二本松城は、標高三百四十五メートルの白旗ヶ峰に、畠山氏が築いた城を、蒲生氏が石垣に改築し、
寛永二十年(1643)に入封した丹羽光重により、現在の近世城郭に大改修された、石垣造の山城である。
日本100名城の第11番に選定されている。
JR二本松駅から、
城の入口まで徒歩で二十分程だが、そこから本丸まで十五分とあり、
タクシーで本丸近くまで上り、そこから城の入口まで下ってくることにした。
日本100名城のスタンプは城にはなく、二本松駅内の観光案内所か、
二本松市歴史資料館ということなので、構内の案内所でスタンプを押し、
パンフレットをいただいた。
「 二本松城は、別名、霞ヶ城、白旗城と呼ばれ、 阿武隈山系の裾野に位置する標高三百四十五メートルの白旗が峯を中心として、 南・西・北を丘稜で囲まれ、東方がやや開口する自然の要害地形を利用して造られた、 中世及び近世の城跡である。 」
タクシーで、本丸の少し下にある乙森駐車場まで上り、そこで下車した。
一気に百メートル以上上った感じで、見晴しが良く、紅葉していて、美しかった。
「乙森(おともり)」 の説明板と、「史跡 二本松城跡」 の説明板が建っている。
説明板「乙森(おともり)」
「 本丸直下の東側平場で、をと森、二丸の他、幕末の絵図には、本城番と記されている。
会津領時代絵図によれば、規模は、広さ東西約二十七メートル、
南北四十二メートルで、
四方約百五十メートルを塀で囲んでいて、本丸を補完する施設だったことがわかる。 」
説明板「史跡 二本松城跡」
「 十五世紀前半、畠山氏の居城として築城したといわれている。
その後、伊達・蒲生・上杉・松下・加藤と、城主が変わり、
寛永二十年(1643)に、丹羽光重が二本松藩十万七千石で入城し、
以後、丹羽氏の居城として、明治維新を迎えた。
発掘調査により、近代城郭への大規模な改修が、加藤氏時代に行われたことが判明した。
二本松城は、中世城郭と近世城郭とが一ヶ所で営まれ、
かつ、その変貌がわかる東北地方を代表する城跡である。 」
タクシーで上ってきたきた本丸北方には、L字型の堀切が残っている。
駐車場の先を少し進むと、下から上ってくる道に合流する。
その先に、本丸石垣がある。
合流地点まで行き、左下を見ると石垣が見えるが、
これは本丸下南面の大石垣で、蒲生氏郷が雇った穴太衆により築かれた、
城内最古の石垣の一つである。
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「本丸石垣下」 の説明板が建っている。
説明板「本丸石垣下」
「 二本松城は、室町時代中期に、奥州探題を命られた畠山満泰が
応永二十一年(1414)に築城し、以後、畠山氏の居城として、百四十年余り続いた。
天正十四年(1586)、伊達政宗の南奥制覇のため落城し、
二本松城は、片倉景綱、伊達成実が城代になったが、
天正十九年(1591)、秀吉の奥羽仕置で、会津領主になった蒲生氏郷の重要な支城として、
中通り警備の任を与えられ、二本松城には石垣が積まれ、
近代城郭として機能し始めたのは、このころと推定される。
その後、徳川時代初期も会津領として、上杉氏・蒲生氏・加藤氏らの支配下にあり、
とくに、加藤氏支配時代には、本丸を拡張したことが、石垣解体調査で確認された。
平成三年三月から5ヶ月にわたって実施された調査で、
すでに崩壊し滅失したと考えられていた石垣の長さ八十メートルにわたる遺構が検出され、
慶長期の穴太積みや、元和・寛政期の様式の他、江戸時代後期の様式が確認できた。 」
石垣に沿って少し進むと、右側に枡形虎口に入る石段がある。
石段を上り、右折し、左折し、石段を上ると広い広場になっている本丸跡に出る。
正面に見える石段と石垣は、天守台である。
「 畠山氏が築いた二本松城は、山の頂上と平地の比高は約百二十メートルで、
頂上に本丸を置き、そこから、東・南に伸びる尾根に曲輪が築かれ、
他の山につながる北西の尾根には、堀切を設けて遮断し、
北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ構造になっていた。
蒲生氏郷が領する城になると、城域は拡大され、
本丸直下に、穴太積みによる大石垣を用いるなど、織豊城郭式の城に変貌し、
寛永四年(1627)に入城した加藤嘉明は山麓部分の高石垣が築き、
現在の近世城郭の姿に大改修した。 」
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本丸にどのような建物があったかの案内はなかったので、詳細は分らない。
「
寛永二十年(1643)、丹羽長秀の孫・丹羽光重が、十万七百石で入封すると、
二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行い、本丸は石垣で築造された。
本丸には石垣を積み上げた櫓台が三つあり、右奥にあるのが天守台である。
平成五年(1993)から平成七年(1995)にかけ、本丸の修復、復元工事がなされ、
天守台や本丸石垣が整備されたが、天守が建てられたという記録はないという。 」
天守台からの見晴らしは良い。 天守台から両翼に土塁が延びている。
右手に延びた土塁の先にある隅櫓台は、東櫓台である。
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本丸の左奥にあるのが西櫓台で、天守台と土塁でつながっている。
天守台に上る石段近くにあったのは、
「安部井又之丞・丹羽和左衛門自刃の地」 の石碑である。
石碑の文面
「 安部井又之丞は、六十五歳、勘定奉行、丹羽和左衛門は六十六歳、城代家老の職にあった。
慶応四年(1868) 七月二十九日、戊辰戦争による二本松城の際、
安部井又之丞と丹羽和左衛門は、燃え上がる城を眼下に、共に壮絶な最後を遂げた。
丹羽和左衛門は床几に腰をおろし、軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち、
内臓を軍扇の上につかみだし、前屈みになって絶命したといわれ、
丹羽着用の血染めの具足は資料館にある。 」
本丸を出て、反対の右側に石垣に沿って進み、 右側の石垣下に、「I面石垣内部」 の説明板が建っている。
説明板「I面石垣内部」
「 このI面石垣内部には別の石垣が保存されている。
石垣解体後、裏土の中に、長さ七・六メートル、最も残っている部分で、
三段、高さ一メートルの石垣が発見された。
築石は、野面石(自然石)と荒削石で、
その積み方は、本丸下南大石垣や、天守台下西面二段石垣と同じ工法の穴太積みと判った。
この旧石垣は、氏郷が築いた慶長初年のもので、
I石垣は、加藤氏が修築、拡張した寛永初年のものである。
現在は原状のまま埋め戻されている。 」
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安部・丹羽氏自刃の地碑 | I石垣と案内板 |
ここから下におりていくと、
「奥州探題 畠山氏居城 霞城址」 の石碑が建っている。
この石碑は、昭和三十年に、搦手門入口左側に建立されたものだが、
平成七年の本丸石垣修築復元工事の際、現在地に移設された。
下に降りると見えてくる石垣は搦手門跡である。
搦手門跡は、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残るだけである。
説明板「搦手門跡」
「 二本松城の裏門である搦手門は発掘調査で、
第一期は掘立柱の冠木門(冠木という横木を二本の門柱の上方に貫き渡している門で、屋根はない)で、
現存する礎石のやや南側で発見された。
直径約三十センチの柱の根元が残存していて、栗材と鑑定された。
第二期は現存する礎石の時期で、
この礎石が据えられた当時のまま残されていることが確認された。
柱間は三・二メートル、扉のホゾちいわれる穴があることから、
一枚約一・四メートルの扉が付く高麗門だった可能性が高い。
両側に門台石垣が築かれ、その石積み様式から、寛永初期の門跡で、
蒲生時代に掘立柱だった門を加藤氏が石材を用いて整備したことが明らかになった。 」
左折して左に下りていくと「新城館(しんじょうだて)」の説明板がある。
「 二本松城は会津の支城だった時代、
城主に代わって城を守る城代が二人置かれている時期がありました。
慶長六年(1611)〜寛永十四年(1627)の蒲生秀行、忠郷のときで、
二城代がそれぞれ、二本松城内の東城と西城に詰めていたという記録があり、
ここ「新城館」はその西城にあたります。
平成10、11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物群や、
碑らわを取り囲む掘立柱塀跡も確認され、中世から近世後半期にかけ、
くりかえし、建物等が建て替えられ、利用されていたことがわかりました。
(中 略 )
古い記録に、天正15年(1586)の畠山・伊達両氏の日本松城攻防戦の末、
畠山氏が本城(本丸)を自ら焼いて開城した後、入城した伊達成実(しげざね)が、
その跡始末したとあり、新城館は、天正期には本城的な機能を果たしていた、
重要な施設であった「ことが判明し、記録の少ない中世の二本松城の姿の一端が明らかになりました。
平成19年3月 二本松市教育委員会 」
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更に下ると、少し開けたところの出た。
明治百年の昭和四十三年(1968)に、「少年隊の丘」 と命名されたというところである。
日展彫刻家・橋本高昇によるブロンズレリーフ 「二本松少年隊奮戦の図」 や、
顕彰碑 「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」 などが建っている。
その下に、「智恵子抄詩碑」 が建っている。
高村光太郎直筆 の 「樹下の二人」「あどけない話」の一節を、
伝説が残る大小一対の牛石に銅板ではめ込んでいる。
周囲の円形野外劇場のイメージは、詩人・草野心平 の発案である。
道を戻り、東に向って進むと、日影の井戸という、井戸跡がある。 /p>
「 日影の井戸は、
千葉県印西市の月影の井戸、神奈川県鎌倉市の星影の井戸と共に、日本の三井といわれる井戸である。
石積みで、深さは約十四メートル余り、
底から北方に十二メートル余り横掘りされているという。 」
氏郷が築造したとされる、本丸下南面の大石垣は、この上部と思われたが、 確認はできなかった。
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日影の井戸から階段を下りていくと、「二本松藩士自刃の地」 の石碑が建っている。
説明板「二本松藩士自刃の地」
「 慶応四年(1868) 戊辰戦争において、
薩摩、長州、土佐藩兵を主力とした西軍約七千名に対し、
応援兵を合わせても、兵力約千名の二本松藩は各所で戦いをくり広げ、
七月二十九日、ついに城下、城内の戦いになり、正午頃、二本松城は炎上し、落城した。
二本松藩の戦死者は三百三十七名以上、負傷者五十八名以上、
他藩の戦死者は二百八名以上という戊辰戦争で、最大の壮烈な戦いだった。
ここでは、主戦論者だった家老・丹羽一学、城代・服部久左衛門、
小城代・丹羽新十郎が藩主長国に代わって、
戦犯の責任をとり、割腹(切腹)し、壮絶な最期を遂げた。 」
一学の辞世の歌 「 風に散る 露の我が身はいとわねど 心にかかる 君が行く末 」
階段を下り、城内路に出ると右折して西に向う。
その先で、智恵子抄碑から下って来た道と合流する。
ここには各地にすすむ道標がある。
その前には溝のような細い川が流れていて、
「二合田用水」の説明板がある。
「 丹羽氏入城まもなく城防備を目的として、
安達太良山麓より尾根伝えに延々十八キロの距離を城内に引水した用水で、幕府には内密だった。
のちに各村に灌漑用水として、城下町には生活、防火用水として活かされた。 」
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その先の阿つま屋の近くには、土井晩翠の歌碑が建っている。
「 花ふぶき 霞が城のしろあとに 仰ぐあだたら 峯のしら雪 」
「 旧会津製糸会社の社歌を作詞した晩翠が、
昭和二十四年(1949)発表会のため来松。
花吹雪の中を散策し、その情景を詠んだもので、
歌碑は昭和三十一年に建立されたものである。 」
先程の道標まで戻り、下に降りる道を行くと、右側にぽこっとした平場がある。
広場の中央に、「本宮館」 の標柱が建っている。
手前に翻る「丹羽二本松藩」 の幟の下にある
社殿は、丹羽霊祠殿 (通称・丹羽神社) である。
市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に、霊牌があったという。
市の説明では 「 丹羽霊祠(れいし)殿から、
戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約百年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。
霊牌は全て同じ形で約八十柱あり、戊辰五十年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。
霊牌には武士や農兵の名前が記され、当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、
等しく慰霊した。
戊辰百五十年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料である。 」 としている。
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丹羽霊祠殿の左下に見えるのは、霞ヶ城の傘松である。
別称 「八千代の松」 ともいわれる、アカマツの巨木で、樹齢三百五十年を越す。
一本の幹から三方に枝を伸ばした独特の形状は見事である。
その下には、るり池がある。
二合田用水から分水した水が、洗心滝・布袋滝となり流れ込む。
丹羽二本松藩初代藩主・光重時代に、造園された姿が今も残る庭園で、
小規模な回遊式庭園ながら、自然との調和の一体感をかもし出している。
るり池と霞池の間の右側の小高いところに建っているのは、洗心亭である。
城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き、寄棟平屋造りの茶室。
当時は 「墨絵茶屋」 といい、光重がこよなく愛したという。
一時、城外への移築されていたため、戊辰戦争戦火を免れ、明治四十年(1907)に再移築された。
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霞池を左に廻ると、るり池から流れ出た水が七ッ滝になり、霞池に注いでいる。
その先の左手の広場は、三の丸上段で、左奥くに相生の滝があるが、
訪れた時は枯れて、水はなかった。
その右手に上る道があるので上っていく。
上には観光物産館だったような、今は使われていない建物があった。
江戸時代には本坂御殿、別名姫御殿だったところである。
建物前の石段を直下すると、三の丸の下段で、南の駐車場へ繋がっている。
「寛永二十年(1643)に、三の丸御殿が築造された」 とあるが、
このあたりに建物が建っていたのだろうか? br
二本松は菊人形が有名で、例年十月中旬から十一月中旬まで行われる。
三の丸が会場になるようで、このあたりは後片付けの最中だった。
なお、本坂御殿の南下部は、市により発掘調査が行われ、
石垣跡が見つかったようである。
三の丸下段の南側は復元された石垣と土塀で囲まれていて、
その先で道は急に狭くなる。
江戸時代、その先に枡形虎口の箕輪門が建っていた。
右側の門櫓台の上には立派な松の木が生えている。
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道はここで百八十度回転し、両側の門の石垣(門櫓台)の間を通り、枡形の中に入る仕組みである。
「 箕輪門は二本松城の正門で、
丹羽氏が入封された時、丹羽光重により築造された。
ここにどのような門があったか記されていないが、
高麗門があったと考えるのが常識的だろう。
枡形に入ると道は右折するが、左手を見ると広い空間があるので、
江戸時代には建物が建っていたと思われる。 」
枡形の右側に「箕輪門のアカマツ群」の説明板が建っている。
説明板「箕輪門のアカマツ群」
「 箕輪門北側に沿ってある石垣上にある四本のアカマツは、
三の丸への石段の南東に段状に並び、一本は石段の裾右側の石段上に立っている。
目通り幹囲が二〜二・五メートル、樹高九〜十二メートル、傘状をしているが、
多くの長い枝を石垣下にたらしている。
これらの松は土塀に代えて、石垣上に植えられたと思われる。
明暦三年(1657)に、門周辺石垣の破損の修理した記録などから推察し、
樹齢は三百五十年を超える。 」
枡形には松の木が多くあった。
その先に見えるのは二層櫓と楼門・多聞櫓である。
「 箕輪門は戊辰戦争で焼失したが、
昭和五十七年(1982)に再建された。
主柱材料のカシの巨木は、領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたことから、
この名がある。 」
楼門をくぐり、振り返って門を見た。
楼門より、左側の石垣の方が高い珍しい構造である。
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箕輪門を出ると左折する構造になっていて、
そこから先の道は広くなだらかに下っている。
右折して左の多聞櫓と別れるあたりにめだたないが、
「大城代内藤四郎兵衛討死之地」 の石碑が建っている。
石碑「大城代内藤四郎兵衛討死之地」
「 戊辰戦争の際、城門を開いて敵陣に切りこみ、
獅子奮迅の末、壮烈な戦死を遂げた。 」
道を下ると左側に、「二本松少年隊」 の銅像群が建っている。
「 戊辰戦争で会津若松の白虎隊が有名だが、
ここ二本松にも同じような話があったのである。
戊辰戦争で、二本松藩は慶応四年(1868)七月、
奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦ったが、
藩兵の大半が白河小峰城応援のため、白河口に出向いていて、
城内城下は空虚同然だった。
この緊迫した状況の下、少年達の出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、
十三歳から十七歳の少年六十二名が出陣、七月二十九日、
城内への要衝・大壇口では、隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、
正午頃、二本松城は炎上し、落城した。
彼らは後に二本松少年隊と呼ばれた。
ブロンズ像は、彫刻家・橋本堅太郎によるもので、
二本松戦最大の激戦地・大壇口における少年隊の奮戦する姿を描いたもので、
平成八年の建立である。 」
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少年像のあるあたりは、千人溜 と呼ばれたところである。
藩兵が集合する場所であり、少年隊もここからそれぞれの守備地に出発した。
城の入口には、「戒石銘碑」が建っている。
「
二本松藩七代藩主・丹羽高寛は、寛永二年(1745)、
藩政改革と綱紀粛正の指針を刻んだ戒石銘碑を、家臣で儒学者の岩井田昨非に命じ、
造らせた。
岩井田昨非は、一夜のうちに、自然石に、その文を刻んだ石碑を完成させた。
この碑は 藩士登城の際、その戒にするため造られたもので、旧二本松藩庁の前に置かれ、
「 輩の俸 輩の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し 」 とある。
昭和十年(193)、「旧二本松藩戒石銘碑」 として、国の史跡に指定された。 」
なお、霞ヶ城公園は日本さくら名所100選に選定されている。
これで二本松城の探訪は終了である。
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所在地 福島県二本松市郭内3丁目、4丁目
二本松城へはJR東北本線二本松駅から徒歩約20分で内城入口、入口から本丸まで坂道で約15分
日本100名城の二本松城のスタンプは城にはなく、
二本松駅内の観光案内所と二本松市歴史資料館に置かれている
訪問日 平成三十年(2018)十二月一日