奈良時代に、東北地方の陸奥国に築かれた多賀城は、陸奥国府と鎮守府を兼ねた、
城柵(じょうさく)で、律令国家の行政と軍事の拠点であった。
今も城跡に建つ、多賀城碑に、神亀元年(724)に創建され、天平宝字六年(762)に、
修造されたことが刻まれている。
多賀城は、大和政権が蝦夷を制圧するため、
蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南762東部の塩釜丘陵上に築いた。
古代律令国家の行政と軍事の拠点であったことから、国の特別史跡に指定されている。
日本100名城の第7番に選定されている。
JR仙台駅で東北線に乗ると、国府多賀城駅(無人)で、下車する。
多賀城へは、駅の北側(左側)に出る。
ここには、「観光案内所」があり、多賀城のパンフレットが入手できる。
「特別史跡多賀城跡案内」のパンフレットに従い、歩き始めた。
観光案内所の先、線路に沿って行くと、三角形状の 「館前遺跡」 がある。
小高くなっているところに上ってみると、「館前遺跡」 の石板があるだけで、
ところどころにある石は建物の礎石なのかもしれない。
反対側に降りると、「館前遺跡」 の説明板があった。
説明板 「館前遺跡」
「 この遺跡は多賀城に赴任した国司の館跡と考えれる。
台地上にあるこの遺跡は、多賀城の南東隅から二百メートルにあり、
さらに政庁との距離は六百メートルである。
南東方向(駅の反対側) 五百メートルの高崎丘陵には、多賀城廃寺があり、
本遺跡は、政庁と多賀城廃寺を挟んだほぼ中間に位置している。
掘立建物六棟・溝・整地曹などが、発掘調査で発見され、
六棟の建物は九世紀前半まで存在したと考える。
その中心の建物は、誌面に庇が付く格の高い建物で、
陸奥国府だった多賀城跡に数例あるだけの建物であることから、
国府の館跡と判断されている。 」
サッカー場に入る道は避け、まっすぐ行き、車道を左折し、その先に交叉点で右折する。
右側は、あやめ園 と地図ではなっているが、なにもない。
左側に納屋のようなものがあるが、
その先左に,
、「多賀城石碑 (壺の碑) 多賀城 (政庁)跡」 の道標が建っている。
その道に入り、小高い丘へ上っていく。
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丘の頂上から右に下ると、塩釜街道に面する場所に、建物が建っていて、 中をのぞくと、石碑・壺碑が収蔵されている。
「 多賀城は、天平九年(737)に、「多賀柵」として、初めて「続日本紀」に登場し、
宝亀十一年(780)以後は、「多賀城」 として史料に現れる。
多賀城は、奈良時代の養老四年(720)の蝦夷(えみし)の反乱を契機として、
新たなる支配体制整備のために、神亀元年(724)に造られた、奈良・平安時代の陸奥国府である。
軍事を担当する鎮守府も置かれ、蝦夷対策を進める拠点でもあった。
陸奥国だけでなく、古代東北の行政・経済・文化の中心地だった。 」
建物中にある石碑は、「多賀城碑」 とか、「壺碑 (つぼのいしぶみ)」 と呼ばれたものである。
「 この碑は、多賀城外郭南門の北東に位置し、
江戸時代に、土中から発見されたと伝えられる。
碑面には、「多賀城の位置」、「按察使大野東人による神亀元年(724)の創建」、
「藤原朝狩による天平宝字六年(762)の改修」 が、百四十一文字、刻まれている。
発見当初より、歌枕にある、壺碑 (つぼのいしぶみ) とも、みなされ、
芭蕉をはじめ、多くの文人が訪れた。 」
多賀城は、松島方面から南西に延びる低丘陵の先端に位置し、
仙台平野を一望できる。
芭蕉は、松島を訪れた際、訪れた。
以下に、芭蕉の奥の細道で、壺碑を訪れた時の文章を掲載する。
「 壷碑 市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。 苔を穿て文字幽也。 四維国界之数里をしるす。
此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。
天平宝字六年 参議東海東山節度使 同将軍恵美朝臣修造而、十二月朔日と有。
聖武皇帝の御時に当れり。
むかしよりよみ置る哥枕、 おほく語傳ふといへども、 山崩川流て道あらたまり、
石は埋て土にかくれ、 木は老て若木にかはれば、 時移り代変じて、
其跡たしかならぬ事のみを、 爰に至りて疑なき千歳の記念、
今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、 存命の悦び、 羈旅の労をわすれて、 泪も落るばかり也。 」
奈良・平安時代に、都から多賀城に赴任した人々が、
周辺の美しい自然を和歌に詠みこんだことから、
多賀城は都人のあこがれを集め、広く知られるようになり、 歌枕となった。
仙石線の多賀城駅の南西には、恋愛をテーマとする歌に詠み込まれた 「末の松山」 があり、
芭蕉はそこにも訪れている。
塩釜街道を左に斜め横断して、左側の小道に入ると工事中。
業者の話では多賀城の関連工事だが、予算の関係から完成時期は分らないという。
その先に石仏が並べられていたが、発掘調査の際、出土したものか、
江戸時代からあるものかは分からなかった。
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石仏群の先を左折すると、大きくゆったりした階段道が現れた。
ここは、多賀城政庁南大路跡である。
説明板「 多賀城政庁」
「 多賀城の正門で、外郭南門から中枢部の政庁まで、南北に通じる道路跡である。
発掘調査から、道路幅は、政庁第T〜U期(8世紀)は約十三メートル、
第V〜W期(9〜11世紀中頃)は、約二十三メートルだったことが分かった。
政庁南西斜面は、自然石を並べた階段が設けられ、排水用の暗渠も設置されていた。
政庁第T〜U期の姿で復元された。 」
多賀城は、東辺 約千メートル、西辺 約七百メートル、南辺 約八百八十メートル、
北辺 約八百六十メートルのいびつな四角形で構成されていた。
郭には、築地塀や材木塀を巡らせ、南・東・西辺には、門が開かれていたという。
階段を上りきると、前方に広い空間が現れた。
、
外郭のほぼ中央部のこの小高い丘に建っていたのが、政庁である。
政庁復元模型(1/200縮尺)があり、説明板が建っている。
説明板
「 この模型は、第U期(8世紀)の姿を推定復元したものである。
主要な建物である正殿、東・西脇殿、南門の他に、東・西楼と後殿が新たに建てられた。
広場は石敷きになる。 南門の左右には翼廊(よくろう)が付き、
築地塀には、東・西殿や北殿などの装飾的な建物が加えられた。 」
政庁は政務や儀式が行われる城内で最も重要な場所で、
周囲は東西約百六メートル、南北約百七十メートルで、築地塀で囲まれ、
内部には正殿を中央に後殿、左右前方に東脇殿、西脇殿などの建物が建てられていたことが、
説明板などと共にある、復元模型で実感できた。
多賀城は、八世紀初めから十世紀半ばまで存続し、その間大きく、四回の造営が行われている。
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左手に「政庁南門跡」の説明板と、「西翼廊跡」の標石があり、 南門の形跡を示す赤褐色の舗装と礎石がある。
説明板「政庁南門跡」
「 ここには南正面の門があった。
奈良時代後半の第U期は礎石式で、東西には門を飾る翼廊が付いていた。
現在表示している石組溝の石は、当時のものである。 」
説明板「政庁正殿跡」
「 政庁の中心となる建物で、礎石式の四面廂(ひさし)付建物で、
その南は石敷の広場になっていた。
現在は、建物の基壇(きだん)のみを復元表示しているが、
礎石の一部は、当時のものである。 」
中央にある正殿跡は、建物の大きさがわかるようにコンクリートで、 土台が復元整備されていた。
「 中央政府の蝦夷進出は、七世紀前半は多賀城柵までであったが、
その後、八世紀後半には秋田城、九世紀後半には、盛岡の志波城まで。城柵は延びていった。
延暦二十一年(802)、坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、
戦線の移動に伴って、鎮守府も胆沢城へ移された後は、
兵站的機能に移ったと考えられている。
貞観十一年(869)の大地震により、多賀城では、多くの施設が被害を受け、復興したが、
十世紀後半頃には維持・管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。
なお、南北朝時代には、後醍醐天皇率いる建武政府において、陸奥守に任じられた北畠顕家と
父の北畠親房らが、義良親王(後村上天皇)を奉じて、多賀城へ赴き、
多賀城に東北地方、および、北関東を支配する東北地方の新政府、
陸奥将軍府を誕生させている。
多賀国府は、多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将・
伊達政宗の祖父、行朝の所領である伊達郡の霊山に移転している。 」
政庁跡の奥に降りると、右手に駐車場があり、
その脇に、多賀城跡管理事務所 (9時〜16時) がある。
日本100名城のスタンプはここにここに置かれている。
この近くにあった案内板には、多賀城全体図があり、地区の案内も書かれている。
「 多賀城は周囲を土で固めながら積み上げて、上に屋根をかけた築地で、
城外とを区別していた。
築地は、幅が約三メートル、高さは四メートルを超すと想定される。
地盤が軟弱な場所では、築地の代わりに、丸材や角材を密に並べた材木塀が作られたという。
城内には、多数の実務的な役所、木工や鍛冶などの工房、警備をする兵士の宿舎などがあり、
都から赴任する按察使(あぜち)・国司・鎮守府官人など、二十名前後の役人の他、
書生などの下級役人・工人・兵士などがいて、
全体で、千二百人を超えると、試算されていることから、その存在が
都に伝えれ、話題になったことはうなずける。 」
多賀城の南東千二百メートルには多賀城廃寺があり、
昭和四十一年(1966)に、「多賀城跡 附 寺跡」 として、国の特別史跡に指定された。
以上で、多賀城の探勝は終了である。
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所在地 宮城県多賀城市市川字城前
多賀城へはJR東北本線国府多賀城駅から徒歩約15分
多賀城のスタンプは、多賀城跡管理事務所(政庁跡北側)にて
訪問日 平成三十年(2018)十一月二十九日