名所訪問

「 会津若松の名所めぐり 」


かうんたぁ。


会津若松市は、会津地方の中心都市で、葦名氏による黒川城を起源とする。 
天正17年に蒲生氏郷により現在地に城と城下町が造られ、若松に名を変えた。
江戸幕府二代将軍・徳川秀中の子・保科正之が入封し、会津若松藩が誕生、
幕末の戊辰戦争では会津若松城が戦場となり、白虎隊の悲劇が起きた。


◎会津若松城

会津若松城は、葦名氏による黒川城を起源とする。 
天正17年に、蒲生氏郷により現在地に、城と城下町が造られ、若松に名を変えた。
鶴の羽根を拡げた形をすることから、鶴ヶ城とも呼ばれる。
会津若松城の天守は、昭和四十年(1965)に、コンクリートで、再建されたものである。
明治維新後、城の建物は壊されたが、本丸などの敷地と石垣・堀は残された。
茶壺櫓があったところに、茶室・鱗閣があるが、これは千利休の子 ・  少庵が蒲生氏郷のために建てたと伝えられるもので、平成二年に移築 ・  復元されたものである。

会津若松城天守
     
会津若松城の石垣      
茶室・鱗閣
会津若松城天守
会津若松城の石垣
茶室 ・ 鱗閣

JR会津若松駅からバスで15分
駅前から、観光用のバス「ハイカラさん」・「あかべい」が運行していて、 城周囲の観光スポットを効率よく巡ることができる。


◎ 阿弥陀寺 ・ 会津家老屋敷

七日町通りにある阿弥陀寺には、会津若松城の御三階櫓が移築されて、残っている。 
会津東軍墓地には、戊辰戦争で亡くなった会津軍千三百人の遺骸が埋葬されている。
会津家老屋敷は、1700石取りの家老職であった西郷家である。
敷地は2400坪、建坪280坪、38の部屋があった大きな屋敷である。

旧会津若松城御三階櫓
     
会津東軍墓地      
西郷家屋敷
旧会津若松城御三階櫓
会津東軍墓地
会津家老屋敷 (西郷家屋敷)

阿弥陀寺 所在地 会津若松市追手町5−3
JR会津若松駅からバスで10分

会津家老屋敷(西郷家) 所在地 会津若松市七日町4−20
JR会津若松駅から、観光用のバス「ハイカラさん」・「あかべい」で、 「北出丸大通り」で下車、徒歩1分。


◎ 飯盛山 (白虎隊士自刃の地)

「まちの駅 飯盛山」の駐車場に車を停め、飯盛山に向う。 
飯盛山へ上る石段は183段であるが、スロープコンベヤを利用すると、
頂上近くまで歩かないいける。  コンベヤは石段155段にあるそばや前まで。
残りの28段は急な石段である。
左側に、「会津藩殉難烈婦」 の石碑が建っている。 
この碑は、戊辰戦争(1868年)で、自刃・戦死した会津藩の婦女子230余名の霊を弔ったものである。
石段を上ると、左手奥に、狛犬・常夜燈、その先に白虎隊士の墓がある。 
正面の墓は、慶応4年(1868年)8月28日(新暦10月8日)、ここ飯盛山で自刃した
士中白虎二番隊19名の墓である。 隊士の遺骸は、西軍(政府軍)によって、
手を付けることを禁じられていたが、村人が密かに近くの妙国寺に運び、
仮埋葬された。 それを後に、この地に改葬したのである。 

墓地の左下にある六角三階の建物は、国の指定重要文化財の さざえ堂 である。
正式名称は円通三そう堂で、かってここには正宗寺という寺があった。
六角三階の建物で、 堂内は螺旋階段になっていて、堂内に祀られている西国三十三観音像を お参りできるようになっている。

会津藩殉難烈婦碑
     
白虎隊士の墓      
さざえ堂
会津藩殉難烈婦碑
白虎隊士の墓
さざえ堂(円通三そう堂)

JR会津若松駅から、観光用のバス「ハイカラさん」・「あかべい」に乗り、 飯盛山下で下車、徒歩5分。

訪問日     令和十四年(2002)六月八日



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