名所訪問

「 続日本100名城 米沢城 」


かうんたぁ。


米沢城は伊達政宗が生まれたと伝えられる出羽国にあった城である。
伊達氏と最上氏の覇権争い、豊臣秀吉の奥州処置などに、翻弄されたが、 最後は石高を大幅に減らされた上杉氏が統治し、明治維新を迎えた。 
国の史跡に指定され、続日本100名城に選定されている。 


米沢駅には能舞台が設置されていて、その前に、 ゆるキャラの 「かねたん」 のデイスプレーがある。 
市内循環バスは一時間に一本で、乗れば10分程で到着できる。
閉門時間の関係を考慮し、タクシーに乗って、伝国の杜へ!! 
米沢城跡の一帯は、「伝国の社」 として整備され、 立派なガラス張りの 「米沢市立博物館」 が建っている。 
博物館内を見学することもないと判断し、上杉記念館(旧上杉伯爵邸)へ行く。 

「 明治二十九年(1896)、二の丸跡に、上杉家十四代当主・茂憲伯爵が邸宅を建てたが、大正八年(1919)の米沢の大火により、類焼した。 
大正十四年(1925)に再建されて、鶴鳴館(かくめいかん) と、呼ばれた。 
  国の有形文化財に指定された伯爵邸は、上杉記念館となり、郷土料理の提供や資料の展示が行われている。 」 

かねたん
     旧上杉伯爵邸      旧上杉伯爵邸
かねたん
旧上杉伯爵邸
旧上杉伯爵邸
 

上杉記念館の北側には水堀が巡らされている。
これは、米沢城の本丸堀である。 
堀に沿って北に進むと、松岬神社(まつがさきじんじゃ) がある。 

「  松岬神社は、上杉神社に隣接し、米沢藩初代藩主景勝、 九代鷹山、景勝の執政直江兼続などの六柱を祭神にしている。 」

境内には鷹山の明言、「なせばなる」や「伝国の碑」の石碑がある。 

「 上杉鷹山は、高鍋藩主・秋月種美の次男に生まれ、 十歳の時、上杉重定の養子になり、十七才で家督を継いた。  
上杉家は、十八世紀中頃には借財が二十万両に累積する一方、 石高が十五万石(実録は約三十万石)でありながら, 初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津百二十万石時代の人員を整理しなかったため、 人件費だけで、藩財政に深刻な負担を与えていた。 
鷹山は、米沢織・米沢鯉・ウコギ・笹野一刀彫りなどの産業に力を入れ、 質実剛健、質素倹約を進め、米沢藩の再興に寄与した殿様である。 」 

松峰神社の左手に大きな常夜燈があり、その先に橋が架かっていて、 「毘沙門天」 の幟が建っている。 
参道の左側に 「伊達政宗公生誕之地」 の石碑が建っている。 

「 米沢には、平安末期に地頭が置かれ、 鎌倉時代中期の頃(1238)、鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広が、 赴任地の地名から長井姓を名乗り、米沢城を築いたのが始めとされる。 
室町時代初期には伊達氏の支配するところになり、伊達政宗はここで出生したといわれる。
伊達氏が二百十二年間、上杉氏が二百七十二年間、 居城を構えたことにより、城下町として、町並が形成されていった。 」 

その先には、上杉鷹山の銅像が建っている。 

本丸堀
     松岬神社      伊達政宗公生誕之地碑
本丸堀
松岬神社
伊達政宗公生誕之地碑

その左側は土地が小高くなっている。
上って行くと、鉄柵で囲まれた石碑があり、 「上杉謙信祠堂(御堂)跡」 の説明板がある。 

説明板「上杉謙信祠堂(御堂)跡」
「 江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。 
謙信は、天正六年(1578)三月十三日、越後春日山城で逝去亨年四十九才だった。 
その遺骸は甲冑を着せ、甕に納め、漆で密封したといわれている。 
謙信の遺骸を継いた上杉景勝が会津百二十石、米沢三十万石に移封されるに伴い、 謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建てて、安置した。 
謙信公の遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門天が置かれ、 その後ろには歴代藩主の位牌を祀り、最も神聖な場所として、 厳重かつ丁重に祀られた。 
明治四年の廃藩置県に際し、 仏式を改め、神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祀られる。 
謙信の遺骸は、同九年に、歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。 」  

参道に戻ると、道の右側に、上杉景勝公・直江兼続公主従像 が建っている。

「 大河ドラマ「天地人」の放送によって、全国に示された主従の強い絆や、 上杉家に継承されてきた義と愛の精神を後世に伝えていくことを願い建立された。 
ドラマの主役になった直江兼続(なおえけねつぐ)は、越後坂戸城主長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男で、早くから聡明さを見込まれ、景勝の近習に取り立てられた。
与板城主・直江信綱が殺害されると、 名家の断絶を惜しんだ上杉景勝が、信綱の妻・お船と結婚させ、筆頭家老・直江兼続が誕生した。 
慶長二年(1597)、会津に上杉景勝が入封した際、直江兼続は米沢城主になる。 
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、上杉氏は参戦しなかったが、 徳川家康よりの 「 景勝に謀反の疑いがある。 」 との嫌疑に、 世に有名な「直江状」という文書によって、堂々と反論した。 
上杉氏が、置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡、三十万石に減封されてからも、 君主・領民の為に、心血を注ぎ、六十才で生涯を閉じるまで、 現在の米沢の礎を築いた人物で、兜飾りの「愛」 の文字は印象的である。 」 

米沢観光コンペンション協会「観光案内所」の脇に、直江兼続の人形が置かれている。 
この案内所には、続日本100名城のスタンプが置かれている。 

上杉謙信祠堂跡
     上杉景勝・直江兼続主従像      直江兼続像
上杉謙信祠堂(御堂)跡
上杉景勝公・直江兼続公主従像
直江兼続像

鳥居の先にあるのが、大正十二年(1923)に再建された上杉神社の社殿である。 
なお、ここは米沢城の本丸跡である。

「 会津若松から米沢に移封になった上杉景勝は、 慶長十三年(1608)、直江兼続に命じ、城の大改修を行い、慶長十八年(1613)、 本丸・二の丸・三の丸からなる十基の櫓と、十七棟の門で構成する、輪郭式の平城が完成させた。
その際、石垣は築かれず、土塁が用いられた。 
本丸の中央部に藩主の住居の本丸御殿、東南隅の堤上に、上杉謙信の祀る御堂を建てた。
本丸御殿は上杉神社の社殿とその前の広場あたりにあったと思われる。 
天守は構えられず、本丸の東北と西北に、三階櫓(三層の隅櫓)を建てて、天守の代用とした。 
明治維新により、最後の藩主斉憲は、明治五年(1872)、 城内にあった謙信の霊屋(御堂)を、鷹山とともに合祀し、上杉神社とした。 
明治六年(1873)には廃城令により、城の建物のほどんどが破却されたが、 二の丸にあった藩の政庁は、そのまま、郡役所、町役場(後に市役所)として利用された。  
明治七年(1874)、城跡は松が岬公園となり、 明治九年(1876)、 謙信霊棺は上杉家廟所へ、失せ杉神社は現在地に移された。  」 

上杉神社にお参りして、右に進むと、稽照殿がある。 

「 大正八年、上杉神社が焼失、大正十二年に、上杉神社が再建された際、 その時、上杉氏代々の遺品などを収蔵展示する、「稽照殿」 が創設された。 」 

稽照殿は冬季は休館で、今日は最終日で、終了時間に近い時間での見学になった。 
館内は撮影禁止である。 
上杉神社の左手に、春日神社がある。 

「 春日神社は、越後国司に赴任した藤原遠成が、 上越春日山頂に、奈良春日大社を分霊したことに始まり、 藩主移封と共に、会津から米沢に移ってきた。 
減封を続けた上杉家の藩政は苦しく、 再建を願った十代鷹山公は、春日社への誓詞奉納は有名な事実である。 
明治五年に、現在地に移ったが、大正八年に上杉神社などと共に類焼し、 松岬神社に合祀されたが、昭和五十年に再建された。 」 

上杉神社の周りを一周したが、城の遺跡は残っていなかった。 

上杉神社shiro/
     稽照殿      春日神社
上杉神社
稽照殿
春日神社

米沢城は山形新幹線・奥羽本線米沢駅からバスで10分    
米沢城のスタンプは上杉神社内の米沢観光コンペンション協会「観光案内所」にて  

訪問日     平成三十年(2018)十一月三十日。



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