名所訪問

「 続日本100名城 志苔館(しのりたて) 」


かうんたぁ。


志苔館は、十四世紀から十五世紀に和人により、 蝦夷地に築かれた道南十二館の一つである。
志苔館遺跡は、昭和九年(1934)、国の史跡に指定され、 昭和五十二年(1977)には、腰曲輪・濠・溪沢全体が追加指定された。
続日本100名城の第101番に選定されている。


志苔館跡は、 函館空港に近い、函館湾に面したところにある。 
細い道の坂を上ると、小高い丘の途中に、「史跡志苔館跡」の石碑と、 「志苔館跡」の説明板が建っている。 

「 志苔館跡は、 函館市中心から約九キロ離れた、 標高二十五メートル程の海岸段丘南端部に位置している。 
西側に志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地及び津軽海峡に面し、 函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。 『
館跡は、東西七十〜八十メートル、南北五十〜六十メートルで、 約四百十平米の広さがある。 
また、館跡の正面に当る西側には、二重に濠が掘られ、 さらに、外側には小土塁が巡らされている。 
松前藩の史書「新羅之記録」によると、 室町時代頃(十四世紀〜十五世紀)、  道南(現在の上ノ国町から、松前町・福島町・知内町・木古内町・北斗市・ 函館市に及ぶ地域)に、蝦夷地に渡来してきた和人が築いた館(たて)が十二あり、 これらを総称して、「道南十二館」 と呼ばれるが、 それらの中で、最も東に所在するのが、志苔館(しのりたて)で、 館には、小林太郎左衛門良景が居住していた。 
康正二年(1456)、志苔館付近で、アイヌの蜂起があり、 この戦いで、翌長禄元年(1457)五月十四日に、志苔館が攻め落とされた。 
戦いの後、再び、小林氏は館に居住していたが、 永正九年(1512)四月に、アイヌの蜂起があり、 志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定は討死した、といわれる。 
その後は、小林氏が松前藩に従属したため、志苔館は廃館になった。 」  

「史跡志苔館跡」の石碑が建つ道の手前(下)の右側には、 「志苔館 和人殉難御霊 阿伊努悵魂御霊 慰霊碑」 の説明板があり、 空地の奥に、二つの慰霊碑が建っている。 

説明板の文面
「 下北半島、津軽方面に於いて、 南北朝の戦いに敗れた南朝方の武士達が、道南に館を築いていたが、 康正二年(1456)に、志苔館付近にて、アイヌの蜂起があり、 翌長禄元年(1457)、館は攻め落とされた。 
その後、再び永正九年(1512)に戦いがあり、館は陥落し、廃館になった。 
ここに、コシャマインの戦いで、亡くなった館主、和人御霊、 アイヌ御霊双方を同一座に祀ったものである。 」  

登りきった小高い丘は、海抜二十五メートルで、緑の芝生が一面に広がっていた。 
下の家並の先は、対岸の下北半島や、町のシンボル・函館山が、 海に浮かんでいるように見える。 

史跡志苔館跡碑
     慰霊碑      志海苔の家並と函館山遠望
史跡志苔館跡碑
和人とアイヌの慰霊碑
志海苔の家並と函館山遠望

志苔館は、小高い丘の自然地形を活かし、 四方に土塁と薬研、または、箱薬研状の空堀を巡らせ、 全体で、ほぼ長方形の形のレイアウトだったようである。 
館の入口には空掘があり、木の橋が架かっていた。
その近くに、「郭外遺構」 の説明板が建っている。 

「 郭外には主に外敵からの防御を目的とした濠・ 土塁・門・柵の他、橋・土橋等が配されていた。 
館の開口部に当る西側には、二重の濠が掘られ、北側・東側・南側は、 自然の沢を利用して、濠としていた。 
発掘調査により、館が築かれた当時は、両側に外柵を設け、 その中央部の門を通過し、 薬研の二重濠に架けられた橋を渡り、さらに、門を通過して、 郭内に入る構造であったことが分かった。 
その後、郭外は、郭内ともに、造り変えられ、外柵は埋められて、 土塁が築かれ、郭内の濠も薬研から箱薬研へ、橋も土橋へと移行した。 
ここには、館構築当時の姿をできるだけ復元するとともに、 その後に構築された土塁、土橋等も保護、保存し、 館の変遷が分かるようにしている。 
なお、北側と西側の空壕は、幅約五メートル〜十メートル、 最も深い所で、約三・五メートルの深さをもっていた。 
また、土塁の高さは、北側で約四メートル〜四・五メートル、 南側で約一メートル〜一・五メートルだった。 」  

郭内に、足を踏み入れると、 門跡・建物跡・柵跡・井戸跡が、石札に表示されているとともに、 遺構に沿って埋めてあるブロックで、その形状をうかがい知ることができる。 
井戸跡の近くに、説明板がある。 

説明板「井戸跡」
「 井戸跡は、発掘調査により、地表下約四メートルのところから、 木製の井戸枠が発見された。 
郭内に存在した唯一の井戸である。 
この木製の井戸枠は、四隅に置いた柱を桟で繋ぎ、柱と柱との間に、 縦板を並べた、「方形隅柱横桟式」 と呼ばれるもので、 室町時代頃造られたと考えられる。 
井戸の中から、箸・曲物・桶の一部・銅銭などが見つかった。 
発掘調査で、郭内からは、十五世紀前半ごろを主体とする、青磁・白磁・珠洲焼・ 越前焼・古瀬戸などの陶磁器や、金属製品などが出土した。 
これらの遺物の年代は、「新羅之記録」 に記された、 長禄元年のコシャマインの戦いにおける、志苔館陥落の時(1457年)と一致する。 
昭和四十三年(1968)に付近で行われた道路工事で、 三十八万枚の渡来銭が入った三つの甕が発見された。   一カ所から発見された古銭としては国内最大級の量で、
現在は国の重要文化財として、市立函館博物館に収蔵、 展示されている。 」  

志苔館は、和人が蝦夷に砦を作り、アイヌの地に進出した最初で、 この時期はアイスとの間で戦いもあったことが分かった。 
また、城というものではなく、拠点となる館を守る程度のものだったことも分かり、 面白かった。 

空掘
     建物跡      井戸跡
空掘
建物跡井戸跡

訪問日     平成三十年(2018)五月二十八日

所在地 : 北海道函館市志海苔町
志苔館へは、JR函館本線函館駅から、函館バス下海岸線(7・79・97系統)に乗り、 「志海苔」「湯倉神社前」 下車、徒歩約5分   



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