五稜郭は、江戸幕府が、函館開港時に、箱館奉行所の防衛を固める目的で、
安政四年(1857)に築造を始め、
元治元年(1864)に竣工し、奉行所が移転、慶応二年に完成した。
形状は星形(稜堡式)をした西洋式の土塁(城郭)である。
完成から二年後、榎本武揚率いる旧幕府軍に占拠され、その本拠になった。
脱走軍と新政府軍との間でくり広げられた箱館戦争である。
日本100名城の第2番に選定されている。
五稜郭に隣接する五稜郭タワーに上って眺めると、
五角形の縄張りや三角形をした半月堡など、
他の城では見られない城の景観が見られる。
大手口から入ると、左側に堀があり、橋の右奥には一段高い半月堡がある。
「 総堀の幅は、最も広い所で約三十メートル、
深さは約四ないし五メートル、外周は約一・八キロメートル。
築造当時、五稜郭の裏手約一キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、
地中に埋めた箱樋を通して、五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。
第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、
水位が低下して堀の水質が悪化、悪臭を放つようになったため、
昭和四十九年(1974)からは水道水を堀に流すようになった。 」
「半月堡」の説明板がある。
説明板「 半月堡(はんがつほ)」
「 半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角状の出塁で、馬出塁ともいう。
郭内への出入口を防御するために設置されている。
当初の設計で稜堡塁間の五ヶ所に配置する予定であったが、
工事規模の縮小などから、正面の一ヶ所だけ造られた。
北側中央部の土坂が開口部となっている他は、刎ね出しのある石垣で囲まれている。
予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、
外構工事は縮小され、内岸沿いの低塁も三辺のみ、
郭外の長斜坂も四辺しか造られなかった。 」
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橋を渡ると、三ヶ所ある虎口の一つがある。
藤棚があり、藤の花が満開だった。
「 五稜郭の土塁は、堀割から揚げ、土を積んだもので、 土を層状に突き固める、版築 という工法で造られている。 」
郭内の出入口になる三ヶ所の本塁は、一部が石垣造りになっている。
特に正面出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣より、高く築かれていて、
上部には、 刎ね出し と、呼ばれる防御のためのせり出しがある。
「 刎ね出しとは、武者返し、忍び返しとも呼ばれ、
上から二段目の石がせり出して積まれているため、
外部からの侵入を防ぐ構造になっている。
本塁(土塁)は、堀を掘った土で築かれ、高さは七・五メートル、
幅は、土台部分で三十メートル、上部の塁道が八メートルあり、
塁道は砲台として使用された。 」
そのほか、郭内への入口の奥に、高さ五・五メートルの見隠塁、
堀の内岸に、高さ二メートルの低塁、郭外に、高さ一メートル強の長斜坂が築かれた。
当初は、総堀のほか、土塁全てに石垣を築く、「西洋法石垣御全備」 を計画したが、
費用が嵩むとともに、石の切り出しに時間がかかることから、中止され、
石垣は、堀のほか、半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった。
石垣には、函館山の立待岬から切り出された安山岩や、五稜郭北方の山の石が使われた。
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現在、郭外南西の広場と、半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、
および北側の裏門橋の三つの橋が架かっている。
築造当時は、半月堡から一の橋の反対側、および、郭の東北側にも、橋が架けられていた。
なお、現在の一の橋と二の橋は、築造当時と同じ平橋であるが、
昭和二十五年(1950)から昭和五十五年(1980)までは太鼓橋が架けられていたという。
「 安政元年(1854)の日米和親条約により、
下田と函館が開港された時、函館奉行所があったのは函館山麓(現在の元町公園)だった。
港湾から近く防衛上不利であることから、内陸のこの亀田の地に奉行所を移すことになった。
西洋軍学や築城術に優れた伊予出身の函館奉行所諸術調所教授役・武田斐三郎が、
設計を担当した。
稜堡式の城郭は15世紀にヨーロッパで考案されたもので、防御に死角がないことから、採用された。
安政四年(1857)から築造を始め、
七年後の元治元年(1864)、役所建物などがほぼ完成したことから、
函館山山麓の奉行所が移転して、蝦夷地の統治や開拓、
開港地函館での諸外国との交渉など、幕府の北方政策の拠点となった。
星形五角形(稜堡式)をした西洋式の土塁(城郭)であることから、
五稜郭と呼ばれることになった。 」
郭内側に土塁が設けられているが、
これは敵の侵入を防ぐための見隠土塁と呼ばれるものである。
また、総堀のほか、郭内への入口三ヶ所の両側に、幅四メートルの空堀が造られた。
五稜郭内には奉行所庁舎のほか、
用人や近習の長屋・厩・仮牢など、二十数棟の附属建物が建てられた。
「 建材は、津軽・南部・出羽など、瓦は能登・越後など、 釘や畳は江戸というように各地から運ばれた資材が用いられた。 建材は能代などで、予め加工し、現場では組立だけとすることで、 経費節減に努めていた。 」
函館奉行所は、郭内中心部に建てられ、 一部二階建、規模は東西約九十七メートル、南北約五十九メートルで、 西側の役所部分(全体の3/4)と、東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。
「 役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、
同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた。
正面玄関を入った先に高さ約十六・五メートルの太鼓櫓が設けられていたが、
箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際、
その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している。 」
函館戦争後は、明治四年(1871)に開拓使により、
奉行所を含むほとんどの建物が解体された。
大正時代以降は、公園になり、一般に開放された。
昭和六十年(1985)から発掘調査が始められ、
平成十八年(2006)から函館奉行所の復元工事が開始し、
平成二十二年(2010)に完成した。
「 復元された奉行所は、南棟と中央棟部分のみだが、
当時と同じ材料、同じ工法で復元されている。
築造時点では大砲を設置していなかったとみられるが、
旧幕府軍が五稜郭を占領したときには、二十四斤砲四門が配備されていた。
箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤カノン砲九門、四斤施条クルップ砲十三門、
拇短クルップ砲十門を配備していたが、降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は長カノン二十四斤砲九門、四斤施条砲三門、
短忽微(ホーイッスル)砲二門、亜ホート忽微砲三門、
十三拇(ドイム)臼砲十六門だった。 」
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五稜郭タワーの一階に、土方歳三の銅像がある。
「 新撰組の鬼副長として恐れられた土方歳三は、
局長の近藤勇が処刑された後も、
宇都宮・会津で新政府軍と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊と仙台で合流し、
蝦夷に渡った。
ここ五稜郭を本拠とした旧幕府軍による、暫定政権「蝦夷共和国」では、
陸軍奉行並びに箱館市中取締の要職を務めた。
明治二年五月十一日、新政府軍の総攻撃により、
孤立した友軍を援護するために出撃したが、
一本木関門で銃撃を受けて、三十五歳の生涯を閉じた。 」
宿泊は湯の川温泉に泊る。
翌朝、函館市内に向う海岸通りに建つ「土方歳三・石川啄木函館記念館」に寄った。
幕末の志士を慕う人々が訪れる場所の一つである。
函館市内の観光は、函館山の夜景を含め、以前家族と見廻っているので、
煉瓦倉庫群のショッピングと、函館朝市を眺めただけで終わった。
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訪問日 平成三十年(2018)五月二十七日〜二十八日
所在地 : 北海道は函館市五稜郭町・本通1
五稜郭にはJR函館本線函館駅から路面電車「湯の川行き」で16分、五稜郭公園前下車、徒歩約10分