白石城は、伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱が城主を務めた城で、
益岡城あるいは枡岡城ともいわれた平山城である。
続日本100名城の第105番に選定されている。
前夜は飯坂温泉に泊まったので、福島飯坂ICから、東北道に入る。
桑折JCTを過ぎると、上りがきつくなる。
国見町に入ると、昔は伊達藩で、芭蕉の奥の細道には、「伊達の大木戸があった。」と記されている。
国見峠で二つの峠を越えるが、国見SAがあるので、一服し、コ―ピーを飲む。
白石ICは白石市街を通り過ぎたところにあるため、ICを降りて国道4号を走り、
新白石大橋を渡り、交叉点先にある日産プリンス店の手前を左折し進むと、
白石益岡公園の駐車場がある。
白石城へは、これを右に半周すると、介護センターがあり、無料駐車場があるので、
ここに車を停めた。
介護センターの右側に、「↑白石城I 「城來路(シロクロード)歩行者用道路」 の標識がある。
坂を上ると突き当たりで、左折して用水が流れる道に入る。
「 白石城は、奥州山脈と阿武隈高地に挟まれた白石盆地の独立丘陵地の北端、
標高七十六メートルの地に築かれた平山城である。
本丸と二の丸を中心に、幾重にも外郭を備えた堅城であった。 」
少し行くと、右側に、「白石城→」 「歴史白石ミュージアム→」 の道標が建っている。
坂を上っていくと、左側に、「白石城東口門跡」 の標柱と、
「白石城 二の丸大手ニノ門跡」 の説明板が立っていて、その上には石段が伸びている。
説明板「白石城 二の丸大手ニノ門跡」
「 白石城「東口門」は、正式には、二ノ丸大手ニノ門 と言い、
白石城東側を迂回するように通った奥州街道沿いの大手口から城内に入り、
外曲輪・三ノ丸内の屈折した通路を通り、ニノ丸へ入る関門であった。
片倉家屏風絵による東口門は、二階に格子窓がつき、その両側に狭間が穿たれている。
また、階下両側にも狭間が設けられ、白石城東側の防衛拠点であった様子がうかがえる。
明治7年(1874)、白石城解体の際、いったん、白石駅前通りの専念寺に売却されたが、
明治20年(1887)、東北本線の開通に伴い、白石市本町にある当信寺の山門として移築された。
現在の山門は、二階櫓門で、二階中央間の表と裏に大きな眼象窓(げんじょうまど)が各一つ、
ニ階側面には丸窓がついている。
幕末、この門のニ階に、鐘もしくは太鼓を置いて、時を知らせるため、
音の響きをよくするため開いた穴と伝えられ、往時の面影をとどめている。 」
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歩行者用道路 | 白石城への道標 | 「白石城 二の丸大手ニノ門跡」説明板 |
その先の左側の「白石城→」の道標の手前に、「白石城本丸跡外郭石垣」 の説明板がある。
説明板 「白石城本丸跡外郭石垣」
「 この説明版の右側斜面に見える石垣は、白石城本丸に築かれた石垣の一部です。
石垣は、本来、土手の上端までありましたが、明治時代に解体され、基底部分のみ残っています。
ここの石垣は、北側と南側で異なる積み方がされています。
この説明版、つまり、南側の石垣は野面積みです。
野面積みとは、自然石にあまり加工をせずに石を積む積み方です。
よく見ると、大きな石の周りに小さな石を取り囲むように積まれています。
積まれた時代は文禄年間(1592〜1595)と考えられています。
北側の石垣は、四角形を基調に加工した石を隙間なく積んでいます。
技法的には、野面積石垣より新しい積み方 (横目地が通らない布積み崩しの様式) です。
この箇所はもともと、野面積みであったものが、大雨、地震等で崩れ、建て直されたものです。
度々、石垣が崩れ、修理されたことが、
白石城主であった片倉家の江戸時代の記録 (片倉代々記) に記されています。
石垣の一部には、矢穴 と呼ばれる、石を割る際に施工された長方形の穴が石の端に見られます。 」
右側に幟が立っていて、その先に 「歴史白石ミュージアム」 の建物がある。
立体ハイビジョンシアターと、売店・展示室がある (入館料400円)
「 シアターでは、白石の歴史、片倉小十郎について、
また、戦国時代の甲冑についての解説などの映画を見せてくれる。 それも3Dである。
説明役には、今をときめく渡辺謙。出演俳優も宍戸錠を始め、結構な顔ぶれである。
これは、何年か前に、NHKの大河ドラマ 「伊達政宗」 の放送の際作ったものだと言う。
20分程度ではあるが、とてもよく出来ていて、面白かった。 」
その先の左側に、白い漆喰壁の土壁が続いていて、その先に、三階櫓(天守閣)が聳えている。
「 三階櫓(天守閣)と土壁が始まる部分の石垣を見ると、
石の積み方に違いがある。
天守台にあたる部分は、自然石をほとんど加工せずに積み上げていく工法が用いられている。
この工法は、野面積み といい、戦国時代の石垣はほとんどこの工法である。
外壁が始まる所から大手門にかけては、石の前面を加工し、
石と石の間に、間詰め石 を入れる、打込みハギ技法 である。
外壁には、石落しの他に、矢を射るための四角の穴や、鉄砲を撃つための丸い穴が空いている。 」
後ろに振り返ると、本丸大手門の一の門がある。
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本丸跡外郭石垣 | 土壁と三階櫓 | 大手一の門 |
一の門をくぐると、右枡形で、
侵入した敵は正面や右側からの狭間から弓矢や鉄砲を受けるということになる。
その先にあるのは、楼門のニノ門である。
「 NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」(昭和62年) の放送で、 西郷輝彦が演じた伊達政宗の重臣・片倉景綱が注目を集め、片倉景綱が 城主を務めた白石城を復元する機運が高まり、 平成四年(1992)から復元工事が始まり、 平成七年(1995)三月、三階櫓・大手の一の門とニの門・土塀が復元された。 」
ニノ門をくぐると、空地の先に復元された三階櫓がある。
左側の緑地に、「本丸御殿跡」 の標柱が建っている。
標柱「本丸御殿跡」
「 ここは本丸跡で、江戸時代の本丸は、高さ九メートル余の石垣の上に、
白漆喰の土塀で周囲を囲み、
右奥角に三階櫓、左奥角に坤(未申)櫓、左手前角に巽(辰巳)櫓、大手ニノ門(ニ階門)の奥に菱御門、
左側中央部に裏御門があり、その中に御成御殿・表御殿・奥御殿があった。 」
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大手門右枡形 | 大手ニの門 | 白石城本丸跡 |
白石城(本丸)の説明板には、本丸の中に、 ぎっしり詰まった建物の配置図が描かれている。
説明板「白石城(本丸)」
「 白石城本丸は、仙台藩主伊達家が白石城に宿泊するための 「御成御殿」 と
執務を行う 「表御殿」、城主片倉家の居館である 「奥向御殿」 から、構成されていた。
「御成御殿」は、「御成上段」・、「御次」・「三の間」・「御成寝所・御休所」 の部屋で構成され、本丸の一番奥、西側にあり、警備上一番安全な所が選ばれている。
白石は奥州街道の要衝でもあり、江戸への参府の途中、藩主(仙台伊達家)の宿泊施設として、
たびたび使われ、藩主御成の際は、藩主専用の 「御成式台」 から、座敷に上がった。
「表御殿」 は、片倉家の公式の対面を行う場所で、西端の 「御老中ノ間」・「御次ノ間」・
「御書院」・「御広間」の部屋があり、他に中奥ともいうべき、
「御用ノ間、御家老詰所」・「記録役詰所」・
「御小姓頭詰所」・「御用番詰所」などの執務部屋からなっている。
片倉家家中は、「中ノ口式台」 から出入りした。
「奥向御殿」 は、城主や奥方の日常生活空間であり、表御殿と平行に建っていた。
当主用の「御座ノ間」・「御次」・「御寝所」、奥方用の 「御茶ノ間」・「中ノ間」・
「御休所」があり、
他に「奥老部屋」・「女中部屋」・「御医師部屋」がある。
奥へは、「奥方式台」 から出入りした。
本丸東南隅には、園池のある庭園があり、池際には 「御茶室」 があった。 」
江戸時代には、ニノ門と三階櫓の間に、菱御門があり、その左手に、井戸と腰掛けがあった。
今は、「本丸井戸」 の標柱と井戸、その奥の一段高いところに、二階建ての鐘蔵(?)がある。
天守と称する三階櫓の入口は左側にあり、中に入るには400円が必要。
現在の三階櫓は、平成七年(1995)に、文政六年に再建された三階櫓を史実に忠実に、
木造で復元したものである。
「 三階櫓は、支城という格と、幕府への配慮から、天守の名をはばかり、
「大櫓」 と名づけられたとされる。
正保元年(1646)に、幕府に提出した 「奥州仙台領白石城絵図」 には、
二階建ての大櫓が描かれている。
ところが、寛文三年(1663)に提出した、「刈田白石城絵図」 には、二階建てではなく、
三階建てで、描かれている。
この間の正保三年(1646)の四月に、仙台・白石地方に大地震が起きて、櫓や石垣が崩落し、
伊達家は、翌正保四年(1664)、城絵図を添えて、幕府に修復の願いを出し、許可を得ている。
江戸幕府は、武家諸法度で、城の新規築城や修築などを制限している。
その中で、ニ階建てから三階建てに変更することが認められたとは考えづらいので、
無届で行われた可能性もある。
文政二年(1819)、白石城は火災で焼失するが、四年後の片倉宗景の時に再建された。
明治七年の廃城令により、廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却されたり、売却された。
売却代金は、特に、片倉家中の北海道移住費用に充てられたと、いわれる。
三階櫓は石垣なども撤去され、更地になった。
平成七年(1995)に再建された三階櫓は、昔ながら工法を用い、補強金具は使われていない。
木材は、柱は吉野檜、化粧材は青森ヒバ、山陰地方の松丸太、赤杉と全て国産材で造られている。
壁は当地方の土壁と同じ造りで、土塗りを何回も繰り返し、漆喰で仕上げている。
壁の厚さは二十一センチ〜二十四センチあり、日本古来の耐火構造である。 」
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本丸配置図 | 本丸井戸とニ階建て建物 | 復元された三階櫓 |
白石城は、木造建築による完全復元天守として、白河小峰城、掛川城に続いて、
平成七年に復元された城である。
忠実に復元され、学術的に意味を持つ天守であると、かなりの御自慢である。
昔と違うのは、縄梯子が階段になっていること、
防災上スプリンクラーなどが設置されていることだけ… と、係りの方は力説していた。
「 三階櫓の一階は東西九間、南北六間、三階は東西五間、南北三間で、
高さは石垣天端から十六メートル七十センチ、
戦後の木造復元天守閣では、高さ、広さとも、日本最大級を誇る。
一階内の外壁廻りは武者走りで、戦いの時、武具を付け、武器を持った武士達が
走り回る板張りになっている。
一階の北側、西側には石落しがあり、石類が保管されていたと、考える。
また、鉄砲狭間、矢狭間がある。
甲冑が展示されていた。 ニ階は武者走りの中に、三階に上る階段があるだけという、
シンプルな構造であった。
三階は物見櫓を兼ね、高欄は四周に廻り、火頭形の出入口がある。
室内は三十畳位で、敵の情勢を見ながら、軍議を開くことができる。
高欄からは白石城下を一望でき、蔵王連峰をはじめ、自然豊かな四季の景色を堪能できる。
」
以上で、白石城の見学を終えた。
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三階櫓一階武者走り | 三階櫓二階 | 三階櫓三階 |
この後、白石の市内を歩くが、「 阿梅姫(おうめひめ)のまち しろいし 」とある。
「 阿梅姫は真田幸村の娘で、片倉小十郎重長の後妻である。
大坂夏の陣で、伊達軍の先陣を切った、片倉小十郎重長は、薄田隼人正兼相、
後藤又兵衛基次の軍を破り、その後、真田幸村軍と激戦を繰り広げ、鬼小十郎 の名を天下に馳せ、
伊達日本一の評価を受けました。
大坂城落城後、死を決意した幸村は、敵将片倉を知勇兼備の将と見込み、片倉の陣に矢文を送り、
婚姻の儀を申し入れ、子女阿梅ら五人の後事を託しました。
重長は、阿菖蒲、大八らも白石城二の丸において、密やかに養育したという説がある。
長じて、四女阿梅は、重長の継室となり、
阿菖蒲は田村定廣(後の片倉金兵衛)の妻に、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、
片倉家家臣から伊達藩士に取り立てられ、正徳二年(1712)、守信の息子・辰信の時に真田姓に復した。
阿梅は、亡父幸村と亡夫重長の菩提を弔うため髪を下ろし、大平の地に傑山寺の末寺・
月心院を建立した。
廃寺後は、幸村と重長の位牌は傑山寺に移転され、阿梅の位牌とも祭られている。
なお、愛宕山山麓にある阿菖蒲が嫁いだ田村家墓所内には、幸村の供養墓が建立されている。 」
片倉家の菩提寺は、御城の南方、南町2丁目にある臨済宗妙心寺派の「傑山寺」である。
広大な境内の本堂前には片倉小十郎の銅像がある。
「 傑山寺は、片倉小十郎景綱の開基である。
片倉家の当主は、代々、小十郎を名乗り、景綱は初代である。
景綱は、幼少より武芸に優れ、頭脳明晰にして、判断力が人一倍鋭かったという。
伊達輝宗(政宗の父)の家老・遠藤基信の進言により、当時九歳の梵天丸(伊達政宗)の近侍となる。
時に19歳。 視力を失った政宗の眼球を短刀で切りだしという逸話は有名である。
その後、数多くの戦いに参戦し、朝鮮役では、秀吉から軍船小鷹丸を拝領している。
伊達家の存亡を決めた、小田原攻めでは、藩内の意見は真二つの分かれたが、
景綱の進言により、政宗は参戦を決め、伊達家を安泰に導いた。
秀吉は、景綱の力量を高く評価し、三春の旧田村領五万石を下賜しようとしたが、
主君伊達家に忠節を欠くとして辞退した。
その後、白石城一万三千石の城主となり、
慶長十九年(1614)の大坂の陣では、病床に伏していたため、嫡子重綱(後の重長)を参陣させた。
翌年、景綱は病で死去、亨年59歳。
大坂夏の陣の道明寺の戦いで、嫡子重綱は後藤又兵衛軍などを破る大活躍をし、
鬼の小十郎の異名をとった。
なお、市章の黒釣鐘は、景綱の姉、喜多が考案した旗指物が基になっている。 」
初代小十郎「景綱」の墓は、敵にあばかれないように、
墓石を作らず一本の杉を墓標にしたそうで、
寺の裏の緩やかなのぼり道を十五分程歩くと、大きな杉の木の前に出る。
辺りは木々に囲まれて薄暗く、なんともいえぬ風情がある。
「 白石城は、南北に長い白石丘陵の北端に築城され、
同城の南側には空堀を掘って、丘陵の尾根の連続性を断っている。
空堀より南側の白石丘陵上には、常林寺・清林寺、・山寺などの寺院が並んでいる。 」
清林寺は、真田幸村ゆかりの寺である。
真田家遺臣が建立したとされ、寺紋は「六文銭連」である。
「 片倉重長が、幸村の遺児(阿梅、阿菖蒲、おかね、大八)と遺臣を引き受け、
白石城下に住まわせた。
この寺は、浄土真宗本願寺派の寺で、真田幸村の遺臣の三井奉膳により創建された寺である。
彼は、本願寺第十二世准如上人のもとで、出家得度し、善久坊を創建、
その後、法源山清林寺と改称した。 」
当信寺には真田幸村の娘、阿梅と息子大八が祀られている。
阿梅は二代目小十郎の後添いであり、それを慕って関が原の後、幸村の幼い子息、
大八が東北のこの地に来たという。
先程の「清林寺」はそういう謂れがあって建てられた寺であった。
なお、当信寺山門は白石城の東口門が移築されたもので、
厩口門は市内の延命寺の山門になっている。
お城の北、三の丸外堀に当たる沢蔵川に面した後小路に佇んでいるのは、片倉家中、
旧小関家の武家屋敷である。
豊かな緑に覆われて、こじんまりとした屋敷である。
駐車場に係りの人はいるが、「どうぞ勝手に見てください」と言う風情。
私達だけであったので、ゆっくりと拝観できたのはよかった…。
「 小関家初代、太右衛門元成は、
松前家から四代片倉村長に嫁してきた少林院市子の添人として、白石に来て、片倉家中になり、
奥方用人になった。
この屋敷は、墨書に「享保15年2月12日」とあることから、
創建時期は初代、元成の晩年か、二代元友の時代と推定され、260余年前の古建物である。 」
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初代片倉小十郎の墓 | 清林寺 | 武家屋敷 |
(ご参考) 白石城の歴史
「 白石城はた、宮城県白石市の中心部にあり、
別名、益岡城、あるいは、枡岡城ともいわれた、平山城である。
鎌倉時代、刈田氏の居館であった、と伝えられる。
刈田氏は、後に白石氏を名乗り、伊達氏の家臣となる。
伊達政宗に仕えた白石宗実が著名である。
天正十九年(1591)、豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあった、この地方を没収し、
黒川城(現在に会津若松城) とともに、蒲生氏郷に与えた。
蒲生氏家臣の蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し、城主になった。
慶長三年(1598)、上杉領となるや、、
上杉氏家臣・甘糟備後守清長は、白石城の再構築を行い、居城した。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗は白石城を攻略し、
この地方は、再び、伊達領となり、伊達氏家臣・片倉小十郎によって、大改修がなされ、
以後、明治維新まで二百六十年間、片倉氏の居城となった。
白石城は、江戸時代、描かれた時期により、異なる絵図があることから、
城の領域は拡張傾向にあったと考えられ、
最終的には標高七十六メートルの最頂部には、本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、
中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪、丘の上に館掘川を巡らし、
南は空堀で、丘陵を切断、館掘川を隔てた平地には、三ノ丸・外曲輪を配置した曲輪配置になった。
元和元年(1615)の一国一城令が発せらるが、仙台藩は仙台城と白石城のニ城が許された。
明治維新には、奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ、輪王寺宮が滞城された。
その後、按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、
日本の歴史の変転機には、一役を担う重要な城であった。 」
白石城へは、JR東北新幹線白石蔵王駅から車で5分、東北本線白石駅から徒歩10分
白石城のスタンプは白石城天守(9時〜17時、11月〜3月9時〜16時)にて
訪問日 令和三年(2021)五月三十日