会津若松駅前には、白虎隊士の像があるので、立ち寄り、撮影した。
その後、飯盛山に向う。
飯盛山は、駅前からほぼ直進で、10分足らずで到着。
「まちの駅 飯盛山」 の駐車場に、車を停め、飯盛山に向う。
交叉点を越え、左折すると、常夜燈と「白虎隊墳墓の地 飯盛山参道 入口」 の道柱と、
「飯盛山」の説明板があり、その奥両側に、お店が並んでいる。
説明板「飯盛山」
「 飯盛山は、明治戊辰の戦に、わずか16、7歳の少年達が、主君のために戦い、力つき、
ようやくこの地にたどりつき、
そして自決した、白虎隊士の自刃の場所と墓地である。 」
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石段の手前に、「飯盛山動く板道」 の看板を付けたスロープコンベヤがあり、手前に切符売り場があった。
石段を上ると、頂上まで183段。 普通なら利用しないが、この後の行程も考え、利用した。
途中で、乗り換え、石段155段目にあるそばや飯盛分店の前で終了した。
残りの28段は急な石段で、上りきる両側の門柱の先に広場が広がっている。
その左側に、「会津藩殉難烈婦」 の石碑が建っている。
説明板「会津藩殉難烈婦」
「 戊辰戦争(1868年)で自刃または戦死した会津藩の婦女子230余名の霊を弔うため、
昭和3年(1928年)、元白虎隊士で、東京帝国大学総長などを務めた山川健次郎らの篤志家によって、
建てられました。 」
戊辰戦争では、会津藩の婦女子が多数亡くなっていることをこの碑で知った。
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左手奥の狛犬と常夜燈の先に、石段があり、一段高いところにあるのが白虎隊士の墓である。
傍らにある説明板
「 白虎隊は、16歳・17歳の少年たちで編成され、士中・寄合・足軽の各隊がありました。
正面の墓は、慶応4年(1868年)8月28日(新暦10月8日)、
ここ飯盛山で自刃した士中白虎二番隊19名の墓です。
隊士の遺骸は、西軍(政府軍)によって、手を付けることを禁じられていましたが、
村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ、仮埋葬され、後にこの地に改葬されました。
現在の形に整備されたのは、明治23年(1890年)で、二度にわたり、墓域が拡張されています。
右側の墓は、領内各地で戦死した31名(士中3名、寄合22名、足軽6名) の墓で、
同33年(1900年)に、建てられました。
左側の慰霊碑は、白虎隊所属の有無に関係なく、領内をはじめ、京都・新潟・栃木などで、
大人と一緒に戦い、戦死した14〜17歳の少年武士62名の慰霊碑です。
「白虎隊の仲間達」 として、平成13年(2001年)に建てられました。 」
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左側の少年武士慰霊碑は、白虎隊所属の有無に関係なく、領内をはじめ、京都・新潟・栃木などで、
大人と一緒に戦い、戦死した14〜17歳の少年武士62名の慰霊碑である。
墓所の右手前に、白虎隊碑と白虎観音が祀られていた。
白虎隊の歌碑もあった。
ローマ市より、昭和3年(1928)に寄贈された、円柱の上に大鷲の像の石碑がある。
ドイツ記念碑の脇にある石段を降りると、旧滝沢村民の共同墓地である。
石段を降りながら、びっしり詰まった会津若松の町並を見た。
案内板
「 飯盛山は、会津若松市街の東二キロにあり、城下町を一望できる小高い山です。
その頂上には、1650〜1700年前に築かれた前方後円墳や、隠れキリシタンの祠があり、
地元瀧川村住民の共同墓地でもある。
そして、古くは、古代四道将軍・弁財天・日本武尊などの神話も残り、
千八百年以上、連綿と会津盆地を見守る信仰の山です。
ここに、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓、イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、
さざえ堂・宇賀神堂・厳島神社・白虎隊引揚の洞門・市天然記念物の太夫桜など、数多くの神話・史跡・
名所が残っています。
また、ふもとには戊辰戦争時には会津藩の本陣となり、
藩主・松平容保公が、白虎隊に戸の口原への出陣を命じた旧滝沢本陣、
2013年 NHK大河ドラマ 「八重の桜」 のオープニングで使われた、市天然記念物の石部の桜があります。
現在では、「ならぬことはならぬ」 の会津精神、戊辰戦争の折に、白虎隊が自刃した地として、
あまりにも有名です。
木々に囲まれ並ぶ墓石には今もなお、訪れる人が多く、
山腹の墓前には御線香の煙が絶えることはありません。 」
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共同墓地の一角に、飯沼貞雄の墓があった。
説明板「飯沼貞雄の墓」
「 白虎隊自刃者中ただ一人蘇生した飯沼貞吉(のち貞雄)は、印出新蔵の妻・ハツに助けられました。
後に逓信省の技師となり、仙台逓信管理局工務部長に進み、我が国の通信事業に貢献を果たし、
昭和6年(1931)仙台市で78歳の生涯を閉じました。
白虎隊の実録は、彼によって知ることができました。
戊辰戦争役90年祭が行われた昭和32年(1957)、多くの友が眠るこの地に、遺髪などが移され、
墓碑と顕彰碑が財団法人前島会仙台支部によって建てられました。 」
その右手に、「白虎隊殉難士各霊塔」 と書かれた大きな石柱がある。
その左側手前に、鶴ヶ城を見ている像がある。
「 士中白虎二番隊は、会津藩校日新館で学ぶエリート隊だった。
彼らは戊辰戦争の8月28日、戸の口原の戦いで、決定的な打撃を受け、潰走し、負傷者を抱えながら、
郊外の飯盛山に落ち延びました。
ここから眺めた戦闘による市中火災、黒煙と炎に包まれた鶴ヶ城を見て、いち早く会津の負けを悟り、
自ら命を絶ちました。
ここは、士中白虎二番隊二十名が自刃した場所で、その内、一人(飯沼貞吉)が蘇生した。 」
白虎隊士石像が望んでいる方向は鶴ヶ城である。
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この後、来た道を戻り、飯盛分店の脇に出る。
下に降りていくと、宇賀神堂 がある。
「 寛文年間(1661〜1672)に、松平正容が厳島神社の傍社として建てたもので、 明治二十三年に作られた白虎隊十九士の霊像が祀られている。 」
その先にある建物は、国の重要文化財に指定されている、 さざえ堂 である。
「 さざえ堂は、正式には、円通三匝堂(えんつうさんそうどう) である。
寛文八年(1796)に、飯盛一族の祖先である飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚によって建立された。
西国三十三観音菩薩を祀る、六角三層の観音堂である。
さざえ堂は通称で、その構造から、その名が付いた。
高さは約16.5メートルで、
初層真径約6.3メートルの六角形平面に回廊を付け、正面には唐破風の向拝を付している。
正面から入ると右回りにらせん状のスロープを上り、頂上の太鼓橋を越えると、
降りの左回りスロープとなって、背面出口に通じる。
昇降を通じて建物内を三度回ることになることから、三匝堂の名がある。 」
そこを出ると、白虎清水観音があり、その先に厳島神社の石碑がある。
「戸ノ口堰洞穴」 の説明板が建っている。
説明板「戸ノ口堰洞穴」
「 猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引く用水堰で、全長31kmに及ぶ。
元和9年(1623) 八田野村の肝煎八田内蔵之助が、開墾のため私財を投じ、工事を行い、
寛永18年(1641) 八田野村まで通水した。
その後、天保3年(1832) 会津藩は、藩士・佐藤蓑助を普請奉行に任命し、5万5千人の人夫を動員し、
堰の大改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を掘り、同6年(1835)完成した。
慶応4年(1868) 戊辰戦争時、 戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である。 」
用水の先、山麓に弁天洞穴があるが、水が多くて、穴が見えなかった。
橋を渡ると、永徳年間(1381〜1383)に、宗像神社として建てられた厳島神社の社がある。
「 正宗寺の別当として、宗像神社がつくられ、
主神は市杵島姫神、飯盛山の別名・弁天山の由来になる。
明治の神仏分離令により、厳島神社と改名、仁王門の仁王像は撤去され、
虞舎那仏は阿弥陀寺に移された。 」
以上で、飯盛山の見学は終了した。
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JR会津若松駅から、バスで「飯盛山下」で下車、徒歩5分
磐越自動車道会津若松ICより、約15分
訪問日 令和三年(2021)五月二十八日