『 中山道を歩く  (9) - 安中宿・松井田宿・横川関所  』





(15)安中宿

この先、軽井沢宿までは安中駅〜横川駅と横川駅から軽井沢の二度に分けて 歩いた。  
JR安中駅を出発し、駅前の久芳橋を渡ると安中宿の入口、下野尻になる。 

* 「 中山道の前身は古代の官道東山道である。 信濃国から碓井峠を 越え、上野国に入り、坂元駅(さかもとうまや)から野後駅(のじりうまや)、群馬駅へと 通じていた。 その野後駅が今日の安中とされる。 
この地が安中になったのは永禄二年(1559)に越後の新発田から移った安中氏がここに 築城して安中城にしたことによる。 しかし、野後の名は野尻として残し、上下二村 に分れた。 」  

安中宿の江戸側入口(下の木戸)は右側の床屋の前に「中山道安中宿」と「下の木戸跡」 の標柱が立っている。 

* 「 戦国時代にこの地は碓井川と九十九川(つくもがわ)に挟まれた 要害の地であった為、安中城は武田氏と北条氏の争奪の地でした。永禄二年(1559)越後の 安中忠政が安中城を築き、元和元年(1615)井伊直政の子、直勝が城主となり、町並を 整備し安中宿が出来上がりました。 
安中宿は安中藩三万石の城下町でしたが、宿場経営が困窮し、飯盛女の設置を再三願い 出るも幕末まで許可されませんでした。 」 

安中宿の長さは四町(約450m)と短い。 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると 安中宿の宿内人口は348人(男162人、女186人)、家数は64軒で、本陣1、脇本陣2、 旅籠17軒(大3軒、中8軒、小6軒)と、宿場の規模は板鼻よりずっと小さい。 
宿並に入って一本目の道を右折すると熊野神社がある。 

* 「 熊野神社は永禄二年(1559)安中忠政が安中城を築き、鬼門を 守る神として熊野神社を祀り、安中藩の総鎮守として歴代の藩主に篤く崇敬され ました。 」  

境内の大ケヤキは推定樹齢千年で、安中市天然記念物で、このケヤキに祈願 するとイボが取れるといわれる。 

下野尻の町並み
     熊野神社      熊野神社大ケヤキ
下野尻の町並み
熊野神社
熊野神社の大ケヤキ


街道に戻るると伝馬町左側の安中郵便局の敷地に「安中本陣跡」の石碑が立って いる。 安中本陣は須藤家が勤め、建坪は百九十二坪で、問屋を兼ねていた。 
郵便局の向かいを右折し細い道を歩くと、突き当たりに大きな「庚申塔」があり、 石段の奥に「浄土宗無澄山唐梅院大泉寺」の石柱があ立っている。 
境内には井伊直政の正室で、安中藩初代藩主井伊直勝の母(唐梅院)の墓碑(五輪塔)と 直勝の妻の墓碑(五輪塔)がある。 
街道に戻り、伝馬町交叉点を右折ると突き当たり手前の右側に「町口門番所」の標識がある。  突き当たりの正面には旧碓氷郡役所がある。 

* 「 明治十一年に法律が公布され、郡が地理的な名称から行政区画 となった。  群馬県では十一の郡役所が設けられたが、碓氷郡役所は旧安中本陣に 置かれた。  十年後の明治二十一年に現在地に移転したが、明治四十三年の火災で焼失、 翌年建て直されたのが現在の建物である。  大正十二年に郡制が廃止になり、 大正十五年郡役所は廃止になった。 」 

安中郵便局(本陣跡)
     唐梅院大泉寺      旧碓氷郡役所
安中郵便局(本陣跡)
唐梅院大泉寺
旧碓氷郡役所


左側の木立の中にあるのは日本キリスト教団安中教会である。 

* 「 礼拝堂は新島襄を記念して建てられたもので、正式には「新島襄記念会堂」 という。  大谷石造の建物は外観はゴシック様式で、正面玄関の左側に鐘塔がある。  しーんとして威厳がある雰囲気の教会である。  」  

安中教会の脇の道を北に向かう。 このあたりが安中城の広小路で、 その裏にある双葉幼稚園は大手門入口だった。  その先の空き地には「堀跡」の表示が ある。 

* 「 安中周辺は信濃と上野の要害の地になっていたので、 安中氏が築いた安中城は越後上杉氏、相模北条氏と甲斐の武田氏の争奪の的になった。  安中氏が長篠の戦いで全滅してから、一時は廃城になっていたが、慶長十九年(1596)、 井伊直勝が城を再築し移り住んだ。 安中藩の誕生である。 その後、城主の入れ替え はあったが、明治まで続いた。  」  

安中城は碓氷川と九十九川に挟まれた鞍部にあり、現在の小学校と市文化センター あたりにあったようである。 安中小学校の正門脇に「安中城址」の石碑が 立っている。 
駐車場の先の一角に「安中藩安政遠足之碑」が立っている。 

* 「 遠足(とおあし)とはマラソンのことで、安中が日本のマラソン の発祥の地である。 安政弐年(1855)、藩主の板倉勝明が藩士の心身鍛錬のために 始めたもので、今でも毎年五月第二日曜日に、ここを出発点として、碓氷峠の熊野権現 まで、七里余りを走る「遠足マラソン 」 が実施されている。 」 

安中教会
     安中城跡      安中藩安政遠足之碑
安中教会
市文化センター(安中城跡)
安中藩安政遠足之碑


小学校の次の交叉点の右側に「大名小路」の標識があり、城下町らしいたたずまい を残していて、その先の左側に旧安中藩郡奉行役宅(猪狩家)がある。 

* 「 猪狩幾右衛門懐忠が幕末から明治初期まで郡奉行を勤め、 住んでいた家で、その子孫から寄贈され、復元されたものである。 長屋門の奥にある 母屋はこの地方では珍しい曲屋で、上段の間、土間、式台付きの玄関などを備えていて、 茅葺きの立派な建物である。  」 

奉行役宅のすぐ先に旧安中藩武家長屋がある。 

* 「 安中城西門のすぐ東にあった四軒長屋で、その東隣には 五軒長屋があったとある。 四軒長屋は間口八間、六間、六間、六間の長屋である。 

これらの奉行屋敷と武家長屋は安中藩の右筆の残した図面をもとに復元したもの とあったが、当時の様子が窺えて、貴重なものに思えた。 
   中山道に戻ると群馬銀行安中支店の横に「安中宿高札場跡」の標識がある。 
その先、安中地域福祉支援センター前に「安中宿上ノ木戸跡」の標識がある。 
谷津坂を上ると右側に蔵造りのサカエ薬局、蔵造りの有田屋は天保三年創業の味噌醤油 醸造業の老舗である。 
三代目の湯浅治郎は安中で最初に洗礼を受けた三十人の一人で、新島襄が最も信頼した 後援者でした。 

旧安中藩郡奉行役宅
     旧安中藩武家長屋      蔵造りの有田屋
旧安中藩郡奉行役宅
旧安中藩武家長屋
蔵造りの有田屋


有田屋の道の反対、サトー印刷の先の石の倉庫前に「便覧舎跡」の石柱が立って いる。 

* 「 明治五年(1872)湯浅治郎が私財を投げうって日本初の私設 図書館を創設した。 明治二十八年(1893)に全焼してしまった。 」  

そこから五分程先左側の安中上野尻郵便局前に「史跡安中大木戸跡」の石碑がある。  ここは安中宿の京方の入口である。 
郵便局の反対側の奥に愛宕神社があり、その先の交叉点を越えたところの 左側に同志社大学の創始者の新島襄の旧宅入口の案内があるので、立ち寄る。 
正田病院前を通り、指示通りに進むと、小公園があり、そこには新島襄の顕彰碑などが あり、その裏側にある藁葺き屋根の屋敷が新島襄の旧宅である。  桜が丁度満開で、茅葺き屋根とマッチして、美しかった。 

* 「新島襄旧宅」   
「 新島襄先生は天保十四年一月十四日(1843年2月12日)に江戸神田一ツ橋にあった 安中藩江戸屋敷で生まれた。 元治元年(1864)の二十一歳の春、函館から日本脱出、 翌年七月アメリカ合衆国ボストンに着き、フイリップ高校、アーマスト大学、アンドー ウア神学校を卒業。 明治七年(1874)十一月二十六日横浜到着、同二十九日十年余待ち わびた両親をこの家に訪れ互いに喜できわまる。  滞在約三週間、家人郷党に西洋文化とキリスト教を語り、龍昌寺を借りて演説し、 上州キリスト伝道の基礎を置く。 かくして安中は当時開港場を除き、国内キリスト教 初伝の地となる。 先生は去って翌年京都に同志社を設立し、教育活動に 全知全力を尽くした。1890年大磯にて永眠。歳47。 国内あげて悲しむ。  この家はもと廃藩置県により江戸藩邸引き払いに伴い、この南東100メートルの地に 建てられたものである。 昭和39年、安中市は有志にはかり、ここに移して、修理復元した。  」 

安中宿はここで終わる。 

便覧舎跡
     安中宿大木戸跡      新島襄旧宅
便覧舎跡
旧安中宿大木戸跡
新島襄旧宅





(16)松井田宿

安中総合学園高校の交叉点で国道18号を横断すると原市の杉並木がある。  「天然記念物安中原市杉並木」の石標が立っていて、昔は安中一丁目から原市まで 約一キロにわたり続いていたというが、今は安中側にはない。 

* 「 江戸時代初期に植樹されたこの杉並木は天保十五年(1844)に 731本あったといい、日光杉並木と並び称されていた。 この杉並木は昭和八年(1933) には321本となり、昭和五十二年では57本と減ってしまった。 杉はどんどん減り続け、 現在は16本となり、昔の面影はない。 」  
交叉点の手前には植栽が植えられているだけで、 ぽつりと立っている「天然記念物碑」 がとても寂しげに見えた。  杉並木の左側に青面金剛碑、南無阿弥陀仏名号碑と 道祖神碑が並んでいる。 
向かいの並木排水池の貯水タンクには安政の遠足が描かれている。 
杉並木が終了すると左側に「天然記念物安中原市杉並木」の石標が立っている。  ここが杉並木の西の端である。 そこから少し行くと、 右側に立派な塀と屋敷門を持つ家があり、門に「原市村戸長役場跡」の標識が ある。 

* 「 戸長役場とは明治十一年(1878)〜二十一年(1888)まで置かれて いた地方の町村役場のことである。  明治四年(1871)四月、太政官令により、それまでの 町村役人を廃して戸長と改称した。 」  

安中原市杉並木
     名号碑や道祖神碑      原市村戸長役場跡
安中原市杉並木
名号碑や道祖神碑
原市村戸長役場跡


左側の民家の前に「原市高札場跡」と書かれた木札があり、玄関前には「明治天皇原市 小休止所」の石碑が建っている。  

* 「 この家は原市茶屋本陣を営んでいた磯貝(五十貝)家の跡で ある。 」  

道路の反対側の小高くなっているところに真光寺の鐘がある。

* 説明板 「真光寺の鐘」  
「 安中藩主板倉勝暁により時の鐘として許可され、天明元年(1781)より 撞き始めた。 鋳工は信州上田の小嶋文治郎弘行で、寄付したのは磯貝氏等である。  天保三年(1832)に本堂と鐘楼は焼失したが、男二人を雇って昼夜時を知らせ続けた。  こうした由緒から戦時中供出を免れた。 」 
その手前の木造の建物はこれまでに見た建物とは変わっていた。 
屋根に明かり取りがあることを考えると明治に盛んになった養蚕のために建てられたも のだろう。  

原市高札場跡
     真光寺の鐘      養蚕を考えた建物
原市高札場跡
真光寺の鐘
屋根に明かり取りがある建物


安中原市郵便局を過ぎると蔵造りの家が多くある。 
八本木地区に入ると、八本木の立場茶屋がある。 今も生活している民家で、山田家で ある。 道の傍らに二つの小さな祠が祀られていて 「 安中最古の庚申祠で、寛永十二年 の建立である 」 と説明板にある。 
その前で赤い幟がはためいているのは八本木延命地蔵堂である。 

*  「八本木延命地蔵尊」  
「 地蔵堂の本尊、延命地蔵菩薩像は大永五年(1525)、松井田小屋城主、安中忠清が 原市に榎下城を築いて移り住むとき、かつての故郷、越後国新発田より近戸明神、 米山薬師と共に、城の守護仏として勧請した、と伝えられている。 円頂(剃った坊主頭)の頭に袈裟と衣を着用し、普通の僧侶の姿をしている像は 木造寄木造りで、総高一メートル十五センチの金箔半跏趺坐像で、様式は田舎造りで、 素朴の中に威厳と気品を備え、頭頂が偏平になっていることなどから造像された年代は 室町時代初期のものとみられる。 酒井家次(慶長九年〜元和三年)はある夜、夢のお告げ により 御堂を改築し、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し、信仰を怠らなかった。 参勤交代の為、 東海道を往来する諸大名も下乗下馬(騎乗のまま通れば仏罰により落馬するという)して 参詣した、と伝えられる。  秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、日本三地蔵の一つであると いわれている。  」 (安中市教育委員会説明板と上州原市八本木延命地蔵尊奉讃会 説明版より)  」  

安中原市郵便局から八本木立場茶屋まではかなりの距離があった。 

蔵造りの家
     八本木立場茶屋      八本木延命地蔵堂
蔵造りの家
八本木立場茶屋
八本木延命地蔵堂


中山道は十字路を越え真っすぐ行く。  原市保育園の手前の交差点を左折すると磯部温泉に行ける。 

*  「 磯部温泉の東方、磯部4丁目の磯部小学校の近くにある松岸寺 には古い五輪塔が二基あり、 右のは正応六年(1293)四月十日、左のは一部欠落しているが、 正応六年三月十二日とあるが、佐々木盛綱の墓と伝えられるものである。  佐々木盛綱は備前児島で平行盛を破り、戦功により伊予、越後の守護に任じられたが、 正治元年(1199)に出家して西念と号し、この磯部の地に隠居した、と伝えられる。 

原市保育園を過ぎると、郷原集落で、右側に明和九年(1772)建立の道祖神と石祠がある。 
番匠屋敷バス停を過ぎると右側に文化九年(1812)の「馬頭観世音」と刻まれた石碑 がある。 
さらに行くと右側に日枝神社前バス停があり、その奥に社殿がある。 

*  「 創建年代は不詳で、かっては山王権現と称し、大山咋神(おおやま くいのおおかみ)を祀っていて、郷原村の鎮守であった。 」  

道祖神と石祠
     馬頭観世音碑      日枝神社
道祖神と石祠
馬頭観世音碑
日枝神社


隣は真言宗豊山派自性寺(じしょうじ)で、門前には双体道祖神像や百番供養碑などが 建っていて、満開の桜とバランスよく調和して美しい情景を醸し出していた。 

*  「 保延元年(1135) 創建の古寺で、新島襄の先祖の菩提寺である。  墓地には地元の磯貝雲峰の墓がある。 境内には、宝篋印陀羅尼経を収めた供養塔である 宝篋印塔が二基あり、どちらも室町時代のもので、 応永三年(1395)と嘉吉三年(1443)に 建てられたものである。 」  

自性寺と日吉神社鳥居の間には、聖徳太子尊、青面金剛塔、庚申供よう塔などが あったが、大きく立派なものだった。  なお、上記庚申供よう塔の「よう」は羊篇に良という 字で、塔も今では使われていない文字だった。
パチンコダイナムを過ぎると右側の道脇に安永五年(1776)建立の道祖神と百番供養碑、 そして「←松井田宿2.9q 安中宿5.2q→」の道標があった。 

右側の家の前に「磯貝雲峰旧宅跡」の標識があった。 

*  「 磯貝雲峰は明治時代の人で、旧九十九(つくも)村下増田の出身 で、同志社を出て、女学校に勤めながら詩作に励んだ。  二十八歳の時渡米し、帰国後 も中央文壇で活躍したが、三十二歳で亡くなった。  雲峰の碑は、安中市松井田町下 増田にあり、表面に彼と交友があった徳富蘇峰による撰文があり、 裏面には雲峰の 「 早蕨を 折りし昔よ 偲ばれて 恋しくなりぬ ふるさとの山 」 という歌が刻まれ ている。 」  

自性寺
     道祖神と百番供養碑      磯貝雲峰旧宅跡
自性寺
道祖神と百番供養碑
磯貝雲峰旧宅跡


すぐ先左側の植え込みの中に「高札場跡」の標識がある。 郷原村の高札場跡である。 
緩やかな坂を登りきるが、このあたりは街道の情緒が残っている。 
安藤広重の木曽海道六拾九次の安中宿では、松井田宿に近い郷原村の上り坂を参勤交代の 大名行列の先頭が上り行く途中で、坂の頂上に茅葺屋根の家と竹藪がある絵が 描かれている。 
中山道(県道216号)はその先で国道18号に突き当たる。 国道を横断する左側に「安中市 指定重要文化財 郷原の妙義道常夜燈」の木標があり、その左側に常夜燈と道祖神碑が 建っている。 

* 説明板 「妙義道常夜燈」  
「 妙義道常夜燈は郷原を中心とした妙義神社を尊崇する人たちが 原市に仮住いしていた信州伊奈郡手良郷野口村の石工向山民吉に造らせ、 文化五年(1808)四月七日に建立したものである。 台座には建立者六十二名の姓名と 向山民吉の名が記してある。 露盤と笠に刻まれた八重菊は妙義神社の紋章と同じであり、塔身には 「 白雲山 」 、台座には 「 是より妙義道 」 と刻んである。 常夜燈であるとともに 中山道から妙義への入口を示す道しるべとしての役割を果たし、当時の人々の妙義山への 深い信仰心を証している。 ここから東へ五十メートルの地点、中山道から妙義道への 入口に立っていたものを昭和六十年三月に現在地に移されたものである。 」  

郷原西道は碓井川の琵琶窪地を巻くように造られた道。 国道に突き当たる手前で 右に入るとすぐの三叉路を左に行く。 次の三叉路を左に行き、右側の貯水池を過ぎると 左側に石段があり、石段を上がると 「歌川広重の木曽海道六十九次の松井田のモデル地」という看板があり、その奥に 神明社がある。 国道を大阪地下道でくぐり、突き当たりを右折する。
小生はこの旧道(郷原西道)には入らず、そのまま国道を歩くと道の左側に「←旧中山道」 の標識がある。 その先で左に入ると右から大坂地下道を抜けてきた郷原西道が号流 してくる。 

緩やかな坂
     妙義道常夜燈      緩やかな坂
緩やかな坂
妙義道常夜燈と道祖神碑
「←旧中山道」の標識


この道は明治天皇道といわれるもので、明治天皇が巡幸されたとき 作られたものである。 左側が崖になっていて、その下には、碓氷川が琵琶窪地を 巻くようにカーブを描いて流れている。 静かな緑が多い道で歩きやすい。 
その先、二ヶ所の変則Y字路を直進するとレストランサニーのところで、県道33号に 合流する。 右側の松井田電化のところに「旧中山道→」の標識がある。  右側コメリを過ぎると庚申塔と馬頭観音が祀られている。  
その先に下町交叉点には「中山道松井田宿→」の標識があった。 。 

*  「 松井田宿は「木曽路名所図会」に 「此の駅を松枝ともいふ」と ある。 馬子唄には 「 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らじゃこしまし坂本へ 」 と 歌われ、碓井の関所を控え、日のあるうちに面倒な関所は越しておきたいと、松井田は 通過してしまう大名や旅人が多かったが、米や物資の中継基地として賑わったようで ある。 」  

天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、松井田宿の宿内人口は1000人、家数252軒、 本陣2、脇本陣2、旅籠14軒である。 
宿場は上町、仲町、下町からなっていて、下木戸を入ると下町である。 
宿の江戸側入口には下木戸、京都側の入口には上木戸があった。  下木戸は、下町の後藤建具店の前辺りにあった。 
左側に「かんべや」と書かれた古い看板が張り出されている古い家屋があり、 妙義山登山口と書かれていた。 この横の道は狭いが妙義道である。 

琵琶窪地
     下町交叉点      かんべや
琵琶窪地
下町交叉点
かんべや


仲町交叉点は右が榛名道で、左が妙義道である。 江戸時代の後半になると、 山岳詣でが盛んになり、妙義山や妙義神社には多くの人が訪れた。 
かんべやの対面に赤い屋根の家と白壁の蔵、そして黒い建物が並んで建っている。  この赤い家が徳右衛門脇本陣跡である。 松井田宿明細書には「凡建坪七十三坪、 玄関門構無御座候」とある。  
右側の山城屋酒店はういろう屋の跡である。 小田原名物のういろう屋の分家、外郎陣道 斎の店跡で、店先に「中sん同旅情宿場 松井田宿」の看板があった。 

徳右衛門脇本陣跡
     ういろう屋跡      松井田宿看板
徳右衛門脇本陣跡
ういろう屋跡(山城屋)
松井田宿看板


金井本陣は、現在は群馬県信用組合と下駄屋になっていて、今は痕跡もない。 
右側にあった松本本陣は跡形もなく、ヨロズや書店やクリーニングオオシキに変って いた。 松本本陣は上の本陣と呼ばれ、問屋を兼ねていた。建坪は百七十四坪でした。 
その先右に入った先にあるのは真言宗龍本山不動寺である。 

* 「 不動寺の仁王門は江戸初期の建築とされており、間口6.05m、 奥行3.5mの三間二間の柿葺単層切妻造りの門で、蟇股、欄間などに桃山時代の作風を よく残しているが、江戸時代初期の改築と推定される。 前参道西側にある覆い屋根で 保護された石塔婆は異形板碑である。 安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字を 刻んだもので、一石に一種と限らず二及至三の別様式を刻んでいる。 文字は観応三年 (1352) 円観・見性・敬白等があり、北朝年号を刻んでいる。 観応三年壬辰(1352) 八月廿日とあるので、今から六百年前のものである。 不動堂の不動明王像は鎌倉時代 の作といわれ、県の重要文化財に指定されている。

街道に戻ると左側の理容小坂橋は安兵衛脇本陣で、松井田宿明細書には 「凡建坪八十二坪、玄関門構無御座候」とある。  
右側のアメリカンベーカリー前の電柱に高札場跡の説明がある。 

* 「 当初は中町交叉点の前に設置されていたが、慶安五年(1650) 外郎店屋敷前に設置され、その後領主普請でここに設置された。 」 

松井田歩道橋の下に「中山道松井田宿→」の標識があり、ここが松井田宿の 京都側の宿の入口で上木戸跡である。 右に入って行くと松井田小学校があり、 正面辺りを木戸ぎわといい、上木戸があったことの名残りの地名である。 
小学校の左奥にある松井田八幡宮の本殿は江戸初期の建築で、県の重要文化財で ある。 
松井田郵便局の向かいに群馬銀行と松井田商工会がある。 商工会の建物は 昭和十四年(1939)築の旧松井田警察である。 
新堀には旧道時代の面影を残す木造の家もあって、静かなただずまいである。 
新堀交叉点を過ぎ、次の西松井田駅前交叉点を左折して三百メートル行くと西松井田駅 である。 
安中で時間をかけて場合はここで終了して、ここから出発もよいだろう。 

松本本陣跡
     旧松井田警察(松井田商工会)      新堀の町並
松本本陣跡(ヨロズや書店)
旧松井田警察(奥の建物)
新堀の町並





横川関所

西松井田駅前交叉点の右側に、国道18号と旧中山道の両方に 面する広い敷地を持つ補陀寺がある。 山門前の石段の右側に「曹洞宗補陀寺(ふだでら) 」の石柱があり、左下には「大道寺駿河守政繁之墓処」の石柱が立っている。  山門は単層四脚柱の門で、関東一の道場という意味の「窟法左関」の門額を掲げられて いる。 また、山門の前に松井田城址の説明板があった。 

 * 説明板「松井田城址」  
「城は東と西の二つの郭からなる。 東半は御殿山を中心に安中郭と呼び安中忠政が本格的に 築城したという。  西半は本丸、馬出し、二の丸の三つの郭からなる。二の丸の 北西部に土囲(どい)が遺存する。自然の尾根を巧みに利用し、無数の堀切や竪彫りを構築 している。北条流の典型的な中世の山城として名高い。 
   平成十七年三月  松井田町観光協会  」  
なお、補陀寺を含む北側一帯は松井田城跡である。 松井田の地は関東防衛の要衝だった ため、北条、武田、越後上杉との間で攻防が続けられた。 天文二十年(1551)小田原 北条氏配下の安中越前守忠政により、松井田城が築いたのが始めで、永禄六年(1563) には武田信玄に攻められ、城の構えが堅固で容易に落ちなかったが、安中忠政が自刃して 、廃城になった。 天正十年(1582)再び小田原北条氏の領有になり、配下の 大道寺政繁が城主となりました。 しかし、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの 斎、前田利家、上杉景勝率いる三万余の大軍に攻められ落城、廃城となった。 

その先の「大泉山」の額のある門の手前の左側には 宝暦四年の寒念仏供養碑があった。 
門をくぐると本堂などがあり、凛とした大寺の雰囲気をかもしている。 

 * 「 補陀寺は応永年間(1394〜1428)の創建で、安中氏、武田氏の 帰依した後、天正十年(1582)松井田城主となった北条氏政の家臣、大道寺政繁の菩提寺に なりました。  墓地には自刃した大道寺政繁の墓があります。  加賀前田家が参勤交代で門前を通ると墓は悔し汗をかいたといいます。 」  

中山道は補陀寺の先の三叉路(安中署松井田分署の手前)で左の小道に入るが、寄り道 をする。 そのまま直進すると新堀交叉点で国道18号に合流。 交叉点を渡ると金剛寺 がある。 源頼光の四天王の一人、碓井貞光が 開基と伝えられる寺で、正式には碓氷山定光院金剛寺である。  

補陀寺山門
     補陀寺本堂      金剛寺全景
補陀寺山門
補陀寺本堂
金剛寺全景


金剛寺の山門の駐車場の周りには、馬頭観音、二十三夜塔や庚申塔の石碑が あり、金剛寺略縁起も建っている。 

 *  説明板 「金剛寺略縁起」 
「 源頼光に従い、四天王として武勇のほまれ高い碓氷定光は碓氷山中毒蛇が跋扈し 村民が難渋しているのを見て、弘法大師自作の護持佛十一面観音に祈願し、峠に登ると 毒蛇に襲われたが、十一面観音の庇護により大蛇を調伏させた。  この時、守り本尊 を祀り、蛇骨を納めるために開基したのが当寺である。  その後、寺は荒れたが、 応永元年に中興するも寛文年間に焼失。 貞享三年に再建するも また焼失。 享和三年 に落慶した。 」 

先程の三叉路に戻ると、中山道へ入るところに中山道の道標があり、 「←坂本宿6.8q 松井田宿1.5km→」と記されている。 
中山道を下ると右側の丸石の土留めの上に「道祖神」もう一つ は文字の消えた石碑が祀られている。 
左側に「一里塚」の解説があり、その先を左に回り込むと民家の庭内に新堀一里塚の 痕跡がある。 

二十三夜塔や庚申塔
     中山道の道標      道祖神碑等
二十三夜塔や庚申塔
中山道の道標
道祖神碑等


その先に信越本線の製糸踏切があるが、本来の旧道は途切れているので、 ここは渡らず右に線路沿いに進み、第十中仙道踏切で渡る。 その先の三叉路で 右折して進むが、先程消えた旧中山道は左の細い道である。 
正面に妙義山があり、下に見えるのは上信越自動車道の高架橋である。 

 *  「 妙義山は日本三奇景の一つで、白雲山、金洞山、金鶏山、 相馬岳、御岳、丁須ノ頭、谷息山等を含む総称で、妙義神社は白雲山を御神体に している。 」 

線路を越えたところからの道は鳥居坂で、坂道上って行くと大石 の上に地蔵像が見下ろしている。 
すぐ先で国道18号に突きあたる。 この中山道の入口に文政十年(1827)建立の 二十三夜塔と明治十三年(1880)建立の山燈籠がある。 

妙義山遠望
     地蔵像      道祖神碑等
妙義山遠望
地蔵像
二十三夜塔と山燈籠


山燈籠の反対側に「中山道←坂本宿6.0q 松井田宿2.3q→」の道標が立っている。  写真の裏側に上記が描かれている。   
国道18号はフェンスで遮断されて対面に横断できないので、左に歩道を歩き、上信越車道 高架下の五料交叉点で右折して横断歩道をわたり、「←旧中山道→」の標識に従い、 右に行く。 
右側の理容店の隣に二十三夜塔と庚申塔がある。 

 *  「 高架下をくぐった辺りは旧五料村で、 江戸時代には碓井関所付要害村の一つで、他村の者が潜入するのを監視する役目を担っていた。 

山燈籠と中山道道標
     高架下をくぐる      庚申塔と二十三夜塔
山燈籠と中山道道標
高架下をくぐる
二十三夜塔と庚申塔


「↑茶屋本陣お西・お東」の道標が立っているで、それに従い右折するとその先の 左側の民家の庭先 に「安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡」の木標がある。 
JR信越本線の踏切を渡った正面に、茶屋本陣の駐車場があり、その奥に二軒の 建物が並んで建っていた。 両方とも五料村茶屋本陣の建物である。  両家は同じ中島姓 だったので、右側をお東、左側をお西と呼んで区別したという。  現在の建物は文化三年(1806)の大火後に再建されたもので、持ち主から寄贈を受け、 復元修理を行ったものである。 二階は資料館になっていて街道に関する資料が 展示されていた。  

 *  「 五料村茶屋本陣は参勤交代などで中山道を通行する大名や公家 などが休憩や昼食あるいは他の大名行列が関所にかかっているときの時間待ちなどに 利用された。 そのため、部屋数は少ないが、上座(かみざ)と呼ばれる書院造りの 上段の間、下(次)の間、式台(玄関)、通り(入側)などを備えていた。 家族は勝手、 茶の間、中の間、納戸などで生活していたが、茶の間の続きの広い座敷は名主役宅 として村役所の機能を果たしていた。 」   

両家は同じ中島姓なので、地元では 「 お西 」 「 お東 」 と呼ばれており、 天保七年(1836)から明治五年(1872)まで一年交代で、この村の名主と茶屋本陣を勤めて きた。 
両家の建物は文化三年(1806)の大火で焼失し、同年中に再建されたもので、松と杉が 主だが大黒柱などには欅を使用している。 」   

 *  「 お西の建物は間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、 家族居住部分は二階に なっているが、上座は平屋である(二階はなく、天井も高く、天井に入れない工夫も している) 
現在の建物は寄贈を受けて、江戸時代の再建当時の図面通り に復元したが、上座(かみざ)部分は明治十一年九月六日に明治天皇が北陸東海道御巡幸 の折「御小休所」として使われたので、明治十一年に大改修された状態のままに 保存されている。 目の前に妙義山が仰ぎ見られるるので、休憩所としては絶景の 地にある。 」  

五料村高札場跡
     西本陣と明治天皇小休所跡碑      西本陣の庭
五料村高札場跡
西本陣と明治天皇小休所跡碑
西本陣の庭


お東は平成四年(1992)に寄贈を受け、建築当初の姿に復元された。 

 *  「 お東の建物は間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、 上座は式台と表の間、次の間、上段の間、 これに鍵の手の入側(畳敷きの通路)が付いている。 これらは建築当初のままである。  便所は旧位置にそれぞれ三ヶ所復元された。 両建物とも、東西に土蔵を配し、 鼓山を眺める南面の借景庭園はすばらしい。 なお、板葺きであった大屋根は 防火上の配慮から板葺風のスレート瓦葺になっている。 」   

お東本陣を出て、中山道に戻り、直進すると左側の家の隅に正徳四年(1714)の苔むした 双体道祖神がある。 右側に「←坂本宿5.5q松井田宿2.3q→」の中山道道標がある。  JR信越本線の榎踏切を渡ると丸山坂で、上る左側に道祖神碑がある。 次いで、右側に 石仏、石塔がある。 

 *  「 元文五年(1740)建立の青面金剛庚申塔や馬頭観音などが祀られて いる。 」 

その先の左側に二体の地蔵像と二基の地蔵碑がある。 一番大きな地蔵は夜泣き地蔵 と呼ばれている。 

 *  「五料の夜泣地蔵」  
「 昔、荷を積んできた馬方が荷物のバランスを取るため落ちていた地蔵の首を 馬の背に付けて深谷まで行った。 帰りは不要なので、深谷で首を道端にしまったが、 首が夜になると「五料恋しや」と泣き声を発したために、深谷の人が哀れに思って、 この首を五料に届け、胴に乗せた 」 という話が残り、夜泣き地蔵と呼ばれるよう になった。 
同じような話を東海道の熱田宿で、温泉探訪で訪れた下呂温泉でも体験している。 」 

東本陣
     青面金剛庚申塔や馬頭観音      夜泣き地蔵
五料 東本陣
青面金剛庚申塔や馬頭観音
夜泣き地蔵


夜泣き地蔵の下には茶釜石もあって、これは叩くとからっぽの茶釜のような音が 出るので、その名がある。 置いてある小石で叩いてみると、予想していた以上 にいい音色だった。 

 *  「 中山道を旅した蜀山人(大田南畝)は 「 五料では あんまり 高い 茶釜石 音打ちを聞いて 通る旅人  」 という狂歌を残しているが、五両を 五料、値打ちを音打ちにかけて、なかなか味のある句である。 

このあたりが丸山坂の頂上のようである。 
低い切り通しを抜けると左側に「中山道←坂本宿5.0q 松井田宿3.3q→」の道標が 立っている。 下っていくと、右側のコンクリート擁壁の上に馬頭観音がある。 
人はほとんど通らない道で、りんご畑の中、登り下りが続く。 リンゴ畑には白い花が 満開であった。 

茶釜石
     馬頭観音      リンゴ畑
茶釜石
馬頭観音
リンゴ畑


次いて坂を上り、下ると三叉路で、左に進む。 
左側の段上に馬頭観世音文字塔がある。 
下に降りて行くと右側に「←坂本宿4.5q 松井田宿3.8q→」の中山道道標がある。  続いて右側に馬頭観世音文字塔がある。 
坂を下りきると信越本線の脇にでるので、線路に沿って進むと踏切近くの右手の小高い ところに碓井神社の鳥居がある。 碓井神社は由来のある古い神社である。  

  * 「碓氷神社の由来」  
「  碓氷神社の創建年時は不明なれど、碓氷峠の熊野神社の分霊 を祀り、この地の鎮守として崇敬されてきた。 建久年間(1190〜1199)、源頼朝が 信州浅間の牧狩りで出かけた際、当社に祈願し御所を置いたことから御所平と呼ぶれる ようになった。 正応年間(1288〜1293)、鎌倉北条氏が碓氷郷総鎮守として崇敬し、 光明天皇が碓氷一宮として崇敬参拝された。  慶安年間(1648〜1652)に、社殿を改築、 明治四十二年に周辺の多くの神社を合祀し現在に至る。 」 

鳥居の近くには庚申塔と二十三夜塔があり、また、「 此碓氷神社、西高墓、東立野 」 と 刻まれた道標が立っていた。 

馬頭観世音文字塔
     碓井神社      庚申塔と二十三夜塔
馬頭観世音文字塔
碓井神社
庚申塔と二十三夜塔


高墓踏切を越え国道に出たが、碓井神社は霧に囲まれて神秘的であった。 
中山道は御所平交叉点で国道を横断し、臼井小学校の前を右折する。 国道に 合流する手前に道祖神がある。 このあたりは古い家が残っていた。  四百メートル程で国道に合流し、小山沢橋を渡ると斜め左に入る。 この先の右側に 胡坐をかいた石像があり、下方に少しへこんだ石が地面に埋まっている。  この石は百合若大臣の足跡石である。 百合若大臣は日本八大伝説の一つで、 九州地方に今でも多く残る伝説上の人物であるが、室町時代には幸若舞として脚色され、 後には近松門左衛門の浄瑠璃にも影響を与えた。 こんな所に伝説の足跡が残って いるとは驚きである。 

  * 「百合若大臣伝説」  
「  松井田から妙義山のふもとの村々にかけて伝えられてきたという話で、
『 昔、百合若大臣は東山道を旅して横川村小山沢まで来て、妙義山を目の前にして いた。 もともと、力があったが、川向こうの妙義山に向け、 「 よし、あの山の首 あたりを射抜いてみよう 」 と思い付き、満身の力を込めて豪弓を放ったところ、 見事に矢は刺さり、穴を開けた。 これを見た家来の一人が負けじと、腰にぶら下げて いた弁当の握り飯を力一杯山に投げつけたため、山には二つの穴が開いた。 その穴は 妙義山の峰に今でもあるといい、土地ではそれを 「 星穴 」 とよんでいる。 また、 山を射ぬいた矢が山の向う側に落ちたので、その川を矢川川とよんでいる。  』 
百合若大臣足跡石はその時足場にした石が足跡状にへこんだものである。 
なお、百合若がこのとき使った弓矢が妙義神社奉納されているという。 」  

この小山旧道も百メートルの磯部茶屋の看板があるところで、国道に吸収 される。 
写真は分岐点のT字路を過ぎて振り返って写したものであるが、この分岐点には 「←坂本宿3.5q松井田宿4.8q→」の中山道道標があり京側から歩いてきた時は 重要な分岐ポイントである。 

碓井神社全景
     百合若大臣の足跡石      小山旧道も国道に吸収
碓井神社全景
百合若大臣の足跡石
小山旧道も国道に吸収


下横川交叉点までは国道を歩く。 
下横川交叉点で右折してJR第15中山道踏切を渡り、県道222号に入る。 右側に 「←坂本宿3.0q松井田宿5.3q→」の中山道道標がある。 この後、線路の右側に 沿って進む。 
初期の中山道は横川より北側にあり、ここに横川の一里塚があったが、その表示も形跡 も残っていない。 しばらく行くと「峠の釜めし」で有名な荻野屋の黄色い看板が見え てきて、五料の茶釜石から約一時間の行程でJR信越線の終点、横川駅に着く。 
かってアブト式の機関車で横川と軽井沢を結んでいたが、新幹線の開通でこの区間の 廃止が決まり、この区間にはJRバスがバスターミナルから発着している。  その近くに碓井峠鉄道文化むらがあり、列車が展示されている。 

JR信越本線
     荻野屋本店      碓井峠鉄道文化むら
JR信越本線
荻野屋本店
碓井峠鉄道文化むら


中山道は横川駅を過ぎると右側の石垣の上に文久四甲子春四月の建立の「御嶽山座主 大権現」と刻まれた背丈以上もある大きな石碑が建っている。 
矢野澤脇には神塔、二十三夜塔、庚申塔、馬頭観音など石碑群がある。 

 *  「 矢野澤橋上流約三百メートルのところに 子育観音堂があります。 明治四十三年(1910)の洪水で流失したが、頭部が欠損した状態で 発見されました。 霊験あらたかな地蔵として信仰を集めています。 」 

寄らずに進むと右手に武井茶屋本陣跡がある。 今でも生活されている屋敷なので、 外からそっと覗いただけで終わる。  

 *  「 横川茶屋本陣は矢の沢の家と呼ばれた。  大名は関所通過の為、服装を正したり、通過した大名は通常の旅支度に着替えた。  武井家は代々横川村の名主役を勤め、幕末の頃には坂本駅の助郷総代も兼ねて いました。 茶屋本陣は、大名や公家達が休憩を取る場所で、このように名主などの 家が充てられることが多かった。  」  

御嶽山座主大権現碑
     馬頭観音など石碑群      横川茶屋本陣
御嶽山座主大権現碑
馬頭観音など石碑群
横川茶屋本陣


右側の群馬県信用組合脇には「諏訪神社」の石標があり、奥に白い鳥居があり、 奥に上る社殿がある。 横川村の鎮守である。 
このあたりは古い家が残っている。 道の左側に「東門跡位置(安中藩管理)」の 白い木柱がある。 関所との間に門があったのだろうか? 
横川関所は右側の小高いところにあったので登っていく。 

 *  「 碓氷の関所は、醍醐天皇の昌泰二年(899)、群盗を取締るため に碓氷坂に設けられたのが最初です。 慶長十九年(1614) 仮番所が置かれ、 元和八年(1622)番所となり、翌年三代将軍家光が上洛の際し、関所となりました。 安中藩が管理し、東海道の箱根宿と同格で、幕府の 「入り鉄砲に出女」 の取締りを 任務とした関所になりました。  横川の関所は通称で、正式名称は碓氷関所、 初代関守は安中藩主の井伊直勝が勤めた。  その後、四百五十年近く続いたが、明治政府により明治二年(1869)に廃関となりまし た。 」  

現在の横川関所は昭和三十四年に復元された門だけの施設であるが、 江戸時代に使われていた門柱と門扉、土台石などを使用した、と案内にあった。 
ここには関所資料館があり、その資料館の前には旅人が 手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた「お辞儀石」が残っている。  

 *  説明板 「おじき石」  
 「 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。 
      松井田町教育委員会 」      

諏訪神社入口
     横川関所      おじき石
諏訪神社入口
横川関所
おじき石


横川関所から横川駅に戻り、磯部温泉に泊まり、翌日碓井峠越えを目指す。 


(所要時間) 
JR安中駅→(10分)→中宿→(30分)→安中宿→(1時間)→原市の松並木→(2時間)→ 妙義道の常夜灯→(20分)→松井田宿
→(50分)→JR西松井田駅→(35分)→五料の茶屋本陣→(1時間20分)→碓井の関所跡 


安中宿  群馬県安中市安中  JR信越本線線安中駅下車タクシーで5分。  
松井田宿  群馬県安中市松井田町松井田  JR信越本線線松井田駅下車。  
横川関所  群馬県安中市松井田町五料  JR信越本線線横川駅下車。




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かうんたぁ。