松前城は、外国船の出没に備え、江戸幕府が松前藩に築城を許可し、安政元年(1854)に
築かれた城である。
我が国最北に位置し、日本式で築かれた最後の近世城郭としての遺構として、
国の史跡に指定されている。
日本100名城の第3番に選定されている。
松前町役場手前の駐車場に停め、北に歩くと役場前に、 「史跡松前奉行所跡」 の石碑が建っている。
「 松前奉行所は、諸外国からの蝦夷地侵略を恐れた幕府が、
文化四年(1807)に、 函館奉行所を移動して、開設したものである。
しかし、蝦夷地西部の脅威がなくなったとして、松前藩に領地が返され、
文政五年(1822)に、廃止された。 」
その先の交叉点を左折すると大松前川が流れている。
橋を渡ると、馬坂である。
馬坂には「国指定史跡 福山城」 の説明板がある。
説明板「国指定史跡 福山城」
「 福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から、
幕府が特旨をもって、
嘉永二年(1849)、松前家十七世(松前藩十三代藩主) 崇広 に、築城を命じ、
高崎藩の兵学者・市川一学の設計により、安政元年(1854)に完成した。
福山(松前)城の面積は、約七万七千八百平方メートル、
城郭の規模は、本丸・二の丸・三の丸に分かれ、
三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなっている。
構造形式は平城である。
我が国最北に位置し、最後の遺構として史跡に指定されている。 」
江戸時代、馬坂の正面奥には、東郭土居と隅櫓があったが、今はない。
三叉路を左折して進むと、右側には復元された石垣の土塁があり、
正面には、角柵という柵がある。
江戸時代には、柵の手前に外掘があり、木橋が架かっていた。
また、角柵の中央には馬坂門があったようである。
「番所」の説明板がある。
説明板「番所」
「 この番所は、搦手枡形へ通じる外堀に架かる木橋脇にあり、
木橋の警備のために置かれている。
三の丸には、同様な番所がもう一ヶ所あり、追手枡形へ通じる木橋の脇にもある。
番所の規模は、柱芯間で桁行十八・五尺(約5.6m)、梁間十五尺(約4.5m)と考えられる。
番所の構造は屋根は瓦葺きで、下見板張りの壁だったと考えられる。 」
番所があったところは、現在、城のジオラマがある場所である。
「 嘉永二年(1849)、江戸幕府より、
蝦夷地近海に出没する外国船の警備強化を図るため、
津軽海峡の築城を命じられた松前藩十三代藩主・崇広は、翌嘉永三年(1850)、
当時の三大兵学者の一人である高崎藩の市川一学に設計させた。
一学は海防上から福山は無理であり、箱館後方の桔梗野にある庄司山付近に築城するよう上申したが、
藩士たちは移転を好まず、福山館を拡大して、築城することになった。
五年の歳月を経て、安政元年(1854)、面積約七万七千八百平方メートル、
本丸・二の丸・三の丸に分れ、三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなる、
松前福山城が完成した。
この城は、日本最後の日本式城郭になった。 」
ジオラマ広場は三の丸跡である。
「 江戸時代の三の丸には、 鉄砲置場の他、砲台の五番台場・六番台場・七番台場があり、 三の丸の北側は外堀が巡らされ、正面の橋を渡ると三本松土居で、 その左手は、土塁で囲まれた二の丸で、左端に、二重太鼓櫓が建っていたようである。 」
橋を渡り、三本松土居の先にある復元された搦手二の門をくぐる。
くぐると、江戸時代には枡形になっていて、
右側には搦手門と楼門を支える櫓台があった。
今は植栽が植えられていて、当時の姿を想像することは難しい。
松前城資料館の受付があり、ここで100名城のスタンプを押した。
入城料を支払い、コンクリート製の建物に入ると、
アイヌ、松前藩に関する展示があった。
資料館を出ると、塀越しに、広場と神社が見える。
広場が本丸跡で、現在は松前公園になっている。
奥に見える神社は、北の丸跡に建立された松前神社である。
「 松前氏は、寺町の一角に、松世祠を設けていたが、
明治十二年、地元から、
松前藩の祖である武田信広を祭神とする、松前神社の創建の願いが開拓使に出され、
旧松前城北の丸を境内地として、明治十四年に創建された。
現在の社殿は、大正十二年に、総ヒノキ造り神明造りで再建されたものである。 」
その先にあるのは復元された本丸御門である。
門をくぐると、二の丸跡である。
二の丸の左端に、「旧福山城本丸表御殿玄関」 の説明板があり、表御殿玄関がある。
表御殿玄関は、松前城で唯一残っている建物である。
説明板 「旧福山城本丸表御殿玄関」
「 慶長十一年(1606)に完成した城は、当時、これを福山館と称していた。
しかし、寛永十四年(1637) 城中より出火し、多くの建物を焼失、
同十六年これを修築した。
その際、表御殿には、京都伏見城の一部が移された、と伝えられている。
明治六年(1873)九月、城の取り壊しが決まり、
明治八年(1875)、北海道開拓使の命令により、福山城は、三層天守・本丸御門・
本丸表御殿を除いた建物、石垣が取り壊され、濠を埋めて、
城郭の形態が失われたが、
天守と本丸御門、本丸表御殿は残った。
表御殿は松城小学校として充用され、
明治三十三年、新校舎が完成した後も、この玄関だけは小学校の正面玄関として、
昭和五十七年まで利用されてきた。 」
本丸御門と復元天守が収まる位置まで移動して、写真を撮った。
「 明治八年(1875)の松前城の取り壊しの際、
取り壊されずにすんだ三層の天守と、本丸御門は、
昭和十六年(1941)に国宝に指定された。
昭和二十四年(1949)、三層天守は町役場から出火した飛び火により、
焼失してしまった。
現在の建物は、昭和三十六年(1961)に、コンクリート製で再建されたものである。 」
明治元年(1868)、旧幕府軍は、榎本武揚を首領として蝦夷地に上陸し、
五稜郭を占拠した。
その後、新撰組副長・土方歳三を長とする主力が福山城へ向けて進撃を開始した。
その間、旧幕府軍木造蒸気船・蟠龍及び回天が城中を砲撃して、
三重櫓(天守)及び石垣等に多く命中、今でも正面石垣には三ヶ所の弾痕が残る。
「長尾山樵」 の歌碑がある先には隅櫓があった。
「 長尾山樵(秋水)は江戸時代後期の漢詩人。
越後村上藩士の子として、安永八年生まれて、水戸で学ぶ。
文政二年に、蝦夷地松前にわたり、以後諸国をめぐって、北方防備の急を説いた。
晩年は村上で、藩士の子弟に漢詩を教え、
文久三年に八十五歳の天寿を全うした、という人物である。 」
三の丸まで戻る。
右側の門の下には、 「天神坂門跡」 の標石がある。
長尾山樵の歌碑 |
江戸時代、
城内へ通じる坂は、馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂の五ヶ所だった。
そのうちの一つ天神坂は、細く風情ある石段が続く。
三の丸跡への入口に、天神坂門が建っている。
石段の途中に、「天神坂夫婦桜」の標示があり、
夫は一重の染井吉野、妻は八重の南殿とあった。
「 樹齢八十年のサクラで、「松前三大桜」のひとつで、
ソメイヨシノとサトザクラの南殿が接木によって、一株から育っている。
長年、支えあい生きてきた夫婦に見えることから、
夫婦桜と命名されたようである。 」
天神坂を下りると、松前港線(城下通り)で、風情ある家並がある。
「手打そば おぐら」に入り、松前梅花巻をいただいた。
手打ち蕎麦の上に、磯の香りいっぱいの松前寒海苔を香ばしく焼き上げたものが乗っていて、梅干と共に食べる。
梅干はクエンサンが豊富で疲労回復に効果があり、海苔と梅干が蕎麦とマッチしていて、うまかった。
以上で、松前城の見学は終了した。
訪問日 平成三十年(2018)五月二十八日
所在地 : 北海道松前郡松前町字松城144
松前城へは、JR江差線木古内駅から、函館バス「松前行き」で約1時間30分、
「松城」で下車、徒歩約10分
函館駅から松前まで、バスで3時間
(ご参考) 松前藩とアイヌ民族
「 アイヌ民族は、漁業・狩猟を生業とし、農耕は行わなかった。
アイヌ人は毛皮や鮭・ニシン等の水産物と、米・酒・麹などを物々交換することで、
生活していた。
アイヌ人は縄文時代から日本から千島列島にいたるところにいたが、大陸から渡来した農耕民族
により、時代と共に北に追いやられ、平安時代には宮城県。秋田県以北に分布し、
交易を行っていた。
彼らが住む地を蝦夷と呼んでいる。
日本人は、先住民とその後に渡来して農耕民族の混合民族である。
江戸幕府が誕生すると、松前を拠点にアイヌとの交易を行っている、松前氏を藩主として、
松前藩が誕生する。
誕生当時は、蝦夷島主として、客分扱いであった。
五代将軍・徳川綱吉の頃に、交代寄合に列して、旗本待遇になる。
享保四年(1719)から、一万石格の柳間詰めの大名となった。
当時の蝦夷では米作が不可能なので、石高は位を示すのみのもので、
江戸時代初期の領地は、北海道南西部の渡島半島の和人地のみであった。
松前藩とアイヌの交易は、当初は松前城下に出向いて行われた(城下交易制)
アイヌの交易品には、サケ・ニシン・白鳥・鷹・鯨・トド皮・ラッコ皮などがある。
ラッコ皮は、千島アイヌが獲た商品で、北海道アイヌに流出したものである、
また、日本海側のアイヌからは、中国の絹製品がもたらされた。
交易は物々交換で行われて、アイヌは米。酒。麹。小袖・紬を入手した。
松前藩は、次第に、残る北海道(当時、蝦夷地と呼ばれた)に支配を強め、藩領化した。
蝦夷地には藩主自ら、交易船を送り、
松前藩は知行地をまたない藩士のために、知行地の代わりに、交易権を与えた。
松前藩は、蝦夷地には藩主自ら、交易船を送り、藩士には、
蝦夷各地に設定された商場(あきないば)を割り当て、
藩士は商場に出向いて、アイヌとの交易を行わせた。
藩と藩士の財政基盤は、蝦夷のアイヌとの交易独占にあり、
農業を基盤とした幕藩体制にあたらない、例外的な存在であった。
この交易を商場知行制という。
これを機会に、松前藩はアイヌに対する支配を強めた。
和人の居住地を渡島半島の南部に制限し、その他の蝦夷地との通交を制限する政策を行った。
江戸時代の始めまでは、アイヌ人は和人地・津軽・南部へ出かけ、交易することが普通であったが、次第に取り締まりがきつくなった。
藩士は、嫌がるアイヌに、一歩的に交易品を押しつける押買いや、大網を使った鮭の乱獲など
を行うようになった。
さらに、松前藩は、寛文五年(1665)、交換レートをアイヌ側に不利になる設定を行う。
これらの出来事は、アイヌ人に、不信と不満を蓄積させた。
慶安元年(1648)、アイヌ人の集団間で対立が生じ、マナシクルとシュムクルの間で、
静内川の漁業権を巡り、武力闘争が繰り返され、その都度、松前藩が仲裁していた。
誤った情報と松前藩への不満が重なり、アイヌの一斉蜂起が起き、松前藩と衝突。
シャクシャインの戦いである。
松前藩は、アイヌ側に離反工作を積極的に行い、孤立したシャクシャインを和睦交渉を思わせ、
出頭したのをたまし討ちにし、戦いは終結した。
これを機会に、松前藩は、アイヌに対する支配を強化。
和人地と蝦夷地の間の通行が自由に行えられなくなった。
蜂起の影響から、交易船を出す商人が激減して、藩はアイヌとの交易が出来なくなった。
江戸中期になると、経済は複雑になり、アイヌとの交易は藩の手には負えないものになり、
藩の財政の悪化もあって、十八世紀初頭からは、松前藩は商人に交易を請け負わせ、
見返りに行っていの売り上げを徴収する方式に変えた。
この交易は場所請負制と呼ぶ。
商人は、アイヌの漁場経営に口を出し、やがてアイヌ人を魚場労働者として使用するようになり、アイヌの自立社会は冒されて行く。
商人の中にはアイヌに乱暴を働く者や、強制的に妾にする者などが現れる。
アイヌの不満が爆発したのが、寛政元年(1789)のクナシリ・メナシの戦いである。
寛政元年(1789)五月、 国後島と現在の標津町・羅臼町付近のアイヌ人が、これを怒り、集団で
和人七十一人を殺害した。
松前藩が兵を出し、戦いに関わったアイヌ人三十七名を捉え、ノツカマップ(根室市)で処刑したた。
十六世紀に入ると、ロシアは、高価な毛皮を入手するため、シベリア東進を行い、
樺太から千島まで南下し、オポーツク人や樺太アイヌ人に対し、ロシア同化政策を進める。
日本では、仙台藩が北海道中部の札幌辺りに入植者を入れ、番所を設けることや、
間宮林蔵による樺太探索などで、ロシアの存在と北海道への進出の恐れが取り沙汰されるように
なる。
松前藩は十八世紀中旬には、アイヌとロシアが接触していることに気付いていたが、
具体的な行動はとらなかった。
安永七年(1778)に、ロシアが交易を求めて来航したことを幕府に報告しなかった。
幕府は天明八年(1785)から、調査隊を派遣し、アイヌとロシアの事情を調査した。
報告を受けた、老中・田沼意次は蝦夷開発を計画し、アイヌとの御試交易を二度行った。
寛政四年(1792)にロシアが、同八年にはイギリスが、
蝦夷地に来航すると、幕府内に緊張が起きる。
幕府は、近藤重蔵より「アイヌが、ロシアとなかよくなると、大変なことが起きる。」などの
報告を受け、アイヌ人の恭順化を図り、交易tp漁業を幕府直轄とした。
一方、アイヌは日本の属民であること示すため、アイヌ人の和風化(同和化)を図った。
アイヌの風俗・風習を禁止し、髪形を月代を剃るように勧めた。
しかし、アイヌ人の反発が上り、うまく行かなかった。
また、幕府支配は費用が多く掛かることから、文政四年(1821)に、松前藩に戻された。
松前藩は、場所請負制に戻した。
大手商人が一手に引き受けるようになり、各場所の経営権に加え、行政権も行使し、
実質的な支配者となった。
その結果、一部の地域において、アイヌに横暴な支配・剥奪が強化された。
安政元年(1854)の日米和親条約により、函館開港が決まり、安政二年には蝦夷地は幕府領と
なった。
商人の場所請負制は明治二年に廃止された。
明治時代に入り、北海道の存在は大きくなる。
ロシアに対する防衛と廃藩置県により、北海道を開発し、農地化する動きである。
明治六年(1872)、地所規則が制定され、これにより、従来、アイヌが主業としてきた漁業・狩猟・代木を行ってきた土地が無主の地とされ、明治十年(1877)には、
官有地とされ、アイヌには宅地ですら、私有が認められなかった。
明治十九年(1886)からは、開拓のため、和人に土地の払い下げを行い、移住を進めていった。
和人の移住はアイヌ人が少ない旧和人地や札幌で行われたが、やがて、範囲が拡がって行った。
新しく市街地になった地域からはアイヌは強制的移住が行われた。
これら強制的移住で造られたコタンを強制コタンという。
資源保護を名目とした禁猟が各地で行われ、狩猟では伝統的な仕掛けや毒矢が禁じられ、
狩猟や漁業が出来なくなったアイヌ人の人口が減少した。
同化政策が推進され、明治四年(1671)の戸籍法の制定されると、アイヌは日本国民の平民に編入されるが、一方、官庁では「旧土人」に定め、戸籍の登録に当たっては和風姓氏が強制された。
明治三十二年(1899)には、北海道旧土人保護法が制定された。
アイヌ人に農地の支給が行われたが、アイヌ人は農業の経験がないため、経営に失敗。
失敗したアイヌ人は小作農に転落した。
この法律は日本人とは不公平な法律であり、アイヌ人の自立化は難しかった。
台湾の日本併合もあり、アイヌ人に日本語の強制や独自の学校の開設禁止など、同和化が進められた。
昭和に入ると、差別撤回運動が起こり、ユネスコの勧告もあり、
平成二十年(2008)に、「アイヌ民族を先住民族とすることを決める法律が成立した。
これにより、アイヌの先住民族の地位と文化の存在が再認識されることになった。