◎ 会津西街道 大内宿
JR只見線七日町駅から会津本郷に入り、梅沢ダムの脇を通り、
七曲りの峠道を上り下りをし、六石山を縦断すると大内ダムが見えてくる。
この道は、会津西街道で、地元では下野街道と呼ばれていた。
会津若松から、下郷を経由し、会津田島に通じている。
会津藩の参勤交代や藩米の江戸への輸送(廻送)は、会津本郷から会津田島に出て、
下野に入り、日光街道の今市宿に出て、江戸で向かうものであった。
説明板「大内ダムの概要」
「 大内ダムは、高さ102mの中央土質しゃ水壁型ロックフィルダムと呼ばれる型式のもので、
このダムに使用された材料はすべてダム上流の2箇所の原石山で採取されたものです。
ダムは大型土木機械を使用しm最新技術を駆使し、つくられていますが、
一方自然景観をも十分考えmこのダムと湖が皆様の憩の場所となるよう配慮しました。
ダム工事は、昭和53年にはじめられ、昭和58年に完成しましたが、
この大内ダムのある場所は建設前は大内沼があり、戊辰戦争(1868年)の時、
最後の激戦地となったところで、多くの戦死傷者を出したといわれています。
このとき「戦死24人の墓」がダム地点にありましたが、ダム左岸上部の方に移転供養されています。 」
大内ダムまでくると、大内宿はすぐである。
七日町から大内宿は約40分の行程であった。
大内宿には車は直接入れず、車道の左側の小高いところにある有料駐車場に置いて、歩いて行く。
車道を横断したところに、
「 春は花 秋は紅葉の錦山 東の都 大内の里 高倉宮以仁親王 御詠歌 」
の石碑が建っている。
少し歩くと、茅葺の家が次々に現れた。
「 大内宿は、寛永二十年(1643)頃に、
会津西街道(通称 下野街道)の宿場として造られた宿場で、半農半宿の宿場で
あった。
明治期の鉄道開通により、宿場としての地位はなくなったが、
茅葺屋根の民家が街道沿いに残り、昭和五十六年(1981)に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、
福島県を代表する観光地となり、一部宿泊施設も復活した。 」
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大内宿は全長四百五十メートルの道の両側に、道側に妻を向けた寄棟造の民家が、
整然と建ち並んでいる。
かって、水路は道の中央にあったが、道の両側に付け替えられた。
「 会津藩若松城を出ると、福永宿(会津美里町福永)・関山宿(会津美里町氷玉関山) を経て、山間部に入り、氷玉峠・大内峠を越えて、大内宿に入り、中山峠を越えて、倉谷宿に入り、
日光街道の今市宿への至った。
若松城から江戸までは六十一里、五泊六日の旅程であった。
若松から五里の大内宿には、本陣や脇本陣が設置され、
会津藩の参勤交代や藩米の江戸輸送である廻米(かいまい)の集散地として、重要な宿であった。
延宝八年(1680)、江戸幕府が、参勤交代の脇街道の利用を厳しく取り締まったため、
正保元年(1644)から同年まで、二十一回あった参勤交代が途絶え、
白河藩の白河城下を通る、会津表街道(白河街道) へ変更になった。
これにより、この街道(会津西街道)は、商業道路として流通業者が使用する道路になった。
天和三年(1683)の日光地震により、五十里宿と周辺の道路が水没し、通行不能になり、
その代替道路として、会津中街道が造られた。
享保八年(1723)には、水没した会津西街道の道も、五十湖の決壊により、復活したが、
すでに定着した代替路や、新たに出来た脇街道により、物流の競争は激しくなり、物量の減少により、
大内宿は半農半宿にならざるえなくなった。 」
二十年前に訪問した時は数軒しかなかった蕎麦屋が数えきれない程の数に増えていた。
右側にある三澤屋では、伝統的な蕎麦の食べ方、高遠そばを出す。
「 会津藩主・保科氏が、信州高遠城の城主をしていて、会津に転封になった際、
蕎麦切りの文化を会津に持ってきた。
高遠の食べ方は、辛し大根おろしを基本としたもので、
この店ではねぎをお箸代わりに食べる、独特のものだが、大変おいしい。 」
大内宿で只一軒だけ、蔵に泊まれる民宿がある。 民宿 本家扇屋である。
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「本家玉屋」 とある蕎麦屋には、「佐藤家(玉屋)の由来」 と書かれた説明板が壁に張ってあった。
「 第七十七代、後白河天皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が、
治承四年(1180)五月、平家追討に失敗し、東海道から甲斐・信濃の山路を越え、
上野(群馬県)・下野(栃木県)から檜枝岐に出られ、当時、山本村と呼ばれていた大内にお着きになり、
宮(以仁王)が、草鞋を脱がれたという由緒ある家です。
以来、高倉神社の永代御頭家として、
半夏祭の御輿の渡御に当っては、当家に休息される名誉ある家柄です。
当家には、高倉以仁王が、治承四年に、宇治平等院の敗戦以来、
大内村にたどり着くまでの以仁王の御伝記が、今なお、保存されております。
昭和五十六年四月十八日、重要伝統的建造物群として、大内宿が国の指定を受け、
昭和五十八年六月修景復元された家です。
玉屋二十代頭主 」
道の左側に鳥居があるが、これは高倉神社の鳥居だろう。
その先の左側には、「脇本陣 石原屋」がある。
手打ち蕎麦と甘味 抹茶 を出す茶屋 、とあった。
富屋も脇本陣跡のようで、会津木綿や木工品などを扱うお土産屋である。
道の突き当たりは、扇屋分家の浅沼で、家の前に、「湯殿山」 の石碑が建っている。
その先は山になっているが、右手に弁天が祀られている御堂があり、
左手には子安観音堂がある。
以上で、大内宿の見学は終了である。
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大内宿へは湯野上温泉から車で15分
◎ 芦の牧温泉
この後、鬼滅の刃の舞台になっているといわれる、芦の牧温泉にある、大川荘に泊まった。
「 大川荘は、
会津若松市街地の南西の大川に望む渓谷美が売り物の旅館で、
現在話題沸騰の鬼滅の刃の舞台となっているとされるので、宿泊の予約がとれない。
娘の希望から5月の金曜日に宿泊した。 日帰り温泉もやっていて、
風呂のみと個室御食事+ご入浴のコースもある。 」
到着した時、ロビーで、三味線の音がして、下を見ると一人の女性が三味線を引いていた。
娘の話ではこのシーンを見るために、鬼滅の刃のフアンはこの宿を訪れるだという、説明を受けた。
この宿の部屋から緑の山と渓谷が一望でき、一つの絵画のようだった。
宿泊しての食事だが、会津の食材を使った会席料理で、女性が好む献立であった。
露天風呂の湯槽は三段でに高低差があり、
棚田のように、渓谷に向って段々になっている湯船から渓谷の絶景を堪能できる。
棚田風に「だんだん」に配置した湯船、檜造りの屋根から香る木の香り、
目前に広がる渓谷の大パロラマ、大川のせせらぎがやさしく聞こえる。
無色無臭の湯で、湯量も豊富、入って決して損のない温泉だ。
室内の湯は長方形のもので、20名位が入れる。
源泉温度が60度という湯を惜しみなく湯船に注いていて、かけ流しの湯なので新鮮である。
食事も満足できるもので、値段とのバランスが取れた宿で、お勧めである。
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芦ノ牧温泉 大川荘 会津若松市大戸町大字芦ノ牧字下平984
東京から車で2時間、白河インターで下り、R289(甲子道路)で1時間10分
会津鉄道芦ノ牧温泉駅から3キロ強
会津若松駅から1日1本無料送迎バスが出ている(前日までに予約すること)
訪問日 令和三年(2021)五月二十八日〜二十九日