『 中山道を歩く (4)  -  桶川宿・鴻巣宿  』





(6)桶川宿

上尾駅から県道164号を北に向い、遍照院前を通ると図書館西交叉点の手前右側 の歩道に上町庚申塔がある。 
緑丘地下横断道交叉点の手前右側に上尾宿の案内板がある。 
「彩の国平成の道標と中山道上尾宿」と書かれた標柱が立ち、掲示板には上尾宿に 関する表示がある。  これらは国道を管理する国土交通省の管理事務所が立てた ものである。 

 *  「  上尾の歴史は古く、約二万年前の旧石器時代(先土器時代) からの遺跡が市内あちこちにある。 平安時代末期には武蔵国にも武士集団が結成され、 鎌倉時代には源頼朝に仕えた足立氏の勢力下にはいったが、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏 の所領となった。 中山道が開通すると、上尾に宿場が設けられた。 」 

上尾車庫のバス停を過ぎ、上尾車庫のバス停を過ぎると北上尾駅入口の交叉点で ある。 この駅はJR民営化後の昭和六十三年に上尾高校への通学を目的に作られた が、今やベットタウン化が進み、この一帯全てが住宅でうめつぶされ、利用者の増加 が大きいな駅になった。 
久保西交叉点にある緑に囲まれた立派な塀に囲まれた屋敷は紅花の仲買問屋であった 須田家である。 

 * 「  中山道は旧久保村を経て、桶川宿に入る。 この辺りは 旧久保村で、武州紅花の産地であった。 立派な塀で囲まれた屋敷の須田家は江戸時代 後期の久保村(現上尾市)の豪商。 南村(現上尾市)の須田家の分家で醤油醸造、質屋 を営み、本家と共に穀物紅花の取引を行っていた。 今も紅花関係の資料がたくさん 残されているという。 」 

上町庚申塔
     彩の国平成の道標      須田家
上町庚申塔荷
彩の国平成の道標
須田家


左右の通りはべにばな通りとBS通りで、左折するとブリジストン上尾工場が ある。  
町屋バス停の脇を入ると線路近くに雷電神社がある。 

 * 「 この神社は以前は街道脇にあったのだが、明治時代にここに 移転したのである。 雷電神社が群馬県と栃木県に多いのは、北関東や埼玉に雷が多い ことと関係があるのだろうか?  その中で左甚五郎の彫刻がある群馬県板倉町の 板倉雷電神社が関東の総本社といわれ、有名である。 」 

そこから少し歩くと、道の右側に小さな祠(ほこら)があり、明和六年の庚申塔が 祀られていた。 
道の右側の小さな祠の中にお地蔵様が祀られているところを過ぎると  富士見通り交叉点が上尾市と桶川市の境である。 
県道川越栗橋線の交叉点の右側に「旧跡 木戸跡」と書かれた石柱が立っている。  これは桶川宿の南の木戸跡である。 

 * 「 桶川宿から上尾宿までは三十四町(約3.6km)と短い。  桶川宿は江戸から六番目の宿場で、また、桶川えんじの産地で、その紅花の大半は 中山道を通って京都に運ばれた。 また、この地方は染料の藍を栽培していて、 武州藍として江戸に送られた。 

天保十四年(1843)の宿村大概帳によると桶川宿の宿内人口1444人、家数319軒、本陣1、 脇本陣2、旅籠36軒である。 
看板も無くなった二階家の瓦屋根の頂上に、何か小さなものを見つけた。  よく見ないと分からないが、煉瓦造りの小さな鐘馗(しょうき)が乗っている。  鬼門を守る屋根神に一種で、珍しいなあと思った。 
道沿いに古い家がかなり残っていて、右側に元旅籠の武村旅館がある。 

 * 「 武村旅館は江戸時代の旅籠紙屋半次郎だったもので、 明治時代に板橋宿で旅館をやっていた先代が紙屋を買って始めた旅館で、 大正時代に改築したが、間取りは皇女和宮が江戸下向した文久元年(1861)の当時まま 引き継がれていて、国の有形登録文化財に指定されている。 今もビジネスホテルと して営業している。 

明和六年の庚申塔
     桶川宿の南木戸跡      元旅籠の武村旅館
明和六年の庚申塔
桶川宿の南木戸跡
元旅籠の武村旅館


武村旅館の次の道の左側奥にあるのは淨念寺で、赤い仁王門(鐘楼門)の奥が本堂で ある。 天文十五年(1546)の開基と伝えられる寺で、境内には、京都紅花商人、 吉文字屋彦市ゆかりの墓がある。 

 * 説明板 「淨念寺・仁王門(鐘楼門)・仁王像」  
「 淨念寺のシンボルというべきこの朱塗りの門は新編武蔵国風土記稿に「仁王門ハ 鐘楼ナリ楼下二仁王ヲ安シ上に鐘ヲ懸ク元禄十四年ノ銘アリ」と記されてあるように 元禄十四年(1701)に再建されたものであります。この仁王門の上には梵鐘が建って います。淨念寺のかっての梵鐘は寛保元年(1741)に鋳造されたもので、淨念寺の ご詠歌に「淨念寺鐘響きや法の音子安の誓い深き桶川」と呼ばれているように、 その美しさ音色は人々に時を知らせるために桶川宿の隅々まで鳴り響いたと いわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次大戦の際、求めに応じて供出され 現存しておりません。現在の仁王門に懸かっている梵鐘は昭和四十年に鋳造された ものであります。仁王門の楼下にいらっしゃるのが二体の仁王像であります。 明和 五年(1768)に開眼されました。口を開けてているほうが阿形像、口を閉じているほうが 吽形像といい外から進入しようとする法敵から仏法を守護しております。 」 

 左手に桶川駅があり、その先は住宅公団が分譲した大住宅団地で、 駅のむこうとこっちでは歴史に大きな隔たりがあるのを感じた。 
陸橋で駅前を過ぎると桶川名物べに花まんじゅう看板を出した店や古さを感じる 嘉永七年の島村茶舗がある。 このあたりから桶川宿の中心になり、右側の島村ビル の脇の細い道を入るとあるのが島村家の木造三階建ての土蔵である。 

 * 説明板 「国登録有形文化財 島村家住宅土蔵」  
「 桁間六間、梁間三間の木造三階建ての土蔵で、 江戸時代後期の天保七年(1836)の建築と伝えられています。 島村家は中山道桶川宿 の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼板 には当時の屋号 の一字をとった「木」の字が刻まれています。また、この土蔵の建築工事は天保の大 飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬によって多くの民が飢えから救われたこと から、「お助け蔵」といわれたとの伝承が残されています。 現在は黒漆喰壁がトタン で覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさえる堂々とした土蔵 です。 平成十四年九月 桶川市教育委員会 」  

淨念寺仁王門
     島村茶舗      三階建ての土蔵
淨念寺仁王門
島村茶舗
島村家住宅土蔵


その先は土蔵造りの商家・矢部家で、明治初期に建てられた重厚な建物で、 川越の商家・亀屋と同じ棟梁の手によるものである。 

 * 矢部家の屋号を「木半」といって、木嶋屋半七に由来する。  この名前は稲荷神社にある紅花商人寄進の石灯籠に刻まれている。 

左側に材木が立てかけられた家は国の登録有形文化財に指定されている 小林家住宅である。 

 *  「 この建物は江戸時代、三十数軒あった旅籠の一つで、 桶川大火の後の建築なので、棟札の子の字から、天保十一年か嘉永五年の建築と 思われる。 皇女和宮御降嫁の際、随員十数名が泊まったと記録が残っている。  大正初期に小林家初代がこの建物を購入し、大改造して材木商を営んできた。  現在は材木商と喫茶店を営んでいる。 

右側の木の柵のような大きな門(冠木門)の奥にあるのは府川本陣跡で、 門の前に「明治天皇桶川行在所」の石碑がある。 個人宅なので、中に入ることは できなかった。 

 *  「 本陣は度々焼失したにもかかわらず、その都度再建され、 埼玉県に残る唯一の本陣として指定文化財になっている。 現在は上段の間、次の 間、湯殿などが残るのみである。 この本陣は代々、府川家が勤め、加賀前田家を 始めとする参勤交代の大名たちを迎え、文久元年(1861)皇女和宮の江戸下向の時 にもここに宿泊された。 

矢部家住宅
     小林家住宅      府川本陣跡
矢部家住宅
小林家住宅
府川本陣跡


中山道宿場館はお休み処、観光案内所(9時〜16時月休、祝日の場合は翌日休)。  木曽海道六十九次の浮世絵と街道の資料が展示されている。 
市役所前交叉点の左側の小公園に「中山道桶川宿」「左上尾宿三十四町」「右鴻巣宿一里三十町」 の道標がある。 また、「中山道桶川宿」の絵図と「桶川宿こんなところ」の説明 板がある。 

 *  「 桶川宿は日本橋から八里余で、健脚であった江戸時代の 人々のほぼ一日の行程に当たる。 宿場の開設当初に近い寛永十四年に五十八軒、 紅花の取引がされるようになった寛政十二年(1800)には二百四十七軒に達し、幕末に 近い天保年間には三百四十七軒になりました。 」   

左側に東和銀行があるが、江戸時代には市神社があった。  その手前の右に行く道が岩槻道で、道の右奥(本陣の斜め裏手)に桶川稲荷神社が ある。 

 * 「 この地は昔、芝川が中山道を横切ってこの付近を流れていた。  境内は約四千u、建物は本殿、拝殿、社務所、手水舎、神楽殿などからなる。  創建は長承三年(1134)とも嘉禄年間(1225〜1227)ともいう。 元禄六年(1693) 桶川宿の鎮守となり、明治六年(1873)郷社となる。 祭神は宇迦之御御魂命である。  」  

拝殿の前面に立ち並ぶ石燈籠は桶川宿の紅花商人の寄進によるもので、当時の豪商 たちの名が刻みこまれている。 

 *  説明板「紅花商人の石燈籠」 
「 拝殿の前面に立ち並ぶ石燈籠は安政四年(1857)に桶川宿を拠点にしていた 紅花商二十四人が寄進したものである。 燈籠には「紅花商人中」と書かれた下に 寄進者の名前があり、中入村矢部半右衛門や当駅(桶川宿)木嶋屋半兵衛など、 当時の豪商たちの名が刻まれている。 当時、桶川地方は口紅や食紅の原料になる 紅花をさかんに栽培しており、その紅花は桶川えんじとして全国的に知られて いた。 桶川市教育委員会  」 

拝殿に向って右手前に長さ1.25m、下巾0.75m、重量およそ700kgの力石が 奉納されている。 

 *  説明板  「大盤石(力石)」  
「 大盤石(だいばんじゃく)と刻まれた石の表面に嘉永五年(1852)二月、三ノ宮 卯之助がこれを持ち上げたと刻まれている。  併せて、世話人の名前十二名と石主、石工の名前も刻まれている。 力石とは一般的 には祭礼などに若者が力くらべに持ち上げた石をいう。  当時、江戸では祭りや見世物で、力石を持ち上げることが興行として行われていた。  岩槻出身の卯之助は桶川にも呼ばれて興行を行ったのだろう。 」 

道標
     紅花商人の石燈籠      大盤石(力石)
中山道桶川宿の道標
紅花商人の石燈籠
大盤石(力石)


その先の左側に「大雲寺の石柱」があるので、入っていった。 曹洞宗のお寺で、 正式には龍谷山大雲禅寺という寺院である。 本堂に向かって、左側に子育て地蔵尊 の他、馬頭観音などの石仏群があった。 子育て地蔵尊の隣に三体の石地蔵があり、 中央の中の一体に「女郎買い地蔵」の名がある。 

 * 説明板 「女郎買い地蔵」  
「 この地蔵は夜な夜な宿の飯盛り女に会いに行くため、 困った和尚さんが地蔵の背中に鎹(かすがい)を打ちつけ、鎖で繋いでしまった。  寺の和尚さんが寺の若い僧を戒めるための話とされているが、今も一体の地蔵の 背中に鎹が打ち付けられている。 」  
この話から想像すると、江戸時代の桶川宿は飯盛り女が多く、それが有名で近隣から 多くの客を集めていた、ということだろう。  墓地は大変広く、本陣の府川家や宿場開設当時から家の墓などがあった。 

大雲寺前をさらに進むと北の陸橋の手前に一里塚跡の標示がある。 
桶川市役所交叉点の左手にある「松山稲荷道道標」は桶川北小学校の一角にあった。  魚の字が図案化され、「 松山 いなり道 本小田原町 」 と刻まれている道標 は天保七年(1836)に建立されたものである。 

 * 「 松山稲荷とは東松山市にある箭弓稲荷神社 (やきゅういなりじんじゃ)のことである。 源頼信が平忠常を討つ前に 和銅五年(712)の創建と伝えられる野久稲荷神社に戦勝祈願し、その後、戦勝報告 と同時に社殿を寄進し、現在の名前に変えさせたと伝えられる神社である。  江戸時代に大変繁盛したお稲荷様で多くの講が作られたが、ここに刻まれている 本小田原町とは江戸日本橋たもとの北側にあった魚市場のことで、この道標は魚市場 仲間が建てたものである。 なお、松山稲荷道はここから西に折れて下石村(現北本 市)を経て荒川を渡り、松山に通じていた。  」  

桶川市役所交叉点右の薬師堂の小祠の脇に「木戸跡」の石碑があり、 「桶川宿の木戸跡」の説明板が家の戸に張り付けられていた。背後の茶屋と うどん屋の建物は古そうである。 

 * 説明板 「桶川宿の木戸跡」 
「 江戸幕府は治安を維持するために、各宿場の出入口に「木戸」を設けていま した。 桶川宿の古絵図にもこの木戸は描かれており、文久元年(1861)に皇女 和宮の通行を迎える前に木戸を立て直した記録も残られています。 現在、木戸 のあったことを示す石碑は当地と大黒屋化粧品店脇(下の木戸跡)に建てられて いますが、当地の石碑は道路の拡張等により以前よりもやや南に移されています。  「上の木戸跡」は「下の木戸跡」とともに江戸時代の桶川宿の規模を私たちに 伝えてくれています。 」  

桶川宿はここで終わる。 

女郎買い地蔵
     松山稲荷道道標      上の木戸跡
女郎買い地蔵(真ん中の大きな)
松山稲荷道道標
上の木戸跡





(7)鴻巣宿

桶川宿から鴻巣宿へは一里三十町(約7.3km)の距離。 
桶川の北の木戸跡の碑を過ぎると、緑多い快適な道が続く。  二ツ家の交差点で、右に天神道、左が松山稲荷道と分かれる。  松山稲荷道とは前述の東松山市にある箭弓稲荷神社へ向かう道のことで、 天神道とは加納天神に向かう道のことである。 

 * 「 加納天神は国道17号を越え、緑川高校入口交叉点を左折すると 八百メートルにある氷川天神社である。 平安時代、貞観十一年(869)の創建と 伝えられる古社で、 正徳弐年(1712)に上加納村の鎮守として、菅原道真を祭神と する加納天神社となったが、明治八年(1875)、上加納村と下加納村が合併した際、 下加納村の鎮守である氷川神社も合社したので、氷川天神社と呼ぶようになった というもの。  両村は、現在は桶川市に編入されている。 

道の両脇には最近多い郊外店が軒を並べていた。 北本温泉という日帰りの湯 があった。 
千五百メートル程あるくと本宿交叉点。 本宿とあるのは江戸時代の始めまで ここに宿場があったからである。 

 * 「 江戸幕府は中山道を開設した当時北本に宿場を開設したが、 その後、宿場を鴻巣に移してしまった。 その後は立場茶屋として明治まで続い た。 

街道を歩いてもその痕跡は見られないが、左側の立派な白壁の塀の家は 時代が違うだろうが雰囲気があった。 
交叉点から五百メートル程の多聞寺交差点で右折すると少し奥に入ったところに 多聞寺と天神社がある。 

 * 「 多聞寺(たもんじ)は万治四年(1661)の開基で、 本尊は毘沙門天立像。本堂は建て変えられているが、鎌倉や室町時代の古い板碑が 十数基残されている。 また、境内の樹齢200年以上のムクロジの木は県指定天然 記念物である。 ムクロジ(無患子)の実の黒い種は正月に遊んだ羽根つきの羽の先 についている玉になる。  」  

二ツ家交差点
     白壁の家      多聞寺
二ツ家交差点
白壁の家
多聞寺


隣の天神社の御神体は菅原道真坐像である。 社殿の隣の建物では笛と太鼓の合奏が行われていたが、 お祭りの練習のようであった。 天神社には明治二十四年の算額が奉納されている。 

 * 説明板 「算額(さんがく)」    
「  算学は中国から伝来した数学をわが国の関孝和らによって改良発達された 独自の学問である。 県内で算学が行われるようになったのは天明年間(1781〜88) 頃からと推定され、これら算学を学ぶ人々が問題の解法などを記録して、神社、 仏閣に奉納したものが算額である。 当神社に奉納されている算額は時代を ぐっと降って、明治中期のものである。 これには「奉献額 関流算法 明治廿四年 四月吉日 発起者 当所 清水和三郎 林専蔵」として、市内十一名、市外一名の計 十二名による問題と解答が記録されている。 算学は明治五年(1877)の学制で採用 されなかったが、この算額は前代に引き続いて民間ではかなり盛んであったことを 証明する資料として貴重である。 昭和五十七年三月 北本市教育委員会 」  

中山道は多聞寺前から左斜めに北本駅前を通過し、JR高崎線の東間踏切のあたりで 線路の両側に出るルートであった。 そのルートはないので、北本駅前交叉点を 左折し、高崎線の北本駅に出るが、北本駅東口の手前の右斜めの細い道が中山道 の名残りと思われる。 その道を行くと北側に東間浅間神社がある。 

 * 説明板 「東間浅間神社の由来」  
「当社の祭神、木花開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)は大山祇命の御女にして 天孫にぎにぎのみことの妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神なり。  今日の日本の基礎を築き給いし功徳は日本女性の範と敬仰し奉らる。 古来、 山火鎮護、農蚕の守護神又婚姻子授、安産祈願の霊徳神なり、初山に詣でる赤子は 額に神宝の朱印を戴き、無病息災を祈願し、出世を願ふに崇敬極めてあつし。 」   

東間浅間神社はこの地方の人々の崇敬を集め、東村せんげんの森といわれた神社 で、天神社、八幡社、弁天社も合祀されている。 
小高い丘の初山に築後二百年の本殿があったが、小生が訪れた一年前、不審火で焼かれ 、小さな仮祠があったが、平成十七年に再建されたようである。 
浅間神社の入口には小さな社があり、庚申像が祀られていた。  三猿の上にいるのは猿田彦(さるたひこ)で、旅の守護神であると書かれていた。 

天神社
     東間浅間神社      庚申堂
天神社
東間浅間神社
庚申堂


東間踏切の近くに馬室原の一里塚がある。 神社の横の道が突き当たった線路 の向こう側に一里塚はあるのだが、踏切がないので大回りをする。  神社横の道を北上すると、鉄道の線路につきあたる。 ここは左折し、東間踏切 まで歩き、踏み切りを渡り、右側にある小田急マンションの前の道を右折すると 二百メートルほど先に原馬室一里塚入口の矢印がある。 案内に従い、農道に入る と左側に塚があった。 

 * 説明板 「一里塚」  
「(前略) 幕府は慶長六年(1601)には東海道各駅に、翌慶長七年(1602)には 中山道各駅に伝馬の制が発せられ、その後、伝馬制の実施に当たり便宜をはかるよう、 また旅行者通行人に対する通行の目安とも、憩いの場ともなるように一里塚を 築くに至った。 六十間を一町(約110m)、三十六町を一里(約4km)とし、街道 一里毎に、その両脇に五間(約10m)四方の塚が築かれ、頂上に榎等が植えられた。  中山道一里塚は慶長十七年(1612)に構築されている。 (中略)この一里塚は当時の 中山道をはさみ両側に築かれたもののうち、西側の塚で、東側の塚は明治十六年 (1883)、高崎線の敷設の際に取り壊されてしまった。 現存する西側の塚は 旧中山道の道筋を知る上で貴重な存在になっている。 平成元年三月 鴻巣市 教育委員会   」   

なお、中山道のルートは、その後、浅間神社の前を通る道に変わったので、 古い一里塚はもとの位置に残ったのである。 塚に上ると名は分からないが、 大きな木があり、その下に小さな祠と石碑があり、石碑に「埼玉県足立郡馬室村 大字原馬室」と記されていた。 
  元治元年創業の梅林堂という菓子屋で塩豆大福を二個買い、県道164号を北に歩く。  国道17号があるのに、ひっきりなしに車が走り、一人分しかない狭い歩道を自転車が 行き来するのである。  その度に、道を譲らなければならないのには参った。 
深井二丁目交叉点で、鴻巣市に入る。 ここから県道57号で、人形町バス停の右側に 金剛院の石柱があり、その先に八幡神社の入口がある。 その先の左側に吉見屋人形店 があり、雛屋歴史資料館を開いている。 

 * 「 鴻巣は江戸時代より雛人形の産地で、江戸の十間店 (じつけんたな)、武州越谷(こしがや)とともに、関東三大雛市の一つとして繁栄して 来た。 
鴻巣人形は江戸時代に京都の伏見人形師が移住し、造り始めたのが始まりである。  その後、豪華な衣装を着けた古代雛が作られるようになり、今でも人形店が軒を並 べている。 戦前の最盛期には二百軒の製造業者があったが、大量生産の岩槻雛 人形に押され、最近ではわずか十数軒に減少している。 
吉見屋人形店は江戸時代創業で、三百年余り続く古いひな人形店の 一つで、 土蔵を使った雛屋歴史資料館には古い鴻巣雛が展示され、この地方 独特の裃雛(かみしもびな)は、女児の初節句や養蚕農家の豊年を願う「お繭さま (おかいこさま)」に供える愛らしい人形である。 」  

人形店を過ぎると、本町南交叉点でこの辺りから鴻巣宿が始まる。 
本町交叉点の手前左側に「壇林勝願寺」と刻まれた大きな石柱と山門が見えてくる。  鴻巣宿の入口にある勝願寺は寺の屋根に葵の紋瓦のある大きな寺である。 

 * 「 勝願寺は鎌倉時代に良忠という僧が登戸の地に堂宇を建立した ことが始まりとされる淨土宗の寺で、清厳上人が天正元年(1573)に現在の地に再興 した、と伝えられる。 徳川家康は、文禄弐年(1593) 鴻巣で鷹狩りを行った際 この寺を訪れ、二世住職の円誉不残上人に感銘を受け、宝物を寄進したといわれて いるが、幾度かの災厄により、宝物は殆ど失われてしまった。 山門には仁王像が 収まっている。 」  

馬室原の一里塚
     吉見屋人形店      勝願寺山門
馬室原の一里塚
吉見屋人形店
勝願寺山門


勝願寺の広い境内には樹木が多く、伽藍は立派で、本堂の屋根には 徳川家の葵の紋瓦があり、徳川家康の御朱印をいただいていたことを示す。 
本堂の前には人形塚があり、右手の墓地には大きな宝篋印塔が並んでいる。  本堂の左には芭蕉忌千句塚の碑が建っている。 
その奥に戦国時代の武将仙石秀久の墓がある。 

 *  説明板 「仙石秀久の墓」  
「 秀久は信州小諸の城主。初めは羽柴筑前守秀吉の家臣で阿波国須本城主であったが 天正十八年(1590)小田原の戦功により小諸を賜った。のちに徳川家康に仕え慶長 十九年(1614)出府しての帰途発病同年五月六日当地で没した。当山にて殯し同年 十一月八日小諸の歓喜院に葬る遺命により当山に分骨建墓。 本廟は芳泉寺(長野県 上田市)にある。 当山  」  

勝願寺本堂
     芭蕉忌千句塚      仙石秀久の墓
勝願寺本堂
芭蕉忌千句塚
仙石秀久の墓


真田小松姫の墓と信州松代藩主真田信重夫妻が並んで建っている。 

 * 説明板 「真田小松姫の墓」  
「 小松姫は本多忠勝の女(むすめ)で、家康の養女となり、真田信之(幸村の兄で信州 松代藩の祖)に嫁し、元和六年(1620)二月二十四日に没した。 生前、当山の中興 二世の貫主円誉不残上人に深く帰依した。 そのような縁で元和七年(1621)、 一周忌に際し信之の二女松姫(見樹院)が当山に分骨造塔した。 本廟は長野県 上田市の芳泉寺ある。 当山  」  

小松姫の夫の真田信之は真田昌幸の嫡男で、真田幸村の兄である。 徳川四天王 の一人と言われた本多忠勝の娘婿だったこともあり、関ヶ原合戦では徳川方に ついた。  一方、石田三成と関係の深かった大谷吉継の娘を妻としていた真田幸村 と父昌幸は西軍に組した。  関ヶ原の戦いの悲劇である。 

 * 説明板 「右真田信重の墓 左信重の室の墓」  
「 信重は真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)の三男。慶安元年(1648)二月二十 三日、鴻巣で病没した。 母小松姫の縁で当山に葬る。 また信重の室は 鳥居左京亮の第六女、慶安二年(1649)十二月九日に没した。 長野市松代町の西 楽寺には夫婦の霊屋(おたまや)があって位牌が安置されている。 当山  」  

裏の墓地にある大きな宝篋印塔四基は、関東郡代、伊奈忠次一族の墓である。  江戸川に流れ込んでいた利根川を銚子沖に流すように替えるなどして、江戸の洪水 を防いた功績はすばらしい。  一番左が忠次の墓、その隣が子の忠治の墓である。 

 * 説明板 「伊奈忠次 忠治の墓」  
「 伊奈忠次は三河国幡豆郡小島の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め、徳川 家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を 賜った。 関東各地を検地し、桑、麻、楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は 彼によって富むといわれた。(以下略)  
伊奈忠治は忠次の次子。元和四年(1618)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口 市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、 港湾の開さく等に努めた。 その在位は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制 確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。  (以下略)  平成元年三月 埼玉県教育委員会 鴻巣市教育委員会  」  

鴻巣宿は桶川から一里三十町の距離で、江戸から七番目の宿場である。 
  この宿は慶長七年(1602)、現在の北本市の本宿村の宿場を移して鴻巣宿としたもので、 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口2274人、本陣1、脇本陣1、 旅籠58軒であった。 
江戸時代の旅人は健脚で、夜明けとともに出発し、日暮れ前に宿場に入るスタイルで、 男子は一日三十キロ〜四十キロ、女子でも二十キロ〜三十キロ歩いたといわれ、一日目の宿を 鴻巣あたりでとることが多かったので、中山道でも旅籠の数も多かったといわれる。 
なお、英泉の木祖街道鴻巣宿は何故か吹上から見た富士である。 

小松姫と真田信重夫妻の墓
     伊奈忠次 忠治の墓      鴻巣宿浮世絵
小松姫と真田信重夫妻の墓
伊奈忠次 忠治の墓
鴻巣宿浮世絵


左側に木村材木工業とパーキングこうのすがあり、「旧中山道周辺名所旧跡案内図」 がある。 それによると「高札場は現在の三木屋付近、この先左に入った東照宮が 家康が鷹狩をために建てた鴻巣御殿跡」とある。 
道の反対(右側)の伊田ベビー(介護用品)の隣の空地の前の道角に「鴻巣本陣跡」の 黒い石柱が立っている。 この奥に入ると「仲町会館建設記念碑」と「猿田彦神」碑 があるが、このあたりが仲町六斎市が開かれた場所である。 
中山道に面した本町周辺には昔風の家が残っていたが、いつまで続くものか心配。 
駅前交叉点を過ぎ、鴻神社交叉点の右側に鴻神社がある。 

 * 説明板 「鴻神社」  
「鴻神社は明治六年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、 もとは鴻三社といった。 三社とは次の神社である。 
氷川社・・ 鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された 古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。 
熊野社・・ 熊野権現と称していた古社で氷川大明神を端ノ宮と称したのに対し 中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地三千坪を有し、巨木におおわれた森林だったという。 
竹ノ森雷電社・・ 雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名がある ように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、 天明期には遍照寺(常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社で あった。 
現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後 、社殿の造営が行われ、明治六年九月二十四日に社号を鴻三社と定めた。  明治三十五年から四十年にかけてはさらに町内に所在した日枝神社、東照宮、大花 稲荷社、八幡神社を合祀して、明治四十年四月八日、社号を鴻神社と改めて現在に 至っている。  (以下略)  昭和六十三年三月 鴻巣市教育委員会」  

当時の竹ノ森はその名の通り、多くの竹林が点在する竹と高木の森だったようで、 神社の敷地も広い。 
鴻巣は大宮台地の北部にあり、旧荒川と荒川の低地に囲まれている扇状地にある。 
地名の由来については諸説あるようだが、 「 古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくに のみやつこ)の笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたり に住み、一時この地が武蔵の国府となったことから、「国府の州(こくふのす) 」 と呼ばれたのが始まりとされ、それが「こふのす」 となり、後に 「コウノトリ伝説」 から、鴻巣の字をあてはめるようになったと云われている。 」という説を市は 取っている。 

 *  「コウノトリ伝説」  
「 木の神と呼ばれる大樹があり、人々に災いをもたらしていたが、コウノトリが 住み着いてからは害をなすことがなくなったので、大樹のそばに社を造って、 コウノトリを祀った。 」 というもので、祀った社を鴻の宮、この地を鴻巣と 呼ぶようになった。 」   

鴻巣宿はここで終わる。 

古い家
     古い家      鴻神社
古い家
古い家
鴻神社


 

(所要時間) 
上尾宿→(1時間30分)→桶川宿→(1時間10分)→北本集落→(1時間50分)→鴻巣宿


桶川宿  埼玉県桶川市東・寿 JR高崎線桶川駅下車。 
鴻巣宿  埼玉県鴻巣市本町  JR高崎線鴻巣駅下車。  




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かうんたぁ。