白河小峰城は、南北朝時代に結城親朝より築城されたのが始まりである。
寛永四年(1627)、白河藩初代藩主・丹羽長重が十万石にふさわしい近代的な城郭に大改修し、
城下町も整備して、今日の白河市の原形をつくった。
日本100名城の第13番に選定されている。
白河は陸奥(東北)への入口として、往古から、白河の関所が置かれ、
西行法師や松尾芭蕉が関を越えたことは有名である。
JR白河駅の北側に駐車場があるので、そこに車を停め、中に入ると「白河小峰城」 の説明板が建っている。
説明板「白河小峰城」
「 阿武隈川の南側にある小峰ヶ岡と呼ばれる、
東西に長い独立丘陵 (標高三百七十メートル) を利用して、築かれたのが小峰城である。
江戸時代に編纂された、白河風土記(1805年) によれば、興国/正平年間(1340〜49)頃、
白河庄の領主・結城宗弘の 嫡男・親朝(別家小峰家を創設) の築城が始まりとされる。
承正年間(1504〜20)以降、小峰一族に起きた内紛で、小峰家が権力を掌握し、
白河結城家を代表するようになると、本拠は小峰城に移ったと考える。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって、白河結城氏が改易され、
以降四十年にわたって、白河は会津藩領となり、小峰城には城代が置かれた。
寛永四年(1627)、白河は会津藩領から離れて、白河藩が成立した。 」
現在目にすることができる石垣を巡らした城跡は、
白河藩初代藩主・丹羽長重が、幕府の命を受けて改修したとされる。
梯郭式の平山城の近世城郭として、寛永九年(1632)まで約四年の歳月をかけて、
大きく改修した。
この大改修は、本丸と二の丸を総石垣で囲み、
三の丸も門の周辺部を石垣積みにしたもので、
東北には数少ない随所に石垣を多用したところに特徴がある。 」
小峰城案内図の隣に、「太鼓門跡」 の説明板が建っている。
説明板 「太鼓門跡」
「 太鼓門は二の丸の南側入口にあたる門で、
三の丸からの上橋を渡ったところに設けられていた。
高さは約三・八メートルの石垣の上に橋を渡した櫓門で、
規模は高さ約十メートル、間口約十メートルだった。
文化五年(1808)につくられた白河城御櫓絵図の中の太鼓御門絵図によれば、
柱は槻(けやきのこと)が用いられ、屋根は瓦葺きの切妻屋根となっている。
他の城郭の太鼓門(櫓)では藩主の登城合図などに鳴らす太鼓が置かれた例があり、
小峰城でも同様な可能性が考えられる。 」
この説明から推測すると、先程の駐車場あたりは堀跡で、
JRの線路や白河駅あたりは三の丸の跡だろう。
目の前に広がる広場は二の丸跡で、一面芝生が植えられていて、立ち入り禁止である。
右に廻って北側に出ると、東北大地震で決壊した石垣群が見えてきた。
「清水門跡」の説明板が建っている。
説明板「清水門跡」
「 本丸の正面にあたり、二の丸と本丸をつなぐ重要な門で、
高さ約四・五メートルの石垣の上に櫓を渡す楼門の形式である。
瓦葺きで高さ約十一メートル、間口は約十三メートル、
現在、礎石が残っているのを確認することができ、
二階櫓部分へ出入するためと思われる石垣両側の土手も残っている。
柱には槻(けやきのこと)が用いられ、
太いもので二〜三尺(0.6〜1mほど)角の木が使われていた。
これは城内の門で最大の太さになっていて、
本丸入口の清水門の重要性がうかがえる。
なお、清水門の管理などについて定めた享保二十年(1735)の記録が残っていて、
門は暮六(午後6時〜7時)に打つ太鼓で閉門することになっていた。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
清水門の手前は水掘で囲まれていて、門の左右は本丸の石垣で囲まれている。
本丸に入ると正面は本丸御殿の石垣が巡られている。
右に進むと「竹之丸跡」の説明板が建っている。
説明板 「竹之丸跡」
「 本丸東に位置し、外周に石垣を巡らした曲輪で、
北東に平櫓(角櫓)南東に二重櫓があった。
白河城御櫓絵図にはこれらの櫓の立面図と平面図が存在し、
往時の姿を伝えている。
(中略)
東日本大震災により、南面石垣が崩落したが、修復に伴う発掘調査で、
現在の石垣から約七メートル北側の位置に、
会津支城時代(1590〜1627)に構築されたと考えられる石垣が発見された。 」
石段の先には 表門 とも言われる本丸の正門の 前御門 がある。
「 裏門にあたる桜之門とともに、本丸の防御を担っていた門である。
右側の三重櫓から、前御門・多門櫓・桜之門と、
櫓と門が連続する構えの中心的な部分である。
構造は石垣の上に門櫓を渡した楼門形式で、
平櫓の多門櫓と連続して構成されていた。 」
前御門は、発掘調査と絵図などを基に、木造による伝統工法で、 平成六年に復元された。
「 小峰城は丹羽氏の後、榊原松平氏・本多氏・奥平松平氏・
結城松平氏・久松松平氏・阿部氏と、六家十九代が居城した。
慶応二年(1866)、阿部家が棚倉に移されると、小峰城は空き城となり、
白河は幕領となり、城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。
慶応四年(1868)正月に起きた戊辰戦争は、白河にも及び、
奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が、約三ヶ月に渡り、戦った 「白河口の戦い」 の際、
五月一日、小峰城のシンボルである、三重櫓など、建造物の大半、
城下町の一部が焼失し、曲輪・土塁・石垣・水堀が残るだけになった。
地元白河市は、昭和六十二年(1987)、市制四十周年を記念して、建物の再建を計画、
前御門は平成六年に復元された。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
前御門をくぐると「本丸御殿跡」の方形の石碑があり、傍らに「本丸御殿跡」の説明板がある。
「 本丸の平坦地には御本丸御殿(本丸御殿)と呼ばれる建物が存在した。 松平定信が藩主時代の文化五年(1808)に作成された(白河城御櫓絵図」 中の「御本城御殿平面図」では藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられる。 畳数は七百七畳とする記録があり、かなりの大きさだったことがうかがえる。 」
前御門の左側の小高いところに三重櫓が建っている。
「 三重櫓は本丸の北東部に建つ三層三階の櫓で、城郭の象徴になっている。 外観はそれぞれの階の半分を板張りとする下見板張りで、耐久性が高いといわれる。 平成三年に白河城御櫓絵図や発掘の成果をもとに木造で忠実に復元された。 」
復元された建物の受付で日本100名城のスタンプをもらう。
建物中に「三重櫓と天守」の説明板があった。
「 三重櫓は天守と同様の格式を持つ、その城郭の象徴になる櫓である。 江戸時代初期の元和元年(1615)、幕府は武家諸法度で城郭の新規築造や増改築を制限した。 これ以降に作られた天守に匹敵する三重屋根の櫓が三重櫓(三階櫓)と称され、 天主の代用として城郭の象徴となった。 東日本の城郭では多くが天守の代わりとして三重櫓が作られている。 一方、姫路城など西日本の巨大城郭には天守に加え、 各地の天守や三重櫓をしのぐ大きさの三重櫓が複数建てられた例も見られる。 」
三重櫓の隣に「おとめ桜」の石碑がある。
「 本丸の石垣を積む際、人柱とされた娘の霊を慰めるために、 一本の桜の樹を植えたといわれる。 戊辰の戦火に巻き込まれて焼失したが、 春になると新たに芽吹いたおとめ桜が艶やかに城内を彩る。 」
本丸の南側に「多門櫓跡」の石柱が建っているが、
かっては前御門と桜之門を繋ぐ多門櫓が建っていたところである。
![]() |
![]() |
![]() | ||
下に降りる石垣の所に「桜之門」の説明板が建っている。
石段の下には、「桜之門跡」 の石柱がある。
説明板 「桜之門」
「 桜之門は清水門から左側に入った場所にあり、本丸御殿の南側入口にある門である。
門に入った先は、御殿の庭部分に通じており、
藩主の居住区に近く、藩主などの出入口に利用されたと思われる。
石垣の上に、櫓を渡す櫓門の形式で、門の高さは約七メートルだった。
桜之門の付近に、桜の木が数本植えられていたことが分かる絵図があり、
門の名はこの桜から付けられた可能性も考えられる。 」
桜之門跡を下りたところの本丸の中央から右側は、 平成二十三年(2011の東日本大震災により崩壊した場所である。
「 小峰城には現在延長約二キロに及ぶ石垣が残されているが、
東日本大震災では、本丸南面の石垣が幅四十五メートルにわたって崩落したのを始め、
十ヶ所の石垣が崩落した。
平成二十五年(2013)から復旧工事が行われ、本丸南石垣は現在の姿に復元された。 」
本丸南石垣の左側には工事用の柵があり、進入できないが、 江戸時代ここには月見櫓があった。
「 月見櫓跡の石垣も崩落、
また、本丸の西側には帯曲輪があったが、その跡も崩落した。
現在、これらのところで、鹿島と地元企業で復旧作業が行われている。 」
二の丸跡には二の丸茶屋と白河集古苑が建っている。
「 白河集古苑には、中世に白河城や小峰城を本拠にして、
白河周辺を治め、最盛期には南東北の盟主的存在だった白河結城家と、
最後の白河藩主となった、徳川譜代大名の阿部家に伝わる古文書や美術工芸品を保存、
展示している。
結城家古文書九十通は国の重要文化財に指定されている。 」
以上で、白河小峰城の探勝は終わる。
![]() |
![]() |
![]() | ||
所在地 福島県白河市郭内
白河小峰城へはJR東北本線白河駅から徒歩5分
白河小峰城のスタンプは小峰城三重櫓か、白河集古得苑にて
訪問日 平成三十年(2018)九月九日