前日、米沢城址を見学し、市内のホテルに泊まる。
朝、ホテルを出たら、みぞれになっていたので、傘を買い駅に行く。
駅から、市内循環バスに乗り、山大正門バス停で降りた。
「 バス停の右手にあるのは、
山形大学工学部の前身である旧米沢工業高等学校の本館として、
明治四十三年七月竣工のルネッサンス様式の木造二階建ての建物である。
国の重要文化財に指定されており、前回妻と娘が訪問した時は見学無料で、
内部は工業機械類の資料館となっていたというが、現在は予約制で自由には入れない。 」
山形大を左に見ながら西に向うと、 堀立川に架かる桶清水橋の先の左側に林泉寺があった。
「 林泉寺は、明応五年(1496)に、
越後春日山城のふもとに建てられたのが、始まり。
長尾景虎(後の上杉謙信)の祖父・長尾能景(越後国守護代)が、
その父・重景の十七回忌にあたり、長尾代々の菩提所として創建したものである。
上杉となってから、二代目・景勝の時、越後春日山から米沢に移り、
以来、長尾・上杉家の菩提寺として今日に至っている。 」
堂内拝観は、冬季は実施されていないとあったが、
入寺料を入れる場所があり、お金を入れて、パンフレットを入手し、境内を歩く。
境内には藩主上杉氏代々の奥方と子女の墓所がある。
直江兼続夫妻の墓は、同じ場所に、同じ大きさの墓が並んで建っていて、
県指定史跡になっている。
この時代、夫妻が同じ墓石と言うのは珍しい思った。
とても仲がよかったと言う史実もあり、ほほえましくも、また嬉しくもなった。
武田信清(信玄の六男)の墓も、県指定史跡になっている。
その他に、上杉氏重臣・鉄砲師・学者など、著名人の墓や、
米沢三大名園といわれた庭園がある。
残念ながら、御朱印はいただけず、名家竹俣当綱(たけつなまさつな)ゆかりの山門をくぐり、
林泉寺の訪問は終了した。
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山形大學正門前に戻ると、道の反対に一の宮神社があった。
「 一の宮神社の歴史は古く、陸奥国置賜郡長井荘谷地郷にあり、
「大明神」 として祀られたのが始まりと、伝えられる神社である。
和銅五年に、「出羽一の宮大明神」 として崇拝され、
宝永元年(1704)、正一位一の宮大明神となり、置賜郡の総鎮守として勅許された。
明和年間(1764-71)、米沢城を境に、北の住民は白子神社、南の住民は一の宮神社の氏子となり、
現在もその慣例は続いている。
祭神は大巳貴命、少彦名命で、現在の社殿は明治二十一年の再建である。 」
山大正門バス停から、一時間に一本の循環バスに乗り、矢来バス停で、降りる。
「 上杉氏が築いた米沢城には、二の丸に、藩の役所と世子御殿が置かれた。
本丸の西方に、上杉家歴代藩主の墓所である御堂(上杉家廟所)が造営され、
御堂に近侍する法音寺、大乗寺など、御堂に交替で勤仕する真言宗の二十一ヶ寺が設けられた。 」
道路を横断して右に左に行くと、突き当たりに杉木立に囲まれ、
「昆」と「龍」の旗の先にあるのが,上杉家廟所(上杉家歴代藩主墓所) である。
江戸時代には御廟将が置かれ、御廟守と御廟番によって守られていた、という。
参拝のしおりによると、
「 上杉家廟所は、おたまや とも呼ばれ、東西約百十三メートル、南北約百八十メートルで、
約二ヘクタールの面積を有し、柵の外側には幅約三・六メートルの空掘と土塁が廻らされている。
文化十四年(1817)の「御廟山絵図」によると、江戸時代の御廟は、南正面に門枡形を造り、
枡形をぬけると、東西に参道が延びていた。
その参道から各廟堂に向って、参道が北行している。
廟屋の前には拝殿があり、御廊下を通って、御拝礼の間に達する。
廟屋の前後や各参道の両側には、家臣たちが奉献した石灯篭が置かれていて、
絵図内での石灯篭は約八百基が確認できる。
江戸時代の末期には約千五百基を数え、威容を誇っていた。 」 とある。
参道を進むと、中央奥に、上杉謙信公廟がある。
その手前の左側には二代藩主景勝、右側には三代藩主定勝の廟屋がある。
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両側に廟屋が立ち並んでいる。
「 元和九年(1623)、二代目景勝公が逝去した際、
謙信御遺骸の避難所だったこの地で、火葬に附し、灰塵、冠服を葬り、
廟を建てて、位牌を納めて廟所とした。
御遺骨は紀州高野山に納められた。
その後、八代宗房公までは、景勝を中心に右左交互に廟屋を建てて、
高野山に納骨する形式が採られた。
十代治憲公(上杉鷹山)は、儒教の影響を受け、九代重定公を土葬にし、
以降十二代斉定公までは土葬である。
廟の屋根の形で、土葬か否かが分かるという。
火葬の廟屋は入母屋造、土葬は宝形造で、
全体的には上杉家古来の質実剛健で、装飾はない。
なお、墓所左側、十二代斉定と十代治憲の間に、鷹山の子・顕孝の墓がある。 」
米沢城の廃城後の
明治九年(1876)、謙信御遺骸が御廟中央の少し奥まったところに遷された。
これにより、御廟内全体が現在の形に改変された。
上杉家廟所は、昭和五十六年に、国の史跡に指定された。
隣にある法音寺は、天平九年(737)に、聖武天皇の勅命により、
越後国魚沼郡藤原に建立された古い寺である。
「 天正年間に、上杉家の帰依寺となり、春日山に移された。
後に、上杉藩が会津、米沢と、移封されたのに随って、
米沢城の二の丸に建立されたが、明治三年(1780)、藩命により、現在地に移された。
本尊は大日如来で、上杉家歴代藩主の位牌、善光寺如来像・
泥足毘沙門天・管谷不動尊を安置している。 」
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(ご参考) 上杉氏4代〜12代藩主について
「 寛文四年(1664)、上杉氏四代目・綱勝が、嗣子を定めないまま急死した。
この時、江戸幕府より弟の綱憲が末期養子として認められ、藩は存続したが、
石高は十五万石に半減された。
石高が減ったのに、藩士解雇が行われなったので、藩の財政は逼迫。
その対策として、城下近郊の原野の東原と南原に、新たに、原方と呼ばれる地域を設置し、
城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。
九代藩主重定は、聡明とうわさの高い治憲(秋月藩主の次男)を養子として受け入れ、
十代藩主にした。
その治憲が上杉鷹山で、藩政改革で財政の再建を果たした。
鷹山は、十一代藩主に、重定の子・治広にした。
治広は、鷹山の子の顕孝を次の藩主にすることにしたが、
亡くなったため、十二代目には斉定がなった。 」
訪問日 平成三十年(2018)十二月一日。