を大修築している。 
諸国道中旅鏡に 「 八幡太郎腰掛け石の旧跡なり 」 と紹介されていて、 案内板にも義家の腰掛石があるとあったが、表示がないので、探せなかった。 」 

その先は上豊岡の集落で、若宮八幡宮から二百五十メートル程の左側に白壁の蔵と 昔のままの門構えの家がある。 江戸時代、上豊岡茶屋本陣だった飯野家である。 

 *  「 茶屋本陣 とは江戸時代の上級武士あるいは公卿の休憩場所として設けられたもので、現在も 子孫の方が住居として使われているが、昔の面影を残っていて、県の史跡に指定されて いる。 」  

手前にだるまを作る松本商店があり、 店先には型から取り出し、赤く塗られた小さなだるまが干されていた。 

若宮八幡宮
     上豊岡茶屋本陣      だるま工房
若宮八幡宮
上豊岡茶屋本陣
だるま工房


旧本陣のすぐ先みぎがわに二十三夜塔と馬頭観音碑がある。 国道18号に合流 すると横断歩道を渡り、烏川側に行くと藤塚の一里塚がある。 一対残る一里塚は 貴重である。 

 * 「 藤塚一里塚は江戸から二十八里目の一里塚である。 群馬県で 唯一残る一里塚で、左側(南塚)は一辺約九メートル、角が丸い正方形をしていたが、 旧状をよくとどめている。 その上には推定樹齢二百年の見事な榎が元気に茂っていた。  右側(北塚)は道路拡幅工事の際、 右側の歩道の脇に移転されたので、塚の形は壊され、富士塚として小さな社 (富士浅間神社)が祀られている。 

国道を歩き少林山入口交叉点の先、左手の鼻高橋を渡り、南東五百メートルのところに 少林山達磨寺がある。 

 * 「 達磨寺は一了行者が達磨大師の像を彫って、お堂に安置したのが達磨寺の始まり といわれ、元禄十年(1696)、前橋城主酒井氏が帰化僧、東皐心越禅師を迎え、寺を 建立した。 有名な張子の達磨は九代東獄和尚の時に作り始めた、と伝えられている。 」  

達磨寺には寄らず歩いていくと北側に大きな鳥居が見える。 上野国一社八幡宮の 鳥居で社殿までは七百メートル位、十分ほどの距離である。 

藤塚一里塚南塚
     藤塚一里塚北塚      八幡宮の大鳥居
藤塚一里塚南塚
藤塚一里塚北塚
八幡宮の大鳥居


信越線の線路を越えると御神塔が建ち、神社の山門が見えた。 神仏習合時代の形式を 残した神社でかっては神像と仁王像が祀られていたのかもしれない。 
石段を上ると高台で、神社は鬱蒼たる社叢に囲まれ、境内も広々としていた。 

 * 「 上野国一社八幡宮の祭神は品陀和気命(応神天皇)、並神は 息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命である。 天徳元年(957)に山城国の男山八幡を勧請し、一国 一社の八幡宮として広く尊崇された古社で、 「 八幡太郎奥州下向の時此所に一宿あり し旧跡 」 と伝えられ、戦国時代に戦火で焼けたが、幕府の崇敬篤く、元禄時代に 社殿から末社に至るまで建て直された。 神仏習合時代の形式を残した神社で、義家の 甲冑が奉納されている。 」  

本殿は天地権現造りで、宝暦七年(1757)の建立である。 奉納された絵馬や算額が 掲げられていたが、算額は色や字がすっかり消え見えなくなっていた。 

 * 「 江戸時代の寛文年間の頃から和算が発達し、これを研究する 人達が数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、 更に勉学に励むことを祈願して奉納 したのが算額である。 

江戸時代までは神仏習合で、神徳寺もあったようで、明治維新までは神宮寺の神徳寺 を中心に、社家、社僧二十八家が祭祀を司った、とある。 境内に立派な鐘楼が 残っているのは神仏習合時代の名残りであろう。 

八幡宮の神門
     八幡宮の本殿      八幡宮の鐘楼
八幡宮の神門
八幡宮の本殿
八幡宮の鐘楼


国道に戻り、西濃運輸の先の板鼻東交叉点の先の橋の上に 「寒念仏(かねつ)橋供養塔」が建っている。 

 * 説明板 「寒念仏橋供養塔」 
「 板鼻宿の念仏講の人達が寒念仏供養で得た報謝金を蓄積して石橋を改修し、 旅人の利便に供した。 年数が経って、橋が破損したため、享和二年(1802)、木嶋七郎 左衛門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石に改修し、その近くに「供養記念塔」を建てて 後世に残した。 地元では「かねつばし」 と呼んでいる。 正面に 「 坂東 秩父 西国 橋供養 」 、右側面に 「 享和二年壬戌春三月 木嶋七郎左衛門昆頼 」、 裏面に 「 信州伊那郡橋嶋村 石工 三澤染右衛門吉徳 」 とあり、左側面には 「 奉若先考遺命夙夜欽念不敢・・・・・ 」 と建立の趣旨が刻まれている。  国道十八号の拡幅工事のため、板鼻堰用水路沿いにあったものをわずかに現在地に 移動した。 」 

大田南畝は壬戌紀行(じんじゅうきこう)の中で 「 板鼻川の橋を渡れば板鼻駅 むげに近し。 駅舎をいでて麦畑の中を行けば石橋。 是は新建石橋、木嶋七郎左衛門 供養塔といえる碑たてる。 石佛をつくらんよりは橋たてし功徳はまさりけるべし。 」 と、褒めている。 寒念仏の民間信仰は室町中期以降に始まるといわれ、江戸中期以降、 各地に講中による寒念仏供養塔が建てられている。 

 * 「 この供養塔は当時流行した寒念仏講が、この宿場まで伝播して いたことを示すものといえよう。  寒念仏(かんねんぶつ)は寒中三十日間、寒夜に諸所を巡りながら 鉦をたたき念仏を唱える行で、元来、僧侶の修行のひとつであったが、温暖な時節の 念仏行より功徳が大と信じられて、民間でも行われるようになった。  その他、講中が村のお堂に集まって浄土和讃(ご詠歌)や念仏を唱えるという方法も あった。   」  

板鼻下町交叉点の三叉路で国道と別れて、右の道に入りその先の板鼻下町入口バス停 の三叉路を左(県道137号)に入る。 直進すると板鼻宿である。 
板鼻宿は高崎宿から一里三十丁、関東と信濃の国境の碓氷峠の登り口に位置し、 古来武将の往来が盛んで、源義経が金売吉次と奥州に下る途中、伊勢三郎と出会ったと いう伝説が残る地である。 
板鼻川橋を渡ってすぐの右側の民家の一角にかわいい双体道祖神と左に「天満宮」の石碑、 右に享保二十一年の御神と刻まれた石碑が祀られている。  

 * 「 板鼻宿周辺の中山道には男女二体の仲の良い双体道祖神 が見られる。 道祖神は信州に多く、群馬県にもあるが、ここから草津や榛名にかけて は双体道祖神像を多く見かける。 形態は信州に多い祝言像で、男神と女神が瓢と盃を 持った愛らしい像である。 

寒念仏橋供養塔
     供養塔      双体道祖神等
寒念仏橋供養塔
寒念仏橋供養塔
双体道祖神等


その先の右側の入沢製作所の一角に庚申塔と奉供養寒念碑と大小の地蔵像が祀られて いる。 
信越線の踏切を渡ると板鼻宿二丁目交叉点の角に文政十二年建立の榛名道の道標が ある。  正面に「やはたみち」南面には 「 榛名 くさつ いかほ 河原湯 かねこ  澤たり 志ぶ川 みち 」 とあるようである。 
板鼻宿は東西十町(約1100m)の長さで、天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口 1422人(男649人女773人)、家数312軒、本陣1、脇本陣2、旅籠54軒(大14軒、 中18軒、小22軒)であった。  旅籠が多いのは鷹の巣山の下に碓井川の渡し場があったからである。 

 * 「 徒歩渡しの有名なところで、増水すると川止めになった。  そのため川止にになると旅人は多数逗留して板鼻宿は繁盛した。 」  

カツ丼の老舗板鼻館という店はタルタルカツ丼を登録商標する位有名な店であるが、 江戸時代には、角菱屋という名で旅籠を営んでいたという。 
中に入ってみたい気もしたが、食事済みなのでパス。 
中山道から外れ 板鼻館の角を右折し県道に出ると国道の反対側に称名寺がある。  門の脇の左側には石仏が並び、小さなお堂がある。   右側の茂みには法華経千部読誦供養搭、庚申搭、念仏供養搭や川島蘭洲書の馬頭観世音 などが並べられていた。  

庚申塔と奉供養寒念碑等
     木島家本陣跡      土蔵造りの家
庚申塔と奉供養寒念碑等
旧旅籠の板鼻館
称名寺


鐘楼に吊るされた梵鐘は宝永五年(1708)、地元の鋳物師合井兵部重久の手によるもので、 戦時中の供出を免かれている。 鐘楼前には佐野源左衛門が手植えした紅葉は枯れたが、 その三代目という楓があった。 

 * 「 境内には江戸時代や明治の古い墓石が所狭しと並べられていて、 その中にはいろいろな石碑や石仏も混ざっていた。  これを見ても古い寺であることが 分かった。 
古来、板鼻は関東と信濃の境で多くの武将や軍馬が往来したところで、源義経が金売吉次 と奥州に下るとき、伊勢三郎と出合った場所という伝説があり、この寺の裏あたりに 伊勢三郎屋敷があったと伝えられている。 」  
中山道に戻る。 このあたりに福田副本陣があったとされるが、その跡は確認はできな かった。  板鼻宿は道路が広げられたこともあり、古い建物はほとんどない。 
板鼻交叉点を越えると右側に板鼻公民館がある。 板鼻公民館は木島家本陣跡で、 当時の本陣書院が敷地の裏手に残され、一般公開されている。 
木島家本陣は幕末、皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁の折、宿泊所となったところで、興味が はあったが、休館日であった。 
  公民館の西隣の花屋は江戸時代末期の建物で、ちょうちん屋と呼ばれる土蔵造りの家で ある。 戸が土で出来ていて、昔は火事の時、六枚の戸の隙間に味噌を塗り防火とした という。 

称名寺鐘楼
     板鼻公民館(本陣跡)      土蔵造りの家
称名寺鐘楼
板鼻公民館(本陣跡)
江戸末期の土蔵造りの家


公民館から少し先の左側にいたはな公園があるが、ここが江戸時代の牛宿跡である。 

 * 「 牛宿とは荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、 公儀、乗馬役人の定宿でもあった。 この場所には以前は十一屋酒造店という造り酒屋が あり、煉瓦造りの煙突を備えた酒倉があった。 当時は牛宿の帳付場や宰領部屋 が残っていて、裏手には牛小屋があったという。 バブル後に廃業となり、土地、建物 は処分され、現在は公園などになっている。 」 

その先には双体道祖神の他、猿田彦、青面金剛碑があった。 
  民家の脇を用水流れていた。 

 * 「 この用水は板鼻堰(せき)といい、九十九川と碓氷川の合流地点 から水を取り、安中東部と高崎西部に配水し烏川に流している。  延べ15kmに及ぶ用水であるが、慶長年間中期から後期に開窄されたとあるので、 四百年前から水が流れ続けているのである。 各家に引き込まれているので、昔は野菜などを洗ったり洗濯したりと、 生活に使われていた。 」  

いたはな公園
     双体道祖神      板鼻堰
いたはな公園(牛宿跡)
牛宿前の双体道祖神
板鼻堰


ここで板鼻宿は終わる。 

板鼻宿を出ると鷹之巣橋東交叉点で県道に号流する。   鷹之巣橋東交叉点の北方に鷹巣神社があるが、鷹巣山には鷹巣城があった。 

* 「 県道171号線は国道18号にバイパスができたため県道になって いるが、以前は国道である。 山が崖になっているのも、国道を拡張する ために削られたと思われ、痛々しい感じがしたが、江戸時代には道に塞がるように 迫り出していたのだろう。  この山には鷹の巣城があったといわれる。  武田信玄が永禄年間に築き、依田肥前守に守らせた板鼻城の出城(出丸)が鷹の巣城と いうのが正しそうである。 」  

江戸時代の中山道は橋の百メートル上流で、碓井川を渡り、中宿に入り、そのまま 直進し、再び碓井川を渡って安中宿へ向かっていた。 

* 「 鷹の巣橋の手前、右側の川岸を歩くと「渡船場跡」と書かれた 紙がビニールの袋に入れられ貼られていて、その先に橋脚の跡が残っていた。  煉瓦の上にコンクリートで補強されていたことを考えると、明治か大正に橋が架けられた たものと考える。 国道の改修により、現在の鷹の巣橋が造られた後、廃橋になった と思われる。 なお、江戸時代は夏は徒歩渡し、冬場は仮橋でしたが、延享四年(1747) には土橋が架けられた。  」  

道を引き返し、橋を渡ると左手には東邦亜鉛の精錬所の煙突や太い配管が鉄の塊のように まるで悪の巣窟を思い出させる。 
中宿交叉点で県道と別れ、右折し突き当たりの道を左折する。  右側に諏訪神社があるが、境内に明治天皇の腰掛け石がある。 明治天皇が明治十一年 (1878)北陸東海御巡幸の際、この石に腰掛けて休息をとられたと伝わる。 

旧橋跡
     東邦亜鉛      諏訪神社
旧橋跡
東邦亜鉛の姿は異様
諏訪神社


中宿集落には古い家が多く残っているが、傷むのに任せている感じがする。  「天台宗清水山蓮華寺」の石柱と「栄朝禅師木像」の標柱があり、奥にお堂が 見える。 

* 「 蓮華寺は1231年、臨済宗の開祖、栄西の高弟栄朝が開山。  栄朝がここで野宿したところ、凍った池から突如蓮の花がせり上がってきたと いわれる。 」  

中宿公民館の蔵のあたりが江戸から数えて二十九番目の一里塚だが、表示もなにも ない。 
集落の中程の道の左側角に 大きな字で「庚申塔」と書かれた石柱があり、高龍書にて左横に「従是一宮大日街道」 と彫られている。 これは富岡市一の宮にある貫前神社(ぬきさきじんじゃ)への道しる べを兼ねた庚申塔で、享和二年(1802)に建立されたものである。 
その先のY字路の左の道を進むと国道に合流して久芳橋で碓井川を渡るが、  久芳橋のたもとにJR安中駅がある。 
今回はここまでとして、次回はここから安中宿と松井田宿を目指す。 

蓮華寺
     庚申塔      安中駅前
蓮華寺
貫前神社道標庚申塔
安中駅前



(所要時間) 
倉賀野宿→(2時間)→高崎宿→(1時間)→君が代橋→(1時間25分)→達磨寺→(1時間)→板鼻宿
→(20分)→安中駅


高崎宿  群馬県高崎市連雀町  JR高崎線高崎駅下車。  
板鼻宿  群馬県安中市板鼻  JR信越本線線安中駅下車タクシーで5分。  




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かうんたぁ。