喜多方は、かって 「北方」 と呼ばれ、
江戸時代には、若松城下と米沢を結ぶ街道の町として、また、物資の集散地として栄えた。
喜多方には、今でも四千百棟以上の蔵が広く分布している。
このように多くの蔵が建てられたのは、物資の保管、醸造業や漆器業が盛んであったことに加え、
明治十三年の大火で、その耐火性が見直されたこと、蔵を建てることは男の一生の夢だったこと、
蔵造りの名工が数多くいたことによる。
町中を歩けば、至るところで、石造りの蔵が見られるが、
観光用に用意されている施設が、喜多方蔵の里である。
最初に、喜多方蔵の里を訪れた。
「 喜多方蔵の里は、移築された店蔵・味噌蔵・農家の穀物蔵、 新築した座敷蔵など、七軒の蔵と、 旧郷頭屋敷(県指定重要文化財)を配置し、喜多方地方の古い町並みを再現している施設である (入場料400円) 」
旧郷頭屋敷は、江戸初期から幕末まで、郷頭を務めた外島家の住宅で、県指定重要文化材である。
説明板「 郷頭屋敷 旧外島家住宅 (喜多方市慶徳町豊岡)」
「 外島家は、江戸時代初期の寛永年間から幕末まで、会津藩上三宮代官所支配に属し、
慶徳組十九ヶ村の郷頭職を務めた最上層農民でした。
この住居の主棟および曲がり棟の創建年代は、明和八年(1771)との記録が残っています。
その後、郷頭としての体裁をいっそう充実させるために、
十八世紀末頃に正面右手の座敷ニ室を増築したものと、思われます。
会津地方の農民住居、とくに村役層住居で、旧外島家のように、原形がほぼ判明し、
しかも十八世紀後半という、早期の建立が特定でいる住宅は珍しく、
きわめて貴重な遺構といえます。 」
旧手代木屋敷も、県指定重要文化材である。
説明板「旧手代木屋敷住宅一棟」
「 旧手代木家住宅は、天保年間、小荒井組郷頭手代木から分家した。
この家の初代手代木逸八氏が、下三宮村の肝煎として赴任した折の建築であると、口伝されています。
この建物は、その主屋だけを喜多方プラザに移築して、創建時の姿を復原されたものです。
この住宅は、当時の村役層農民(肝煎)が在郷役人として務めを果たすため、緊急に建築し、
その後徐々に整備し、地方上層農民として、ふさわしい住宅に改めてきたものです。
改造も少なく保存されてきたので、文化財的価値は高く、また異色ある間取りや、
鍵型に曲げて設けられてたうまやや座敷など、江戸時代後期のこの形態の存在を裏付ける遺構として、
貴重な資料となります。
なお、柱・床などに見られる「きずあと」は、
明治元年(1868)の農民一揆の折のもので、当時のありさまを物語っています。 」
白い蔵は、旧唐橋家 の味噌蔵である。
説明板「 旧唐橋家味噌蔵 (喜多方市松山町村松)」
「 かって会鶴醸造の味噌蔵として使用されていた間口3間半X奥行8間の大きな蔵です。
道路建設のために解体されることになり、ゆずりうけたものです。
再生にあたっては、柱・貫・梁・桁および小屋組の構造部材をそのまま再利用しました。
内部は木造トラス組の架構をあらわし、規模大きな空間を形づくっています。 」
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郷頭屋敷 旧外島家住宅 | 肝煎屋敷旧手代木家住宅 | 旧唐橋家味噌蔵 |
薄茶色の建物は、 旧猪俣家穀物蔵 である。
説明板「 旧猪俣家穀物蔵 (喜多方市熊倉町熊倉)」
「 旧米沢街道の宿場町として栄えた熊倉町の穀物蔵です。
建築年代は、明治末期から大正初期と推定されています。
間口2間X奥行4間で、土壁をあげ砂壁仕上げした上に、
置き屋根をのせた二重屋根型式をとっています。
窓は2ヶ所に設けていますが、一方はニ階のみの窓で、正方形に近く、他方は一、ニ階共通のたて長で、
特徴的な外観となっています。
屋根、窓の配置など均整がとれ、
観音開き扉の意匠も美しく、喜多方地方の典型的穀物蔵といえます。 」
旧井上家穀物蔵は、喜多方市熊倉町芦平から、移築したものである。
説明板「 旧井上家穀物蔵」
「 間口3間半X奥行2間の農家の穀物蔵で、
墨書に「慶応四戊辰辰年(1668) 小沼村甚五郎作 辰三月建前作之」 とあります。
二重屋根型式の置き屋根はもとは茅葺きで、外壁は土壁仕上げになっており、
風雨にさらされたままになっていました。
しかし、構造材はしっかりしており、大部分を使うことができました。
移築にあたっては、屋根を瓦葺きで再生し、外壁を砂壁で仕上げました。
片開きの土戸の鍛冶金物は、当時のものをそのまま使用しています。 」
その他、旧東海林家酒造蔵と、
喜多方地方の典型的商家として、新築の勝手蔵と座敷蔵が新築されていた。
一二時四〇分を過ぎていたので、喜多方ラーメンを食べに行く。
喜多方ラーメンといえばここという、「坂内食堂」へ行ったが、土曜日でもあり、
駐車場へ入れないので、
蔵の里の受付で紹介された「一平」に変更。
訪れた一平は、以前訪れたことがある 「ふれあいパーク喜多の郷」 の南にあった。
「 喜多方ラーメンは、大正末期から昭和初期に、チャルメラを吹き屋台を引いて、
支那蕎麦を売り歩いていた中国から渡ってきた青年の作るラーメンが元祖と伝えられている。
昭和のバブル期に、喜多方町が蔵の町として売り出し、
蔵の写真を撮るため訪問した観光客が、喜多方ラーメンの存在を広めた。
現在、喜多方老麺会 に加入する店は40店舗である。
喜多方ラーメンは、醤油味がベースであるが、店により色合いや風味は千差万別である。
塩味・醤油味・その中間の味といった様々な味がある。
また、麺も店により、太さ、縮れ具合、こしなど様々である。
一般的には、麺の幅が約四ミリの太麺で、水分が多く含ませじっくり寝かせてつくり、
コシと独特の縮れがあるのが特徴である。
昭和六十年台のバブル期に訪問した頃は、素朴な味わいのスープがどの店も、共通していた。
今は、その味をかたくなに守る店と、常に新しい味を求めて変えていく店と、
二分化しているようである。
一平は、じとじとスープにニンニクを加え、チャ―シューと、
白髪ねぎが盛りたくさんのラーメンで、先月訪れた奈良天理ラーメンに近い味であった。
一方、帰りに高速道路のSCで食べたラーメンは、
昔の喜多方ラーメンの素朴な魚介系の味であった。
喜多方で売られているので、どの店も喜多方ラーメンと言っているが、
味や具材などに統一的なものはないので、「喜多方老麺会」のパンフレットから、自分の好みにあった店に行った方がよいだろう。 」
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旧猪俣家穀物蔵 | 旧井上家穀物蔵 | 喜多方ラーメン 一平 |
訪問日 令和三年(2021)五月二十九日