立石寺は、天台宗の寺院で、山寺の名前で、世に知られる。
貞観二年(860)に、清和天皇の勅により、慈覚大師が開山した、と伝えられる。
鎌倉時代には、幕府の保護を受け、関東御祈祷所として、栄えた。
大永元年(1521)、天童頼長の兵火により、一山が焼失。
この時、比叡山延暦寺より分燈された法灯が消失した。
天文十二年(1543)、比叡山より、再び、分燈を受けた。
元亀二年(1571)、比叡山が焼き討ちに遭い、法燈が消失すると、
その再建時に、立石寺から延暦寺へと、逆に分燈された。
江戸時代の初期、山形藩最上家は荒廃した堂宇を再建した。
最上家が改易後は、庇護者を失うものの、8
江戸時代初期から、信者を募り、広域的な信仰の広がりを見せ、
僧坊二百、僧侶三百人を数えたといわれる。
元禄二年(1689)には、松尾芭蕉が、奥の細道の途上、訪問し、
「 岩にしみ入る蝉の声 」 の句を詠んでいる。
JR仙山線の山寺駅で降り、直進すると、山寺ホテルがあり、
その奥の小高い丘陵に立石寺の堂塔が建っている。
右折し、三百メートル行くと、山寺日枝神社の赤い幟があり、道案内の看板が建っている。
この看板には、「峯のコース 930m 立石寺登山口 40m」とある。
登山口から石段を上ると、正面にあるのが、根本中堂である。
「 根本中堂(立石寺中堂)は、正平年間(1346〜1370)の再建と伝えられる。
現在の建物は、慶長十三年(1608)、大修理後の建物である。
国の重要文化財に指定されている。 」
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根本中堂から左に行くと、石段の上に、清和天皇の御宝塔がある。
「芭蕉句碑と清和天皇御宝塔」の説明板が建っている。
「 閑さや岩にしみ入る蝉の声 、
元禄二年(1689)、おくのほそ道をたどり、今の7月13日に、山寺を訪れた松尾芭蕉の句で、
門人たちが嘉永六年(1853)に建てた句碑である。
奥に見える宝塔は、山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔で、
当山では最も古い石塔である。
その先にあるのは、日枝神社である。
「 貞観二年(860)、慈覚大師が宝珠山を開基する際、
比叡山延暦寺に倣って、山寺一山の守護神として、近江国坂本の日枝神社より、
御分霊を勧請し、祀ったのが最初である。
神社は、山王権現、またの名を大宮大権現と称され、
二ノ宮、三ノ宮、客人権現、東には山王二十一社の規模が整えられ、
天台宗派の手により、山王神道の神仏習合の東北地方の一大根拠地になった。
しかし、大永元年(1521)、天童頼長の兵火により、一山は焼失。
当社も灰塵に帰したが、天文二年(1534)、一山n守護神として、
当社が先ず、再建されるに至った。
明治三年(1870)の神仏分離令により、立山寺と切り離し、山寺村の守護神として、
日枝神社に名前を改めて、千年におよぶ、立山寺の当社への別当は終止符を打った。 」
その先にに、こけし塚と書かれた石塔、奥に宝物殿がある。
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左の空地にあるのは、芭蕉と曽良の銅像である。
「 奥の細道に同行した曽良(河合曽良)は、
芭蕉のそばに住んでいて、普段から食事の世話など、芭蕉の身の回りの世話をしていた。
長島藩に仕えたこともあり、武人らしい実直さもあり、芭蕉は彼の人間性を信頼していた。
曽良は、同行に選ばれたことを喜び、東北の名所・旧跡を事前に、綿密に調べました。
彼は、地理学・神学に精通しており、芭蕉は心強かったと思われる。
曽良は、旅の)記録をメモした。 それが、曽良旅日記として、残っている。 」
一段下がった先にあるのは、念仏堂(修行道場)と鐘楼である。
「 念仏堂(修行道場)は、宝形造・銅板葺・桁行三間。梁間三間・正面一間向拝付きの建物である。
鐘楼は、山門前、常行念仏堂の脇にある。
鐘楼は入母屋造・銅板葺、石垣の基礎に袴腰付、腰壁は下見板張り、総押縁押、屋根は二重垂木。
天井格天井、上部は四隅柱のみの吹き流しで、
高欄の廻り蟇股には霊鳥と思われる彫刻が施されている。 」
左手にある門は、不浄門で、しの下には石段がある。
案内板の脇を進むと、石垣と石段があり、その上に山門が建っている。
山門は、鎌倉時代の作といわれ、奥の院への入口である。
写真は初雪の時、訪れたものである。
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山門から、しばらく参道を歩くと、右側に姥堂がある。
「 ここは山内の結界の一つで、
姥堂がある浄土口より上は、極楽浄土、下は地獄と見立て、
江戸時代の参拝者は、近くの岩清水で身を清め、新しい着物に着変えてから、
山頂の奥の院へ向かった。
脱いた古い着物は、姥堂内に安置されている、奪衣婆に奉納するのが、常とされ、
欲望や汚れを落して、新しい人間に生まれ変わる機能を持ちました。
姥堂は、木造平屋建・寄棟・茅葺・桁行1,5間、梁間1間・平入・正面だけ壁がなく。
内部に安置されている奪衣婆と、複数の地蔵尊の石像を、直接拝むことができる。
奪衣婆は、閻魔大王の妻とされ、三途の川を渡る船賃がない死者に対し、
船賃の代わりに、着て来た衣類を剥ぎ取るとされる。 」
姥堂の対面にある、ひさしが付いた大きな巨石は、
笠岩(笠投岩)と呼ばれ、慈覚大師円仁が雨宿りをしたところと、伝えられている。
その先で、右折して上るが、おびただしい石碑が参道脇にある。
そうした石碑・石柱が多いところに、「修行者の参道」という説明板が建っている。
説明板 「修行者の参道」
「 小山(宝珠山)の自然に沿って造られたこの参道は、昔からの修業者の道。
一番狭いところは約十四センチの四寸道で、
開山の慈覚大師の足跡を踏んで、私たちの先祖や子孫も登るところことから、
親子道とも、子孫道とも云われている。
左にそびえる百丈岩の上に、納経堂や開山堂・展望随一の五大堂がたっている。
参道のあちこちの、車のついた後生車という木柱は、
年若くして亡くなった人の供養で、南無阿弥陀仏と、となえて車をまわすと、
その仏が、早く人間に生まれて来ることができる、という。 」
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見上げると。百丈岩は確認できたが、その上にあるという建物は見えなかった。
その先の石段の左に、「登山口から360余段 四寸道 奥の院まで640余段 → せみ塚」
の道標がある。
ここには、平安時代の磨崖仏があった。
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左側に「せみ塚」の説明板が建っていて、その下に「せみ塚」の道標がある。
説明板 「せみ塚」
「 松尾芭蕉のおくのほそ道の紀行文に、
「 山形領に立岩寺という山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、
その間、七里ばかりなり、
日いまだ暮れず、麓の坊に宿借り置きて、山頂の堂に登る。
岩に巖を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて、苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物音聞こえず。
岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景しゅくばく寂寞として、心澄みゆくのみおぼゆ。
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、 せみ塚 といわれている。 」
せみ塚の先、道の右側に、直立する岩があり、弥陀洞と呼ばれている。
「
姿が阿弥陀如来に似てることから、丈六の阿弥陀如来(約4.6m)と呼ばれる。
岩壁には、岩塔婆・後生車・卒塔婆などが刻まれている。
「死後の魂は、山寺に還る。 」 という、この地方独特の庶民信仰という。 」
その秋にあるのは、仁王門である。
「 仁王門は、嘉永元年(1848)に再建された、総欅造りの優美な門である。
入母屋造・銅板葺・三間一戸・八脚単層門である。
左右に安置されているのは、運慶の弟子たちにより彫られた仁王像である。b
後方に安置されている閻魔大王は、この門を通る人たちの過去の行いを記録していて、
右の岩穴に見える石塔は、亡くなった人のお骨が入っていて、他の岩穴にも、
古い時代の人達の骨が納められている。
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仁王門をくぐって登って行くと、右手に山内支院があり。一番奥に大仏殿、三重小燈と奥の院がある。
途中から左の道を進むと、開山堂と五大堂があり、そこからの展望がここの名物になっている。
以前訪れた時は、五大堂まで行き、仙山線を走る列車を眺めたが、奥の院には行かなかった。
山寺を訪れる人の大部分が、他の観光地に行く途中で訪れるので、せみ塚か、仁王門までが多い。
五大堂は時間が許せば訪れるが、信心がない身では奥の院までは時間がかかり、過ぎる。
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開山堂は、立岩寺を開基した、慈覚大師が入定した、百丈岩の入定窟の上の平な場所に
建てられている。
大師の尊像が祀られていて、山内のお坊さんが朝夕、食事を供え、お勤めをしている。
大師が亡くなると、胴体は比叡山延暦寺へ、首は立岩寺に運ばれ、山腹に葬られたと伝えられる。
建物は、江戸末期の建設である。 」
五大堂は開山三十年後に五大明王を祀る道場として建設された。
断崖に突き出すように建っていることから、下の山寺地区を一望できる。
「 五大堂は正徳四年(1714)に再建、嘉永五年(1852)に改築されたものである。
木造平屋造・切妻・銅板葺・妻入・桁行四間・梁間二間・懸け造りになっている。
祀られているのは五大明王である。 」
下山し、山門から左に向うよ、抜苦門がある。
門をくぐると、羅漢像と蛙岩がある。
その先にあるのは立石寺本坊である。
その先にある大きな岩は、神楽岩で、石段を下ると、下山口に出て、山寺の参拝は終了する。
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訪問日 平成三十年(2018)十一月三十日