七日町通りは、JR只見線七日町駅から東に伸びる通りである。
この通りは、大正と昭和の建物が残るレトロな町並みであるので、若い人を中心に、
人気があるところである。
鶴ヶ城から十分程で、駅から二分の距離にある七日町浪漫デッキ(有料駐車場)に車を置き、歩き始める。
道の斜め前に、阿弥陀寺がある。
入口の左側に、「会津東軍墓地」、右側に「阿弥陀寺」 の標柱が建っている。
「 阿弥陀寺は、知恩院を総本山とする浄土宗の寺院である。
慶長八年(1603)、蒲生秀行から土地を賜った良然上人により、開山された。
最盛期には百三十余名の学僧がいたという。
ここは、越後街道の若松城下の西の玄関口に当たり、
江戸時代には、門前の七日町通りに木戸が設けられていた。
入口の左手に、大きな大仏様がありましたが、太平洋戦争で、供出され、今は台座が残るだけである。 」
中に入ると、正面に東軍墓地がある。
両側に獅子と思われる石造があり、その先に石の階段があり、入口の戸には、会津藩松平の紋章が付いている。
中を覗くと、中央にしだれ桜と思われるものが植えられており、両側に墓碑がある。
「 戊辰戦争終結後、城下及び周辺で戦死した会津藩士の遺骸は、
新政府軍の命令で触れることは許されず、放置されていた。
幾度もの嘆願により、やっと埋葬許可が下りたのは翌年の明治二年(1869)二月、
埋葬地は、阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には、およそ千三百柱の遺骸が埋葬された。
今でも春と秋の彼岸には供養会が行われ、戊辰戦争に散った若き藩士の霊を手厚く弔っている。
」
![]() |
![]() |
![]() | ||
その先の左手に、御三階と本堂が建っている。
玄関には、会津松平家の紋章の葵の御紋が付いている。
説明板「鶴ヶ城の遺構・御三階」
「 御三階は、江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありました。
明治三年(1870)、この地(阿弥陀寺)に移されました。
外見は三階ですが、内部は四層になっており、二階と三階の間に天井が低い部屋があります。
三階に上がる梯子は、用がないものは上がれないように、上から引きあげる仕組みになっており、
当時は密議所に使用されていたと思われます。
また、本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために、長く、本堂として使用されてきました。
玄関の唐破風は、城内本丸御殿(大書院)の玄関の一部を配してものです。
鶴ヶ城の遺構として、唯一残る貴重な建物である。 」
境内には、新撰組副長・斎藤一の墓がある。
説明板「新撰組隊士 斎藤一(藤田五郎)」
「 斎藤一は、弘化元年(1844)、御家人の父・山口祐助と母マスとの間に生まれた。
初名を山口一、のちに斎藤一に改めた。
文久三年(1863) 壬生浪士組のちの新撰組に参加し、副長助勤、三番組隊長として活躍、
沖田総司・永倉新八と並ぶ剣客で、剣術指南も務めた。
池田屋事件にも参戦。
その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新撰組から分離した時、伊東に同調して離脱、
しかし、局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し、
山口二郎と改名。 鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り、負傷した土方歳三に代わって、
新撰組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。
西軍が城下に迫った時、「会津侯(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」
と隊士十余名と会津に残り、仙台へ向かった土方歳三と別れた。
会津藩降伏後は、一瀬伝八と名乗り、越後高田に幽閉。
明治三年、斗南へ移る際、藤田五郎と改名。
その後、上京して警視庁に入り、容保の媒酌により、会津藩士・高田小十郎の娘・時尾と結婚。
警視庁のおいては西南戦争へ出陣するなど活躍。 その後、東京教育博物館等へ奉職し、
大正四年(1915) 七十二歳で逝去。
半生を会津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っている。 」
墓地の石垣に、「新島八重ゆかりの史跡 阿弥陀寺」 の標板がある。
標板「新島八重ゆかりの史跡 」br「
八重の幼馴染みが眠る墓。
ここは元新撰組三番隊組長・斎藤一の墓です。
ここに眠っているのが、八重の幼馴染みの高木時尾です。
時尾の高木家と八重の山本家は家が御近所同士で、八重は時尾のおばあさんにお裁縫を習っていました。
八重が籠城戦に挑んだとき、髪をきってくれたのも時尾でした。
時尾は戊辰戦争の後に、旧会津藩主である松平容保を上仲人として、斎藤一と結婚。
今ではこの墓に、一緒に眠っています。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
御三階の左手にある墓地の一角に、黒河内伝五郎の墓がある。
墓碑中央に、「進義院剣光尽忠居士」と刻まれ、右は長男、左は二男の法名である。
左隣の墓碑は母か夫人のものと思われる。
説明板「会津藩最後の武芸者 黒河内伝五郎の墓」
「 幕末会津藩の武芸家で、兼規または義信ともいう。
家芸の居合術だけでなく、神夢想一刀流剣術、
宝蔵院流高田派の槍術、その他、薙刀・手裏剣・鎖鎌など、武芸百般を極め、藩校日新館で、
武芸指南役を務めていた。
長州・萩に招かれたこともあり、
嘉永五年(1852)に、吉田松陰が会津を訪れた時、ひそかに日新館を見学させた。
会津藩最強の剣客といわれ、晩年は失明したが、座頭市を彷彿させるように、
武芸の技は衰えることがなかったという。
会津戊辰戦争で、長男義次は戦死、次男義兼は負傷。
西軍が城下に攻め入った慶応四年(1868)八月二十三日、伝二郎は次男を介錯した後、自決した。
六十五歳だった。
古武士を思わせるような典型的な会津人で、平成二十五年のNHK大河ドラマ
「八重の桜」 にも、登場している。 」
七日町通りを歩くと、紺の暖簾をかけた、渋川問屋がある。
「 渋川問屋は、明治初年に、渋川善造が創業した海産物問屋で、
山国会津には欠かせないニシンや棒タラの塩干物、会津各地の清流に産する鮎などを一手に扱い、
後には肥料なども扱っていた。
最盛期には、敷地内に渋川家六家族・番頭・丁稚・女中など、五十余人が生活していた。
七日町通りに面した木造の店舗は、大正時代の建築である。
現在は郷土料理の食事処として利用されているが、
ニ階の離れの一室が2・26事件で、民間人でただ一人処刑された渋川善助ゆかりの部屋である。
この部屋で、幼年期をすごした善助は、陸軍士官学校時代には、御前講演を行うほどの秀才であったと
いわれている。
渋川問屋には、善助の取材に、三島由紀夫や松本清張など、多くの作家が、
訪れている。
三島由紀夫は、この部屋を「憂国の間」と命名した。 」
その隣に、蔵の前に店を突き出したような構造になっている 「本家長門屋」 がある。
伝統とモダンの新作菓子が多くの賞に輝く長門屋の七日町店である。
その隣に会津木綿を扱う、「もめん絲(いと)」 がある。
その隣に古民具に囲まれた落ち着いた雰囲気のコーヒーや茶屋団子セットを出す 「やまでら茶屋」 がある。
隣の白いビルは「ほしばん絵ろうそく店」で、元祖会津絵ろうそく製造販売所。
只今九代目で、江戸時代からの伝統を守り続ける。
その他、会津漆器の店などがあり、けやき通りと交叉する交叉点を左折した先には、
会津新撰組記念館(骨董むかしや)がある。
この一帯は、町歩きを楽しく町並みなので、
時間があればゆっくり歩くのがよいだろう。
![]() |
![]() |
![]() | ||
訪問日 令和三年(2021)五月二十八日